蓬生日記

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22日

 明け方より雨は止み、朝日が薄く差し、木々の梢や生け垣に雨粒が玉を連ねたように

輝いて大変美しい。稲葉様が来、伊勢利さんも来た。昼過ぎに中島くら子さんが宅配便

で本を返してきた。手紙もついていた。日没前までに先生の仕立物は終わった。その頃

より雨が降り始め、この晩もだいぶ降った。布団に入ったのは12時頃だが、それまでも

居眠りしていたようだ。なんでこんなに忍耐がないのか、がんばろうという心はあるの

に、何か書かねば、本も読まねばと思っているのに志が低いため、凡庸な頭がますます

悪くなり、わからないことはさらにわからなくなり、昨日覚えたことさえ今日にはもう

忘れてしまう。女のなすべき仕事(結婚、家事)をしたいと思ってもそれができず、と

いって男のような仕事をすることなどできるわけもない。これで末はどうなるのだろ

う、年老いた親と年頃の妹が哀れでならない。あれこれ考えても結局私がふがいない

からなのだ。「過ちて改めむれば(論語・過ちを改めようとしないことが過ちなのだ)

という古語もある、さあ明日こそ」と思うのも今宵ばかりではないのに。

 

23日

 曇ってはいるが雨は降らない。今日はお彼岸なので隣から蒸し器を借りてきておはぎ

を作り、お供えした。仕立物を先生のところに持って行く。帰ると稲葉様が来ていた。

午後からは野々宮さんが来た。一人は困窮した元華族、一人は意気揚々たる女学生で

あるから話す内容が全く違う。浮き世とはおかしく、悲しく、憂く、つらいものだと

思う。3時頃雨が降った。野々宮さんが帰った後邦子が「吉田さんに借りた本を返しに

行く」と言うので一緒に湯島まで行く。雲が早く流れ、空模様はおぼつかなかったが

雨は降らなかった。帰るとすることがたくさんあった。今晩はあまり眠くなく、考え

ていたことが少しはできたようだ。布団に入ったのは12時過ぎだった。

 

24日

 今日はみの子さんの引っ越し日なので、昨日から晴れるとよいと願っていたが、その

通りになってとても嬉しい。邦子は障子の張替えをした。昼過ぎ、お鉱様と本所の千村

礼三さんが来た。いろいろな話があり、母はぜひ同行してくれと頼まれて本所まで出か

けて行った。

 山梨の広瀬七重郎が来た。広瀬ぶんの裁判のためである。遠縁とはいえ親戚なので

とても心配で、どういったことなのかと聞くと「話すのも恥ずかしいことだが、言わな

い訳にもいかない」と話し出した。「自分の姪のおぶんは奔放な女で、夫を6人も7人も

替えているのだが、今度の夫は長野の種商人で小宮山庄司という。その前は同じ地区の

北野象次という男で別れて4、5年経っているが、原告はその男で、上告書によると、

ぶんと北野はいつの間にかよりが戻っており、小宮山から離縁状を取ってまた一緒に

なろうとしていたとのこと。今年の四月、甲府柳町3丁目の山形屋という旅館で二人が

逢引きしていることを小宮山が知り、「許さない」と右手に長い槍を持ち、左手には

麻縄を持ってその座敷に飛び込んだ。二人はびっくりして「命だけは助けてくれ」と

ひたすら詫びていたところ、近くにいた北巨摩郡の伊藤寛作という男が、「助かりたい

と思うなら金で解決するよりほかないのではないか、俺が間に入ってやろう」と言っ

た。命に替わるものはないと思い、そんな大金を持ち合わせていなかったので百円の

借用書を書いてその場を収めた。しかし後々からよく考えてみれば、ぶんを含めた3人

で謀ったことに違いないと腹が立ち、訴えることにしたとのこと。ぶんの言い分は、

「そんなことはまったくない、私が北野と暮らしていた頃、着物や道具を7点質に入れ

られた上、20円の金も貸していたから全部で百円以上になるだろう、それを返したく

ないものだからそんな訴えをしているのだ。それに伊藤という人の顔も見たことが

ない」。小宮山はどこへ行ったのか姿を現さずどうしようもない。伊藤寛作は「ぶんな

どという女は知らない」と言っている。しかし当日の宿帳に伊藤寛作の名前が記されて

いたのが証拠となり、恐喝と詐欺の有罪となった。ぶんはそれを納得せずに上告した

とのこと。仕方のない女だが親戚なので見過ごせずに上京したと言う。弁護は守屋此助

氏に依頼し、昨日相談をして公判は今日開かれた。今日は事実確認だけで、判決はあさ

っての26日になるそうだ。「全くお恥ずかしいことで」と嘆いていた。この人もそれほ

ど道徳的な人のようにも思われないのだが、ここまで悪いことはしていないのだろう。

この日は家に泊って夜更けまで守屋さんの弁護の様子などを話した。

 

