馬場孤蝶「寄席の女」

                 

                  一

 近頃では、寄席へ出る女で、人気の凄まじい程有る女というのは聞かぬ。式多津とか

歌子というのは、少しは若い人の噂にはのぼるのではあるが、それを真打にしてやって

見たところで、幾らも客を呼べまいと思う。

 橘之助が真打でやって行けるのは、長年の功労の結果というに過ぎなかろう。

 僕の覚えて居るのでは、明治十五六年頃に、寄席へ出た岡本宮子というのが、非常な

人気があった。最早その時分二十を幾つか越した女であったろう。岡本浄瑠璃と云っ

て、新内を語って居た。何れかというと、新内もシンミリとしない方の語り方のもので

あった。謂わば、常磐津と新内の合の子のようなものであったように思うのだ。三味線

は、宮子の母親だという宮濱という四十を越した位に見える女が弾いて居た。一座は、

その宮子が真打で、桂才賀という老人の落語家と、小蝶とか云った女の手品師などが

出た。で、宮子が新内を語って了うと、その小蝶というのが、又出て来て、宮子と一緒

になって、所謂浮かれ節という、どど一その他の小歌を歌ったり、宮子が立って、踊っ

たりして、うち出しになるのであった。

 宮子は、少し凸額ではあったが、眼の涼しい、なかなか押し出しの強い顔立の女で

あった。声も可なりに立つのであった。この女が本郷の若竹などへ掛ると、随分入りの

あったものであった。

 地方から出て来る書生などで、この女に焦れて、可なりの金を注ぎ込み、それでも、

目的を達し得ずに発狂して了った者があるという話であった。

 宮子は、少し人気が落ちた時分になって、禽語楼小さんの妻になった。小さんと宮子

では大分年齢が違って居た。小さんの家内で居るうちから、左右(とかく)従順でなか

ったとかで、小さんの没後は、宮子は甚く落魄の生活を送って居たらしかった。

 最早十年程前の、或日の新聞は、宮子が脚気に罹って、本所か何処かで行き倒れに

なって居て、養育院へ収容されたということを伝えた。その新聞には、宮子のそれまで

の生活が、甚く悪いもののように書いてあった。けれども、ただ、器量をのみ頼りに

立って居た女の身だ。当人に口をきかせたら、そうまで落ち果てるには、当人相応の

已み難い理由があったのかも知れない。

 色香の栄華は、実にはかないものだ。此様な小芸人の一生の浮沈でも、しみじみ哀れ

な感を、吾々の心に喚び起すのだ。

 この女、今は、最早生きて居ないかも知れぬ。

                   二

 明治二十年以前の寄席は、落語の世界であって、円朝は元より、円遊のステテコなど

は、なかなか大勢の客を呼んだものであった。

 が、二十二年頃からの寄席は、所謂娘義太夫なるもので客を呼んだ。 

 ところで、伊東燕尾が妻の此勝と一緒に寄席へ出た時分から、娘義太夫の一座は最早

出来て居たようであったが、その全盛期に入り掛けたのは、二十二年頃からだと思う。

 竹本綾之助の出現は、その時代であった。その時分の綾之助は、如何にもいい声で

あった。吾々が初めて見た時分には、丁髷に結って居た。で、男だろうか、女だろう

か、と真面目に議論した人もあった位であった。中には、男だと思って、熱心に聞きに

行って居るうちに、女であることが知れて、大いに失望したという、薩摩の書生があっ

たという話もあった。

 綾之助のこの頃の芸は聴かないから知らぬが、昔の綾之助は、それ程上手ではなかっ

た。ただ声が好かっただけであった。

 けれども、その出現が、娘義太夫隆興の機運に乗じたものであったので、年は若し、

声は綺麗だし、顔立も好い方ではないにしても、悪い方ではないのであったから、綾之

助の掛る寄席は、何時も大入であった。

 綾之助の楽才は、美光ほどなかったのではなかろうか。況や呂昇には遠く及ぶまいと

思う。

                   三

 綾之助の時代_即ち明治二十二年から、明治二十五年まで_をば、娘義太夫全盛の

第一期とすれば、小清の東京の寄席へ現われた時分を第二期としなければなるまい。

 小清の語り物では、『鰻谷』を一番面白いと思った。戸川秋骨君も僕と一緒に小清を  

聴きに行った。吹抜で、小清の『野崎村』を聴いて、『野崎村』に関する感想文を

『文学界』に書いたことがある。僕は、小清の三味線の彼の低い調子が好きであった。

 小清の席には種の好い、騒がしくない客が可なりに入って居たようであった。

 僕が、小土佐を聴いたのも、その時分であったと思う。如何にも引き締まった、好い

姿であった。芸は、筋の好い芸だと思っていた。三年程前には、又二三度聞いたが、

なかなか好い語口になったと、感服した。

 瓢が、三福と云った時分に、五六回聞いた。すらりとした如何にも良い姿であった。

声を張って出す時に、顔を横へ向ける様子が、未だ眼に残って居る。その時分ですら、

語り振りは渋味のある方に属して居たと思う。

                   四

 その時分には、寄席は、何様なものが掛っても、可なりの入りが有ったものだが、

この頃は、一体に、何処も不入りのように聞いて居る。吾々、田舎者が、大手を振って

歩ける東京になって了っては、又、おさんどんさえ三越へ買い物をし度がる世になって

は、寄席へ出る芸人の多数は、時代違の者になって、寄席は、幾らか前代の趣味を解す

る少数の人々の行く娯楽場になって了ったのだ。 

 本当を云うと、娘義太夫の全盛期というのが、寄席の堕落の第一歩であったのだ。

それだのに、今日では、その娘義太夫さえ、ある人々に向っては、高尚すぎることに

なって了った。従って、娘義太夫にも下手が多くなって居る。

 今の分では、義太夫も、落語も、講釈も、合併してしまって、巧く興行して行くより

外為方が無かろう。

 所で、今後、寄席へ、相当の芸の、好い器量の、若い女が出るか、何うかということ

になると、これは、何うも覚束ないことだ。

 少し渋皮が剥けて居て、雑誌の拾読みでも能きるのであったら何の芸も能きぬもので

も、明日から直ぐ女優という有難い芸人になれるのだ。いや、当人の勇気次第でもっと

金になる商売もあるのだ。

 之に反して、寄席では、何等かの芸をしなければならない。それには、少しは修業が

要るのだ。一方に於て、前記のような、虚栄心を満足させ得べき方(みち)があり、金

の入る方がある以上は、何を苦しんでか、そんな修行を為る者があろう。何か、特別の

縁故、若しくは、事情のある者に非らざる限り、寄席芸人になる女はなかりそうだ。

馬場孤蝶「落語」

  

               

