につ記

27日

 小石川稽古日。強風吹いて寒気はなはだしい。早朝より行く。前田様から来た歌に

返歌を送る。三田弥吉夫人が入門した。4時頃帰宅。

 

28日

 早朝図書館に行く。今日も強風はなはだしい。荻野さんの旅館に書物を返しに行く

と、おとといより原町田に行っており奥様だけがいた。しばらく話して図書館へ。館内

で新潟の田中みをのという方と知り合い、禅の話など聞く。この人は長岡町長の跡取り

娘で、ご主人は洋画家だということ。禅学への志は深いのだが、地方のことなので女子

に教育の機会はない。近所の寺で布教はしていても田舎向けの浅はかな教えばかりで、

大乗の真理には遠く及ばない。望洋の思い(荘子・大海を前にどうしようもない思い)

であるという。「この度上京の機会があったので、原坦山先生の教えを受けに行って

みようと思う」とのこと。そのための書物を調べていた。一緒に出て池之端の彼女の

お宅に寄り、再会を約束して帰る。着いたのは日没少し前だった。野々宮さんが見えて

いたとのこと。

 

29日 こと無し。

 

弥生1日

 田中さんより手紙が来た。先日私の小説の斡旋を、新聞社の人にお願いしていただい

たところ、読んでみてから相談しましょうとのことで、すぐに小説を送れとのこと。

すぐに「棚なし小舟」に取りかかり、1回分を書き終えた。邦子が「1日からこんな嬉し

い便りがあるのだから今月はきっとよい月ね」などと言った。

 

2日

 午前中髪を結い、午後から新小川町へ行く。田中さんは歌会の各評を終えたところ

だったので、ゆっくりくつろいで話していると一日はあっという間で、明かりをつけて

話を続けた。夕食をごちそうになり、車を雇ってもらい帰る。もう暗くなっていた。

この夜は何もせず、ただ田辺さんの受け持ちの難珍を2題詠んで就寝。

 

3日

 雨。朝田辺さんに手紙を出す。各評が回って来たので選んで長谷川さんに送る。姉が

遊びに来て、今日はお節句なので白酒や豆炒りなどを用意してみなで祝う。「棚なし

小舟」の続きを書く。ほかに事無し。

 

4日

 雨だが暖かい。和歌7題、15首ほど詠み、小説の下書きに忙しかった。

 

5日

 雨。早朝小石川へ。来会者は10名ほど。水野さんが「氏神の菊間神社に奉納する歌を

詠んでほしい」とのことでそれを今日の点取り歌とした。ほかに「有松喜色」のお題が

あり、終わってもう1題詠んだ。11日に梅見に行くことになった。みの子さんより、

ある人が私の小説を読みたいと言っており、今夜1回分送ってほしいとのことで「あま

り考えもないのですが、何とかなるでしょう」と引き受けた。みなが帰ったのは4時

頃。泥道で大変難儀をした。前島さんから「女学雑誌」を借りたので、帰宅早々日没

まで読んでから小説を書き始め、徹夜で「みなし子」第1回を書き上げた。雨戸の隙間

が明らむのを見て少し寝た。

 

6日 

 雨。7時に起きて原稿に目を通してから郵便で送る。著作、詠歌、習字の日課を務め

て、夜は読書。12時就寝。

 

7日

 連日の雨が夜の間に晴れて、うららかに霞がかかり、大変のどかな朝だ。あたたかい

春風に庭の梅の花が香る雪のように舞い、それを惜しむうぐいすの声が聞こえるこの家

の春を世の人に見せたいものだ。「今日は半井先生を訪ねるので」と母に髪を結って

もらった。その後母は籠を持って庭に下り、夕飯の足しにと新芽を摘んでいる。世には

立派な御殿に住む人もおり、豪華な絹ものをまとい誇る人もいる。木綿の着物を3年も

着続けて、壊れかけた小さな家に住んでいても、美しい春の光、春の香は私の身にも

心にも、家中に満ち溢れている。私たちほど楽しい親子がいるだろうか。

 

