蓬生日記

31日

 小石川の稽古日。朝あまりに寒いので出てみると、霜が真っ白に降りていたので「初霜だ」と話す。8時頃家を出て中島先生のところへ行く。最初のお題は「暮秋の霜」。

 めずらしく朝霜みえて吹風の 寒き秋にも成にける哉

「実景」であると10点いただいた。次のお題は「紅葉浮水」。

 龍田川紅葉みだれて流るめり 渡らば錦中や絶えなむ(古今集

 (錦の川が断たれるので、渡ってはいけませんよ)という歌を本歌にして

 いさゝ川渡らばにしきと計に 散こそうかべ岸のもみぢ葉

 (さあ岸の紅葉よ、散って浮んであの歌の様な錦の川になりなさい)

と詠んで先生にとても叱られた。「本歌取りと言いながら、それを受けた詞がないです

よ」とのこと。「それはそれとして、叱られても怖れずにこのような歌をお詠みなさ

い、その内に少しは見られるものもできるでしょう」とおっしゃった。みなが帰ったの

は4時半で、私も帰ろうとすると先生が「ちょっと待ちなさい」と言って小紋ちりめん

の、三つ紋付き着物をいただく。「これはお歳暮にしようと思っていたのですが、早く

渡した方が都合がよいでしょう。新年のあちこちの会に出る時に紋付でないとおかしい

ですから」とおっしゃった。紋付などもったいなく、感謝してもしきれない。暗くなっ

てきていたので途中まで母が迎えに来ていた。夕食後に明日の景品を買いに行くため

本郷二丁目の信富館という百貨店に行った。いろいろ揃えて帰ったのは9時頃だった。

少し書き物をして早く寝た。

 

霜月1日

 朝から快晴。非常に穏やかな、まさに小春日和だった。10時頃まで歌を見て、髪を

結い、化粧をして12時半に家を出る。中島先生を訪うと「今行きますから少しお待ち

なさい」と支度をし、一緒に出る。「帰りは家から車を出すのであなたの車は返しな

さい」ということで私の車は返す。島尾家の様子や庭園のことはまた別に記すことに

する。先生が選んだ歌は、鳥尾さんの「初冬紅葉」「恋」私の「隠家」だった。私は

柿を5ついただく。鳥尾さん宅を出たのは日も暮れ切った頃だった。先生の家に帰ると

「よい歌を作ったご褒美に」とお菓子をいただく。車を呼んでいただいて家に着いたの

は6時だった。今日の来会者は水野さん親子、つや子さん、歳子さん、きく子さん、

みの子さん、い夏子さん、かとり子さん、のぶ子さんだった。19日は前島さんのところ

で難珍歌合せをすることになった。電信が全通したので江崎牧子さんに手紙を出す。

稲葉様が来た。

 

2日

 快晴。裁縫をした以外何もなし。日没後読書し、歌を10首ほど詠む。習字を1時間

して12時就寝。

 

3日

 天皇誕生日なので、例年通りお餅を少しついてもらう。山下さんが来たのでお汁粉を

出す。雑誌を借りて、次は「早稲田文学」を貸していただく約束をし昼過ぎに帰った。

午前中上着を仕立てて、午後は下着の裾直しをした。各評の歌が回ってきた。みの子

さんから滝の川(石神井川紅葉狩り)への誘いの手紙が来たので、断りの返事を出し

た。夜読書した。

 

4日

 晴天。午前中は裁縫に従事。午後から習字と読書をした。今日から小説を1日1回分

ずつ書くことを決めた。書けなかった日には黒丸をつけることにする。といっても自分

の心で決めただけのこと。日没後邦子と一緒に中島屋で紙を買い、心正堂で筆を買おう

としたが、日没には閉店とのことで仕方なく帰る。久保木の姉が来る。稲葉様に葉書を

送る。12時就寝。

 

5日

 曇天。朝から小雨が降ったが昼から晴れる。安達さんに預けたものを取りに行った。

女坂下の心正堂で筆を買い、三河屋に洗い張りを頼んで昼前に帰宅。今日も一日何も

せず終わる。全く怠惰だ!まき子さんから葉書が来て無事とのこと。

 