                  一

 父祖三代以来も東京に定住して居られる純東京の人々に対しては、真にお気の毒な

ことだが、今の東京は、余程吾々田舎者に取って、住み好い土地になって来た。風俗

も、習慣も、それから、言語さえも、吾々田舎者が、そんなに不自由をせずに済むよう

な程度にまで変化して来た。されば、東京の寄席の芸術に対して、吾々田舎者の方の

感想を述べても、そう甚(ひど)く無遠慮にはならないだろう。

 固(もと)より、僕等のような田舎者には、東京の寄席の芸術は、善くは解って居な

いかも知れないのだから、僕の感想には、何か権威があるものだとして、これを提出す

るのでは、毛頭ない。唯だ、田舎者の一人である僕には、こういう風に思えるとだけを

云うに過ぎないのだ。

 僕は、度々寄席へ行く訳ではないのだから、今の落語家に対する知識は極めて狭い。

極く大略のことしきゃ云えない。

 それから、僕は、明治二十年以後から、この三四年前までの、落語界の形勢を殆ど

全く知らない。それで、今ここに、現時の落語界に対する感想を述べるに当っても、

その比較に取るのは、明治十四五年頃から精々同二十年頃までの落語界の大勢なのだ。

                   二

 現代の落語界を見渡すと、第一に感ぜられるのは、人の少いことである。今の有様で

は、中流どころの者が居なくなっても、甚く寂れが眼に立つ位なのだ。

 相当に熟達した位置に至った芸人には、大抵の場合、その芸に各々特異な風格が備わ

るものであって、その風格のみから云えば、そういう風格を備えた当の芸人が居なくな

ると共に、そういう風格は、芸壇から消え去って了うのであるから、そういう方から

云えば、まことに惜しむべきことであるのであるが、同力量の芸人が多く同じ芸壇に

居る場合には、そのうちの一二者を失ったということが、必ずしも同じ芸界の絶対的

損失になるという訳ではない。けれども、今日の有様では、相当な落語家が、一人居な

くなれば、一人分だけの損失、二人居なくなれば、二人分だけの損失が、直ちに落語界

全体の損失となって了うのだ。真に以て、心細さの限りである。

 先代の円遊は、才人ではあったろうが、落語家として、当時重きをなして居た人では

無かった。落語の品格、伝統を崩した人であった。さればと云って、そう新味な境地を

踏み開いた訳ではなかった。当時では、僕等は先ず中流どころの人だと思って居た。

が、その円遊さえ、今居るのであったら、第一流の大家として遇せざるを得なかろう。

『円遊でも惜しいと思われる時代だから』とは、僕等の、現代の落語界を思う毎に、

我知らず、胸に出て来る感なのだ。

 いや、それ所ではない、先代の遊三さえ惜しいと思う。元より、彼様(ああ)いう

わざとらしい話し振りは、彼れまでに練り上げても、未だ面白いとは思われなかったの

だが、それにしても、三十年程の高座の生活は、彼の人の芸にさえ、何らかの権威を

生じしめて居た。彼の人に代るべき者さえ、今の落語界には、そう多くない。

 況(いわん)や、橘家円喬の死は、現時の落語界に対する大打撃であった。円喬は確

に近代の名人であったように思う。恐らくは、所謂大円朝と共に、明治の演芸史上に、

併記さるべき人であろう。現時の大家、円右、小さんに比するに、第一芸の大きさに

於て、遥に円喬が優って居た。気力に於て、円喬が優って居た。円喬は前代へ突き出し

ても、第一流の上位に立ち得べき人であったと思う。

 円生は、円朝門下の高足(不明)であった。その芸には強みがあり、凄みのある話

は、得意であったようだが、今の円右に較べても、狭い芸であった。晩年の円喬の様な

縦横の芸ではなかった。

 団州楼燕枝は、前代の大看板であった。けれども、高座度胸の出来て居る人という

のみで、芸はそれ程でなかったように思う。位は十分に出来て居たが、話は下手であっ

た。円喬には到底及ばなかったろう。

 断って置くが、先代燕枝だの、先代柳枝だのを、下手というのは、余程高い標準から

云うのだ。今の柳派の大看板連とは、先代の人々は、下手は下手でも、下手さが違う。

 円喬は、確に、落語界という天における第一光位の星であった。この星が落ちてから

は、落語界という天は甚く暗くなったような気がする。

 円喬が死んだことを新聞で見た時は、何んだか甚くがっかりしたような気がした。

円喬が生きて居る時には、落語というものが面白いような気がして、円喬が出ない寄席

へでも、看板をロクロク見もせずに入った事もあったものだが、円喬没後には最早落語

もつまらないというような気がして、寄席の木戸口を入る気がなくなった。僕に取って

は、円喬が落語そのものと同じであるような気がしたのだ。

 其様(そん)なら、お前は、円喬を度々聞いたのかと云われれば、そうではない、

僕は三四度聞いた位であろう。而も、同じ女の仇討の話を、所々飛び飛びに聞いたのみ

なのだ。

                   三

 其様なら、今の落語家は皆駄目なのかと云われれば、僕は、必ずしも、そうではない

と答える。

 僕は、円右をば、優れた落語(はなし)家だと思う。近頃の円右の芸ならば、前代の

人々の中へ突きだしても、決して第二流には落ちまい。今の落語家の中で、お侍らしい

侍を、僕等の眼前に髣髴させ得るもの、円右を措いては、他に誰もあるまい。小さんの

お侍はどうしても官員さんだ。圓蔵のお侍も余程官員さんに近い。『巌流島』をば、

昔の事らしく話し得るもの、円右の外には、誰もなかろう。円右は老年になって、甚く

旨くなった人だ。若い時分は、それ程ではなかったように思う。いや、或はその時分に

は、他に大家の多い時分であったので、円右のまだ若い芸などは、それ程眼に立たなか

ったのかも知れない。惜むらくは、時々身振りが多過ぎることがある。話は言葉が主

だ、余り為方話にならぬように、工夫して貰い度い。

 小さんの芸は確に新味を帯びて居る。先代の『禽語楼』と称した小さんは、『殿様の

将棋』『殿様の蕎麦搔き』というような話では、古今匹儔(匹敵)を見ないのだが、

その他の話では、そう傑(えら)くはなかった。のみならず、人を笑わせるには禽語楼

小さんは、先天的優所を持って居た。それは、禽語楼の顔立であった。この不思議な顔

を見たばかりで、客は誰でも可笑しくなるのであった。が、今の小さんは普通(なみ)

の顔だ。今の小さんの、くすぐらず、訴えず、正々堂々として、話を運んで行くところ

は、賞賛に値する。『しめ込み』とか『粗忽長屋』とかいう話をあれまで面白く聞かせ

る落語家は、前代にはなかったろうと思う。なるべく説明を略して行くという工夫の

小さんにあるのは、その話し振りで聴客の方では十分に解し得られる。

 円右、小さんの二人の外には、円蔵を挙げても宜かろう。が、円蔵の芸は、もう少し

円熟させたい。もう少し尖りを除き度い芸だ。円右、小さんの後を受けて、全面を占め

得べきものは、今のところ、円蔵ではなかろうか。

 所謂若手では、小せんは病人だから、将来には最早望みは嘱せまいが、むらくは努力

さえすれば、可なりな将来はあると思う。

                  四

 人に対する評は先ず此様(こん)な事にしておいて、落語の今昔というようなことを

左に少し書く。

 前代の話は、説明的であった。即ち、地の所が対話の間に随分多く入ったものであっ

た。今の話方は一般に描写的になった。即ち、大抵対話ばかりで運んで、地の所をなる

べく少くして、やって行く。今の小さんの話を聞かれる人は、其処に一番善く気が附か

れるだろうし、円喬の続き物には、描写式が顕著に表れて居た。

 これは何(ど)の一座でも、出演者の数が近来では多くなったので、話を手短く切り

上げる必要から、自然とそうなって来たものなのか何うか明には知らぬが、何んにして

も今の描写式の発展は、話術の進歩だと思う。_併し、説明式の話術にはまったく面白

味がないというのではない。

 それから落語界全体の趨勢(なりゆき)から見ると、話術そのものの発達には大いに

都合が好い状態になって居るかと思う。広く云えば、寄席、狭く云えば、落語即ち色物

に対する客足の減少が、落語家の健闘と自覚とを促すべき有様に立ち至って居る。下町

は左も右(ともかく)、山手などでは、落語家はさまざまな商敵と苦戦しなければならなかった。初めには、娘義太夫、次には浪花節、今は大敵活動写真に、客を奪われて

居る。席亭(寄席の経営者)も、落語家も、今日では単に客の好奇心を煽る切りの俗悪

な新物を加える位なことでは、到底外敵と有利な戦を為ることは能きないという所に気

が附き、本来の専門たる話術を強固に発達させるより外はないと、自覚したらしく思わ

れるのだ。近頃になって起った、落語研究会は勿論のこと、有名会とか独演会とかいう

ものの、頻りに行われるのは、前節で云った傾向の現徴(不明)と云えよう。

 のみならず、僕の極く狭い経験から云えば、此の頃は、色物の寄席に素噺が多くなっ

て来るようで、十年位前にはよくあった芸者の真似をする女などは、滅多に見られなく

なった。

 世間には、色物の寄席に取っては縁なき衆生である人間が少くない。そういう者ども

を引き附けようとすると、勢い無理な俗悪な芸を加えなければならぬようになるのだか

ら、落語家は宜しく落語そのものに趣味を持つ人々を相手にすることにして、比較的

少数の客に甘んじて、その客だけを握って放さぬようなやり方で行くよりも外はなかろ

うと思われるのだが、落語界の識者の腹では、到底お客にならぬものをお客にしようと

するのは却って落語界瓦解の原因だという事位は、気附いて居るのではなかろうか。

 所が、そうなって来ると、お客を始終引き附けて置くだけの技量のある芸人の数が

不足して居る。

 けれども、今人を作ろうと云ったところで、そう容易に出来るものではない。それ

に、もう少し、大きい芸術だと、少しはチャンとした志願者が出て来るかも知れぬが、

何しろ、日陰の芸術であって見れば、ロクな志願者は先ず出て来ないものと見なければ

ならぬ。そうであって見れば、今までの連中だけで、何うにかやって行かなければなら

ない。今の所、十五日続けて打つところを十日にするとか、一週間にするとか、成るべ

く好い芸人を出し、真打が長く話をするとかいうような方法より外に為方がなかろう。

 落語の形式が古いから、もう少し改良して見たら何うだろうという議論はあることだ

ろうと思うが、第一、その改良ということが、一朝一夕に行くことではないし、又、

少し位改良したところで、元来話を聞くというのは、話し方を聞くという訳のもので

あるから、そう多勢客が来る気遣はない。

 その上に下手な改良などは、まずやらぬ方が宜い。

 落語は今の若い東京人の曽祖父位からの、民衆の知恵、常識、伝説及び趣味が知らず

識らずの間に鍛えなした平民芸術なのだ。何うして、生学問の改良屋などの煽動(おだ

て)に乗って、滅多に所謂改良などをやられて堪るものか。

 僕などには、女郎の話、博奕の話、長屋の夫婦喧嘩の話、ことごとく結構である。

安価な教訓談や、所謂武士道の講釈などを、銭を出して聞くのは、真平ご免だ。これか

らの落語家は、宜しく、落語が、常識ならぬ常識、知恵ならぬ知恵を、自然に含んで

居るのを自覚して、今までの人々がよく団結して、狭くとも自己の城郭に引き籠って、

十分に技を磨いて、少人数に訴える芸人として立って貰い度いものだ。

 尤も、話そのものの選択は余程よく為なければなるまいと思う。あまり旧式な話は

なるべくしないようにしなければなるまい。泥棒の話でも『出来心』というのは、余り

大阪俄染みた余りに幼稚な話である。『しめ込み』の方が余程位が上だ。同じ不自然な

ものでも『釜泥』の方が、『出来心』より面白い。

 

