蓬生日記

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5日

 晴天。終日机に向かって例のつまらぬことなど書き連ねる。西村さんが来た。近い内

に文房具店を開く準備ができたとのこと。小田病院での怪事件について話す。昼食を

出して、帰ったのは3時頃。滝野様より庭で採れたという栗をいただく。今日は甲子の

日なので母はいろいろ用意して大黒様にお供えをした。日没後母に邦子とあんまを少し

してあげた。今日は怠けてしまった。

 

6日

 快晴。朝から母は着物の洗い張りをした。姉がちょっと寄った。午前中に単衣を3、

4枚洗った。午後から例のごとく机に向かう。

 

7日

 快晴。髪を結う。昼過ぎから机に向かうが、気に入ったものが書けずに破り捨てる事

10回にもなる。いまだに1つの小説も書き上げられないとは、本当に情けない。最初に

書いたものを中島先生に見てもらったので、その続きを書こうとしているのだが、我な

がらつまらなくて破るばかり。どうしても成し遂げたいので、違う趣向を考えて書いて

みるがどれもこれも拙い。今昔の有名な物語、小説を読むたびに自分の才能のなさが

悲しくてもう放り出してしまいたいとも思うが、やはり思い立ったことなので止めたく

ない。勘違いをして分不相応なことをしているのかもしれないが、また書き出した。

「あさってまでに必ず完成させる。できなかったら死んでしまおう」という覚悟だ。

気が小さいと笑う者は笑うがいい。

 

8日

 快晴。午前中清書して、午後からまた書く。「十八史略」「小学」を読む。お鉱様が

来た。明日の会のための景品を作る。日が暮れてから母と一緒に薬師様にお参りに行

き、百貨店を見学した。植木屋に菊が見え始めた。露店が6丁目辺りまで出ていた。

帰り道に姉と会う。帰宅し土産の粟餅を食べた。母が寝た後姉が家に寄り、お土産に

また粟餅をもらった。同行者がいたのですぐに帰った。風が強くなり空模様が凄まじ

い。11時頃就寝。

 

9日

 早朝より小石川に行く支度をし、9時頃家を出る。風が大変強かったが空はよく晴れ

ている。先生に約束していた茄子を持って行くと大変喜んで、昼食に煮て食べようと

おっしゃった。春日まんじゅうを焼いて食べようとしていて、半分いただいた。話を

しているうちに昼になり、昼食をごちそうになってみなが来るのを待った。かとり子

さんが最初に来て、来会者は12名くらい。点取りのお題は「秋烟」。小出先生の乙は

私で、短冊をいただいた。「おかしいな、私の点は樋口君にばかり取られてしまうよ」

とおっしゃり「歌には才能も必要だが、さらに勉強しなさい。進むのは難しく退くのは

たやすい、私が後見しましょう」と笑いながらおっしゃると先生が、「さあ夏子さん、

小出先生にお酌なさい、ここまでおっしゃってくれるのは冗談ではありませんよ」と

一緒に笑う。例のひがみ者なのでとても恥ずかしく、部屋の片隅に潜むばかりなので、

愚かだと笑う人もいただろう。みなが帰った後小出先生も帰る。みの子さんと少し話を

した。帰ったのは日が落ちた後だった。母が迎えに来ていて途中で会う。奥田のおばあ

さんが来たので果物を少し持たせ、邦子が送って行った。この夜和歌を20首ばかり詠ん

だ。布団に入っても眠れないのでまた起きて本を読む。12時就寝。

 

10日

 晴天。湯島の天神大祭の日で、母は昼前からあちこちに遊びに行き4時頃帰宅。

「私も年を取ったものだ、こんなに気楽に遊び歩いたりして」と笑う。日が暮れて邦子

と一緒にお参りに行く。山車は切通坂に一つあっただけだった。神社を抜けて新花町の

方に出て、吉田さんの家の前を通ったので邦子が寄る。しばらくして一緒に帰る。7時

頃だった。どうしようか悩んだが机を出していると手紙が来た。今朝兄に季節の挨拶を

出したのでその返事だろうと思って開けると、色々なことが書いてあり「さて、こちら

は春から不都合が多く、どうしようもないまま負債を抱えてしまった。そしてとうとう

差し押さえとなり、明日の期限に破産することになった。また話をしに行く」とあり、

「3円あったら何とかなるのだがそれさえ用意できない」と書いてあった。大変驚いて

母と相談する。「ここに4円あるが、これを貸したら家も困る。どうしましょう」と

言うので「公権の剥奪となったら大変な恥ですよ。家のことは私の稽古用の着物を売っ

たらいいのですからこれを持って行き、どういうお金か説明して渡してきてください。

暗くなっているけれど、明日といっても今夜一晩中心配しなければなりませんから」と

車を呼んで母を行かせる。邦子と心配しながら待っていると11時頃帰って来た。

「だいたい片がつきそうですよ」ということで少し安心した。この夜邦子が腹痛を起こ

し、一晩中苦しんで朝になった。

 

