一葉にっ記

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 やれやれ、楽天光に申し込んだら2ヶ月も待たされた。ADSLは期限半月前に配線切り

やがっていきなりメールは見られなくなるわ、楽天には何度電話してもらちが明かず、

ここに長くいる気もないのだから、移動型にした方がいいなと思った矢先に工事日を

指定してきて仕事休ませるわ、電話会社とはこうも傲慢かね…。

 さて訳し貯めていた続きを。カギかっこや句読点が不統一だがもういいや。

 

 話は宗教のことに及んだ。「先日野々宮さんと約束して教会に行ってみようと思って

いたのですが、都合ができて行けませんでした」と話すと、「それはよかった、危うく

巻き込まれるところでしたよ」と言う。どうしてかと聞くと先生は、次々と教会の裏面

を述べられた。「このようなこと、あのようなことがあって、伝道師というものは不道

徳で、信者はその弟子に過ぎないのだ」とした。「ただしこれは私がキリスト教を嫌う

あまりの感想で、ほとんどの教会はそのようなことはないだろうが、それでも10中7、8

はそのたぐいだと思う。本当に勉強したいのであれば仕方がないが、そうでなければ

関わらない方がよいだろう」ということだった。次回の約束をして帰る。4時だった。

この夜は入浴したほか何もせずに寝た。

22日

 晴天。午前中は習字と著作に従事。図書館で待ち合わせをしたので、昼食後すぐに家

を出る。着いてから「このような女の人が来ましたか」と聞くと「見えましたよ、その

下駄です」見ると更紗模様の革鼻緒だったのでみの子さんだと思い、自分の分も一緒に

置いて中に入った。目録書の題の上で何やら書いているのはやはりみの子さんだった

ので、走り寄って低い声であいさつし、一緒に2階の婦人室に入る。先に一人閲覧者が

いて、医科の生徒だろう「外科」という書物を読んでいた。「田辺さんは来ないみた

い、ひどいわねえ」と笑う。いつもは朝から来るので午後には読み飽きて眠くなって

しまうのだが、今日はあっという間に閉館の鈴の音がする。「そら、追い出されるよ」

と笑いながら部屋を出る。男性はもう誰もいなかった。歩いて山内を抜け、広小路に

出て、仲町でみの子さんは買い物をした。小路を入って池之端で蓮玉のそばを味わう。

道々中島先生のことなど様々な話をした。家に帰ったのは日没後だった。みの子さんと

は真砂町で別れた。伊東さんから昨日のことで手紙が来た。邦子に「日本外史」の素読

して聞かせる。半井先生より明日来てくださいとの葉書が来た。今夜もこれということ

はせずに寝た。

23日

 曇り、少し暖かい。午後半井先生を訪ねる。「むさしの」の表題の字を書いてほしい

と言われ、何度も断ったが聞いてくれないので10字ほど書いた。また、「『むさしの』

巻末に載せるものが少し足りないので、何でもいいから明日の午後までに書いてくれな

いか」とのこと。雨が降り出したので急いで帰り、すぐに頼まれた埋め草を書き始め

る。この夜は雨がとても強く降った。2時頃まで机の前にいた。

24日

 大雨。書いたものがあまり面白くなかったので、春雨の長歌を詠んでみた。中島先生

に見てもらおうと大雨の中家を出た。雨傘という物を持っていないので小さな洋傘で

しのいでいったが、雨は矢を射るように降る上、爪皮のない高下駄を履いて泥んこ道を

歩くのは困難の極みだった。先生の家に着いた頃には羽織も着物もひたひたに濡れて

いた。先生は2階で寝込んでいた。話をいろいろした後長歌の添削をお願いする。話は

小説のことに及んで「私は毎日日記を書いていますが、言文一致体があれば古文体、文

語体になったりしています。これでは文章のためには弊害となってよいことがないので

はないのでしょうか」と先生の考えを乞うと「そうですね、一定の形が決まらないのな

ら書かない方がよい、どれでもよいので一つの方に決めた方がよいでしょう」とおっし

ゃった。「現代の文語体というものを私は採用しませんが、これもまた新聞にとっては

一つの形で、それはそれ、これはこれです。女性というからには普段の行いから姿形、

言葉を話すにも書くにも表向きはなよやかであることがよいのです。心の内には政治の

動向、世の盛衰から文化や軍事のことまでくまなく案じつつも、表に現さないのが女の

たしなみです。とはいえ何もかも包み隠してしまえば弱い方に流れてしまい、とうとう

心の中まで人の言いなりになってしまいますので、例えば熱い鉄が煙で包まれている

ような風がよいのですよ」と教えてくださった。昼食後「見せたいものがあるので少し

