蓬生日記

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22日

 明け方より雨は止み、朝日が薄く差し、木々の梢や生け垣に雨粒が玉を連ねたように

輝いて大変美しい。稲葉様が来、伊勢利さんも来た。昼過ぎに中島くら子さんが宅配便

で本を返してきた。手紙もついていた。日没前までに先生の仕立物は終わった。その頃

より雨が降り始め、この晩もだいぶ降った。布団に入ったのは12時頃だが、それまでも

居眠りしていたようだ。なんでこんなに忍耐がないのか、がんばろうという心はあるの

に、何か書かねば、本も読まねばと思っているのに志が低いため、凡庸な頭がますます

悪くなり、わからないことはさらにわからなくなり、昨日覚えたことさえ今日にはもう

忘れてしまう。女のなすべき仕事(結婚、家事)をしたいと思ってもそれができず、と

いって男のような仕事をすることなどできるわけもない。これで末はどうなるのだろ

う、年老いた親と年頃の妹が哀れでならない。あれこれ考えても結局私がふがいない

からなのだ。「過ちて改めむれば(論語・過ちを改めようとしないことが過ちなのだ)

という古語もある、さあ明日こそ」と思うのも今宵ばかりではないのに。

 

23日

 曇ってはいるが雨は降らない。今日はお彼岸なので隣から蒸し器を借りてきておはぎ

を作り、お供えした。仕立物を先生のところに持って行く。帰ると稲葉様が来ていた。

午後からは野々宮さんが来た。一人は困窮した元華族、一人は意気揚々たる女学生で

あるから話す内容が全く違う。浮き世とはおかしく、悲しく、憂く、つらいものだと

思う。3時頃雨が降った。野々宮さんが帰った後邦子が「吉田さんに借りた本を返しに

行く」と言うので一緒に湯島まで行く。雲が早く流れ、空模様はおぼつかなかったが

雨は降らなかった。帰るとすることがたくさんあった。今晩はあまり眠くなく、考え

ていたことが少しはできたようだ。布団に入ったのは12時過ぎだった。

 

24日

 今日はみの子さんの引っ越し日なので、昨日から晴れるとよいと願っていたが、その

通りになってとても嬉しい。邦子は障子の張替えをした。昼過ぎ、お鉱様と本所の千村

礼三さんが来た。いろいろな話があり、母はぜひ同行してくれと頼まれて本所まで出か

けて行った。

 山梨の広瀬七重郎が来た。広瀬ぶんの裁判のためである。遠縁とはいえ親戚なので

とても心配で、どういったことなのかと聞くと「話すのも恥ずかしいことだが、言わな

い訳にもいかない」と話し出した。「自分の姪のおぶんは奔放な女で、夫を6人も7人も

替えているのだが、今度の夫は長野の種商人で小宮山庄司という。その前は同じ地区の

北野象次という男で別れて4、5年経っているが、原告はその男で、上告書によると、

ぶんと北野はいつの間にかよりが戻っており、小宮山から離縁状を取ってまた一緒に

なろうとしていたとのこと。今年の四月、甲府柳町3丁目の山形屋という旅館で二人が

逢引きしていることを小宮山が知り、「許さない」と右手に長い槍を持ち、左手には

麻縄を持ってその座敷に飛び込んだ。二人はびっくりして「命だけは助けてくれ」と

ひたすら詫びていたところ、近くにいた北巨摩郡の伊藤寛作という男が、「助かりたい

と思うなら金で解決するよりほかないのではないか、俺が間に入ってやろう」と言っ

た。命に替わるものはないと思い、そんな大金を持ち合わせていなかったので百円の

借用書を書いてその場を収めた。しかし後々からよく考えてみれば、ぶんを含めた3人

で謀ったことに違いないと腹が立ち、訴えることにしたとのこと。ぶんの言い分は、

「そんなことはまったくない、私が北野と暮らしていた頃、着物や道具を7点質に入れ

られた上、20円の金も貸していたから全部で百円以上になるだろう、それを返したく

ないものだからそんな訴えをしているのだ。それに伊藤という人の顔も見たことが

ない」。小宮山はどこへ行ったのか姿を現さずどうしようもない。伊藤寛作は「ぶんな

どという女は知らない」と言っている。しかし当日の宿帳に伊藤寛作の名前が記されて

いたのが証拠となり、恐喝と詐欺の有罪となった。ぶんはそれを納得せずに上告した

とのこと。仕方のない女だが親戚なので見過ごせずに上京したと言う。弁護は守屋此助

氏に依頼し、昨日相談をして公判は今日開かれた。今日は事実確認だけで、判決はあさ

っての26日になるそうだ。「全くお恥ずかしいことで」と嘆いていた。この人もそれほ

ど道徳的な人のようにも思われないのだが、ここまで悪いことはしていないのだろう。

この日は家に泊って夜更けまで守屋さんの弁護の様子などを話した。

 

25日

 晴天。小石川の月次会。今月は随分延びて今日になった。先生は例の病になり、早く

来なくてもよいということだったので10時頃行く。七重郎さんも取ってあった宿へ一旦

帰った。来会者は18、9人。点取りのお題は「秋の鳥」だった。甲乙は伊東夏子さんと

私で取った。賞として立派な柿をいただいた。家に帰ったのは日が暮れて暗くなりかか

った頃で、母が途中まで迎えに来ていた。この夜お鉱様より葉書が来た。大変疲れたの

で早く寝る。

 

26日 

 少し曇っている。早朝に千村礼三さんが正朔君と一緒に来る。私は図書館に行くため

早く出た。途中今野はるさんが百貨店に出勤するところに出会ったので一緒に歩く。

ほかにもう一人いた。少し早すぎて図書館はまだ開いていなかったので、「ちょうど

よい、真下槇子様のお墓参りをしよう、今日はお彼岸の終わりだし」と谷中に行く。

お坊さんも起きたばかりのようだった。水を汲んで花を供えるのは、悲しいことながら

墓参りができるのは嬉しいことだ。苔の生えた墓石の下で松風の音を聞いているのだと

思うと涙が出た。墓に参る子供がいないわけでもないのになぜか花もなく、水も枯れて

お墓は乾いている。しばらく拝んでから寺を後にする。世が無常だとは思いたくはない

が、このようなはかないことばかりである。図書館はまだ開いておらずしばらく立った

まま待ち、入館した。「日本書記」「花月草紙」「月次消息」を借りて読む。日本書記

の神代の巻の難しいのを何とか読み解こうとしている内眠くなってしまった。花月草紙

で眠気を覚まし、月次消息の流暢な文体をうらやんでいたがどうしようもない。

3時頃雨が少し降ってきたので大降りにならないうちにと図書館を出る。途中止んだの

で残念だった。不忍池の蓮も枯れて、浮草の花が漂っているだけなのは淋しい。

 秋は草木の上のみならず みとみるものの露けくもあるかな

(秋は草木の上にだけでなく、全てのものに露がおかれているようだ/秋は涙なしには

 過ごせないものだ)という気分でしばらく眺めていた。後ろから来た書生たちが私の

ことか、何やらささやいていたので、下を向いて急いで立ち去ったがとても恥ずかしか

った。家に帰ると「今日はとても早かったのね」とみなが喜んでくれた。邦子は「今日

は関場さんが来てこれを」と言って頂いた栗を出してくれる。「半井先生のことを聞い

たけれど、やはり新聞記者というものは品行がよくないそうで、信用ならないことと

いったら、お姉さんが思っているような人ではないですよ」と親身に心配してくれるが

胸がつぶれる思いだ。私にはよい先生であるし「信友」になろうとおっしゃってくれ

た。だから私は家の恥ずかしい事情を全て打ち明けて頼りにし、「今後は手助けします

よ」と約束してくれたのは嘘だったのか。誰の言うことが真実なのかと悲しい。今日は

稲葉の奥様がいらしたとのこと。関場さんより「日本外史」「吉野拾遺」を借りた。

母に「吉野拾遺」を呼んであげ11時頃就寝。

 