12日 

 邦子はまだよくならない。今日は本願寺の取越祭(親鸞忌)なので母は9時頃お参り

に行く。10時ごろ稲葉の奥様と正朔君が来たので昼食を出した。秀太郎が来たので頂い

た赤飯を食べさせる。今日は法華宗の十夜講ということで、あちこちから配り物があっ

た。今日もとても怠けてしまった。

 

13日

 晴れ。兄はどうなったのかと心配しているのに来るどころか手紙もよこさない。沖縄

県から依頼された沖縄名所の歌を見ていただこうと先生のところに行ったが、留守で

無駄足をした。またと思って帰る。

 

14日

 特になし。晴れ。

15日も同じく。午後用足しに出る。

16日 同

 

17日

 稽古日。晴天。お題はいつもの通り二つ、一題で十点頂いた。い夏子さん二つ、島尾

さんも二つだった。松井節哉さんが入門した。明治女学校の学生で、田辺さんの知り

合いとのこと。見たところ大変おとなしそうな人だ。日暮れ前に帰る。岡田さんより

仕立物の依頼があり母が断ろうとしたが、遠路来てくださったのだからと私が引き受け

た。

 

 今日は旧菊月十五日である。空は見渡す限り雲もなく、くずの葉のうらめづらしき

(出典不明)夜だ。「今日御茶ノ水橋が開通するそうだから見に行きましょう」と邦子

に誘われ、母も「見て来なさい」と言うので家を出た。鐙坂を登り終わる頃月が昇って

きた。軒先も歩く道も霜が降ったように白く光り、そう寒くもなく、月と道連れで歩く

ことがおもしろい。とうとう橋のたもとに着く。駿河台がとても低く見えて風情があ

る。月が水を白く照らし、行き交う舟の灯影も美しく、金の波銀の波がかわるがわる

打ち寄せては砕け散る、穏やかな光りが夢のようだ。森が水面に逆さまに映り、その上

に雲が一群かかっているのもよい。薄霧が立って遠くがほのかに見え、燈火がかすかに

揺らぐのも美しい。「さあ帰ろう」と口では言っても離れがたくてしかたがなかった。

こんな素晴らしい夜をまた見られることがあろうかなどと話しなが、駿河台から太田姫

稲荷の坂を下りて行くと、下から昇ってくる若者が4人ほど、簡素で爽やかな格好を

して漢詩を謡いながら登って来る。「ああ悲しい、男だったらあんなことができる素敵

な夜なのに」と邦子がうらやましそうに言うのでおかしかった。馬車がけたたましいの

で、小道に入って「神田の森で月を見よう」と坂を登るがとても苦しかった。登り切っ

て見返ると月はいつのまにか高く上がり、2本ある杉の木に隠れてしまってよく見えな

かった。こんな月夜に歌を詠まなければ悔しいので思いを巡らせてみても、月の光が

邪魔をするのか何も出てこない。「歌など詠むなということね」と笑ってやめた。

本通りに出、帰り着いてしまうのがとてもとても惜しいのだが、母を待たせるのも気が

咎めるので急いで帰った。8時前だったが、母は時計を手元に置いてのぞき込んで待っ

ていた。あれ以上遠くまで遊びに行くのはいけないことだった。母を寝かせて手紙を

少し書く。この日は秀太郎の小学校で運動会として鎌倉への歩行遠足があったので、

「さぞ疲れただろう」などと案じた。

 

18日

 晴れ。午前中母は出かけて、私は依頼の仕立物を始めた。山下直一さんが来る。

下宿を替えたとのこと。少し話をして家にあった新聞を貸した。昼過ぎに菊子さんが

来た。卒業試験が終わってとても喜んでいた。「おととい半井先生のところに遊びに

行って昨夜帰ったのですが「夏子さんはどうしておられるのか」ととても心配していま

したから、お伺いしてみてください」と言う。私もずっと行きたいと思っていたのだ

が、差しさわりもあり行かずにいていつも心苦しかったのに、そのような親切な言葉を

いただいて恥ずかしい限りだ。様々な話をした後帰る。この夜隣の中島さん宅でとても

不思議なことがあった。くら子様に手紙を書く。11時頃布団に入ったがいろいろ考えて

眠れなかった。夢の国に行ったのは1時頃だっただろうか。

 