 

馬場孤蝶「義太夫の話」

                            関係ないけど(kawaii

                一

 僕は少年の時分から、義太夫を聴くのが好きであった。慥か、明治二十一年頃と覚え

て居る。姉が、土佐へ旅行したことがあった。その時、姉は、女義太夫の弥昇というの

を、旅宿の座敷に呼んで、聴いたことがある。弥昇は、その後間もなく、竹本稲桝の

一座に加わって、上京した。僕の家は、その後、新橋の日吉町三番地へ引越したが、姉

に贔屓になった縁故で、弥昇は、よく僕の家へも訪ねて来た。で、何時の間にか、稲桝

の一座の連中とも知り合いになったので、僕は、或時は、姉と一緒に、或時は、今代議

士になって居る中村啓次郎君と一緒に、日吉町から、ご苦労さまにも、下谷の吹抜、

両国の新柳亭などへまでも、稲桝一座のかかって居る所へ、よく聴きに行ったものだ。

そういう風であったから、無論、近所の鶴仙や、琴平あたりにかかった時は、殆ど毎晩

のように出かけた。遂(しまい)には学校の教科書を携(も)って、寄席に行って、

面白いところだけ聴いて、他は聞かずに、教科書の下読をやったものだ。ゼボンの論理

学(ロジック)などは、寄席で勉強した所の方が多かったように覚えて居る。

 斯様(こん)な風に、義太夫道楽が進んできた果は、自分でも語ってみ度くなって、

弥昇が家に来た時に、教えて呉れと頼んだ。何を教えようかと云うから、何うせ習う位

なら『三十三間堂』の『平太郎住家』を習い度いものだと、僕が云うと、弥昇は、あれ

は、難しいから、お止しなさい、もっとやさしい物を教えましょうと云うのだ。此方

は、盲滅法何んでも彼でも、『三十三間堂』を教えて呉れと、云い張った。すると、

弥昇は、笑いだして、では、まァやってごらんなさい、と云って、有り合せの三味線を

取って、稽古を附けに掛って呉れた。所が、やって見るというと、第一、先ず最初の

『夢や結ぶらん…』というところからして、難しくって到底駄目だ。では、其処は抜い

て、その次からにしようということになったのだが、此度は『妻は…』で、声が出な

い。弥昇は、もっと上、もっと上と、云うのだが、僕の声は何時までやっても、ちっと

も上へあがらない。まして、『は…』と声をひっぱって行く節が何うしても物になら

ぬ。何遍やっても同(おん)なじように駄目なのだ。大いに閉口して、『成程聞いて

居る方が、余っ程楽だ』と云うと、『此様な難しい物は、駄目ですよ』と、弥昇に甚

(ひど)く笑われた。僕は、それ以来、義太夫の稽古を為てみようと為たことは無いの

だが、時々、冗談半分に稽古を為て見ようかと思うことはあるのだ。因みに云うが、

ここにいう弥昇というのは、今の竹本東佐のことだ。

 僕自身の義太夫に関する経験ともいうべきものと云えば、先ず此様なものだが、これ

から批評とは行かないまでも、今まで僕が聞いた義太夫語に就て二三の感じを云おう。

 大阪の隅太夫_彼の盲目の隅太夫を余程前に聴いたことがある。その時は、僕は極く

年の若い時分であったので、更に明らかな印象は残って居ないのだが、その時聴いた

『鳴門』の奥の、お鶴の死骸に火をかけるあたりからが、非常に面白かったことは今に

忘れない。

 越路太夫_今の摂津大掾_を初めて聞いたのは、明治二十二年頃かと思う。その時分

には、『最早、大分下り坂だ』と云われて居たに拘らず、まだ何うして、美しい声で

あった。『先代萩』の『忠義の段』の『お末の業をしがらきや…』というあたりの節

回しの美しかったことを、今に忘れ得ない。殊に、『心も清き洗米』に至っては何ん

とも云いようのない綺麗な節回しであった。であった。それから、『二十四孝』の

『十種香』を、実によい心持で聞いた。謙信が出てから後は、それ程面白くなかった

ように思う。

 その時に越路と一緒に来た路太夫というのの『紙治』の『茶屋場』を聞いたのだが、

会話が如何にも写実的に語られて、芝居を見たって彼様(あん)な印象は到底得られ

まいと思われるまでに、面白かった。前後を通じて、彼様な面白い語り方を聞いたこと

は、一度も無いような気がするのだ。けれども同じ人の『沼津』や『引窓』は、それ程

面白かったとは思わない。或は、『茶屋場」の曲そのものを、僕が面白く思って居た

為めかも知れぬ。然し『茶屋場』が、路太夫の最も得意な語り物であったのでは無かろ

うかとも、僕は思うのだ。

 同じ一座のさの太夫というのは、壮(さかん)な語口であったと思う。その男には

大きい将来が有るのだろうと思った。彼の男は今は何うなったろうか。

 大阪の文楽座を見度いと思って居るが、まだ見る機会を得ないで居る。人によると、

義太夫も、人形にかけたのを、見なければ、真正の義太夫の味は分らないのだというの

だ。が、折角、善い義太夫を聴いて居るのに、人形が邪魔になってならないと、いう

ものがある。僕には、後者の説には一理があるように思う。

 義太夫曲のうちで、何が一番好きかと云われれば、僕は『恋飛脚』の『新井口村』

が、一番好きだ。

                  二

 これは、大阪の人で、よく義太夫の事を知って居る人の話であるのだが、僕には面白

い話だと思われるので、知れ渡って居る話かも知れぬが、左にその大要を書いてみる。

 義太夫を教えて、真正にそれを仕込もうとするには、同じ一段を何時までも教えるの

が宜いというのだ。ただ無暗に数だけ上げても、何んの役にも立たないものだ。一段中

に現れる人物には、老人もあれば、若いのもある。男もあれば女もある。それに性格の

違ったものも、いろいろ出て来る。そういうものの語り分けを、いちいちはっきりやる

ようにして、同じ一段を繰返す中には、その真の呼吸を覚えて、他のものは自ずと語る

ことが能きるようになるのだ。摂津大掾が若い時に弟子入りをした師匠が、一年間も

寺子屋』か何か一つものばかりを摂津に教えていた。摂津の家内の者等も流石に変だ

と思い『家の子が何んぼ不器用でも何時も一つのものばかりは酷い。それは先ず大抵で

上げさせて、他のものを教えてやって呉れ』と、云い込んだ。ところが、その師匠が

『でも、当人が平気でやって居るから宜いではない』と云ったので、それなりになっ

た、という話がある。

 僕は其の道のものでないから、果して、義太夫の教授法はそうなければならないもの

なのか何うなのか、その当否は知らないのだが、それに就いて、甚だ面白い話がある。

 何代目の長門太夫であったか、紀州の竜門か、何処かの、温泉に湯治に行って居た。

処が、毎日、その宿の前を、馬子唄を歌って通る一人の馬子があった。その声が如何に

も美音であった。長門は、それに聞き惚れて了って、或時、その馬子を自分の部屋に

呼び入れた。そして『お前の声は実に善い声だ。何うだ、俺の弟子にならないか。そう

すれば、日本一の大夫にしてやるが』と、云った。が、馬子は、『私には老年(とし

より)の母親がある。それを見送らない中は、何うしてもこの土地を離れる訳には行か

ない。折角だが、貴下の弟子になる訳には行かない』と、云って、断った。それを聞い

長門は、甚だ失望したのだが、為方がないから「イヤ、それは道理(もっとも)だ、

そういう訳なら、何も今に限った訳ではない。お母さんを見送ったら、その時来て

呉れ』と云って、そのうち、自分は大阪へ帰った。