25日

 晴天。小石川の月次会。今月は随分延びて今日になった。先生は例の病になり、早く

来なくてもよいということだったので10時頃行く。七重郎さんも取ってあった宿へ一旦

帰った。来会者は18、9人。点取りのお題は「秋の鳥」だった。甲乙は伊東夏子さんと

私で取った。賞として立派な柿をいただいた。家に帰ったのは日が暮れて暗くなりかか

った頃で、母が途中まで迎えに来ていた。この夜お鉱様より葉書が来た。大変疲れたの

で早く寝る。

 

26日 

 少し曇っている。早朝に千村礼三さんが正朔君と一緒に来る。私は図書館に行くため

早く出た。途中今野はるさんが百貨店に出勤するところに出会ったので一緒に歩く。

ほかにもう一人いた。少し早すぎて図書館はまだ開いていなかったので、「ちょうど

よい、真下槇子様のお墓参りをしよう、今日はお彼岸の終わりだし」と谷中に行く。

お坊さんも起きたばかりのようだった。水を汲んで花を供えるのは、悲しいことながら

墓参りができるのは嬉しいことだ。苔の生えた墓石の下で松風の音を聞いているのだと

思うと涙が出た。墓に参る子供がいないわけでもないのになぜか花もなく、水も枯れて

お墓は乾いている。しばらく拝んでから寺を後にする。世が無常だとは思いたくはない

が、このようなはかないことばかりである。図書館はまだ開いておらずしばらく立った

まま待ち、入館した。「日本書記」「花月草紙」「月次消息」を借りて読む。日本書記

の神代の巻の難しいのを何とか読み解こうとしている内眠くなってしまった。花月草紙

で眠気を覚まし、月次消息の流暢な文体をうらやんでいたがどうしようもない。

3時頃雨が少し降ってきたので大降りにならないうちにと図書館を出る。途中止んだの

で残念だった。不忍池の蓮も枯れて、浮草の花が漂っているだけなのは淋しい。

 秋は草木の上のみならず みとみるものの露けくもあるかな

(秋は草木の上にだけでなく、全てのものに露がおかれているようだ/秋は涙なしには

 過ごせないものだ)という気分でしばらく眺めていた。後ろから来た書生たちが私の

ことか、何やらささやいていたので、下を向いて急いで立ち去ったがとても恥ずかしか

った。家に帰ると「今日はとても早かったのね」とみなが喜んでくれた。邦子は「今日

は関場さんが来てこれを」と言って頂いた栗を出してくれる。「半井先生のことを聞い

たけれど、やはり新聞記者というものは品行がよくないそうで、信用ならないことと

いったら、お姉さんが思っているような人ではないですよ」と親身に心配してくれるが

胸がつぶれる思いだ。私にはよい先生であるし「信友」になろうとおっしゃってくれ

た。だから私は家の恥ずかしい事情を全て打ち明けて頼りにし、「今後は手助けします

よ」と約束してくれたのは嘘だったのか。誰の言うことが真実なのかと悲しい。今日は

稲葉の奥様がいらしたとのこと。関場さんより「日本外史」「吉野拾遺」を借りた。

母に「吉野拾遺」を呼んであげ11時頃就寝。

 

27日

 朝から曇り。午前中久保木の姉が来た。午後からは広瀬七重郎さんが来た。「ぶん子

の判決は覆らなかった」と大変失望していた。私たちも一緒に残念がる。執行猶予など

のことでいろいろな相談があった。また明日来ると日没前に帰った。今日は怠けてしま

って何もできなかった。今日も早く寝る。本当にどうしようもない。

 

28日

 晴天。午前中邦子は吉田さんに本を返しに行き、しばらくして帰る。午後藤田時計店

に行って目覚まし時計を買う。今まであったのが壊れてしまったため。とても安くて、

品もよかったので、家のを下取りしてもらって差額で買う。藤田屋(植木屋)が来た。

稲葉様から手紙が来たので返事を送る。今日も一日何をしたということもなかった。

11時半ごろ就寝。

 