27日

 朝から曇り。午前中久保木の姉が来た。午後からは広瀬七重郎さんが来た。「ぶん子

の判決は覆らなかった」と大変失望していた。私たちも一緒に残念がる。執行猶予など

のことでいろいろな相談があった。また明日来ると日没前に帰った。今日は怠けてしま

って何もできなかった。今日も早く寝る。本当にどうしようもない。

 

28日

 晴天。午前中邦子は吉田さんに本を返しに行き、しばらくして帰る。午後藤田時計店

に行って目覚まし時計を買う。今まであったのが壊れてしまったため。とても安くて、

品もよかったので、家のを下取りしてもらって差額で買う。藤田屋(植木屋)が来た。

稲葉様から手紙が来たので返事を送る。今日も一日何をしたということもなかった。

11時半ごろ就寝。

 

29日

 晴天。母は藤田屋に依頼された借金の話に行く。家に貸す金などないが、三枝さんに

借りたものが少しあるのでそれを貸すことにした。帰り道に高野さんに立ち寄ってここ

からも少し借りた。吉田さんが3人連れで来た。「日本外史」を3冊貸してくれ、少し

頂き物をした。昼少し前に帰る。母は正午に帰宅。稲葉様よりまた手紙が来て返事を

出す。佐藤梅吉さんに手紙を出す。午後上野の伯父が来て藤林(妻の元の嫁ぎ先)の

話などし、夕方頃帰る。この夜はあまり眠くなかったので12時頃就寝。この頃より盆を

返すように雨が降り始めた。

 

30日 

 朝からただならぬ天気。10時頃から大雨と強風が吹き、本当の台風になったさなかに

広瀬七重郎さんが来た。ぶん子のことで様々な依頼をされ、午後山梨に帰って行った。

1時頃から風が徐々に減ってきて2時には静かになった。近頃にない台風だったので、

管理人の土田が様子を見に来、久保木の姉も見舞いに来た。家は山陰の低いところに

あるので風はそれほど強くはなかったが、場所によっては屋根が吹き飛ばされ、塀や

生け垣が倒れるだけでなく、家が倒壊したところも少なからずあったようだ。この夜は

きれいに晴れて大変穏やかだった。稽古のお題を2週間分詠んで、布団に入ったのは

12時だった。

 

神無月1日

 早朝中島先生のところに昨日のお見舞いに行く。路地の樹木や塀が倒れているところ

が大変多かった。先生のところはそう被害はなく、最近植え替えた木が2、3本倒れた

だけだったそうだ。あちこちに出すべき葉書を書いて、会計の手伝いをして帰る。大小

10本の筆をいただく。山梨の野尻さんよりぶどう1籠が届いた。大変見事だったので母

は安達さんに少し送った。礼状を書いて送る。邦子は午後から吉田さんに持って行っ

た。この夜は早く寝た。

 

2日 

 曇り。今日の新聞に「津田三蔵が肺炎により空知監獄で死す」とあった。台風の損害

や、野菜の値が高騰していることなどもあった。「国会新聞」や「朝日新聞」の内幕を

暴くとして、ひどく攻撃しているのは商売敵なので憎いからなのだろう。午後藤田屋が

来て約束の7円を貸す。来月返金予定。庭を少し直してくれた。乾燥蚕豆を一升いただ

いたので、庭で作った冬瓜をお返しする。夕方帰った。この夜久保木の姉が栗や柿を

持ってきたのでぶどうを1房お返しした。邦子と一緒に数詠みをする。邦子が1首、

私が10首の約束で詠んだが、1題は私が1首勝ち、次は私が3首負けた。勝負なしとして

終了。この日も眠くならず12時就寝。

 

3日 

 小石川の稽古日。美しく晴れて大変よい日。先生にもぶどうを少し持って行く。来会

者は12人ほど。今日から私一人で稽古した。9月分の会計をして4時頃帰る。12時就寝。

 

4日

 晴天。午前中読書して、午後から小説を書く。夕方から邦子と摩利支天にお参りに

行く。帰路杉山百貨店を見物した。どの店にも一人の客もなくあまりに寂しいので驚い

た。以前住んでいた家の前を通ると怪しい待合のような家ができていた。中坂の頂上が

先日の台風によって崩れたのか一間ばかり石段が落ちていた。家に帰ったのは8時頃。

母にあんまをしてあげてから習字をする。12時就寝。

 待合というものはどのようなところなのだろうか、字だけ見れば人と待ち合わせする

だけの場所のようだが、怪しげな芸者を呼んで酒を飲み、燈火を遅くまで点してひそひ

そと夜更けまで興じているようだ。店主は大体女で、2、3人美しい酌婦がいる。家は

色っぽい作りで高楼に簾をかけ、通る声も粋な感じだ。屋号は提灯に書かれているもの

もあり、額になっているものもある。「ときは」を始め「梅のや」「竹のや」「湖月」

は烏森の有名店、「花月」は新橋の裏町にある。「いが嵐」の奥座敷で世の風を避け、

「朧」の離れで花を散らすようなまねをするなど、世の紳士方が隠れ遊びをする場所で

ある。少なくとも1町に1ヶ所は必ずある。多いところでは軒を並べて、仕出しの岡持ち

がひっきりなしに行きかっているのが見える。この世には金と暇を持てあましてのどか

な時間を過ごせる人がいるものだ。孟宗は筍を見つけられずに雪の中で凍え、孫公は

雪が少ないために窓の暗さを嘆いている(親孝行のため身を削っている人や、勉学を

思い通りにできない人もいる)というのに、世の代表といわれる方々に問いたい。あの

ような遊びに費やす金が惜しくないとは、無学な私にはどうにもわからないことだ。

 

 

蓬生日記

 日かげにとほきやへむぐらのあき、いとど霧のおき所なさに、筆さしぬらしてかひつづくれば、あやしう人のしりうごとのやうにもなり待しかな。

 日差しの届かないほど荒れ果てた家にも秋が来る。軒端に降りしきる露を使って筆を

濡らし、思うままに書き連ねてみると、おかしなことに蔭口ばかりになってしまう。

 

長月15日

 晴天。9時頃お灸に行く。50人ほどいたが10時頃終わって図書館に行く。

「本朝文粋」「雨夜のともし火」「五雑俎」を借りた。馬琴の著書の中に「五雑俎」と

いう言葉がよく出てくるので知りたくなったためである。しかし不勉強のせいで、なか

なか理解できない。仕方のないことだ…。3時ごろ出てみの子さんを訪れ、少し話をし

て帰る。彼女はおとといから箱根と鎌倉を旅行して昨日帰ったとのこと。塔の沢(箱根

の旅館)て白なみの立さわぎし(盗難)という話があった。 家に帰ったのは5時前

だった。この夜はとても眠くて早く寝た。10時頃だったかと思う。

 

16日

 今日も珍しいほど良い天気。風も雲もない上暑くもない。いつもこんな風であったら

と思う。母は湯島の紺屋に行く。洗い物などしているうちに10時頃か、山下直一さん

が来た。話をしていると母が帰ったので交替して、私は先生の仕立物に取りかかる。

直一さんは4時頃帰った。郷里の熊谷からと着物に入れる綿をいただいた。夕食を早く

食べて、邦子と散歩に出た。「明日は中秋の名月なのに、今日から空に雲がかかって

しまってどうなるだろう」といつものように心配し「また駄目かしら」と残念がる。

 