 すると一年ばかり経って、その孫が長門の許へやって来た。『いよいよ、母親を見送

ったから、兼ての約束通りに弟子になりに来た』と云ったので、長門は喜んでその男を

家に置いた。

 ご承知の通り、芸人の内弟子というものは、ただ芸を稽古するばかりではない。いろ

いろな労働もすれば、また、家の雑用にも使われるものだ。この馬子であった男も、

そういう習慣の下に、義太夫を習い始めた。先ず、一段の稽古は終った。ところが、

始終その一段の稽古ばかりやらされて居る。三年の間、その一段より他一つも教えて

呉れ無い。さすがに、その男も考えだした。此様な塩梅では、十段覚えるのには三十年

以上かかる。二十段覚えるには六十年の余もかかるのだ。其様なことでは、到底、日本

一の大夫どころか、普通の義太夫語りにもなれない訳だ。斯う思ったから、ある日、

長門の前に出て、義太夫語りになるのはいやになった。田舎に帰って、もともと通り

馬子をし度い。是非暇を呉れと云った。聞いた長門は、ひどく失望して、いろいろ

なだめすかして見たけれども、何うしても帰るといって聴かない。で、為方がないか

ら、幾らかの旅費をやって、田舎へ帰すことにした。

 そこで、当人は、大阪から草鞋がけで、てくてく歩きだして、泉州岸和田の近辺まで

来ると、日がとっぷり暮れた。あたりに旅屋(やどや)はない。この辺の大きい家へ

行って、旅のものだが、納屋の隅でも宜いから、泊めて呉れまいかと頼んだ。所が、

その家の者が云うには、真にお気の毒であるが今夜は少し家に取込があるからお泊め

申す訳にいかないと云って、気の毒そうに断られた。けれども此方は、他へ泊めて貰え

ようと思う家もないのであったから、また押し返して、お取込はどういうことか知ら

無いが、別に食べるものも頂かんでも宜い、ただほんとのお納屋の隅で宜いのだから、

一夜過ごすだけの許しを得度いと、折入って頼んだ。すると先方の云うには、いや、

そういう訳なら、お泊め申しましょう。実はこの辺は浄瑠璃の流行る土地で、今夜は、

家でその会をするところだ。それで、何うも、お泊め申しても何んのお世話も能きまい

と思うからお断りしたのだが、それさえご承知なら…と、云うのであった。聞いた此方

は、私も実は浄瑠璃は好きだ、そう聞いては、台所の隅なりとも伺い度いと云うと、

先方でも、それは何うにかしてお泊め申すことも能きるし、粗飯で宜ければ差し上げる

ことも能きる。ただ混雑でお気の毒だと思ってお断りしたのだ。そういうことならまァ

お上がりなさいということになった。そこで少し待って居ると、村の天狗連がだんだん

集まった。三味線を引く者は、大阪で本職になりそこねたというような男で、その辺の

師匠をしている者であった。やがて、会が始まるという時になると、旅の男は、私も

義太夫を少しやったことがあるから、今夜やって見度い、しかし皆さんにはとても敵う

まいと思うから、私が前座をやると云いだした。

 妙に武骨気な、服装(なり)も見すぼらしい男であるから、其様な男に義太夫が語れ

そうにも見えなかったので、一同はほんの座興位にと思って、では、おやりなさいと

云って、三味線引の師匠も、迷惑そうな顔をして、撥を取った。

 すると、旅の男は、三年かかってやっと一段しきゃ覚えられないような不器用な自分

だから、田舎へ帰って、また元の馬子になってしまって、義太夫のことなどは噯気

(おくび)にも出すまいと思って居るのだが、それにしても、一遍は人の居る所で語っ

て見度くもある。所で、素人の間(なか)ならば、何れほど下手でも恥にはなるまい

し、而も、ここは旅だ、よし、やってみよう、後にも前にもただこれ一遍という心算

(つもり)で、見台に向ったのであった。一二行語りだすと、先ず三味線引が驚いた。

苦しいことは夥しい、やっとのことで、畢生の力を奮って附いて行った。やがて語り終

ると、一座感に堪えて何とも云う人がない。さァ、これから皆さんのを伺いましょうと

その男が云うと、暫く一同顔を見合わせていたが、家の主が、座を進めて云うのには、

貴下の浄瑠璃には、全く感服してしまった。もう貴下のを聞いては、私ども誰も後で

やろうという気になれない。真に恐れ入った。もう一段何か聞かせて下さらんかと、

云った。馬子の先生大いに閉口した。いや、真にお恥しい訳だが、浄瑠璃はこれ一段し

きゃ知らないのだからと、云って断ると、主人が、貴人ほどの上手が、たった一段しき

ゃ知らぬというのはあるべきことでない、冗談を云わずに聞かせて下さいと、頼んだ。

けれども、此方では実際一段しきゃ知らないのだ、と云う。其様なら、何卒(どうか)

今のをもう一遍聞かして呉れろということになって、同じものをもう一遍語った。語り

かたの正確なこと、前に語った時と、いわゆる符節を合すが如しで、寸分違いはない。

それで、一座ますます感服して、何うして、貴下ほどの上手が、一段しきゃ知らないの

かと尋かれたので、その男は、実は、私はこれこれの仔細で長門の弟子になったので

あるが、三年経っても一段あがらない。考えて見ると、三年に一段では、十段覚えるに

は三十年かかる、今私は二十位だから、十段覚える時分には五十になってしまう。それ

では、日本一の大夫どころか、もぐりの義太夫語りにもなれない訳なのだから、もう

廃めて、田舎へ帰る心算で、此処までやって来たのだ、と云った。

 一同、その話を聞いて、それは残念な事ではないか、長門程の人が貴方をそういう風

に教えたのは、何か考えがあってからの事に違いない。何んでももう一遍大阪へ行って

辛抱して見てはと、勧めた。いや、真平御免だ、朝から晩まで、そこらをふき掃除した

り、湯吞に湯を汲むということばかりやらされて、浄瑠璃は三年に一段というのでは、

とてもやり切れない。私は何んでも田舎へ帰ると云って、聞き入れない。けれども、

一座の人は、それは内弟子で、何んでも彼でも、身の回りのこと一切、彼方で世話に

なるから、そうなるのであろう。貴下の様な名人がこのまま田舎に埋もれて了うのは、

実に残念だ。私共が拠金して、其様なに苦しくなく修行のできるようにしてあげるか

ら、と、云いだしたので、とうとう納得して長門の処へ帰って行った。

 すると、長門は非常に喜んで、お前は、慥かに日本一の大夫になれるとおれが見込ん

で世話して居たのに、いやになって帰るというから、仕方なしに返したが、残念で堪ら

なかった。善く帰って来て呉れた、と云うので、一層力を入れて、教えて遣り、初め

一段に三年もかかった事であるから、後は何んでもどんどんあがるようになって、とう

とう非凡な芸人になった。長門太夫はその男に綱太夫と云う名を附けて遣った。馬子に

因んで附けた名であったのだ。これが、初代の綱太夫に就ての言い伝えだ。

 ところで、又他の人から聞いたところによると、終の方が違って居る。師匠の処から

暇を貰って帰る時、大阪の境の港で船に乗ったが、船が出ぬ中に、夜になったが、実に

良い月夜になったので、その男は、思わず、たった一段しか知らない義太夫を語りだし

た。すると、近辺に居る船の中で、オー長門だという声を聞いた。ここで、当人は翻然

覚って、自分から、大阪へ引き返したというのだ。何方が真実の話であるか知らないの

だが、僕は、一寸小説めいた面白い話だと思って、義太夫の話が出ると、よく人にこの

話をするのだ。

 

馬場孤蝶「東京の天然」「東京の女」

     

