道しばのつゆ

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 9日は萩の舎の納会だった。2、3日前から季節のせいか大変体調が悪く、頭も上げら

れなかったので出席は難しいと思っていたが、今朝急にさっぱりしたのでこれならと

思って行く。髪も特には結わず、手足も垢づいたままだった。田中さん、鳥尾さん

中村さんが先に来ていた。行ったもののいつもの調子ではなく歌も詠めずにもの憂げに

していたのでみなが心配し、介抱してくれて嬉しかった。来会者は30名以上いた。龍子

さんが田中さんに託して私と伊東さんに手紙があり、20日までにお嫁入りするとのこと

だった。今日の会を思っての歌があり、

  むれ遊ぶ沢辺のさまをおもひやりて 心そらにもたづぞ鳴くなる

   仲間が群れ遊ぶ沢を思って 空の遠くでたつ(龍子)が心淋しく泣いている

淋しい私の乱れた心を許してください、と例の麗しい筆の散らし書きが美しく、遠山の

霞んだ背景に田鶴が鳴き渡る松原が描かれてるのも素敵だ。私には別に「15日前までに

一度おこしください。新居では居心地も悪く当分ゆっくり話もできないでしょうから、

ぜひ」とあった。「この歌のお返しを」とみなが言っていたが騒ぎに紛れて終わった。

夕方頃からまた頭が痛みだし人目にも分かる程だったので、残っている人はたくさん

いたが車を呼んでもらって帰った。

11日

 雲足が速く雨になるだろうと話してはいたが、龍子さんの手紙にもあったように私も

一度は話に行きたい。今日を過ぎたらもうよい日はないのと、三崎町の先生にもあれか

ら今までの話をしに行きたい。ことさらに行くのも人目に立つのが心配だし、母や妹が

許さないのにこっそり行くのも嫌だ。ちゃんと許しを得ないとと思案していると、ちょ

うどこの20日から「都の花」に私の名前が載ることになった。母が「『武蔵野』の先生

にも報告をした方がよいのでは」と言い出し、妹も「それなら龍子さんのところへ行く

途中でお寄りしたら」と言う。龍子さんの手紙では11日か13日とあったが、13日は日曜

日で半井先生の家に友達が来るのが煩わしく、今日行くことにした。お祝いの品を持っ

て出て、三崎町には途中で手紙を出した。

 龍子さんは特に心構えもないようでいつものようにふざけていた。某新聞が評して

いるように昔の大雅堂夫妻を思わせる風格だ。三宅雄次郎という人は世の人からその辺

の木っ端くらいにしか思われず、仙人とまで言われていたのだが「それが大変な才媛を

迎えたのだからただの人ではなかったのだ」と驚いた人も多かった。「『都の花』の松

竹梅のことはどうなりました?私もいよいよ19日には鬼ヶ島に移ることになったので

なかなか暇もないけれど、心はのどかなので短編ならば書けそうよ。イタリアの小説を

英訳した小説を父から聞いたので、翻訳というほどでもなく意訳くらいにして金港堂に

送れば松竹梅に入ると思うけれど、新年の付録というだけでも華々しいのに、女流三人

でなどとは目立つでしょう、夫になる人は派手嫌いなので、嫁いですぐにというのも

どうかとは思って…。あなたと秋香さんとならまだよいのです、彼女は三宅とは多少の

縁があって、13日に小石川の植物園で披露宴をしてからはおつき合いするようになるか

ら。ただ聞いたところでは竹柏園さんに決まりそうなので、そうなると不都合なのよ」

と笑った。「ですから二人で一緒に出しませんか、金港堂でなくても春陽堂でもいい

し。何か作品はないの」と聞かれたので「私は例の遅筆でこれというものもないけれ

ど、前から書いているものがまとまりそうなのでそれを一緒にしていただけたら嬉しい

です」と答えて語り合った。お昼をいただいてしばらくして出た。2時頃だっただろう

か、番町から車に乗って三崎町へ急ぐ。北風がとても強くて身を刺すようだった。

 

 月日を隔てて狂おしいまでに思い乱れていたのは私だけで、あなたはそうも思わなか

ったことでしょう。心にもない別れ方をしたあの頃は、人から様々に言われた言葉ばか

りがつらくて分別をつける暇もなかったのです。それを今さら取り返したくともどうし

ようもありません。私も最初から好意を持っていましたが、あなたはさらに情深く、

並々ならぬ思いやりを持って下さったことを思うと、「何でこんなことになったのか、

世の人からつまはじきにされても朝に夕に声を聞くことができたなら、生きる甲斐が

あったのに」とあれこれ考え、あの人も私も、世の中までもがとても憎いのです。

 