17日

 早朝髪を結って先生の所に行く。今日はみの子さんの月次会なので硯を借りて持って

行く為。11時半に家を出る。母がみの子さん宅近くまで送ってくれた。話をしている

と人が集まってきた。今日は中秋、空は高く晴れ渡ってわずかの雲もなく、風も強くは

ないが涼しくて、とてもよい天気だった。点取りのお題は「対山待月」(山に向って

月を待つ)だった。小出先生と中島先生が採点して両方から甲を得たのは、

 山のはの梢あかるく成にけり 今か出らむ秋のよの月

 山の端の梢が明るくなってきた 秋の月が今にも出ますよ

という私の句で、賞をいただいた。今日のお題は「山家の水」「枕辺虫」。天を取った

のは小川信子さん、地は中村礼子さん、人は伊東夏子さんだった。日没前にみな帰った

が、つや子さんの迎えが遅かったので一人残るのがかわいそうで私も残った。迎えが

来たので私も帰る。みの子さんが雇ってくれた車に乗って出ると、月は上野の山を離れ

桜木病院の屋根にかかっている。「月を見残して帰るのは名残惜しい」と残念だった。

切り通しに差しかかった頃から雲が出てきた。家に着いても月の光は少しあったが、

更けるにしたがって雲はどんどん重なり、思った通りだと残念だった。夜姉が来て母と

出かけた。いつものように怠けてしまって早く寝る。

 

18日

 朝から晴天。11頃より小雨。今日はいろいろすることが多くあわただしかったの

で、仕立物もできずに机に向かう。一日降って夕方からは風もとても寒くなる。明かり

をつけて、改めて今日も何もできなかったと思う。いつも悔しがっているのに、何で

できないのかと思うと自分が憎い。一晩中降る。11時頃寝室に入る。

 

19日

 朝小雨。今日は例の稽古日。明け方家を出る。先生は朝食中だった。話をしている

うちに人が集まってきた。てにおは(助詞など)の間違えを正していただいた後に、

「さて」と言う。「あなたは最近新古今集を勉強しているようで、似た感じのものが

多いですね。悪いことではないのですが、そのまねばかりではいけません。古今集

お読みなさい、持っていなかったら貸してあげますから」と丁寧に教えていただく。

明日は松園(加藤安彦先生)の月次会なので、その兼題を今日の点取りの題とした。

8点以上のものを清書するとのことで、みの子、夏子、広子、艶子と私の5人で色紙に

寄せ書きをして送る。帰ったのは3時過ぎ。空は晴れ渡っていた。この夜も早く就寝。

 

20日 

 晴天。先生の仕立てをした。特に変わったことなし。中島くら子様に手紙を出す。

 

21日

 朝から晴天。午後母は築地に寺参りに行った。望月から使いが来てさつま芋をいただ

く。日没後より雨降る。夜更けて風も強くなりひどかった。天の川の樋が壊れたかの

ようだった。なすことなく空しく起きていて、布団に入ったのは1時過ぎてだった。

 

 

 

 