 さて午前中はなすこともなく終わり、昼食後すぐに平河町へ向かう。「私が先生の

ところへ行く日は雨か風でないことがないから、今日もそうなるでしょうね」などと

笑い合っていたが、家を出る頃から急に雲が立ち始め、九段の辺りからあられ混じりの

雨が凄まじくなった。先生の家に着いたのは1時過ぎだったが、戸が固い。「いつもの

寝坊だろうか」と思ったので無理に開けて入ってみると、火鉢に火がついていて鉄瓶も

たぎっているが先生の姿はない。「これは失礼なことをした、留守中に」と思ったが

帰るのも惜しいので待っていると、そのうちに帰って来た。「風呂に行ったので」と

お詫びされる。先日いた人も一緒だった。「むさしの」の話になり「同人にいろいろ

事情があって発行の日が延びてしまったが、みな意気盛んで、柳塢亭寅彦などは「原稿

に金を添えるので載せてほしい」などと言うほどだ。ほかに右田年方は挿絵の寄付を

してくれるし、版木師も「版木代だけでよい」と言ってくれたがそれでは悪くて固辞し

たのだ。小説雑誌の発行は毎月毎日のように増えて海の砂ほどにもなるが、君たちほど

熱心なものはまだ見たことがないと出版社も言うのですよ。こうなったら諸新聞が広告

料なしで宣伝してくれて、印刷会社もただで請け負ってくれて、数万人のお客さんが

定価に上乗せしてくれたら『むさしの』は安泰だ」と大笑いするので、私もお客さんも

笑いが止まらない。先生はまた「『都の花』が2千5百部、『難波がた』も2千5百部売れ

るということなので『むさしの』は5千部位世に広めたいなあ」と言うと、お客さんが

「それなら寅彦に口上を作らせて、声のよい者を選んで、縁日や百貨店など人手のある

所で目立つ格好でおもしろおかしく宣伝させたらいい」と言う。私が「もっといい方法

がありますよ、万世橋のたもとに立って、通る人にただで配れば5千どころか5万も世に

広められますよ」と言ったので一同で大笑いしたのだった。「君の『闇桜』を小宮山君

に見せたら、『もう「むさしの」は一葉さんのものだ、1つ2つ言いたいことはあるが

今後の世評のために言わないでおく』とのことだよ」と先生が言った。「挿絵は寅彦の

意匠で年方に描かせるつもりなのでご承知を。君の名は出さないので世の人がどんな人

だろう、見てみたいと騒ぐのが楽しみだ」などと冗談を言う。「むさしの」は15日発行

の予定なので次号の原稿は20日過ぎまでに送るようにとのことだった。

 昨日のこと邦子が「『いつはりの無き世なりせばいか計人の言の葉うれしからまし』

(偽りのない世の中でしたら、どんなに人の言葉が嬉しいでしょう)の歌を反対に詠ん

でみて」と言うので「『偽りのあるよなればぞかく計人のことの葉うれしかりける』

(偽りのある世だからこそ、こんなにも人の言葉は嬉しいのです)と言えば言える

かしら』などと笑ったものだったが、今日のおしゃべりに当てはまるようでおかしい。

3時になったので「ではまた」とおいとましようとすると「もう少しよいではないです

か、何かご馳走するつもりだったのに」と引き留められたが、「雲行きも怪しいので」

と振り払って出た。帰る道々晴れて、家に着く頃には一点の雲もなくなっていたのは

不思議なことだった。奥田のおばあさんが来ていたので夕食を出す。関場さんより葉書

が来て邦子に来てほしいとあったが「何があったかわからないけれど明日にしたら」と

言う。難珍が回って来たので書き写して伊東さんに送る。夜頭痛がひどかったので早く

寝た。森川町に失火があった。

 

8日

 午前中邦子は関場さんへ行き、昼食をごちそうになって帰る。(関場)悦子さんの

10歳になる妹を中島先生に入門させたいので紹介してほしいとの依頼だった。「御伽

草子」上下を貸していただく。何もせずに灯を点す時間になってしまった。風がとても

強く吹いている。

 

9日

 晴天。早朝より支度をして小石川に行く。月次会。しばらくして田中さんが来た。

今日の来会者は38、9名だった。島田政さんが見えていた。点取りのお題は「野鶯」

で、重嶺先生、恒久先生、信綱先生、安彦先生が点をつけた。恒久先生の甲は重嶺先生

安彦先生の甲が恒久先生、重嶺先生の甲が安彦先生だったので「これではしょうがな

い」などと言う。信綱先生の甲は御本人だった。11日は梅見と決まっていろいろな相談

をした。日知没に一同帰宅。関場さんの件は異議なく整う。

 