お待ちなさい」と言うので初心者の歌を直したりして待っていると、「あなたの着物は

あまりに古びていて、人の歌会に行くのに困るでしょう、これを持って帰って仕立て

直しなさい」と、いつものことながらとても嬉しい。「あとこれは人に見せるものでは

ありませんが、あなたにはいいでしょう」と「常陸帯」と表書きした日記を見せてくだ

さった。これは下巻で、上巻は先生が夫林忠左衛門の実家の水戸へ下る道中記であると

いう。下巻は先生のご主人が江戸に上るところから書き始め、先生が牢獄に入った(夫

が反逆者となり自害したことから)時までのものである。涙をしのんで夫を送る門出に

聞く暁の烏の声、一人の部屋で江戸を思いながら聞くくつわむしの声、江戸からの手紙

を待つ心、死ぬかもしれないと思いふるさとの母を恋うくだりや、悪人共が謀った騒動

があり、辱めをうけないよう夫の妹や故郷から連れてきた女中を知り合いの家に身を隠れさせて、一人荒れ果てた家で国を愁い、夫を案じる心など、折々の歌もあり、悲しい

ことばかりで涙ぐみながら読ませていただいた。先生が19歳の時のことだそうだ。歌の

哀れや文章のなめらかさもさることながら、その心の強さ勇ましさに恐れ入った。先生

は「これはあの時だから書けたものです。今思い出して書けばもっと立派なものになる

でしょうが、あの時の感情は表現できません。文章の真実とはこのようなものではない

でしょうか。書き方など習ってもおらず言葉もあまり知らずに、あったことだけをただ

書いただけですが、今となってはこのようなものを書きたくてもできません。ですから

文章にせよ歌にせよ、真実の心を持って描き出せば、人をも世をも動かせるようなもの

になることでしょう。小説を書く時もその心映えが必要です」とおっしゃった。雨も止

み、「あさっては早く来てくださいね」と言われておいとました。

 すぐに添削していただいた歌を原稿用紙に書き換えて半井先生へ持って行く。いろい

ろ思うことがあった。2ヶ月程前に森さんに援助をお願いして、半年ほどいただける

ことになっていたのだが、昨日森さんから「事情があり援助できなくなった」という

手紙が来て母と妹が大変嘆いたのだった。「何とかするから心配しないで」とは言った

ものの心中は心配で波打ち、どうしようかと考えても思い出すのは半井先生だけ、義侠

心を持っている方だからおすがりするしかないと思う。歩きながら誰もいませんように

と祈っていたら、それがかなって先生は一人きりだった。長歌を見せると『むさしの』

は今日印刷に回ってしまったとのこと。「これは来月に使うので預かっておきます」と

おっしゃった。言いにくいことだが心を決めて懸念を申し上げた。図々しいことだった

が先生は心配する様子もなく「いいですよ、何とかするので安心しなさい」とすぐに

答えてくれた。「今月は弟の洋服を新調したりして懐具合が悪いのだが、月末までには

用意しておくから」と水でも飲むように簡単に引き受けてくれたので、有り難さに涙が

出そうだった。嬉しくて早く母や妹に聞かせたく急いでおいとました。嬉しそうにも

見えず恩を感じないやつだと思われたのではないだろうか。心には思っていても表現で

きなくて情けない。何もせずに寝た。

25日

 朝から時々雪が降る。10時頃から晴れたが風が強い。今日は私の誕生日なので魚を

買って来てささやかなお祝いをした。午後母は姉を訪ねる。西村さんが来て様々な話を

した。日知没少し前に水野さんから歌の会の招待状、半井先生からは28日までに小説を

送るようにとの手紙が来た。

26日

 稽古日。小雨。水野さんの会の相談ができた。点取りのお題は3つで、それぞれ10点

いただいた。5時頃帰宅。半井先生の弟重太さんが迎えに来て、「よいことがあるから

すぐ来てください」とのことだったとか。今日はもう遅いので明日早く行こうと寝る

ことにした。日没後芝から兄が来た。

27日

 昼過ぎ半井先生を訪れる。「『むさしの』が出ましたよ」と一冊いただいた。「昨日

のよいこととは、君が前に書いた小説を「改進新聞」に掲載することになったのです

よ」と言う「あれは勘弁してください、恥ずかしいものですから」と言うと「それは困

る、もう挿絵の注文もしたのだから」とのことなので「それでは仕方ありません、よろ

しくお願いいたします」と答えたが、原稿を推敲するためいったん返していただくこと

にした。書き直そうと思っている。「40回の連載予定だが35回位でいいだろう、がんば

りなさい」と渡してくれて「今夜中に2回分送ってください。29日から連載予定です」