一葉日記

文月17日

 みの子さんの家で月次会があった。母が道案内をしてくれると一緒に、昼前に出た。

高等中学校の横の坂を下ったところで雨が少し降ってきた。空には薄墨色の雲がもくも

くと湧き立ち、道行く人が「夕立が来るだろう」と言っている。真下まき子様の墓が

谷中にあるので、母と一緒に詣でようとしているところで空は真っ暗になり、とうとう

雨が降ってきた。ここで母と別れる。みの子さんの家はすぐ向かいの道にあった。

10人ばかり集まった。

20日

 今日は土用の入りの三日目で、土用三郎と言うのだそうだ。この日の天気は農作物に

影響があるとのことで、人々は空を見上げて心配している。朝から曇っていて昼過ぎに

少し降った。さしあたってどうということはないように思えるが、ことわざは気になる

ものだ。雨のためか今日は風が涼しく、しのぎやすかった。

21日

 朝から雨が降る。昼過ぎに稲葉様が来た。「いよいよ落ちぶれて車引きになりまし

た。」と話す。悲しいことばかりである。5時頃帰った。その夜地震があり5分ほどで

止んだ。夜に入って雨はさらに降った。新聞の号外が来て蜂須賀様が貴族院の議長に

なり、富田鉄之助様が府知事になったとのこと。

22日

 朝から雨。今日の新聞に下田歌子様が加納様に輿入れされたとあった。午後1時頃

中島先生から葉書が来た。着物の仕立ての依頼だったので、すぐに行って反物を持って

帰り夕方まで縫物をした。暮れてから邦子と買い物に出かける。今晩は毘沙門天の縁日

だったので人出がすごかった。女郎花や朝顔の鉢植えが多く売っていた。帰宅後雨が

強くなった。久保木の姉から魚を少しもらう。魚釣りに行って来たそうだ。

23日

 朝から晴れて、日差しが大変暑い。午前中浴衣一枚を縫い上げた。昼過ぎに上野の

伯父が来たので昼食を出した。いろいろな話があった。4時過ぎに帰る。夜になって

から野々宮さんと吉田さんが来た。野々宮さんは試験休みとのこと。11時頃帰った。

今晩は夜なべ仕事はなし。

24日

 晴天。昼前に掻巻に綿入れをした。午後から西村さんと菊池のお政さんが来た。西村

さんは3時、菊池さんは4時に帰る。菓子折りをいただいた。日没頃針仕事が終わった。

この夜は1時に就寝。

25日

 晴天。今日は小石川の稽古日。昨夜仕上げた縫物に火熨斗を当ててから出る。田町

から車を雇って行くが少し遅刻してしまった。すでに4人ばかり来ていた。昼頃みな

帰ったが2、3人残ってもう1題詠み交し、3時頃帰宅。頭が痛くてどうしようもなく

苦しかったのでこの夜は10時に布団に入った。恐ろしい夢を見て怖かった。頭痛の

ためだろう。

26日

 不忍の池の蓮、入谷の朝顔が花盛りだという。

28日

 昼は晴れ。夜になって雷雨がひどくなり、11時頃には屋根を叩きつけるように降っ

た。夜更けて止む。

29日

 空は晴れ渡り、爽やかな風が吹く過ごしやすい日。昼過ぎに母が神田に行く。その頃

から曇って来て大粒の雨が降る。帰る頃にはまた晴れた。夜10時くらいから雷雨がひど

かった。

30日

 今日の新聞によると、横浜では昨夜大雷雨だったということで、東京だけではなかっ

たらしい。地方では洪水もあったようだ。恐ろしいことで心配だ。今日は春木座の

棟上げの日。午後からずっと浴衣を縫い、夕方までにほとんど仕上げた。三枝信三郎

さんが来て、いつものように母にお土産をいただく。夜になって雨が降った。

31日

 晴天。浴衣が縫い上がる。午後から書き物をした。明日は小石川の稽古日なので、

1時頃まで起きていた。

葉月1日

 晴天。朝6時半に家を出て小石川に行く。誰も来ていなかったので、先生としばらく

話をし、お菓子などいただく。次の仕立物を頼まれる。10時頃に仲間が揃った。大方の

人は避暑に出かけているのでそう多くもなく10人くらい。お題は2つ。2時頃にみなが

帰った後、また先生と話をして3時頃帰る。前島さんから饗庭篁村「むら竹」と黒岩

涙香の小説など12冊借りる。この日は佐々木先生(医者)の代理で岡村さんという人

が、先生に貸した吸入器を取りに来たのだが、それが見当たらず大変困っていた。

また、きねという女中が暇を取って故郷に帰ると言っているが、先生は不自由になる

ことをそれほど心配していないようだ。家に着いたのは3時過ぎだったがいつもの小説

狂いで、夜10時頃までに10冊くらい読んだ。物好きなことである。邦子は関場さんから

反物をいただき、何度も取り出しては眺めていた。よほど嬉しかったのだろう。この夜

山下次郎さんが来た。弟の直一さんが大病しているとのことで、布団を縫ってほしい

との依頼だった。

2日

 晴天。母が山下さんへ見舞いに行く。9時ごろ稲葉様が来た。午後父親の山下信忠

さんが来て、直一さんの病気について母と相談があるようだったが、留守なので何度も

よろしくと言って帰って行った。母は4時頃戻った。

3日

 晴天。稲葉様が来た。姉も来た。母は岩佐に内職の話に行く。午後母が近所の子供に

何かやったので大喜びしているとのこと。邦子は蝉表を編む内職をしているのだが、

腕が一番よいと褒められたそうで、「今晩はお酒がいつもよりおいしい」と大いに酔っ

ていた。邦子と二人で湯島に買い物に行く。山加屋で布を、中島屋で紙を買い、兼安で

小間物などを揃え、日が暮れてから帰る。

4日

 早朝稲葉様が息子の正朔君を連れて来て、預かってほしいと言う。「今日一日なら」

と言って預かる。午後母が山下さんにお見舞いに行った。

5日

 朝小雨が降ったがやがて晴れた。稲葉様が来て「正朔を夕方まで預かってください」

と依頼された。午後江崎牧子さんから葉書が来る。邦子と一緒に安達さんに暑中見舞い

に出かけた。頭痛の話をすると伯父さんは「くれぐれも読書したり物書きなどしない

ように」とおっしゃった。「脳は神経の集中するところなので、病がそこで収まらず

他の病気を呼び起こすこともある。または血が滞って思わぬ災いが生まれることもある

のだから、あまり悪くないうちに養生しなくてはいけないよ」と自分の経験を例えて

戒められたので、よく承って帰った。「夕食を食べて行きなさい」と言ってくださった

が「不忍の池の蓮を見に行きたいので」と早く出る。このことは別に記す。池の端を

回って大学を通り抜けて5時頃帰った。この夜稲葉様がまた来て、明日の朝まで正朔君

を置いてほしいとのことだった。

6日

 晴天。早朝より運動しようと付近を散歩した。帰って家の周りを掃除。

7日

 昼晴れる。夜になって雷雨。土用の明けとのこと。この夜は徹夜した。

8日

 早朝中島先生から手紙が来て、このところ腸カタルになって腹痛がひどいので今日の

会は休むとのことだった。依頼された浴衣が出来上がっていたので、それを持ってお見

舞いに行く。そうひどくはないとのことで、また綿入れを仕立ててくれと頼まれた。

帰宅したのは9時頃で、「今日は図書館に行こう」とまた出た。

 空は一点の雲もなく、焼くような太陽の光、道には煙のように埃が立って暑い暑い。

大学を抜けて池の端に出ると、茅町あたりから蓮の香が漂って来てすがすがしい。

「ひろごりたるはにくし(長く伸びてしまってはにくらしい)」と清少納言が言った、

(柳は「まゆのこもりたることこそをかしけれ」ふわふわの芽のうちがかわいいのに)