19日 

 晴天。何もなし。

20日 

 晴れ。何もなし。図書館に行った。

21日

 晴れ。同。

 

22日

 晴れ。明日半井先生を訪ねようと思い手紙を書く。といって前に書き直すよう言われ

た原稿にも手を付けておらず会う立場ではないと思うが、手紙は出した。銭湯に行った

りして用意する。空はとても晴れて塵ほどの雲もないが、先生のところへ行く日に雨の

降らないことはなかったから「明日はどうなるかな」と邦子に言うと「お祈りしても

どうかしらね」と笑っている。夜になって半井先生より手紙が来る。孝子さんが27日に

嫁入りするのでその後に来てほしいとのことだった。急な話で本当のことのように思え

ない。おかしなことだ。12時就寝。

 

23日 

 早朝布団を出ると大雨が降っている。「やっぱり降ったわね」と言っているうちに

朝日が昇る頃にはどんどん晴れておかしかった。稽古のお題五つ、評を一題、難珍を

三題詠んで昼食。午後望月さんが来た。新平さんが来て、邦子の作った蝉表が欲しいと

熱心に言うので2枚売った。百あってもこれほどいい出来の物はないと言う。私の歌の

ことを思うと肩身が狭くて穴にも入りたい思いだった。11時就寝。

 

24日

 晴れたが大変寒い。8時頃家を出たが、先生は昨日からいつもの病で大変苦しそうに

していたが「近衛家の令夫人が亡くなったのでお葬式に行かなくては」と私に留守を

頼んで出て行った。前田利嗣様の妹で美しい盛りの23歳、お子様の誕生日だったと

いう。来会者は多くはなく、伊東夏子さんもとても遅れて来た。前島むつ子さんが入門

した。10時頃先生が帰った。お題は二つだった。先生が近衛篤麿様の歌を披露した。

 なき数に母の入しもしらぬ子の ゑがほ見るさへかなしかりけり

真心からの歌は人の心を動かすものだと先生は感嘆していた。午後4時ごろみな帰る。

先生はとてもつらそうですぐに寝込んでしまった。私が帰ったのは日暮れ前。邦子が

野々宮さんを訪ねて「女学雑誌」ほかの本を借りてきた。孝子さんにお祝いを持って

行った方がいいのではないかという話になり、明日早朝行くことにする。しばらく行か

ない間に変なことがいろいろあったらしいが、先生がそれを私に知られないように苦心

していると聞いてほほえましかった。12時就寝。

 

25日

 朝から曇り。8時に家を出て半井先生を訪ねる。門の前に車が停まっていたので、お

客さんが来ているのかと思っていたらそうではなく、親戚や知り合いにお別れを言いに

行くためのものだとのこと。私が玄関先でお祝いを述べて帰ろうとすると孝子さんが、

「兄もいますので上がって行ってください」と言う。先生も出てきて上がるように言っ

たが「また来ます」と言って帰る。「27日に福岡まで妹を送りに行きますが、その後

必ずいらっしゃい。話したいことがありますから」とのこと。帰りに、中島先生が昨日

あまりにつらそうだったので様子を見に行くと、ちょうど佐々木先生に受診しに出かけ

るところだった。用を頼まれて先生は出た。手紙を2、3通書いて出し、すぐに帰る。

昼からは読書し、12時に布団に入る。

 

26日

 晴天。邦子は関場さんのところへ行って、半井先生には借金があるという話を聞いて

来た。尾崎紅葉の不品行なことなどいろいろあった。岡田さんが仕立物を取りに来て、

またお願いしたいとのことで承る。午後鳥尾家に難珍歌合せの二題を詠んで送る。頭を

悩ませて詠んだがあまりよいものではなかった。12時就寝。思うようなことができない

自分が憎らしい。

 

27日

 ゆうべ雨が降ったので庭が湿っていた。7時頃地震があった。亡き兄の命日なので

精進煮を作って供える。鳥尾さんの会に行く日に着るため洗い張りしてあった着物を

縫う。昼前はつぎはぎに取りかかる。下前の襟を5カ所、袖に2カ所あった。

 宮城のにあらぬものからから衣 なども木萩のしげきなるらむ

(萩の名所の)宮城野でもないのに 私の着物に萩が生い茂っているのはなぜだろう 

などと言って笑いが止まらなかった。日が暮れてからは習字をする。今夜は筆の運びが

思うように進むので、いつもより多く書いた。1時就寝。

 