6日

 午前中奥田のおばあさんが来て、「震災義援金を出した」と言っていた。私もわずか

でも出したいが母が許さないのでしかたない。昼食を出し1時頃帰った。机に向っては

いても何もできず、我ながら情けない。日没後小林好愛さんの母上が亡くなったという

知らせが青山さん、師岡さんから来た。母の下駄を買いに行く。

 

7日

 晴天。早朝母は小林さんにお悔やみに行く。私は小石川の稽古なので8時半頃家を

出る。着いたのは9時。今日は慈善音楽会があったので、来会者はとても少なかった。

家の都合があり2時に許しをもらって帰る。母は帰宅していた。4時頃強震があった。

急いで母を庭に出したりしているうちに収まったのは、先日の騒ぎで懲りたのだろう

か。日没後母はまた小林さんへ一晩お通夜するために行った。姉が来る。話している

うち「泊まりましょうか」と言うが、あちらにも人がいないので帰した。9時頃だった。

 

8日

 早朝母帰宅し、すぐに寝てしまう。私は図書館に行く。まだ開館していなかったので

桜木町から根岸布田のお稲荷さんまで散歩し、有名な御行の松を見物した。ほおずき屋

の奇談があった。戻って開館を待ち入る。「太平記」「今昔物語」「東鑑」を借りた

が、東鑑は読まずに太平記と今昔物語を借り替えては読んだ。図書館を出たのは日が

傾きかけたころだった。向ヶ丘弥生町の坂で、17、8歳と14歳くらいの若い書生が、

菊の鉢を縄でぶら下げて歩いていたが、縄が切れて困っていた。着けていた腰ひもを

抜いてあげようとしたら、通りかかった学生が変な目で見ていたこと、書生たちの

こと、西片町で別れたことなどあった。日没少し前に帰宅。その後母はまた小林さんの

ところへ行った。11時就寝。

 

9日

 うす曇り。母は早朝に帰宅。今日は小石川の稽古日なので髪を結う。突然田辺有栄

衆議院議員が訪ねて来たのでどたばたした。意味深な話をして帰った。その後私も母も

出かける。遅れる人が多くて先生は不機嫌だった。来会者は19人くらい。小出先生と

みの子さんの噂があった。井岡太造先生に初めて会う。片山てる子さんの母上に会う。

先生が泊っていくよう勧めてくれたが、家に許可をとっていないので帰ると言うと車を

呼んでくれた。帰ると、母が私を迎えがてら西村さんの新しい家を見に行くと言って

出たそうで、行き違いになったようだ。私を探しているだろうと心配で私もまた出た。

先生が車を呼んでくれたほど危ないという夜道を、明かりも持たずに一人で歩くとは、

私も母もなんてうかつなのだろう。表町というところで母を見つけて一緒に帰った。

8日の月が雲間に見え隠れし、夜霧が道も見えない程たちこめて、幻燈を見ているよう

だった。帰ったのは9時だった。12時就寝。

 

10日

 うす曇り。この頃物入りが多く、いつものこととはいえ困窮極まっているが、しかた

のないことである。15日には小出先生が桜雲台(料亭)で薊園の追善会を催すので、

その日の着物を縫わなければならないが、それどころではないので小説に従事。14日

までに仕上げなければならない。昼前に稲葉様が正朔君と来て仕立物の依頼をされたの

で、断れずに引き受ける。午後大根を買った。14、5本で3銭5厘だというので安さに

驚く。4時頃から雨が降る。母は血の道で寝込んでいる。この夜小林さんより明日の

初七日逮夜の招待状が来た。

 

22日

 半井先生に明日在宅か問う手紙を出す。書くものが多く3時過ぎまで執筆した。

 

23日

 半井先生より「幸い暇につき来訪されたし」と返事が来た。昼過ぎに行こうと支度を

していると、急に空が暗くなり盆を返すような大雨が降って来た。母も具合が悪く寝込

んでおり、「行くのも大変だし、このような日に訪問されるのも迷惑だろうから今日は

やめにしなさい」と言う。私もいつもの怠け心で行くのをやめた。日が暮れても降りに

降った。今日も3時就寝。

 