夏の柳が岸になびく影も涼しく、ましてや水面が見えないほど紅白に咲き誇る蓮の花

や、吹き渡る風が蓮の葉をひるがえすのは見るも気持ちがよい。蓮根取りの舟がつなが

れているのは興ざめである。競馬場の柵があるのも醜く、つまらない思いで見ていると

古びてところどころ破れていたのでいささか気分がよくなったのは、ひがみ心故だ。

東照宮の石段を上るとさっと吹き下ろす風に杉の葉の露がこぼれてきて涼しく、ここ

だけは夏とは思えない。図書館は例によって狭いところに押し込められるので、さぞ

暑いだろうと思っていたら、屋根が高くて窓が大きく、風がよく通って寒いくらいだっ

たので嬉しかった。いつ来ても男性ばかりで女性が一人もいないのはおかしなことだ。

多くの男性の中に交じって番号を調べ、書名を書いた貸出表を持って行って「これは

違うので書き直してください」などと言われると顔が熱くなって体が震えてしまう。

ましてや顔を見られ何か言われていると思うと、心も消えるようになり大汗をかいて、

何か読むような気持にもならなくなる。弁護士試験が近づいているとのことで、法律書

を調べている人がとても多い。思い通りの本を借りて、読むだけ読んでいると長い日が

もう夕暮れに差しかかっている。庭の梢にヒグラシが大きな声を立てていて、お寺の鐘

がかすかに聞こえる。窓に入る夕陽の光も薄くなってびっくりして部屋を出ると、大方

の人が帰ってしまっていた。本を返して門を出るとカラスが群れてねぐらに帰るのが

見える。「今日は早く帰りなさい、昨夜も一晩中寝なかったのだから疲れますよ」と

言われていたのに忘れてしまって、とても遅くなってしまった。近道して谷中から帰る

ことにした。西日もだいぶ影になり、赤みが残るばかりとなっているので「明日天気に

なれ」とおかっぱ頭の子が歌う声も急ぐ身にはせかされるように聞こえる。床几を家の

前に出して、洗い立てののりがかかった浴衣を着て、胸元をうちわであおいでいる人は

行水したばかりなのだろう。10歳くらいの女の子が天花粉をまだらにつけて、あせも

ができて同じく頭を真っ白にしている3つくらいの子をおんぶして歩いているのも風情

がある。片町という所にある八百屋に新芋が出ていたので土産に少し買う。急いだので

大汗が目にも口にも流れるのをハンカチで拭ってばかりいるので、顔が痛くなってしま

った。薄暗くなってきて人から見られるのも煩わしいので、傘を深く差した。陸橋の下

を過ぎると若い書生たちが群がり欄干に寄りかかって見下ろしていて、何やらささやき

笑い合っている。知らん顔して急いで通り過ぎようとすると、みなで手をたたいて

「こっちを向け」などと言う。どんな気持ちでいうのか、学問をする人のすることかと

思って腹が立つ。帰ると母が外に出て待っていてくれた。妹は夕飯の支度を忙しくして

いる。「ただいま」とあいさつをする下から「さあ、帯を解いて着物を脱いで。暑かっ

たでしょう、疲れたでしょう。お湯が沸いているから浴びて来なさい」と行き届いた

ことを言ってくれるので、本当にありがたく嬉しい。汗になった麻の着物を脱ぎ、行水

して出れば、洗い立ての浴衣を出して「留守の間に洗っておいたから着かえなさい」と

言う。妹は「お姉さん見て、あなたの好物ばかりよ、お芋も炊きました。さあ食べまし

ょう。」と勧めてくれる。空腹で長い道を歩き、とてもとてもお腹がすいていたので、

なにもかもおいしく、楽しくいただいたのだった。

9日

 江崎牧子さんに返事を出す。甲府の伊庭氏と北川秀子さんに葉書を出す。邦子の帯を

一本入手。昼過ぎ植木屋が御用聞きに来たので、建仁寺垣を結い直してもらうよう頼む

と、明日から取り掛かってくれるとのこと。洋傘2本張り替えに出す。一つは甲斐絹の

二重張り、もう一つは毛繻子の普段使い、2つで一円十銭。

10日

 早朝から植木屋が来た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

若葉かげ

 萩の舎の歳くらべは省略

11日

 今日も曇り。梅雨入りしたというような天気。今日の新聞に、小舟町二丁目石崎廻漕

店所有の汽船石崎丸が小樽より東京に向けて出帆したが4日の夜銚子の沖合に差しかか

ったところで脆くも沈没し、乗っていた50余名すべて溺死したとのこと。5日にブイが

流れ着いたところから判明したもので、その後死体や荷が漂着したそうだ。なぜか船の

遭難は灯台局どころか、どこにも知らせがなかったというが、救命の汽笛も灯台から

3里以上の沖合では届かなかったのだろうか。遭難した犬吠埼の西南、長崎浦付近の

辺りは暗礁が多いとのことで、当夜は東風が強く波高く、さらに霧深く海面を閉ざして

いたとか。涙ぐまれることだ。

13日

 今日は小石川の稽古日、朝7時頃行く。先生はちょうど起きたところだった。みの子

さんより乙骨まき子さんからの手紙を受け取る。石田農商務次官の紹介で大島みどり

さんが入門した。伊東夏子さんより依田学海著作「十津川」の話を少し聞いた。みなが

帰った後いつものようにみの子さんと2人で習字をした。帰宅時先生より反物一反を

いただいた。 

14日

 雨。今日はみの子さんと図書館に行く約束だったが、支障があって行けなくなり葉書

で断った。邦子が関場さんの所に行って借りてきた本の中に「十津川」があった。

昨日聞いて憧れていたので、思いがけず読む機会を得て大変嬉しい。

15日

 まき子さんに返事を出す。午後秀太郎(甥)が来た。今日も終日雨だった。半井

先生を訪ねようと思っていたが、急に気分が悪くなりやめた。

16日

 朝から雨。早朝三田の兄から手紙が来る。午後秀太郎が遊びに来た。日没後半井先生

から手紙が来て「話したいことがあるので明日か明後日いらしてください」とあった。

小説のことだろうと思うと胸がどきどきし、何となく気になって一睡もできなかった。

雨は一晩中降っていた。

17日

 明け方まで夜中の雨の名残があり、晴れる様子はなかったが、昼になる頃少し雲の

切れ間が見えるようになった。今日先生をお訪ねしようと急遽支度をして2時頃出か

けようとしたところ奥田のおばあさんが(借金取りに)来たので(返して)「ご一緒

に」と出る。おばあさんとは真砂町で別れた。近くまで来るとあちらこちらに提灯が

掛けてあるのは日枝神社のお祭りの日だったからで、うかつにも忘れていた。

 いつも通り女中に座敷まで通してもらってから「お帰りはまだですか」と聞くと、

いぶかしげに「お約束されたのですか」と問う。「いえ、昨日先生から手紙で『今日

あたり来てください』と言ってきたのです」と答えると「ならばもう少ししたらお帰り

でしょう、今朝出る時に『今日は会議があるのでいつもより遅くなる』とおっしゃって

いましたので」と言う。「では待たせてください、もしお帰りにならなかったらまた

出直します」と話しているとこう子さんが帰って来た。他愛のない話などしているうち

5時を過ぎてしまった。「もう帰って来ないようだから、日が暮れる前においとましよ

う」と思っていると、いつものように夕飯の支度がされていたので、お断りもできずに

いただいたところへ先生が帰宅した。話は多くあり、小宮山先生の思いやりある助言

や、半井先生の情け深いお言葉には感謝の念は堪えないが、その内容は自分にとって

大変悩ましく、どうするかの判断がつかないことだったので、いつか昔語りとなって

しまえば嬉しいが、今は記さないこととする。(書いた小説が採用されず、新聞向け

にもっと俗っぽく書き直すよう助言されて自信を失った)

 帰る頃には日も西に傾いていた。道を変えて堀端を通って帰る。夕暮れの風は少し

冷たく、お濠の水面は薄暗かった。お濠にかかる松の枝は様々な姿で、千年も経って

いると聞くが、老いてますます盛んとはこのことかと思う。振り返れば西の端に日は

沈んで、赤い雲が「はたて」というようにたなびいているのも哀れに見える。

 夕暮れは雲のはたてに物ぞ思ふ 天つ空なる人を恋ふとて(古今集

  夕暮れの雲が(旗の様に)たなびいているのを見ると悩ましい 

  空(の果て)ほど遠い人に恋をしているのだから

行きかう人もなくはないが、町中ではないのでとても寂しい。土手の柳がたなびいて

いるのを見ると、人も世の風に従えということかとうんざりする。それに引き換え、

松が風に吹かれてどうどうと鳴っているのは、高潔な意志を貫けと聞こえて、沈んだ心

を引き起こしてくれるようだった。「秋の夕暮」ではないが、

  思ふことありとはなしに悲しきは 秋のならひのゆふぐれの空

 思うことのある私は、見るもの聞くもの全てがこの身を引き裂くような気がして、

このまま消え去ってしまいたいと思うが、親兄弟のことを考えると私一人の体ではない

ので思い直すしかない。いつのまにか九段の坂の上に来ていた。ここからはにぎやかに

なって馬車も多いので気をつけないと足元が危ない。思い悩むままうつむいて歩く姿が

不審だったのか、すれ違う人が私の顔を覗き込むのでとても恥かしく体裁が悪かった。

そこまでにも見えないと思うが、心が顔色に出ていたのだろうか。家に着いたのは暗く

なってからだった。

18日

 朝から晴れ、珍しいので嬉しい。茄子の苗をいただき母が植えた。

19日

 今日も晴れ。朝早く梅の実を落とす。みそこしざるに一杯分採れた。虫食いの実も

あるので実際はもっと少ないだろう。それというのも先日この家の管理人が来てほとん

ど落としていった後だからだ。2升以上あったようだなどと話す。昼過ぎ、今日も図書

館に行く。約束があったのでみの子さんを誘うと待っていて、一緒に行きましょうと

言う。6時頃まで閲覧して帰る。

20日

 朝戸を開けると昨日の名残もなく曇って、今にも雨が降りそうだった。「ああ嫌だ、

今日は稽古の日なのに」と口に出る。すぐに雨が降り出し、家を出る頃にはますます

降って来た。そのため稽古に来た人は少なかった。先生は昨日から気分が悪いとのこと

だった。日頃頭を使い過ぎているためだろう。「今日は静かにお休みくださった方が

よろしいですよ」とみの子さんと私とで代稽古をした。昼頃より少し日が差してきて、

帰る頃にはよく晴れた。今日は初めて先生の川越の親戚に会った。「動物詠史」という

おかしな話を聞いたり、髪結いの歴史の話などもあった。(以下略)

21日

 終日降る。その夜11時頃大きな雷があった。後で聞くと浅草の久右衛門町に落ちた

そうだ。

22日

 晴れ。昼過ぎ先生の様子を見に小石川に行き、一緒に中村さんの家を見に行く。彼女

は明日帰京するとのこと。今日は邦子の誕生日だったのでささやかなお祝いをした。

23日

 晴れ。早朝からお灸に行き、後図書館へ。弁当を持って行って2時頃帰る。西村さん

が来た。

24日

 究竟は理即に等し(徒然草

(みほとけの悟りの境地と、凡夫が理を知らなくても成仏できることは同じ)と聞く

が、昔の迷った心と、迷いから覚めて悟った今の気持ちとは同じようなものだ。

この若葉かげは、迷いの始まりだったのか、悟道への入り口だったのか。若葉が枯木に

なった後にこれを見る人がいたら、

  なほしげれくらくなるとも一木立 

  

 

 

 

 

                               

 