 先日久しぶりにお濠というものを見てよかったが、この写真が以下の内容に合って

嬉しい。そして真夏の真昼時の、時が止まったようなあの感じも大好きなので嬉しい。

                  一

 少し間暇(ひま)が出来さえすれば、何うしても何処かへ旅行せずには居られなかっ

た時分があった。即ち山を見るか海を見るかしないと、何んだか心が萎び切って了(し

ま)うような気がしたことがあったのだ。

 暫時、人事の草忙裡を離れて、新鮮な天然に対して、胸底の塵芥を洗うとでも云う様

な心持で、旅へ出たのも、最早(もう)一昔前になって了まった。此の頃では、却っ

て、都会の賑やかな所が、面白くなって、暑いのも構わずに縁日の雑踏の中を、植木屋

をヒヤかして、歩くことなどもあるようになった。

 田舎生れの僕も、三十年以上の東京生活に教化されて、今頃都会の面白味が解ったと

思われる。

 所で、全く都会人になりおおせたかというと、残念ながら、そうではない様なのだ。

依然(やはり)、何処かに天然を好む念が潜んで居るのだ。

 けれども、それは、最早人間を遠く離れたような天然を慕うのでは無い。人間に

近い、若しくは、人間の多い市にチラばっている天然を賞(め)でる心なのだ。言葉を

換えて言えば、全然都会の雑踏の巷でも、面白からず、さればと云って、全く天然の

最中でも面白くないという、中ぶらりんの、折衷的位置なのだ。

                  二

 東京は大都会である。少くとも、その広さに於ては左様(そう)だと云わなければ

なるまい。その広いことの有難さには、天然の断片が諸方に見出される。尤も心の底

まで都会流になった人々や、父祖から都会人たる伝説を伝えて居る人々に取っては今の

東京には、随所に破壊の痕が見出されて、そういう人々には、現在の東京は、旧き東京

の残骸に過ぎぬであろうが、吾々田舎出の者に取っては、未だ幾らか堪え得られる程度

に於て、旧い東京の面影が、所に依って残っているように思われるのだ。

 勿論僕の所謂東京の内の天然の断片は、人口の加わった天然なのだ。即ち寧ろ人間の

造った天然と云っても宜いのだが、そういうところが又、東京のような大都会ででも

なければ、到底見られないものなのだ。

 外国の或詩人の書いたものの中に、人間が、或建造物を造って、天然の裡にそれを

置き捨てるというと、天然はそれを己の懐に収めて、それをば自分のものにして了う、

というような事が、書いてあったように思う。これは、確か大羅馬の大劇場(コロジユ

ム)の遺址に、木が生え、草が茂って、殆ど自然の丘のような姿を呈して居ることを

書いた場合の言葉であったと思う。

 僕の所謂東京の天然は、全くその通りに、天然の懐に収められた人工物であるのだ。

 以上に云ったような意味で、僕は、麹町の新見附が好きだ。其処に立って、西の方を

見るのが好い。四谷から佐内坂、佐土原町へ掛けての丘の遠景も一寸好いが、最も好い

のは、濠の眺めだ。

 両岸の樹の静に枝を垂れたような処も好ければ、濠の水の水さびた所も面白い。

殊に、風のない夏の真昼時の静な景色が大変に好い。何んとなく打沈んだ沈静の眺が

心持が好いのだ。四方の堤(どて)で箱のように画(くぎ)られているので、却って

小天地のようで面白いのであろうかと思われる。秋の末に夜霧の立った月夜の晩などは

非常に好いのだ。月夜に、麹町の、高い松のある堤を見るのも好い、有りふれた言葉

だが、芝居の書割のような気がする。

 同じ外濠では、四谷見附の堤の松林が好い。四谷仲町の停留所を少し彼方(むこう)

へ下りた辺りから、濠を隔てて松林を縦に見る眺が面白いのだ。赤松の大森林が何処迄

も続いて居るのではなかろうかというような気がする。

 吾々は、何時も景色が吾々の胸のうちに起させる幻覚が嬉しいのではなかろうか。

そうならば、四谷見附の松林は確にその意味で、僕には心持が好いのであろう。

 それから、ずっと飛ぶが、芝のお霊屋(霊廟)の手前からの松林が好い。電車で通る

のは勿体ない気がする。時々海岸に近いところではないか、というような気がすること

がある。芝園橋あたりから、公園を見るのも好い。其処からでは、五重の塔の頂が緑樹

の頂上を抜いて居るのが、如何にも感じ好く眺められる。

 今確には覚えて居ないが、上野の公園の博物館の前あたりの所で、東を見ると、何う

しても、海辺だという気がして為方のない所がある。松がある為めばかりでなく、その

彼方が坂になって居て、空が見通しになる為めでもあるのだろうかとも思われるのだ。

 浜町河岸_長岡さんの邸(やしき)外の所が好い。月の夜も好かろう、朧夜も好かろ

う、闇の夜も悪くはなかろう。が、僕は、或夏の午後、霏雨(ひさめ)の日に彼(あ)

の辺を通ったことがある。大川の面から掛けて、彼の辺一面に雨の烟って居る眺が、

実に心持が好かった。そうなると、新大橋さえ確に景色の一部を整えるのだ。

 それから、大川では、箱崎から中須へ渡ろうとする川口橋辺の、川が入江のように

なって居る所も好く、尚、築地から月島へ渡る所の、帆船が沢山停泊して居る所も

好く、更に又ずっと上流(かみ)へ行って、永代橋から海の方を見るのが好い。僕が彼

の橋を初めて渡ったのは、最早三十年も前のことなのだが、その時は、河口に西洋型の

船が一艘かかって居て、その彼方は縹渺たる(広々とした)大海であるかのような感じ

がした。何んだか東京うちでないような、物寂しい好い心持がした。僕は今も尚その

景色を忘れ得ない。何うもその舟一艘で、景色が大きく見えたように思う。それから、

明治座の前から東の掘割の眺がなかなか面白い。満潮の時が殊によい。蠣浜橋が高く

見えるのも、景色を整えるものの一つだ。そう云えば、その掘割に附いて行って、電車

道を越えてから彼方もなかなか好い。

 その外に、越中島の葦原の秋になっての眺が非常に好いと思うのだが、彼所(あす

こ)は最早間もなく、工場か何かが建って、今の面影は消え失せて了うだろう。

 それから、小石川の水道町とか、金富町あたりの丘から、牛込や早稲田を見る景色が

非常に好い。

 最早二十年も前の話なのだが、本郷の龍岡町に居た時分には、下谷の七軒町の友達の

下宿で話し込んで居て、外(夜)十二時ごろ度々池端を通ったものだ。次節は丁度十一

月の初頃だ。一面に夜霧の閉した空を、雁の声がぐるぐる回って居る。よく聞くと

ギィ…ギィ…という音も聞こえるのだ。それは翼の音だと思った。が、彼の大きい橋が

出来てからは、其様な声が聞かれるか何うだか、今は知らない。

 不忍池は、雪の景色も好い。水の色が濃い鼠色になって来るので、弁天堂の赤い色

が、はっきりと浮き出したように見えて来るのだ。

 真の天然には強い力があって吾々を圧するのだ。が、何処にしても、都会の中に散ら

ばっている僕の所謂天然の断片は何んとも謂えない物静かな穏かな快感を喚び起すもの

だ。畢竟(ひっきょう:つまるところ)、人間という背景がある為めなのであろう。

 

   東京の女

 女に対しての知識は、甚だ浅薄でお話にならないが、まず僕などの目から見て、夏の

女を美しいと思う。日本の女は、欧米の女のように巧みな表情はなし得ないが、夏の

女は、体質の上から言っても何んとなく平均がとれて居る。羽織や綿入を多く着た姿

より、いきな浴衣や帷子を着た姿の方が好いと思う。夏は、女の肉体美の一番善く表れ

る時だ。

 全体東京の女は、可なりな肉付きであっても、夏は殊に、何処となくすらりとして、

桶の様な形にならずに、さっぱりと快く見えるのが、その特徴である。

 従って、その気立てからいっても、負けぬ気のものとか、又おだやかにあきらめの

いい_と言って泣き寝いりをするのでなく、よく感情を抑えて、おだやかに居るという

様な_何方にしろ、はっきりとした心だてのものが多い。

 例えば、如何に自ら思い込んだ事でも、親とか先輩とかが善く言って聞かせて、その

道理が解れば、フッツリあきらめて了う。これは、別に教育によってそう為るのでな

い。そういう風に、ものの道理の解りが早い事は、何うも、地方にはあまり見られぬ、

東京の女の特徴であろう。

 それから又、処世の法と云うのを早くからのみこんで居て、なかなか人をそらさない

ところなど、地方女の一寸真似の能(で)きぬ所である。

 然し、これが発達し過ぎて、却って欠点となって居る人も亦多い。そういう人になる

と、一寸逢った人にでも、もう十年も知って居るかのように、所謂お世辞をふりまい

て、先方(さき)の人に却って不快の感を生じさせることが往々(まま)ある。

 が、東京の女は、話し相手にするのには、善く理解力が発達して居て、心持が好い。

 故一葉女史など、その父君の時代から、東京に居られたのであるから女史は、まず

純粋の東京人で、殊に父君の身分から、生粋の江戸人たちの出入が繁く、そういう中で

人となったのであるから、なかなか世間知識が広かったうえに実に話上手で、逢って

如何にも心持の好い人であった。

 さて、次に、言葉から云うと、田舎の人の鞭撻なのは、いたずらに高調子であるのに

過ぎないが、東京の女は、稍々カンの勝った、透る澄んだ声で、抑揚のある、話し振り

だ。そういえば、男でも、田舎の人より、東京の人の方が、そういった所は多いのだ

が、女は、殊に、そういう所が著しく表れて居る。すべて、言葉には、抑揚があると、

殊にその意味が強く響くものだ。

 が、男女を問わず、東京の上流の人たちは、どうも調子が沈み過ぎて居る。如何にも

綺麗な言語(ことば)ではあるが、生気には乏しい。所謂生の好い言語は、中流以下の

言葉であろう。調子も大分高い。

 要するに、所謂キリリとしまったというところが、容貌にも、姿勢にも、気質にも、

あるのが、東京の女の特徴であり且(かつ)長所であるのだ。

  

 やっと出たわ一葉のこと。期待していたのにほんの少しだったけれど…。

  

 

 

 

 

坐骨神経症とどうでもいいおばさんの不健康日記

 キンポウゲが好きだが、北国のものは大きくて何か違う感じがする。調べるとその

ままオオウマノアシガタとは…北国はタンポポハルジョオンもでかい!長い冬を耐え

たという感じでがんがん咲く。ついでにアリもでかくて怖い!