10日

 曇天。「武蔵野」次号に出す構想のあらましを半井先生に書いて出す。石井さんに

葉書を出す。明日の天気はどうなるだろう。人は「よい天気になれ」と願っているが

私は降ってほしいのだ。学友とはいえ心に隔てのある、上流階級のご婦人方に追従し、

おかしくもないことに笑いつまらないことを喜ぶような真似は、私が最もしたくない

ことだ。植半、八百松(料亭)のお料理も、私が食べるのでは甲斐がない。母と妹を

ボロ屋に残し、一切れの魚肉さえめったに食べさせることができないのに、亀戸の梅林

の香りを分け入って食べる鯉こくがおいしいわけがない。人が楽しいと思うことは私に

とって涙を呑むようなことばかりだ。「天の神様、私を憐れんで降らせてください」と

嘆くばかり。一日心を悩ませて何もせずに日が暮れた。邦子は関場さんに入門の件を

知らせに行って報知新聞を借りてきた。夜になっておもしろい小説を母に読み聞かせて

いるうちに雨が降り始めた。万歳を叫びたいほどだった。稲葉奥様が正朔君を連れて

相談に来てそのまま泊った。12時就寝。

 

11日

 起き出てみると雨戸の外が白い。雪だ。「梅見の約束をした人達はどれほどがっかり

しただろう」と思う。10時には空は晴れ渡り、雪も煙のように溶けてしまい、昼には

道も乾きそうだと思っていると前島さんより手紙が来て「今日の梅見は中止でしょうが

明日はいかがでしょう、道が悪くても行きたいものです。(先生には憚られるので)

あなたにお伺いします」とのことなので、これを持って中島先生を訪れ、返事を書く。

「晴れたら明日行きましょう」という内容。初心者の添削をして帰り、関場さんに葉書

を出す。しばらくして同家から葉書が来たので行き違いになったようだ。

 

12日

 薄日ながら晴れたので梅見が実施される。家を出たのは9時だった。直前に三枝信三

郎さんが来た。中島先生宅に集まり、車を連ねて向島へ向かう。私は先に出て小梅村の

吉田さんを誘いに行くともう出た後だった。臥龍梅や六花の清楚な姿を見たあと歩いて

江東梅に向かう。庭園は広大で、梅の枝ぶりも素晴らしく、花は少し過ぎていたが香り

が袖に移って、罪もないのに疑われる人もあろうかとおかしい。東屋で番茶をいただき

ゆで卵でお腹をふさぐことを、上流階級のご婦人方は珍しがって喜んでいる。楽しんで

いるはしゃぎ声や、笑顔を見ていると、こういう時に人の心がわかるものだと思う。

ここから車に乗って木下川に向かう。澄んだ流れがきらめき、広大な水田はまだ耕して

おらず、ところどころに麦の芽が青い。自然の造形美の極致の中を進んでいくと、大き

く繁った老松の間に紅白の色香が垣間見えてきた。着いてみると入口に鉄の門がついて

いたのでこれがなかったらと恨まれる。先に行った2つの庭園に劣っているようにも

思わなかったが、進んでゆくにつれ全く勝っていることがわかってきた。花も香りも

今が盛り、色のついていない木はなく雨上がりの冴え冴えとした美しさ、風もなく暖か

で人は明日の日曜をさぞ楽しみにしていることだろう。花の下で杖を振り回す無風流者

も、果物の皮など投げ捨てる不届き者もおらず、たまに見るのは1瓢携えた風流人か、

猟銃を背負った若者ばかり。東屋のほとりで三宮様がご夫人を連れて散策しているのを

見た。しばらくして出るが、片山さんがしきりに名残惜しんでいたのもおかしい。この

庭園については伊東さんが「紋付裃みたいだ」と評したがそれは当たっている。もう

少し乱雑に植えられていてもよいと思う。狭いあぜ道を何筋も歩いて向島の新梅屋敷に

着く。ここの梅は少し早かった。出る頃には黒い雲が空を覆い始めたので車を急がせて

木母寺植半楼に行った。ここで1酌している間様々な遊興があった。日没になって家路

につく。堤で先生に別れて家に着くころには大雨盆を返すようになった。

 

13日

 大雨。午後から晴れた。中島先生の仕立物にかかり、徹夜で従事。この日稲葉様が

小石川柳町に引っ越した。

 

14日

 曇天。縫い上がった着物を持って小石川へ行き、先生と少し話して帰る。稲葉様が

来ていた。夕方号外が出て、陸奥農商務大臣が依願免官し、河野敏鎌氏が後任となった

とのこと。陸奥氏は宮中顧問官に任ぜられた。

 