若葉かげ

15日

 雨少し降る。今日は野々宮菊子さんが以前紹介してくれた半井桃水氏に初めてお会い

する日。昼過ぎに家を出る。氏が住むのは海に近い芝の南佐久間町というところ。前に

鶴田さん(半井家に寄宿)に用があり、一度行ったことがあるので道はわかる。愛宕

の通りの何とかいう寄席の裏を行き、突き当りの左側の家だ。門をくぐって声をかける

と、出てきたのは妹さんだった。「こちらへ」と左手の廊下より座敷の中へ案内され、

「兄はまだ帰っておりませんので、少しお待ちください。」と言われた。

(先生は東京朝日新聞の記者として、小説や記事をたくさん抱えているのだから、さぞ

お忙しいことだろう。)などと思っている内に門の外に車が止まる音がして、帰って

来たようだ。やがて普段着に着かえていらしたので、初見の挨拶を丁寧にした。

このようなことは初めてなので、耳はほてり唇は乾き、何を言ってよいかわからず、

話もできず、ただただお願いしますと言うばかり。傍目にはどれだけ愚かしく見えた

だろうと思って恥ずかしかった。

 先生は30歳くらい、見た目のことなどを言うのは失礼だが、思ったままを書き記し

たい。色がとても白く、穏やかに微笑む様子は3歳の子供でもすぐになつくだろう。

背も人よりずっと高く肉付きもよいので、見上げるようだった。落ち着いた話しぶりで

当節の小説の状況などを教えてくださり、

「自分が書きたいことは世の人に好まれず、好まれなければ世に出すこともできませ

ん。日本の読者は幼稚なので、新聞小説といえばありふれた奸臣賊子、姦婦の話でない

と売れないから仕方がないのです。今私の書いている小説は決して心にかなうものでは

ありません。世の学者、識者と言われる方々からさんざん言われているが、私は名誉の

ために書くのではなく、家族を養うために書いているから非難も甘んじて受けているの

です。いつか思い通りの小説が書ける時が来たら、黙ってはいませんよ。」と言って

大笑いするので、本当にその通りだと思う。さらに、

「君が小説を書こうとしている事情は野々宮さんからよく聞いています。大変だとは

思いますが、しばらく耐えてがんばってください。私に師匠などと言われるほどの能は

ないが、いつでも話し相手になりますから遠慮なくいらっしゃい。」と優しくおっしゃ

るので、あまりに嬉しくて涙がこぼれた。話をしているうちに、

「夕食をどうぞ。」といろいろ持って来られる。親しいおつき合いではないので何度も

遠慮したが、

「我が家は田舎流に、どんな知り合いにも、ごちそうはないが箸を取っていただくのが

習慣なのです。気持ちよく召し上がってくれたら私も嬉しい。お相伴しますから。」と

勧めるのでいただいた。そうこうしているうちに雨が降り出し暗くなってきたので、

「そろそろ帰ります。」と言うと、「車を用意させていますよ。」とおっしゃる。

書いて来た1回分の原稿を置いて、先生の著書を4、5冊お借りし、お心配りの車に

乗って8時頃家に帰った。

 

21日夜

 野々宮さんが吉田さんと来る。野々宮さんの幹事で園遊会を催すので、その景品など

の相談だった。11時頃に帰った。

 この日、小説の続きを書いたので明日先生のところへ持って行こうと清書を始め、

5回分ほど書いたところで母が「もう遅いので明日になさい。」と言いに来たので、

終わりにした。

 

22日

 昼過ぎに半井先生を訪ねる。いろいろな話をしてくれて、

「先日の原稿は新聞に載せるには少し長く、文体も古めかしいですね。もう少し俗っぽ

く書いてもいいですよ。」と教えてくださった。

「ほかの小説家を紹介しようと思ったのですが、差しさわりもあるでしょうからやめま

した。しかし私の友達の小宮山即真君はよき師になると思うので、彼にだけは引き会わ

わせたいと思います。」と言う。

「昨夜書いた分を添削してください。」とお願いして、この日は早く帰る。

 最初に会ってよい人だと思っても、次にはそう思えない人もいるが、先生は先日より

さらに親しみ深く接してくださり、本当にありがたく思う。

 

24日までに原稿を仕上げる。明日は小石川の稽古日なので支度など忙しい。夜、半井

先生に原稿を郵便で送る。

 

25日

 雨降る。早朝小石川に行く。昼頃から空が晴れ渡り陽の光は華やかだが、今日は何だ

かものが手に着かない。どうしてかわからない。日暮れて帰宅。

その夜半井先生より手紙が来た。

「小説のことで話したく、また先日話した小宮山君にも紹介したいので、都合が悪く

なかったら、明日午前中、神田の表神保町の俵という下宿にいらしてください。」

とある。母に相談すると行ってもよいとのこと。何となく胸がいっぱいになって、眠る

気になれなかった。

 翌日早起きすると、空は黒雲に覆われている。雨が降りそうだと思い悩んでいると、

母が「降ったら行くのはおやめなさい」と言う。「私の用事で呼んでくださったのに

待たせるのは申し訳ないから、強く降らなかったら行ってみます。」と支度していると

「雲の切れ間が見えてきましたよ。」と言われ、喜んで家を出た。田町辺りでまた黒い

雲が出てきて、にわかに雨が盆を返したように降り始めた。もう帰っても濡れるのは

同じだから行ってしまおう、と車を雇って行く。下宿は小川町の洽集館の南に新しく

開けた土地にあった。この年まで下宿に人を訪ねるなどしたことがないので、入るのに

も気後れしたが、思い切って「半井様はいらっしゃいますか。」と尋ねると、女中が

不審な顔をして「どちら様ですか。」と聞く。名を言うと「こちらへ。」と伴われて

入ると、小さな部屋がたくさん並んでいた。半井先生は2階と階下に座敷を二間持って

いて、住んでいるかのように箪笥などもあるので、よく手が回っているものだと思いな

がら入ると、先生は手紙を書いているところだった。「少し待ってください。」と

言いながら書き終えた。今日は洋装をしている。いつものように穏やかに、

「昨日があまりにいい天気だったので、今日雨が降るとは思わずにお呼びして悪かった

ですね。小宮山君は急に体調が悪くなり、今朝鎌倉に療養に行ってしまったのです。」

と大変申し訳ながる。小説の話を丁寧にしてくれて、

「この次はこういうものを書いたらどうだろうか。私がかねてより書きたかったもの

だが暇がなくて。」とその内容を語る。そして、

「今日はまず君に言わなければいけないことがありました。」と言うので、

「どのようなことですか。」と聞くと、

「大したことではないけれど、私はまだ年老いた男でもなく、あなたはうら若い女

なので、お付き合いをするのに不都合がありますね。」と迷惑げに言う。私も以前から

それを気にしていたので、顔から火が出るようで、手の置きどころもなく、ただただ

恥ずかしかった。

「それでいい方法を考えたのです。私は君を昔からの男友達と見なしてなんでも話す

から、君も私を大人の男だと思わずに、女友達と思って隔てなく話をして下さい。」と

にっこりした。我が家が貧しいことも先生は御存じで、

「困ることががあったら何でも相談してほしい。私もできる限りのことはしてあげたい

と思っているのですよ。」と先生が貧しかった時代のことなど話してくださったので、

いろいろ考えるところがあった。

 昼ご飯をごちそうになり家に帰る。先生から聞いた話を思うと、家はまだ貧乏とは

いえないと思った。先生はもっともっとご苦労をしたようだ。

 

皐月2日

 小石川の稽古日。珍しく晴れ渡って一叢の雲もないので来る人が多かった。先生が、

「どうです、今日というよき日を逃さずに植物園へツツジやボタンを見に行きません

か。」とおっしゃったのでみな「それはいいですね。」と大層喜ぶ。3時頃より13人で

出かける。先生がいつもの道ではなく、伝通院の裏の藪中の変な道に踏み入ったので

いつまでもたどり着かず、その辺で遊んでいた田舎の子に聞くと、大層きちんと説明

してくれた。見苦しい姿をしていたがかしこい子だった。5時までに入らなければいけ

ないのに10分前だったので、あわただしく切符を買い求めて入る。中での様子は言葉

に尽くせないので、また後日書くこととする。6時頃帰る。

 

8日

 教えを乞いに桃水先生を訪ねる。この日は風は強いがよい天気だった。いつもの時間

に伺う。先生はやがて帰ってきて、小説の話をいろいろした。

「今日は小宮山君を紹介しようと思うのでもう少しお待ちなさい、会社の帰りに寄る

ことになっているから。」と言う。少し経ち、そろそろ日が暮れようとしているところ

に即真先生がやってきた。先生は34歳で桃水先生より2歳年上とのこと。背は高く

なく、肥えてもいないが人柄はとても穏やかに見受けられた。例によってまた夕食を

いただく。長くいては迷惑なので何度も帰ると申し出、手配していただいた車で帰る。

8時。

 