 「まず何と言おう、先生の心もわからないのにいきなり長く会えなかった悲しみを

話すことはできない、といって『都の花』のことから始めるのも侘しい」などと考えて

いる間に先生の店の前に着いた。今さらながら気後れして声をかけるのもしばらくため

らわれた。ここは新開の町なので華々しく、行き来する人が多い。先生の店も立派な

葉茶屋なので出入りする人が多く、気後れしている私は人から見られているような気が

して恥ずかしい。手紙はすでに届いていたようで先生が言っておいてくれたのだろう、

賢そうなお使いが急いで迎えに来て『こちらへ』と言う。店と奥の暖簾口に立って招い

ているのは見覚えのある女中だった。遠慮しながら入っていくと六畳ほどの部屋に机が

あって、先生がゆったりと寄りかかっていた。見上げると何も言わず微笑んだ。嬉しい

などという平凡な言葉ではすまない、ただただ胸が躍るばかりだった。ああ言おうこう

言おうと思っていたことが全て消え去ってしまい、もう何も言えないのだった。かろう

じて「今までいかがお過ごしでしたか、ずっと忘れたことはありませんでしたが、思い

がけず月日が経ってしまいました。ご病気が治った後はお元気でいるだろうと思って

いましたが、先日女中さんに会った際『何となく弱ってみえる』とお聞きしました。

大丈夫なのですか」と言いながら顔色を見ても、ただにこにこしているばかりで言葉

少なく、何か思うところがあるようで心苦しい。「都の花」のことを話すと「それは

よかった、どこかに書けるのならば喜ばしいことだ、仲間内ではみな君を惜しんでいた

のですよ」と言う。「先日明治女学校の教師の何某という人から『武蔵野』に連絡が

来て『女学雑誌』に執筆してほしいという依頼があったが、今は差支えがあってしばら

く書くことができないようだと断ってしまったのは、出過ぎたことでしたね。もし出せ

るようならいつでも言ってください、すぐに紹介します。決して君の名前を汚すことに

はなりませんから」と言う。言いたいことは多いけれど人目があるので言い出すことが

できない。先生も何か言いたげだが黙っている。「畑島のお母さんがおととい急に亡く

なってしまったのでこのところ通って手伝いをしている」と言うので、では私の手紙が

届いたのでわざわざ戻ってきたのか、申し訳なかったと思う。店が忙しくて先生も落ち

着かずに立ち働いているので何となく悲しい。病気の後随分痩せてしまい、見上げる

ような人だったのがほっそりして、客であれば女中のようなものにさえお辞儀をして

いるのを見ると痛ましい。商売だと思えばつらいこともないのだろうが、見た目には

とても侘しかった。「今日いつもより繁盛しているのは君が来たからですよ、こんな

福の神が来たのだからご馳走しないわけにはいかない」と女中を呼んでお菓子を買いに

行かせた。こんな風に隔てなく話してくれるのになぜか前のようではない気がして、

ただただ心細い。「新開町だからあまりよい物を売る店もなくて、大した菓子ではない

が許してください。世の人から場所柄この店も同じように思われているが、一度買った

人は皆驚いて『三崎町にもこんなところがあるのか』と常連になってくれるのでなかな

か繁盛しているのですよ」と笑いながらいつもの冗談を言うので「それは当然です。

お店だけでなくご主人が鶏の中の鶴なのですから」とかろうじて言うと「それはほめ

過ぎだ」と大笑いした。人気が少ない時に近くに寄って「何をおいてもなかなかお目に

かかれないのが残念です。つらい世の中なのに話のできる人もいないようで心細くて

なりません」と言うと「私などでは何の助けにもなるまいが、もし何か相談事があった

らこの裏道はほとんど人通りがないので、そこから来れば人目につきませんよ」とささ

やいた。「いえ、こっそり行くのが嫌だからこんなに苦しんでいるのではないですか」

と言いたかったが言えずに、何もかも言い残したような思いで別れた。

12月7日

 半井先生から手紙が来る。「『朝日新聞』に以前連載していた『胡沙吹く風』を単行

本にまとめて出版する予定なので1首恵んでいただけないだろうか、ご都合があれば

他人としてでも、匿名にしても結構です。本来伺ってお願いすべきところだが、例の

はばかりある身でご迷惑をおかけしますから」とあった。すぐに返事をしたためる。

歌を1首、そうよくはないが主人公の林正元を詠んだ。こんな風に時々連絡があれば、

とても嬉しいのに。

20日

 過ぎた去年を思い出すとまさに今日だった。半井先生から私に「話したいことがある

が人前では言いにくいので、夜にでも来てくれないか、帰りは車で遅らせるから」と

連絡があったが母が許してくれるはずもなく、翌朝平河町を訪れたのだった。大した話

でもなく、何やら怪しいこと(弟龍田浩が鶴田たみ子を妊娠させた事件)をほのめかし

たようなことがあったなどと思い出していると、龍田さんが来たのだった。頼まれた歌

を取りに来たので少し話をし、お菓子を出すと気持よく食べていた。縁ある人だと思え

ば何とも懐かしい。帰る時に母がお菓子を包んでお兄様へのお土産と渡したので、龍田

君より私の方が嬉しさこの上なかった。折々のそんなはかないことまでとは思うが、

書けば少しは気がまぎれる。哀しい、空しいことだ。

 