15日

 晴天。今朝の新聞を見ると内閣の動勢が定まらないようだ。品川内務大臣は色を副島

伯に譲って宮中顧問官に転じたとか、後藤政審大臣は辞職したとか、何某大臣が辞表を

出したとか、様々な情報が入り乱れて、記者の筆の振るいどころといったところか。

 午後母は森さんへ行く。その留守に稲葉様を訪ねて本所から渡会という人が来た。

元々千村さんのところにいた職人とかで様々な話があったが、稲葉様が大嘘つきである

と延々話すので、驚いたことは一度や二度では済まず、邦子も私も呆れ果ててしまっ

た。しばらくして柳町に行った。母が帰ったのでその話をしていると、また本所からと

言って一人来て稲葉様の話をした。そうしていると村松のおじいさんがあわただしく

やって来た。本所からの二人がここに来る前に村松で話していったので、驚いて家に

知らせに来たのである。しばらくいて帰る。母と邦子が風呂へ行った後お鉱様が来て

いろいろ聞かれたが、何を話してよいかわからないので詳しくは言わなかった。母が

帰ってきて「今後おいで下さらないよう、あなた達のおかげで家が迷惑するのです」と

言うと、お鉱様は涙を流して言い訳をするので母も気が弱くなり一緒に泣き出した。

私は堪えかねて別室へ行った。今日も怠けてしまった。

 

16日

 晴天、一点の雲もなし。本妙寺で種痘を打つとのことで邦子と二人で行こう支度を

する。母は二人の髪を結ってくれてから奥田に用があって行った。私は「聖学自在」を

読む。午後秀太郎も連れて種痘を打ちに行った。ほかに何事もなし。

 

17日

 晴天。みの子さんの発会なので10時頃から支度。渡会が来てまた稲葉様の話しをして

いると西村さんが来たので渡会は帰った。私はすぐに家を出て中島先生のところへ行き

少し話をした。田中さん宅に着いたのは11時頃だった。今日の来会者は予定より多く

26、7名だった。点取りのお題は「朝雲雀」。重嶺先生と鶴久子先生の甲は伊東さん、

三艸子先生の甲は私だった。解散は5時だった。私も車を雇ってもらって帰る。この夜

は何もせずに寝た。

 

18日

 曇天。10時頃から雨になった。姉が来た。午後関場さんと中島先生から手紙が来た。

中島先生の依頼で近所に住んでいる先生の元の女中今野たまを訪ねた。その返事を書い

ていると思いがけず半井先生が訪れたので、辺りを片付けるなど大騒ぎした。我が家に

来るのは初めてだったので、母と邦子に初見の挨拶をしたりと煩わしいことだった。

先生は本郷西片町に引っ越し、その知らせがてら武蔵野について話に来たとのこと。

「延び延びになっていたが、いよいよあさって20日に出版されることになった。校正が

回ってきたのだが引越しと重なって君に送る時間がなく私が直してしまった。誤字脱字

があったら許してください」と言う。茶菓をお出しして2時間ほど話して帰った。私も

「もう少し」と言いたかったが急いでいたので止めもしなかった。母と邦子がそれぞれ

にうわさした。母は「まあ立派な方だこと、死んだ泉太郎にも似ているようで温厚そう

だ。誰が何といっても悪い人ではなかろう、若旦那とでもいいたいような風格のある人

だったね」と言うと邦子は「それはお母さんの目違いでしょう、見た目は優しげで微笑

む口元なんかかわいい位だけれど、それは陰謀を働く人の手の内ですよ、心許しては

いけません」などと言う。母は「何はともあれ先生が、近くになったことだし行く所も

ないので、夜でも運動がてら寄らせていただきたいとおっしゃったのには困ったわね。

人目に立って何を言われるか」と心配する。邦子は「とにかく家が狭いのが不都合ね、

もう一間あったらこんなに気を遣わなくてもいいのに。隣の家はここより少し広いから

引っ越したらどうかしら」と言う。私は「そんな無駄なことをしなくても、私を友と

思ってくれる人は家の広さや狭さ、着ているものを問わず、飾りのない言葉と心を持っ

ておつき合いしてくれているのよ。もし、あの家は狭くて人は古びた着物を着ていると

言ってつき合いを絶つ人がいても惜しむに足りないこと」と言ったが邦子は「それは

そうだけれどあまりにむさくるしいじゃないの」と笑った。今日の先生は八丈の下着に

茶と紺の縦縞の紬を重ねて、白ちりめんの帯を緩やかに締めて黒八丈の羽織を着こなし

ていた。「下品だと聞く新聞記者にもこんな立派な人がいるのか」と素人目にも思われ

ることだ。秀太郎が来て少し話して帰る。日没後邦子に「日本外史」の素読をさせて

から「聖学自在」の「愚者の弁」一章を読んで聞かせる。母の肩をもんで寝かせる。

1時就寝。

 