と言う。引き受けて帰ると、母と兄は大喜びしてくれた。藤田屋が来たので1円借りて

兄に2円ほど貸す。日没後兄は帰った。この夜10時に2回分の原稿が仕上がり、母と一緒

に半井先生へ持って行く。他に何もせず。

28日

 朝から小説にかかる。3時頃1日分を持って行き、2回分の挿絵の注文を出す。帰宅が

日没後になったので、邦子が途中まで迎えに来ていた。この夜も何もせず。

29日

 「改進新聞」を見てみたが小説は載っていなかった。「あさってあたりからかしら」

と話し合う。「むさしの」の広告が出ていたので何となく極まりが悪い。午前中水野さ

んの会の各評を詠み、午後中島先生に添削をお願いしに行く。みの子さんが来ていた。

雑誌の編集についてや新聞のことなどの話があった。帰宅したのは4時で、それから

1回分を執筆して先生のところに持って行ったのは10時だった。邦子と一緒に行った。

30日

卯月1日

5日

 今日は水野さんの歌会の日。朝から晴天。半井先生に今日は2回分送ると約束したの

に1回分も書けなかったので必死に書く。11時に出るのに10時までかかってかろうじて1

回分書けたので、急いで化粧をして出る。お詫びをしに半井先生に寄るが留守だった。

おばさまに伝言して車を急がせて着いたのは1時近くなってしまった。もう多く来て

いた。点取りのお題は「夜帰雁」と「野遊」だった。来会者は30名ばかり。宴会の間に

3曲の合奏(琴、三弦、尺八または胡弓)があった。水野せん子さんのお琴は、門外漢

の私でも心に沁みて聞こえた。最初は「小督」次は「松竹梅」宴会の最後に1曲、題は

わからないがとても風流なものだった。散会は9時。車で送っていただく。この夜は2時

まで小説に従事した。

6日

 曇天。早朝庭の桃の枝を切った。奥田のおばあさんが来るはずなので差し上げため。

 

につ記

 決して人に見せるべきものではないが、自分を振り返ってみると危なっかしく、狂お

しかったことがいくつもある。異常で、人が見たらきちがい沙汰だと言うことだろう。

 

18日

 雨。午前中片町の半井先生を訪ねる。最近病気がちの上私に腹を立てているのかお話

をあまりしてくれなくなったことが心苦しく、今日こそ何とか以前のように心を開いて

いただきたいと思って小石が多い道を難儀して行くと、女中が水を汲んでいる。「先生

はもう起きていますか」と聞くとうなずいて案内してくれた。いつものように庭先から

書斎の縁側に上がると先生が出てきた。普段はいろいろな話をして帰る時を忘れてしま

うほどなのに、最近はどうしたのか別人のようになってしまった。「ご病気はいかがで

すか」と聞くと「少しはよいのですが、頭痛が止まずに困っているのです」と後頭部を

叩いている。「どこも花盛りだと聞くのに、籠っておられるのですか」と言えば「日陰

の身だから…」などとしおれている。「おとといの夜上野の夜桜を見に行っただけで、

飛鳥山にも隅田川にも行っていません。こんなに引きこもってばかりいたら病気も治ら

ないだろうと思って、少しは散歩もしてみたが頭痛がひどくなってしまった。どうした

らいいのか、策に講じ果てましたよ、もう死ぬのかもしれない」などと心細いことを言

う。頭はうなだれて言葉少なく、私から聞いたことに答える以上の話がない。「『武蔵

野』はおとといまでに校正が済んで昨日発行の予定でしたがどうなったのかまだ持って

来ないのですよ。今回はみな出来もよくなかった」と言うので、「私が特にひどいもの

を書いたから、さぞお困りになってお気に障ったのでしょう。歌の中島先生も弟子の歌

の出来が悪い時には顔色が悪くなるのです。先生も同じで私の小説があまりにひどいか

らご病気がさらに悪くなったのではないでしょうか」と聞くと「そんなことはない」と

気にしてはいないようだ。「『武蔵野』3号の原稿は今月中に送ってください」と言い

「それにしても暇がないのが一番健康に悪いようだ、朝日新聞の連載が明日から始ま

る。せめて1ヶ月ほどの休みがあったらいいのだがそうもいかなくて弱るなあ」とおっ

しゃった。話したいことはたくさんあるのに、けだるそうにしているのでそこそこに

帰ることにしたが、いつものように引き止めもしない。帰り道は憂鬱だった。私に身の

覚えはないが何か怒っているのではないだろうか。どうしたら以前のように戻れるのだ

ろうか。母も妹も大変心配してくれる。母が言うには「それもそのはず、花が咲き鳥も

鳴く今の季節に世から隠れて家に籠っているのは苦しいことでしょう、まして待合遊び

などしていた人が行けなくなったのだから気もふさぐでしょうよ」今日は何もせずに一

日が終わってしまった。