 キンポウゲという名は栽培種の八重のものを呼ぶのだとか。ウマノアシガタが正しい

そう。西国の野に咲く小さい方が、そしてバターカップと呼ぶ方がいいな。

 

 さて…

 坐骨神経症

 になったようだ。ようだというのは、腰痛が出たなと思っているうちに右足の後ろ側

が足首まで痛むようになったから。長く座っていられなくなり、立っての作業と交互に

している。寝るのも仰向き以外できない。更年期に入って五十肩や手のしびれが気に

なっていたのが消え去ったのは、そちらに神経が行っちゃったからなのかありがたし。

 病名を決めつけて病院に行かないのはなぜかというと、治らないから。

 身の回りに発症者が二人いた。(もちろん自分は無関係だと思って見ていたが)

発症後ジムに通って筋力をつけて症状を抑えていたが、ジムのない環境に来て車生活に

なって再発し足を引きずっていた人。その後毎朝散歩して、軽いジョギングができる

くらいになった。一年前一か月寝たきりになってブロック注射を打った人。この人は

運動大嫌いで一歩も歩きたくない人。今もしびれが残っているとのことだった。

当然のことながら前者の方法しかないなと。インドア派なのでなかなか難しいが。

 

 ビダール苔癬(または接触性皮膚炎)

 の先輩は坐骨神経症も患っており、それを読んでいたので足の裏側の痛みがそれだと

わかった。(先輩、ブログ止まったままですが「誰かの役に立ちそうなブログ」の名の

通り、ほんとに役立っています。うつ病予備軍なのでまだまだお世話になるかもしれま

せん。お元気でいることをお祈りしています。)

 苔癬の方は昨年と同じく連休が明けると落ち着いた。後は痒いながらも様子見の

一年。引き金は接触性皮膚炎で、北国でタートル(または首巻)着けないの無理なので

冬が終わると発症するようだ。今年は日焼け止めをつけたとたんにおでこにも来て、

あっという間に色素沈着まで進んだがこちらも少しおさまっている。より低刺激の日焼

け止めを買ったら蛍光するやつで、白塗りおばさんは恥ずかしいし、湿疹が残る首に

あまりつけたくないしでどうするか思案中。仕事しない日は日傘で済むのだけれど。

 右薬指の主婦湿疹がお湯と日焼け止めにすぐ反応するバロメーターだが、どちらも

使わないわけにはいかないのでどうしようもない。前にも書いたが結局、病院へ行って

ステロイドの繰り返しになるので、掻かないように保湿(私はワセリンが合わず効果

なし)とかゆみ止め、野菜中心の食生活で耐え忍ぶしかない。しばらくやめていた牛乳

との因果関係はわからなかったので、気になる尿酸値のために牛乳は再開した。

 サプリメントは半年飲んだハトムギイソフラボンから、L-システインというものに

変えてみた。始めは効果があるのだが何でもすぐ慣れてしまう。健康的な食事と運動が

一番なのでしょうね。

 

 爪カンジタ

 10年ほど前に発症し、一年近く薬を塗って治したがとうとうまたなってしまった。

爪に点々の窪みができて、甘皮がなくなるのでわかる。こればかりは病院に行かないと

治らない。これも主婦湿疹と同じで洗い物をしている限り免れない。(手袋しろ)

 

 アルコール

 30年近く、ビール(的なもの)500×4~6本晩酌してパタッと寝て、夜中目が覚めて

明け方まで苦しむという暮らしをしている。10代半ばより人生真っ暗だったためだが、

(20代前半はお菓子の多食の方でした)今はもうただの悪癖でしかない。

この3年はなくなったが、わからなくなるまで飲むことも月2、3回くらいあり、煙草も

フィルターなしのゴールデンバットを吸っていた。またこの3年散歩をほぼしなくなっ

た。理由は海がないからと雪国だから。5年公僕の元で働いていたのでストレスも限り

なかった。体の不良はこれらのためと思われる。胃も昨年から大体不調。

 

 さて腰も限界、少し立ち仕事しましょう。

 

 

 

 

馬場孤蝶「故摂津大掾」

             波が折れる瞬間の透明部分が好きだがなかなか撮れない。

            