19日

 雨。早朝小石川へ行く。先生はまだ朝食前だった。首藤陸三氏のお嬢さんが小間使い

としてきょうから勤めることになった。初対面の挨拶をしたが何やら気まずい感じだ。

今日は難珍の日なので龍子さんもてる子さんも来た。東さんと大造さんは来なかった。

午前中1題詠じて午後、いつもは口述なので思うままに言うことができず、みな口ごも

りがちなのだが、今日は文で表すことになったので議論盛んとなった。「春の夕べ」は

みの子さんが高点を取った。「恋の喜憂」は私だった。4時に散会。龍子さん、みの子

さんとあさって22日に上野の図書館で待ち合わせをした。帰りに稲葉様について聞こう

と思い西村さんの店に行く。釧之助さんはおらずお常さんが留守をしていたのでしばら

く話す。夕食をごちそうになり提灯を借りて帰った。道がドロドロで困難を極めた。

この夜は何もせず寝る。関場さんより、今日入門のはずだったが差しさわりがあって

来られないと断りの葉書が来ていた。

 

20日

 晴天。今日は「武蔵野」の発行日なのと春季皇霊祭なのでお寿司をあつらえ、近所両

三軒に配った。伊東さん宅に今日行く約束をしたので支度をしていると、山本直一さん

が来た。「早稲田文学」9、10号を持ってきてくれた。同じ方向なので、帰る時に私も

出て同行した。いろいろ話しながら歩いていると車屋が「ご一緒にどうですか」などと

と言ってくる。普通の人ならば恥ずかしいことなのだろうが、何とも思わずに一緒に

歩けるのは邪心がないからである。恥ずかしさは恋情から生まれるものだとおかしい。

御茶ノ水橋で別れ伊東さんへ向かう。何時間も心を打ち割って話したので本当に楽しか

った。「帰らなければ」と言いながら日が暮れてしまった。夕食をごちそうになっても

まだ話は尽きないが、きりがないので「さあ行きましょう」とおいとましたのは8時

だった。帰宅して母に相談したが、彼女と約束したこと(一緒に国学を習いに行くこ

と)がかなわなくなったのでその手紙を書いた。何もせずに寝た。

 

21日

 晴天。望月さんの奥様が来たので昼食をお出しした。私は半井先生のところに話が

あって行く。今度の家はとても近く、這ってでも行けるくらいなので嬉しい。表口は

いつものように固く閉じているが、庭先から自由に出入りできるようになっている。

先生は「前日引いた風邪が治らない」とひどく咳をしている。家で相談していたことが

あったので、「私の小説がもし世に受け入れられないものだったら、はっきりとおっし

ゃってほしいのです。私は自分の心を信じるように人の言葉を信じてしまいます。先生

がお世辞にほめて下さったことをそれが嘘だと見抜く知恵がないのです。先生の本心が

わからず、言ってくれた言葉だけを頼りしている私の愚かさはともかくとして、先生が

どれだけ迷惑していることでしょうか。世の中にお見せできるものでないなら、すぐに

心を改めて分相応な身過ぎをしようと思います」と繰り返し言うと、先生はひどく呆れ

て、「何を言っているのです。僕はふがいないとはいえ男ですよ。引き受けたことに

嘘はない。毎日案じ考えて君の幸せを願っているのだ。一緒にがんばって行こうと思っ

ているのになんで君はそんなに疑うのだろう。でももっとよい方法があるのならおやめ

なさい、そうでないならもう少し耐えてください。僕の考えでは君の小説は『武蔵野』

があと3回も出たら必ず評判を得るに違いない。そうなったら君を朝日にでもどこに

でも紹介することができるのですよ。生活のことが心配ならば私が何とかしましょう。

『武蔵野」初版が2千分以上売れたら利益が出ることになっている。僕の分も君に差し

上げるつもりでいるのだ。これほど思っている心を信じてほしい」とおっしゃった。