よもぎふにつ記

 

 気にかけまいとは思うが、まったく貧乏とは全てを妨害するものだ。すでに今年も

師走の24日になってしまった。迎える年の支度など身の程程度には忙しいが、月初めに

三枝さんから借りた金は残り少なくなり、奥田に利子を持って行ったらもうなくなって

しまう。餅の用意はどうしよう、家賃はどうしよう、お歳暮をどうしよう。「暁月夜」

の原稿料がいまだに入って来ず、他に一銭も入金の当てもないのに今日は小石川の稽古

収め、福引きの催しがあっても心苦しいばかり。朝から立ち働いて引き当てたのは最中

ひと箱だった。帰ると邦子が待ち構えていて「これを見て、今龍子様から来ましたよ、

喜んでください」と見せたのは葉書で「新年早々女学雑誌から『文学界』という雑誌が

発行されるので、あなたにぜひ短編小説を書いていただきたいと出版社から依頼があり

ました」とあった。「話もいろいろあるので暇があったらおいでください」と最後に

書いてあったのですぐに「あさって伺います」と返事を書いた。家では「このように

出版社から依頼が来るようになったら、もう立派な作家だ」と喜ばれたが、最近読んだ

早稲田文学」の「文学と糊口」という一文を思い出すと恥ずかしいばかり。

26日

 昼を早く済ませて番町へ行く。「三宅さんには初めて行くのだから何か土産を」と

言われるが「いえ虚飾などない方がいいのよ、それを気にするようでは哲学者の妻と

は言えません」と笑って出る。田辺家より一町ほど手前にあり、女学雑誌社の通りから

少し入ったところにある格子造りの家だ。向かいに1、2軒家があって長屋めいたところ

だったが座敷の数は10ほどもあり、中もそう見苦しいことはなかったので思ったようで

はなかった。志賀重昴さんが先に来ていてふすまの向うで三宅氏と話している声がはっ

きり聞こえる。ここでもしきりに金の話があり「500円何とやら、宮崎が今必死でやっ

ているので君がいくらか出してくれたら残りは僕が何とかする。もちろん僕にも金は

ないが、何とかするから」と言っているのは志賀さんのようだ。ご主人の声は低くも

ないがどもりがちなのでよく聞き取れず、とぎれとぎれに話していたが、貧乏神はどこ

にでも現れるとおかしかった。龍子さんは生れてはじめて木綿の着物を着たということ

だったが、憂いた様子がないのは内心誇りに思っているからだろう。志賀さんが帰った

後、三宅さんも同席したが、初対面は窮屈なもので向こうにも私にも話すことがない。

困り果ててふすまの向うへ行ってしまった。

 「雑誌は女学雑誌社の北村透谷と星野天知の二人が創立して、はじめは『葛衣』と

名付けたのですが『文学界』に改めたのです。それにはいわれがあって」と龍子さんの

意見が用いられた話をした。「私に和歌の欄を持ってくれと依頼があったのだけれど

『そんな力はないし、暇もないので私一人ではできません、誰かもう一人いてくれたら

何とかできますが』と僭越ながらあなたのことを持ち出したのです。『歌はどなたと

組んでも構いませんが、一葉女史のことは以前『女学生』に論じましたが、その構想に

感じ入ったのでぜひ小説をお願いしたい、あなたからお願いしてくださいませんか』と

星野さんから手紙が来たのです。星野さんの批評は見ました?」と聞くので「いいえ

知りませんでした」と答えると龍子さんも「私もよ、見てみたいわね。ともかく小説は

是非お書きなさい、一つにはご名誉に、もう一つは今後のためになるのですから」と

言ってくれた。31日までにとの約束をしておいとましたが、さておぼつかないことだ。

帰ってすぐに机に向かい墨を摺ったが、構想はなかなか浮かんで来ずに一日が終わって

しまった。

27日

 亡き兄清光院の祥月命日。茶飯を炊いて久保木の姉を呼んだ。芝の兄も来るはずだっ

たがどうしたのか来なかった。上野房蔵さん、奥田の老人も来たので茶飯を振る舞っ

た。金港堂からの原稿料はまだ来ない。明日は28日なので餅をつかない訳には行かない

ので2円調達した。これは奥田に払う利子を廻したものだったが、老人が来てしまって