                   一

 明治の義太夫界の巨人と仰がれ、近代絶倫の美音と称せられた竹本摂津大掾は、此の

程八十二歳を一期として、白玉楼中の人となってしまった。

 僕は此の人が摂津大掾と改名してからは、折悪く一度も聴いたことがない。僕の此の

人に関する記憶は今より二十六七年前のことに属する。此の人がまだ越路太夫と云って

居た時分のことである。

 元よりその越路太夫に関する記憶は単独の記憶ではない。それは他のさまざまな記憶

をばその後に率いて、僕の心に起り来たる記憶である。

 それは僕等の学生時代であった。その時分に一緒に越路を聴いた友の中には最早とく

に故人となって居るものもある。遠い土地に居て消息も互いにし合わなくなってしまっ

たのもある。その時分からの知人で今時々行会う者と云っては、ほんの数える位しきゃ

残って居ない。

 秋雨のしめやかに降る夜、そういう思い出に耽れば、昔親しかった人々の顔、昔行

なれて居た場所の光景などが、つぎつぎに目の前に現れて来るような心持がする。

 そういう追憶を書き立れば何枚書いても書き尽くせそうもない。僕は今摂津大掾

越路時代のことを重に思い出してみよう。それには幸い二十三四年前の僕の日記が残っ

て居る。

                  二

 僕が最初に、越路を聞いたのは明治二十三年の五月三日である。寄席は本郷の若竹、

同行者は今朝鮮の何処かの知事である松永武吉氏であった。午後一時から始まって、

八時半頃に終って居る。それで木戸賃はというと、二十銭か精々で三十銭位であった

ろうと思う。物価の安い時代であったからでもあるのだが、それにしても現代の越路が

大劇場で金何円という木戸銭であるのは、少し個人に対して、くすぐったい気はしない

であろうか。

 さて、少し蛇足の感はあるが、参考の為めに、その時の語物(かたりもの)を順に

書いてみよう。『八陣_正清本城』越栄太夫、『加賀見山_又助』小長太夫、豊沢

広子、『碁盤太平記_坂戸村』越尾太夫、豊沢広吉、『同_揚屋』村太夫、豊沢龍三、

『玉三』さの太夫、鶴沢小庄、『勘作』路太夫、豊沢花助、『酒屋』越路太夫、豊沢

広助というのである。

 越路は此の時は声の美しさの方では稍(やや)下り坂だと云う人があったのである

が、まだ何うして実によい声であった。殆ど男の声とは思え無いほどの綺麗な声であっ

た。節を細かに語って行くところは、所謂盤上に玉を転ばすという形容は此の様な場合

に用いるのでもあろうかと思われた位であった。

 『あとには園が』というところまで来ると、越路は見台に手を掛けて、膝で真直に

立った。それから『繰り返したるひとりごと』までが、如何にも悠揚に語られた。

 同月五日にも、松永氏と共に聴きに行った。路太夫の『紙治の茶屋場』と越路の『御

殿』とが殊に面白かった。路太夫は如何にも声のない太夫であったが、その代り非常に

言葉の旨い太夫であった。此の『河庄』は今も猶僕は忘れ得ない。もう一度此の時の様

な『河庄』を聴いてみ度いと思う。越路の『御殿』では「お末の業をしがらきや」以下

のところの節回しの綺麗であったことが、今も猶耳に附いて離れないような気がする。

殊に『心も清き洗米』の節の細かったことは、僕の終生忘れ得ないものであろう。

 同月十日には、母と姪と三人で聴きに行ったのであるが、その時は越路は病気で出な

いで、さの太夫の『松王屋敷』と路太夫の『帯屋』を聴いたのみであった。

                  三

 同じ年の十月十七日に、若竹で又越路を聞いた。此の時は僕一人であった。遅かった

と見えて、路太夫の『沼津』と越路の『十種香』だけを聴いたことしきゃ、日記には

書いてない。

 同月十九日には、比佐という学友と一緒に、越路の『柳』を聴いた。此の時の太夫

出し物は「玉三」であったが、僕らは、さの太夫の大きい語口にひどく感服して、此の

太夫の前途の多望なることを語り合った。越路の『柳』の面白さは前半にあった。一体

三味線のよく解らない僕等素人には、『柳』は柳の精の消える所までで沢山である。

 十一月二十三日、芝の玉の井で、越路の『堀川』を聴いた。例の『鳥辺山』が何んと

も云いようの無い程心持の好かったことを記憶して居る。

翌二十四日、玉の井で、さの太夫の『加賀見山_尾上部屋』と、路太夫の『引窓』と、

越路の『太十』とを聴いた。この時は、比佐と竹本東佐(当時は弥昇)と三人であっ

た。東佐は路太夫を激賞した。東佐のお陰で、『太十』の終りに近い部分の三味線の

面白さを知ることが出来た。

 十二月十九日、越路の『合法』を宮松で聞いた。路太夫の語り物は『重の井子別』で

あったが、これは余り好くなかったように思われた。

 僕の東京で越路を聴いたのはそれだけであるのだが、これが越路を聞いた最後では

ない。

 二十四年の十二月に、僕は高知市の共立学校というのへ、英語の教師に雇われて行っ

たのだが、その途中、神戸で船待ちの間、同月の十二日に、神戸の大黒座で越路一座を

聴いた。その時は、さの太夫が八兵衛の三味線で、『志度寺』、路太夫が同じく三味線

は八兵衛で『河庄』、呂太夫が『吃又』、越路が『太十』であった。呂太夫は如何にも

体格の魁偉な異相の男であった。そして、語り口が如何にも剛健であったように覚えて

居る。

                   四

 越路を聴いたのはただそれだけである。越路はからだの小さい、顔の小さい、如何

にも濃い地蔵眉の色の赤黒い男であった。語り出す前に、本を両手で顔の前で捧げて、

長い間居るのであったが、或人が、丁度一分間そうして居るのだと云ったことがあるの

で、僕も一度時計を見て試したが、確に一分間であった。

 名人長門太夫が初代の綱太夫に三年間に一段しきゃ教えなかったという伝説があるの

だが、越路も師匠が一年間一段しきゃ教えなかった。越路の家の者が一年間一つの物

ばかりでは心細い、何か他のものを教えて呉れと、師匠に申込んだ。師匠は言下に、

『それでも、当人は不平を云わずにやって居るから宜いではないか、先ずそういうこと

は一切わしにまかして置いて呉れ』と云ったという話がある。

 越路の義太夫は邪道に入ったものであるとか、所謂ケレンであるとかいう評は玄人

の中に大分唱えられて居た。けれども、声の美しかったこと、節の細かったことは、

何人も争い得ないところであったろう。その点では越路時代の摂津大掾は不出世の人で

あったことは、疑いがない。

 俳優、音楽家等は、刹那のヒーロォである。その人衰えると共に、その人逝くと共

に、その天才の技能、また永久に消え去ってしまうのは、憾みに堪えざることである。

 夏目漱石君が或時次のような話をしたことがある。

 或日、夏目君が兄さんから拝領の外套を着て、若竹へ越路を聴きに行って居ると、傍

に胡坐をかいて居るへんな男が、夏目君に『今日は休みか』ときいた。夏目君は、学校

のことだと思ったので、『今日は休みだ』と答えた。すると、その男は夏目君にいろ

いろ話しかけたが、だんだん話が喰いちがって来るので、夏目君もこれはすこし変だな

と思って居るうちに、到頭先方から『だって、おめえ、造兵じゃあねえか』と云った。

 夏目君は砲兵工廠の職工と間違えられたのだ。

 ああ、その夏目君も今は故人で、その一周忌が近々に来るのである。

 僕が一緒に越路を聴いた比佐道太郎は、明治三十六年に磐城の小名浜でなくなった。

そのわすれがたみの男の子は、もう高等学校の試験を受け終ったくらいの年になって

居ようかと思われる。

 その時分の学友で亡くなったものは、もう十指にも余るであろう。

 夜は更け行くままに、雨の音はいやさびしく聞えて来る。人もなつかしい。事もなつ

かしい。鬢に数茎の霜の色しるき僕に取っては、今宵の雨は消え行く過去を低調に弔う

挽歌のような心持がする。

馬場孤蝶「文化の変遷と寄席の今昔」

                     一日この中で海風に吹かれていたい…

     