28日

 曇天。6時頃強い地震があった。今年は安政の大地震から37年と言ってとても心配

する人もいる。10時頃坂上という洗濯屋さんが来て、明日の昼頃までに綿入れを2枚

仕立ててほしいと言う。断ることもできず引き受ける。午後持ってきたので邦子と二人

で日没までに平縫いだけ仕上げる。暗くなってから空が晴れ、風が少し吹く。習字を

2時間ほどした後小説に取りかかる。

 

29日

 早朝届いた新聞を見ると、昨日の地震は東京では何事もなかったが、各地の電報に

よれば愛知、岐阜辺りから伊勢、浜松辺りまで災害があったとのこと。横浜でも家屋の

倒壊はなかったが電柱が倒れて電気が点かなくなっているという。東京にも来るのでは

ないかとおびえる人もいる。2時頃依頼の縫物が終わって、半井先生に「明日伺いま

す」と葉書を出す。書きかけの小説の続きを書く。夕方朝日新聞の号外が売りに出て

いた。地震のことだろう。この夜布団に入ったのは1時半だった。夜半から強風が出て

明け方森川町神社の近くで失火、12、3軒焼けた。

 

30日

 風が止まず、空も曇ってとても寒い。新聞が来るのを待ちかねて見ると、今度の地震

で一番被害があったのは岐阜県の大垣、笠松などだそう。特に岐阜市は全焼らしいが

詳しいことはわからない。接近した加納、笠松、関、大垣辺りは死傷者や家屋の焼失、

倒壊数知れないという。江崎牧子さんは上加納高岩町に住んでいるが、どうなっている

だろうと思うと涙が止まらない。鉄道も電信も郵便も不通なので安否を問うこともでき

ず、空しく空を眺めて嘆くばかりだ。

 12時頃家を出て半井先生のところに行く。2番地の家に行ったところ「込み入った話

もあるので最近借りた隠れ家に行こう」と一緒に1丁ほど行ったところにある家に行っ

た。座敷は4部屋あり、書斎と思われる6畳間には机を置き、原稿用紙や硯などが散ら

かっている。障子が4枚あり外は縁側だろう。入って右側の小窓は風が強いので閉めて

ある。左側に三尺の戸棚があり、並んで床の間があった。私は近眼なのでよく見えなか

ったが風景写真の額が掛けてあった。先生と長火鉢をはさんで座ると、いつものように

にこやかに「もっとお寄りなさい」と言う。7歳にして席を同じうせずとまではいかな

いが、とてもできないことである。こんな人気のないところでと思うと後ろめたくなっ

て冷や汗が流れる。言うべきことも口から出ずにハンカチを握りしめていると「孝子の

嫁入りの際にはずいぶん苦労しました。世の母親が娘を縁付けるのにやせる思いをする

というのは本当で、私もやせたような気がしますよ」と言う。そして龍太さんと鶴田

民子さんのこと(妊娠させた)について、面目ない様子で「先日野々宮さんから話が

あったと思うが、我が家にあんな醜聞が立つなど夢にも思わないことで、全く知らずに

いたことは私の過ちです。さらに君が急に来なくなったので、誰かが私に罪があるよう

に差し出口をしたのではないか、潔白なのに疑われたのかと大変心苦しかった。その上

小宮山君まで私が何かしたのではないかと怪しむのでつらかった。また前の様に君に

来てもらいたくて、言いにくいことだったが野々宮さんに詳しい話をしたのです。私は

粗野な男だが女性を傷つけるような考えを持ったことなどありません。弟の醜聞では

あるが、あなたのお母様も心配して引き留めているのではないのですか。もうその心配

はないのでまた来てくれたら嬉しいのです」と言う。私はそこまで疑ってはいなかった

のに、やましくてこんなにも言うのだろうか。小説の話をしばらくし、前に送ったもの

を変名で出しましょうと言うので「恥ずかしい限りですが、よろしくお願いいたしま

す」と頼んだ。小説を4、5冊借りて「また来ます」と立つと、いつものように「もう

少し」と言ってくれたが長くいるのも心苦しいのでそのまま帰った。九段坂で車を

雇い、家に着いたのは5時前だった。難珍の歌合せが回ってきたのでその判定をする。

布団に入ったのは11時。