29日

 晴天。母は藤田屋に依頼された借金の話に行く。家に貸す金などないが、三枝さんに

借りたものが少しあるのでそれを貸すことにした。帰り道に高野さんに立ち寄ってここ

からも少し借りた。吉田さんが3人連れで来た。「日本外史」を3冊貸してくれ、少し

頂き物をした。昼少し前に帰る。母は正午に帰宅。稲葉様よりまた手紙が来て返事を

出す。佐藤梅吉さんに手紙を出す。午後上野の伯父が来て藤林(妻の元の嫁ぎ先)の

話などし、夕方頃帰る。この夜はあまり眠くなかったので12時頃就寝。この頃より盆を

返すように雨が降り始めた。

 

30日 

 朝からただならぬ天気。10時頃から大雨と強風が吹き、本当の台風になったさなかに

広瀬七重郎さんが来た。ぶん子のことで様々な依頼をされ、午後山梨に帰って行った。

1時頃から風が徐々に減ってきて2時には静かになった。近頃にない台風だったので、

管理人の土田が様子を見に来、久保木の姉も見舞いに来た。家は山陰の低いところに

あるので風はそれほど強くはなかったが、場所によっては屋根が吹き飛ばされ、塀や

生け垣が倒れるだけでなく、家が倒壊したところも少なからずあったようだ。この夜は

きれいに晴れて大変穏やかだった。稽古のお題を2週間分詠んで、布団に入ったのは

12時だった。

 

神無月1日

 早朝中島先生のところに昨日のお見舞いに行く。路地の樹木や塀が倒れているところ

が大変多かった。先生のところはそう被害はなく、最近植え替えた木が2、3本倒れた

だけだったそうだ。あちこちに出すべき葉書を書いて、会計の手伝いをして帰る。大小

10本の筆をいただく。山梨の野尻さんよりぶどう1籠が届いた。大変見事だったので母

は安達さんに少し送った。礼状を書いて送る。邦子は午後から吉田さんに持って行っ

た。この夜は早く寝た。

 

2日 

 曇り。今日の新聞に「津田三蔵が肺炎により空知監獄で死す」とあった。台風の損害

や、野菜の値が高騰していることなどもあった。「国会新聞」や「朝日新聞」の内幕を

暴くとして、ひどく攻撃しているのは商売敵なので憎いからなのだろう。午後藤田屋が

来て約束の7円を貸す。来月返金予定。庭を少し直してくれた。乾燥蚕豆を一升いただ

いたので、庭で作った冬瓜をお返しする。夕方帰った。この夜久保木の姉が栗や柿を

持ってきたのでぶどうを1房お返しした。邦子と一緒に数詠みをする。邦子が1首、

私が10首の約束で詠んだが、1題は私が1首勝ち、次は私が3首負けた。勝負なしとして

終了。この日も眠くならず12時就寝。

 

3日 

 小石川の稽古日。美しく晴れて大変よい日。先生にもぶどうを少し持って行く。来会

者は12人ほど。今日から私一人で稽古した。9月分の会計をして4時頃帰る。12時就寝。

 

4日

 晴天。午前中読書して、午後から小説を書く。夕方から邦子と摩利支天にお参りに

行く。帰路杉山百貨店を見物した。どの店にも一人の客もなくあまりに寂しいので驚い

た。以前住んでいた家の前を通ると怪しい待合のような家ができていた。中坂の頂上が

先日の台風によって崩れたのか一間ばかり石段が落ちていた。家に帰ったのは8時頃。

母にあんまをしてあげてから習字をする。12時就寝。

 待合というものはどのようなところなのだろうか、字だけ見れば人と待ち合わせする

だけの場所のようだが、怪しげな芸者を呼んで酒を飲み、燈火を遅くまで点してひそひ

そと夜更けまで興じているようだ。店主は大体女で、2、3人美しい酌婦がいる。家は

色っぽい作りで高楼に簾をかけ、通る声も粋な感じだ。屋号は提灯に書かれているもの

もあり、額になっているものもある。「ときは」を始め「梅のや」「竹のや」「湖月」

は烏森の有名店、「花月」は新橋の裏町にある。「いが嵐」の奥座敷で世の風を避け、

「朧」の離れで花を散らすようなまねをするなど、世の紳士方が隠れ遊びをする場所で

ある。少なくとも1町に1ヶ所は必ずある。多いところでは軒を並べて、仕出しの岡持ち

がひっきりなしに行きかっているのが見える。この世には金と暇を持てあましてのどか

な時間を過ごせる人がいるものだ。孟宗は筍を見つけられずに雪の中で凍え、孫公は

雪が少ないために窓の暗さを嘆いている(親孝行のため身を削っている人や、勉学を

思い通りにできない人もいる)というのに、世の代表といわれる方々に問いたい。あの

ような遊びに費やす金が惜しくないとは、無学な私にはどうにもわからないことだ。