     古き寄席の思い出

 まだ、その外には、交通の不便などがあって、短時間のうちにそう遠方まで遊びに

行くことはできなかったので、人々はその住居の最寄最寄で、娯楽の場所を求めなけれ

ばならなかったというのも、寄席繁昌の一理由であった。

 各所に小さい寄席があったのは、重に此の理由で証明ができると思う。 

 泉鏡花君が『三味線堀』のなかに書いて居られるような寄席は随分方々にあった。

僕の記憶しているだけで云っても、本郷の田町から、小石川餌差町へ渡るところは小石

川側は大溝になって居て、鶯橋という小さい橋がかかって居り、その袂に初音亭という

のがあったが、それなどは、全く僅にその辺だけの客をアテにしたものであったろうと

思われる。

 小さい寄席では、本郷の消防署の西隣に伊豆本というのが、明治二十二三年頃に出来

たことを記憶する。近頃まで在った菊坂町の菊坂亭は伊豆本より少し後に出来たように

思う。

 今日では、寄席の数は市内全体では余程減ってはいはしまいか。麹町の山長も富士本

もなくなったし、両国の新柳亭、小川町の小川亭、池端の吹抜、麻布の福槌、京橋の

南鍋町の鶴仙、日本橋木原店の木原亭、瀬戸物町の伊勢本、など可なり名のある寄席で

あったのであるが、それ等も何時とはなしになくなり、神楽坂の藁店亭の如きも、広く

知られて居た寄席であったが、これはご承知の通り活動写真感になっている。

 根津の入口あたりにも一軒あり、駒込の蓬莱町あたりにも一軒あり、牛込の弁天町に

も一軒あったが、それ等は、今はもうないだろう。

 東京の人口が激増して、郊外や場末まで可なり賑かになったので、意外なところで、

寄席的興行の看板を見かけることはあるのだが、それが、寄席的に興行して居る家なの

か、何うも確でないように思われる。

 新開で寄席が出来て、今も取り続いてやって居るというようなところは、余りない

ようである。新開では、寄席の代りに活動館が大抵何処にもあるようだ。

 寄席で僕の今も尚忘れ得ないのは、前記の柳橋の新柳亭である。元の両国橋の袂か

ら、神田川の川岸へ出る横町があって、その右角にあった寄席であったが、大川に沿う

て立っていた家なので、入る時の気分も既に快かったが、楽屋寄の方へ行くと、川波の

音が聞こえるのであった。新柳亭は女義太夫の定席であった。両国橋が今の橋と掛け

替えられた時に新柳亭は取り払われてしまったのであろう。

     芸と人格の一致

 三十四五年前の落語家には、上手もあったと共に、実にタワイも無い、殆ど芸とは

云い得ないようなことで、高座を勤める者もあった。けれども、当人もそういう珍芸を

やけ気味にやって居るのではなく、落着払って、いわば生真面目にやっているのであっ

たから、客の方でも唯呑ん気に笑って見ていることができたのである。そういうのは、

一つには、芸人その人の人格の問題であり、一つには又、芸人と客とを包むその場合の

雰囲気の問題であると思う。

 ヘラヘラ坊万橘などという落語家は、話と云っても小咄位なものをしてしまうと赤い

木綿ですっぽりと頬冠りをし、扇を開いて ★この辺りは以前と同じ内容なので割愛

 『お前もどじなら、私もどじよ、どじとどじなら、抜けうらだ』という都々逸を円太

郎は何時も歌った。

 立川談志というのも変った噺家であった。顔の長い顎の尖った男であったが、克明に

素咄をするのであった。極く真面目に話すのであるから、滑稽味もなかなかよく客に

徹し、例の『子はかすがい』という話などでは、余程哀れな情味が出たものであった。

談志は、話の後で、郭巨の釜堀というのを踊った。★この辺も同じ内容なので割愛

 やる当人が如何にも実体な人柄で、それが大真面目なのだから、そういうことでも、

客は面白がって見ていたのである。若し生若い利口ぶった男などが、ああいうことを

やったのであったら、嘸(さ)ぞ厭に思われたのであろう。

 本当の大家では、円朝はただ一度しきゃ聞かなかった。体格の好い、なかなか品格の

ある男であったように覚えている。何ういう話であったか、それは記憶に止まっていな

いが噺のうちで一寸教訓的な言葉が出たが、若い書生客から弥次が出たので円朝は直ぐ

調子を変えたが、それで少し話の感興が殺がれたように見受けられた。唯如何にも落着

いた、飾り気を嫌った、描写式_会話を余り用いないという意味_の咄口であったよう

に記憶する。

 円生は数回聞いた。円生は骨太ではあったが、瘦せた、顔に凄みのある男であった。

博奕打ちが欺されて家を出て、途中で要撃されるという話を二度聞いたように思う。

博奕打ちが、綿入れの上から水を冠ぶって、刃を防ぐ用心をして子分の危難にあって

いると伝えられた場所をさして、駆けつけて行くと、途中の藪畳から竹槍などが突き

出されるというような物凄い光景が、如何にも陰惨の気を帯びて、力強く話されたよう

に覚えている。

 松人火事という話があった。     ★これも同じ内容なので割愛

 先代の小さん_禽語楼小さん_男振りは見栄えがなかったが、それが却ってその芸風

と調和して、当人の為めには、損にならなかったようである。小さんも極めて生真面目

な顔で、可笑しい咄を話す話家であった。『五人廻』も、此の人が話すと非常に面白み

があったし、『将棋の殿様』『殿様蕎麦』などに至っては、全く天下一品の感があっ

た。恐らく、小さん以後ああいう話を到底あれだけに話し得る人はなかったろうと

思う。今の咄家がやると、侍でも殿様でも皆官員さん位なところにしきゃ聞えないので

あるから、今の咄家からは『将棋の殿様』などは何うしても聞くことはできなかろう。

 今現在の咄家の中で、侍を侍らしく話し得るものは恐らく円右一人であろう。今の

小さんの侍は何うしても官員さんにしきゃ聞えない。

 斯ういう点も、落語が現代人を離れて行くことの一実例である。

 それから、これは、此の頃よく人に話すことであるのだが、昔の噺家_殊に続き物の

場合_は地の言葉に可なり骨を折って今のように殆ど会話ばかりで話を運ぶというよう

なことはやらなかったと思う。今は時間の都合などがあるので自然と地の言葉を省い

て、専ら会話で話を進めて行くということになったのであろうが、話術の技量は、地の

言葉を旨くこなして行くところにあるのだから、話術の稽古をするものは、其処に留意

すべきであろう。

 会話でばかり咄を運ぶことになると、声色、身振りに骨を折るようになって、耳に

訴えるよりは、目ばかりに訴えるものになってしまうかと思われる。それでは、話術の

本意を失ってしまう訳である。 

 現に円右など、咄はなかなか面白いのであるが、少し身振りが過ぎると思う。近代の

名人橘屋円喬などは、そんなに身振りや手真似はしなかった。

     女義太夫も新芸術であった

 寄席のことを書く以上は、女義太夫のことを書かずにしまう訳には行くまいと思われ

るので、左に少しそれを書くことにする。

 寄席の女義太夫が一座をなし始めたのは、竹本京枝からだということになっている。

ところで、明治十四年頃には、伊東燕尾が女房の此勝という女義太夫と一緒に寄席へ

出たことがあるのだが、その時には此勝の弟子の若い女が二人程口語りをやったように

思われる。しかし、燕尾此勝の一座と同時に、女義太夫ばかりの一座も他に存在してい

たように思うのであるが、それが或は京枝の一座であったのであろうか。或は、それは

京枝の一座でなかったにしても、明治十四年頃から既に女義太夫の一座が出来ていた

ことだけは確である。

 女義太夫が可なり有力なものになりだしたのは、先代の東玉が東京の寄席へ現われ

だした頃からだと思う。けれども、女義太夫が全盛期に入ったのは、明治二十二年頃で

あろうと思う。即ち、竹本綾之助の出現と共にそうなったのである。

 綾之助は初めは、チョン髷であったので、男だろうか、女だろうかと、皆判じ迷った

のであった。その時分の綾之助の人気は全く素晴しいものであった。若竹のような大き

い寄席が殆ど連夜満員になるのであった。八時頃にでも行こうものなら極く後、即ち

帳場との境のハメにくっ附いて聞くより外に仕方がなかった。声は初めから如何にも

善かったが、本当に十分な善い声が出だしたのは、それから二三年経ってからであった

ろう。

 始めは東玉の一座にいた小政は、その時分では、上手な女義太夫であった。その当時

では、『吉田屋』を語り得るものは小政一人であった。

 後に素行となり、終りに瓢となった豊竹三福も二十三年頃には、可なりな人気を得て

居った。『小磯ヶ原』を語ったのは、その時分では三福ばかりではなかったかと思う。

 小清と小土佐は大抵同時位に東京の寄席へ現れたと思う。綾之助の出現時分を女義太

夫全盛時代の第一期とすることができるならば、小清の出現は第二期を画するものと

云えるであろう。小清の男性的な芸風は可なりの賞賛者を集め得たのであった。

『鰻谷』『岡崎』などは、それ以前の女義太夫から聞くことのできないものであった。

殊に我々は小清の『鰻谷』を面白いと思った。

 小土佐は、初めから矢張り後年の芸と同じ筋であった。この人の『新口』などを僕は

後年になって、面白く聞いたことがある。

 何うする連というのが出来たのは、二十四五年頃からであろうと思う。しかし、そん

な者どもでも、まだ人間が馬鹿正直なところの失せない時分のことであったので、馬鹿

げたところに、一種の愛嬌があったのであろうと想像せられる。

 その時分では、義太夫専属の寄席が随分多かったほど、それほど女義太夫が流行った

のであった。

 当時の若い者が、女義太夫に寄席へ蝟集(いしゅう:ハリネズミの毛のように多く

寄り集まること)したのは、唯女を見る為めばかりではなかったと思われるのである。

矢張り芸術に対する欲求にも基いていたのだろう。浄瑠璃というものが文学として並に

音楽として、当時の吾々に取っては新しい芸術であって、決して今日の如く古ぼけたも

のではなかったのであり、従って女義太夫も今日の如くただ従来ある芸を機械的に演ず

る芸人とのみは思われなかった。浄瑠璃その者にも義太夫その人にも、何んだか新しい

生命が籠っているような気がしたのであった。要するに、吾々は芸術的欲求を満足させ

得る、善き高い対象を他で見出し得なかったのだ。いや、吾々は、極く卑近なところで

芸術的欲求を満足させ得るまでに、吾々自身の眼が低かった。心が進んでいなかったの

だ。

 世の中がだんだん進むにしたがって、女義太夫では芸術的欲求が満足せられない人が

増して来ると同時に、唯女を見るだけならば、カフエーの女給の方が面倒がないという

時勢になって来たのである。 

 これでは、女義太夫は廃滅せざるを得ないであろう。

 もうこの十年程前から女義太夫界それ自身の方が荒み始めたようである。今好い芸人

が出たところで、此の大勢は奈何ともしかたがないであろうが、しかも、実際に於て、

好い芸人は出て来ないのである。

 落語でも、女義太夫でも、総ての寄席が皆日陰の芸術になりつつある。いや、もう既

にそうなっていると云った方が確であろう。偖てそういう風に落目へ向って来ると、

気の毒なもので、よい芸人が生れてこ来ないことになるのである。

 そういう風であって、所謂寄席芸人は次第に趣味の中心を離れて、卑俗な方へと落ち

ていくのである。残念であるが、何うも仕方がない。

     衰退巳むを得ず

 寄席業者が衰運の予覚を感じだしたのは、明治二十八九年頃からであろうと思う。

さまざまな好みの客の欲求の為めに唯目先を変える為めにのみの場違いな芸を演じさ

せ、一座の出演者の数を無暗に多くし、唯いっ時の賑かしで落を取ろうとするように

なって、芸人の方では本当に高座で芸を鍛う機会がなくなり、客の方でもゆっくり芸人

の芸を鑑賞する余裕がなくなってしまって、芸人の素質が低下するとともに、客の柄も

だんだん悪くなって行ったという風に見えるのであるが、此は単に結果の表れであっ

て、実際は、前に云った通り、時代の変化が、芸人の方へも、客の方へも及んだのが、

寄席衰退の真因である。寄席衰運の歴史は、東京敗北の工程を象徴しているものと見る

ことができるであろう。

 前代に於て東京へ移住した人々は、その前方からして東京の感化が及び得た範囲内に

いた人であったのであるが、後の東京の移住者は、そういう伝統を更に持っていない

人々がますます多くなって来た。後の地方人は東京の文化に対してヴァンダルス(破壊

者)であった。そういう地方人なるヴァンダルスが、東京なる羅馬文化を破壊して行っ

た。その一局面が、寄席の衰退となって表れているのである。

 そうなって来ると、そういうヴァンダルス自身が猛威を揮うのみならず、羅馬人たる

東京人の方でも、そういうヴァンダルスに感化されて行くのが増して行くのである。尤

も征服者なるものは、何時も被征服者から何等かの感化を受けない訳には行かないもの

であるからして、ヴァンダルスそのものの中からも、東京的文化の感化を受けた者が

可なり出た訳であるのだが、それ等は数に於て、そう大したものではなかったのみなら

ず、そういう感化を受けたものも、根がヴァンダルスであるのだからして、究極のとこ

ろでは、東京文化の擁護者では有り得なかったのである。

 固(もと)より東京文化プラス地方精神というような文化が纏まりつつあることは、

事実であるのだが、しかし、それはまだ十分なものではないと云わなければならぬ。

 こういう風であって観れば、よい寄席、よい寄席芸というのは、極く少数のものが

残って行くに過ぎぬであろう。寄席業者も、寄席愛好者も、先ずそう諦めるより外に

仕方がなかろう。

 

 ちょっとこの回はいろいろ乱暴な意見が多いようです。でもそれが所謂東京人。