12日

 先生から、麹町平河町という所に引っ越したという知らせが来た。また、「話したい

ことがあるのでお会いしたい。」とあったので「15日に参ります。」と返信した。

 

15日

 昼過ぎ、約束していた半井先生を訪れるため平河町に行く。今度の家は大変結構な

場所にあった。しばらくして帰って来たので「何か御用でしたか。」と聞くと、

「実は、知り合いの大阪の出版社が雑誌を発行するにあたって、小説家を紹介してほし

いとのことだったので、君をぜひにと思って話をしていたのです。それがロシア皇太子

が切りつけられる事件が起こったので、今朝急きょ大阪に帰ってしまったのです。君に

連絡しようと思ったが間に合わなかった。罪深いことをして申し訳ない。」などと謝る

のでかえって心苦しかった。少し話をして帰る。日没前だった。

 

27日

 前に約束した小説ができたので、桃水先生を訪ねる。今日はいつもより遅かったので

先生はもう帰っていらした。私のためによかれと思うことなど様々なお話しがあった。

帰ろうとすると、

「もう少し待ってください。君にごちそうしようと料理しているところだから。」と

心からおっしゃって下さるので、いつものようなお断りも言いかねてとどまった。

やがてお料理が来て、「これは朝鮮の元山の鶴ですよ。」とのこと。そのような遠来の

ものを出していただくとは、本当にありがたいことだ。食べ終わると、

「そろそろお帰りなさい、暗くなってしまいますから。」と今日も車を呼んでくださっ

て、帰ったのは7時だった。

 

30日

 残りの原稿を郵便で送る。今日は小石川の稽古日だった。

 

31日

 みの子さんの発会が、三番町の万源にて催されたので早めに行く。会主としばらく

話しているうち、中島先生も見えた。来会したのは30人ばかり、5時頃みな帰ったが

私は7時頃に帰った。

 翌日朝早くみの子さんに手紙を出す。習字をしていたが、小石川の先生が昨日、ずい

ぶん疲れたように見えたことが気になって様子を見に行った。大したことはなかった

ようで、昼頃帰った。

 

水無月2日

 明日半井先生を訪ねようと手紙を出す。

 

3日

 少々曇り。いつもの時間に先生を訪ねる。先生は近所の友達に会いに行っているとの

ことで女中が呼びに行った。次の小説の趣向について話し教えを乞うと、思うことを

余すところなくお話していただいた。雨が降ってきたので帰ろうとすると、

「まあ、もう少しいたまえ。」と言い、

「君が来る時は必ず雨が降るのは妙だね。でも今日降ったのには理由があって、私が

いつになく今朝3時に起きたからなのだよ。」とおっしゃって大いに笑う。

「そうに違いありません、これからは私の伺う日には必ず寝坊してください。」と冗談

を言うと、先生が真顔になって、「承知いたしました。」と答えたので恥ずかしくなっ

てしまった。門を出て少しして車を雇って帰る。家に入る頃雨が降り出したので、

「早めに帰ってきてよかったね。」などと家族と語り合った。

 

6日

 小石川の稽古日。残ってみの子さんと2人で手習いをした。帰りに先生の妹である

くら子さんが家に来たいと言うのを断りかねて伴う。8時頃お帰りになった。頼まれた

針仕事を遅くまでした。

 

7日

 昨夜の残りを朝早くからして10時頃仕上げる。その後机に向かう。

 

8日

 今日はお灸をすえに行こうと思っていたが、空模様が怪しいのでやめた。午後から

晴れる。夜12時就寝。

 

9日

 快晴。今日は小石川の月次回なので、早く支度するため4時頃起きた。10時頃行くと

来会者は20人くらいあった。散会は5時頃だった。私は残って名古屋の礼子さんに送る

ための評の表書きなどして、帰宅したのは日も暮れた後だった。

 今日の床飾りは水戸藩の立原某が描いた竹に鶴の掛け軸、古薩摩の花瓶に、夏菊と

姫百合が投げ入れてあり優美だった。小笠原家からマキノ―リア(モクレン)という

煩わしい名前の、麗しい花が送られた。日本のものではないので趣が違って珍しい。

葉はユズリハに似ているが裏の色が薄く、花は芙蓉に似ているが中のしべが違う。全部

開いたら20センチくらいになるという。名前が麗しくないので、歌に詠むことができ

ないことが残念だ。この花に限らずそういうことはよくある。

 

10日

 朝から曇り。今日はみの子さんと一緒に図書館に行く約束だったので、ついでに

お灸をすえようと昼から家を出て下谷にへ行く。2時頃よりみの子さんと図書館に

行く。6時頃帰宅。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

若葉かげ

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 くっそ寒いとこに暮らしていると近隣から梅が桜が咲いてくるので、地元で咲くまで

1ヶ月楽しめる。しだれ桜も一緒に咲くので大変豪華。北国は一気に花が咲く喜びと、

秋の紅葉が素晴らしい。一昨年紅葉に感激した際、地元の人に「紅葉来たら冬になるか

らねえ…」と言われたが、雪不足だったので実感せず(とはいえくっそ寒いのは寒い)

今年何度も雪かきして、その意味がよーくわかったのでした。経験したのでもう十分。

 さて一葉日記、無為な自分の愉しみとして、下手な文章、勝手な解釈ながら簡略で

平易、願わくば優美(言葉通りやさしく、きれい)な言葉で訳していきたい。知識不足

は全集の脚注と、分かりやすい高橋和彦訳に助けていただいて…。先にきれいで安く

て、周囲の人の思い出話付き小学館版を買ってしまい、筑摩全集の4巻下(書簡、この

巻だけない全集の多いこと!)に悩ましい思いをいだいています。

 

                若葉かげ

 

 花を愛で、月に心浮かれるような、風流をよろこぶことも稀にはある。思うことを

言わないとお腹に溜るなどというたとえ(徒然草)もあり、嬉しいこと悲しいこと、

自分の思いを綴ってゆきたいと思う。もとより人に見せるつもりはないので華麗な文章

でもなければ、艶やかな話題もない。その時々の気ままな言葉なので、うぬぼれて後々

恥ずかしい思いをしたり、くだらなくて笑われることもあるだろう。若葉かげなどと

大げさに名付けたが、ますます繁ろうなどという考えではなく、

 うのはなの うきよのなかの うれたさに おのれわかばのかげにこそすめ

  卯の花咲く 春の浮世を憂う私は 若葉の蔭にひっそりいるのがふさわしい

 

明治24年 卯月11日

 吉田かとり子さんの隅田川の家に花見に招かれた日。先生の家に集まってそろって

行く友人もいるが、私は妹が家に閉じこもって春の風にも当たらないのが心配だったの

で「一緒に行こう」と誘って出かける。花曇りと言うように空は少し霞み、日差しが

強すぎないのもよい。「上野の桜は満開過ぎたと聞くけれど、花は満開、月は満月だけ

を楽しむものではないのよ、花散る木陰のほうが風情があるくらい」と言うと、「兼好

法師ですか」と妹に看破され、返す言葉もなかったことがおかしかった。家からは上野

までは遠くもないので、朝露の残る頃に到着した。聞いていたほどでもなく、清水の

御堂(不忍池)の辺りはだいぶ散っていたが、権現神社(東照宮)の右手にある桜は

若木とはいえ満開だった。さっと吹く冷たい朝風に、花が吹雪のように散り乱れるのが

あまりに美しいので、

 大空におほふ計の袖もがな 春さく花を風にまかせじ(後撰集・読人しらず)