24日

 起きると空高く澄み、朝日が華々しく昇り、濡れた梢や軒先が光り輝いている。

とても嬉しい。昨日約束を破ったので母も「朝ご飯が済んだら行きなさい」としきりに

言う。9時半に家を出て、着いたのは11時だった。本宅を訪うと「いつもの隠れ家に

いますがまだ寝ているので起こしてきましょう」と言う。「いえ、少し早すぎたので

起きるまでここで待たせてください」と言うが「大丈夫ですよ」と女中は行ってしまっ

た。すぐに戻って「もう起きていましたのでどうぞ」と言う。なるべくこちらの方が

いいのだが言い出せずについて行く。先生は木綿の古びた綿入れの上にどてらを羽織

り、白のような灰色のようなしごきの帯をつけた普段着でくつろいでいるので、さし

向かうと汗が止まらないような心地だ。女中も戻ってしまった。人のいない小部屋で、

長火鉢をはさんで男性と話をするなんて、友達や親せきが聞いたらどれだけ責められる

ことか。許しがたいことだ。まして男性と互いに話し合うなど、今度書こうと思う小説

の筋立てを話して教えを乞うためとはいえ、きまりの悪いことだ。先生が先ず「どんな

構想か聞かせてください」と言う。心に決めてきたことなのに恥ずかしくて爪を噛む

ような気持だった。「お伺いするのはとても無礼なことですので、一度はやめようかと

も思いました。でも手紙ではうまく伝えられないものですから来ることにしました」と

話し始め、「主題は片想いです」と筋立てを話す。先生は「いいと思いますよ、その

くだりはこう、ここはこのようにしたらよい」など教えてもらっているうちに話が弾ん

できて、「恋ほど不思議なものはないですね、身分の上下や、頭のいい悪いの区別なく

訪れるものです。これを悪用して人をたぶらかしたり世を騒がせたりすることも大変

多く、それは城を傾けるという女性(遊女)ばかりではありません」と、美少年が貞淑

な主婦をたぶらかしたり、紳士が良家の処女をもてあそぶ話をした。そして「このよう

な人は相手を愛しているのではなく害しているのです。真実の愛というからには、相手

の一生を思って幸せに暮らせるよう努力しなければならないのではないでしょうか。

『世の人の言う愛は自分の思うほど深くない。世の人が敬と思うものも私の敬愛の心に

かなうものではない。世の中がどんなに広く、人が多いとはいえ、この人を思う気持ち

は自分以上のものはない。この人の一生を幸せにするのは自分しかいない』とまで思い

尽くすことが真実の愛というものではないでしょうか」そうこうしているうちに12時に

なり本宅から昼食を持ってきた。断りかねて一緒に食べていると、「君はなぜそんなに

打ち解けてくれないのですか、私は粗野な男だけれども怖れるほどではないでしょう」

と言う。「いえ、そうではないのです。これは私の本性で、長い付き合いの友達はみな

知っていますが、このように固苦しいのが私なのです」と答えると先生は少し笑って、

「そうなのですか、私もこんな男ですが心根はあなたと変わりないのですから、なおの

こと、心を解いてください」と言う。「私は最初から先生を信じていますし、師匠では

ありますが兄とも思い、慕っているのです」と言うと先生は少しの間黙って、そのうち

に、「私ほど不幸な者はないのです…」以下散失

 

 何を話したのでしょうね…。結婚1年で失った大変美しい奥様の話だったのではと推測

されている。桃水は一葉に対する態度(女が小説を書くことをばかにしない)からみて

フェミニストのようだが、時代なので花柳界で遊んだようだ。一葉処女説、違う説ある

が、処女説は一葉を奉るあまりのようだし、そうじゃない説は自分の所業を重ね合わせ

ているようだ。私はからきしもてない人なので所業と重ね合わせて(←どうでもいい)

処女派である。上記にあるように、かたきにかたい人である上、母仕込みの誇り高き

武家娘なのだ。ただし桃水にせまられたら断れたかどうかはわからない女心。花柳界

出入りして、素人娘に手を出すような野暮な人ではないからせまったとは考えられない

が…。この後騒動になったように男女が一緒にいただけでも罪とされた時代、まして弟

の事件もあり身を戒めていたはずだ。