  大空を覆う袖のよう 桜を風にまかせましょう

と言いたかったが、「いつものひけらかし」と笑われそうなので黙っていた。吉田さん

の家に急ぐので、花を惜しみながら車坂を下る。ふと、「ここはお父さんが生きていた

時分、花の頃にはいつも私たちを連れて朝に晩に来たところでしょう」と妹が言った

ので、その頃を思い出し、

 山桜 ことしもにほふ花かげに ちりてかへらぬ君をこそ思へ

  今年も咲いた山桜 散って帰らぬあなたを思うばかり

「さびしいね…」と二人涙ぐんだ。山下という所を過ぎ、昔住んでいた家の付近を通り

世の移り変わりを目の当たりにした。まだ8年しか経っていないのに、下寺と呼ばれて

いた墓所には線路が敷かれて鉄道が通っており、駅、区役所、郵便局など、当時は思い

もしなかったものが立ち並んでいる。妹と書の先生の元へよくここを通っていたもの

だったが「いずれそのようになる。」と言う人がいた。「いつの世のことでしょう、

蜃気楼ではないですか。」などと笑い種にしていたが、あっという間にその通りになっ

てしまった。それにひきかえ自分は何も変わっておらず、年ばかり取ってしまったと

情けなく思う。この辺から車を雇って隅田川まで行き、枕橋という所で車を降りた。

 散りもはじめず 咲きものこらぬ(謡曲鞍馬天狗

満開の桜は、遠くから見れば雲の一群のように見え、近くからは梢に積もる雪のよう。

 まだ人出も少なく、花を独り占めして歩いていると蝶になったような心地だ。秋葉

神社、白髭神社を過ぎ梅若塚の方まで足を延ばして花を楽しむ。ここまで来ると人影が

なく大変嬉しい。戻る途中長命寺の桜餅を買って妹に持たせる。母への土産である。

三囲神社で妹と別れた。かとり子さんの家はこの神社の後ろにあり、3階建てだった。

 私より先にみの子さん、つや子さんが来ていたのでいつもの軽口をたたいていると、

今日は大学生の競漕会とのことで、船が木の合間に見え隠れするのがとても嬉しい。

双眼鏡で見せてもらうと、この高い家の真下を漕いでいるように見える。組別に赤、

白、青や紫に色分けされた服を着け、それぞれが漕いでいる様子は水鳥のように心の

ままだ。土手からは友達が「赤!」「白!」などと仲間を励ましながら心配そうに船に

ついて走っている姿も勇ましい。みの子さんがうらやまし気に見ながら「勝ったらさぞ

嬉しいでしょうね」と言ったが私は「負けたらさぞ悔しいでしょう」とため息をついた

ので笑われた。その内先生たちがやって来た。龍子さんと静子さんは競漕会に招かれて

いて「後でまたこちらに来ます」と出て行った。

 歌合せの間、心は空を飛び、花の姿が目に浮んで気もそぞろでいると、折から花火が

打ち上がったので先生が「はなにはなびをそへてみるかな」とお書きになって、「上の

句をおつけなさい」と伊東夏子さんに渡すとすぐに「おもふどちまどゐするさへうれし

きを」と書いて差し置く様子はいつものことながら鮮やかだ。

 仲間と集うことだけでも嬉しいのに 桜に花火まで添えて見られました

 そしてみの子さんが「かわずのこえものどかなりけり」と書いて私に「上の句を」と

よこしたので驚いて、先ほどの花の下を浮かれ歩く心を取り戻そうと大層慌てた。

「早く」と責められ「おもうどちおもふことなき花かげは」と書いたようだが、うわの

空でいたので忘れてしまった。

 仲間と過ごす憂いのない花の下 蛙の声ものどかに聞こえる

 素晴らしい歌が数々あったが、それもみな忘れてしまった。会が終わって久子さんが

お琴を弾いたが、趣味のない私でも「松風のひびきともやいふべからん」と感じた。

 琴の音に 峰の松風通るらし いづれのをよりしらべそめけむ(斎宮女御

「日も暮れてきました。お琴の音には心惹かれますが、花も惜しいので帰りましょう」

と先生がおっしゃった時、龍子さんと静子さんが帰って来た。かとり子さんがもうしば

らくと引き留めたが、お別れして出た。お供の男衆には振る舞い酒があるので「後から

来てください」と先生はじめ13、4人で土手に上がった。ちょうど夕暮れに差しかか

り風は少し冷たいが、散る花が蝶の様に見えて美しい。酔った人が私たちにいたずらを

を言うのがとても失礼で憎かった。日も暮れゆくとそのような人もいなくなったので

安心して花の下を巡り、それぞれがじゃれ合っている内に暗くなり、川を見れば白い布

を敷いたように霞み、向かいの岸の灯りがかすかに見えて寂しげだ。「さあ帰りましょ

う。月が出ていればまだいいけれど、不安だから。」と先生が言うのも若い女性ばかり

連れているからもっともであり、もう少しとは思うが男衆も来て呼ぶし、惜しいが桜を

離れて車止めまで行くと春雨が少し降ったので、別れの涙だと言い交した。枕橋まで

一緒で、そこからみな別れたが本当に名残惜しかった。それにつけても春の中の春とも

いうべき日だったと思うにつけ「もうしばらく明るかったら」と願うのは、「隴を得て

を望む(後漢書・足るを知らない)」という心だろう。

 

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                        猫も春の日 足どうなってるの?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

半世紀以上生きてしまった

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                         海見に行くのに泊りがけとは…  

 

 4年近く中断している間に51歳になり、海のない雪深い土地に移り住み、携帯電話

を初めて所持したら、ネット環境を持ち歩けることを今さら知り、今までかたくなに

持たなかったことが残念だった。出先でいろいろ調べられたはずの、忘却の彼方に去っ

たあれこれ…(調べても右から左に抜けますけど)。

 デジカメを13年ぶりに買い換えた。機能使いこなせないから古いのでいいやと思っ

ていたけれど、人の見せてもらったら、私が買える程度のカメラでもズームの進化すご

すぎ!鳥がもっとましに撮れたわ~と、また残念無念。

 蔵書は寺田寅彦随筆集(まだ積ん読なのに、弟子の中谷宇吉郎青空文庫で愛読して

いる)、川崎長太郎選集、樋口一葉来簡集、伊東静雄関係、など増えた。田山花袋全集

欲しくて迷いに迷い中。感傷的な明治の思い出話が大好き。あとは一葉の書簡が入って

いない全集を買ってしまったので、別の全集を買うか思案中。書簡の巻だけでいいのに

それだけがない!考えることはみな同じなのだ。

 この4年、給料のために屈辱を受けた代償と称して上記の品々とゲランの香水(テス

ターとか格安もの)など欲しいものはほぼ集め、セミリタイヤ後に備えているところ。

リタイヤしたいが今後もパートは仕方なしの貧乏所帯。今後の苦労は結婚後当たり前の

ように専業主婦していた自分への罰であろうから、せめて今は心の糧を貯めたい。

 ライフワークなどと大げさに言ってみるが、趣味の樋口一葉日記現代語訳(じっくり

読むための作業)、愛読している「ベッツィーとテイシイ」の続編の日本語訳(これも

その後を読むため)を実現するためにブログを再開した。それからくじけそうな夢、

もう一度機織りする、また海の近くに暮らすことを絶えず書いて自分を励ますために。

 相変わらずどこに行っても必ず身近に私を憎み悩ます者がいて仕事はつらく、体だけ

は元気だったのに、運動不足によるあちこち痛、長年の飲酒及びストレスによる胃の

不快、遠くも近くも見えにくいなどの老化が始まっている。心も死ぬことばかり考えて

いた青春時代から今もあまり変わらない。若い時楽しいことがなかったことは一生心の

傷だ。楽しかった人(身の回りにいる人全部)とは心から打ち解ける気にならない、

妬ましさで。もうぼやき始めたけどこれもストレス解消!勝手なことまた書くぞ!

 でもおばちゃん同僚とバカ言って笑って、お笑い見て笑って、猫と遊んで(若い頃は

犬以外飼うこと考えたことなかったから損した)ちょっと楽になって生きています。