は待ってくださいとも言えず手元の金をかき集めて2円払う。もう2円50銭払わなけれ

ばならないのだがこれは元金の分なのでもう少し待ってもらうよう頼んだ。「明日岡

から餅が来たら何と言おう、榛原に頼んでいた醤油と酒も明日届くのに、その支払いを

どうすればいいのか」と顔を見合わせ、ため息を飲み込むのもつらかった。奥田の老人

が帰ろうとした時郵便が届き、急いで開けてみると藤蔭氏からで「『暁月夜』の原稿料

を明日28日に両替町の出版者でお支払いします。午前中に来てください」とのことだっ

た。運とはこうも円滑に巡るものだろうか。

28日

 夕べから野々宮さんが来ていて今朝もまだ帰らない。台所では母が餅つきの祝いに

お汁粉を作ろうと忙しくしている。私も岡埜が来る前に金港堂へ行ってお金をもらって

来ようと10時だったが出ようとすると、野々宮さんも一緒にと言って真砂町まで行く。

伊東さんにも借りた金があり、期限を決めてはいなかったが放っておくわけにもいかな

い。通り道なので寄ってお詫びをすると、夏子さんが話したいことがたくさんあると

言い、私もあるのだが「今度ね」と別れた。ここから車に乗って本両替町の出版社に

行き、藤樹氏に会って「暁月夜」38枚分の原稿料11円10銭を受け取った。

 

 16歳の頃九十五銀行に用があってこの前を通ったことがあった。洋服姿の若い男が

立派な車に乗ってこの出版社に入っていくのを見て「なんと見事で立派なのだろう、

若い作家のようだが小説のことで出版社に出入りしているのだ。一本の筆で身を立てて

着飾り、人から尊敬される素晴らしい職業だ」と思った愚かしさ、私も拾った車とは

いえ毛皮の前掛けがかかって、車夫の背縫いの文字が私の苗字であるかは誰にもわから

ない。古着とはいえ絹重ねを着て、手に持った頭巾は、もう無理だという紺屋に頼み

込んで染め直してもらい、伸子張りもできないほど弱っているので今朝火熨斗をかけた

代物だ。「かぶらなくても手に持っていればこの寒空でもみすぼらしく見えないから」

との母の工夫であるとは誰も思うまい、私も昔は何もわからなかった。

 

 こんなあさましい文学者が家に帰った頃には、餅も醤油も酒も届いており支払いも

できた。家になごんだ風が吹いたが、何ともはかないことだ。午後から中島先生に暮の

挨拶に行く。中村さんから私へのお歳暮と、ちりめんの帯揚げを取り次いでいただい

た。先生に頼まれて小出先生にお歳暮を持って行く。帰り道、原稿料は10円だろうと

思っていたがそれ以上あったので、落ちぶれた稲葉のことを思うと、昔は親しくして

おり、今はこちらから頼むこともないが決して仇と言うわけでもない、血を分けては

いないが乳兄弟として姉ともいえる人であるから、喜びのおすそ分けをしようと柳町

裏長屋にお金を待って行く。昔は三千石の姫と呼ばれて白い肌に綾錦を欠かさなかった

人が、髪の毛はススキのようにばさばさで結うこともないのか油気もない。袖なしの

羽織をみすぼらしげに着けて私にも恥ずかしいのだろう、下を向いて「こんな見苦しい

家でお茶を出すのも失礼なので」と侘し気に言うので涙が出そうになる。6畳の畳も

擦り切れに切れてわらごみのようになり、障子の一か所も紙の続いたところがない。

昔の形見と言えるようなものはみじんもない。布団もない、手回り品もない、粗末な

火鉢に土瓶をかけて、小鍋立て(贅沢な食事)の面影などどこにもない。ご主人はこれ

から仕事に出かけるところで筒袖の法被を肌寒そうに着け、あんかを抱えて夜食を食べ

ている様子も寂しい。正朔君は私の土産を喜んで、紅葉のような手で握りしめたまま

離そうとしなかったが「仏さまにお供えしなさい」と母に言われて仏壇のようなところ

に置いた。「何事もご時世ですから、また春がめぐり来ることもありましょう、正朔君

がいるのですから力を落とさないでください。かよわい体なのですから心を痛めて病気

になっては、それこそ取り返しのつかないことになりますから」と慰めると「聞いて

ください、この子は『大きくなったら陸軍の大将になって、銀行からいくらでもお金を

持ってきてお父さんお母さんに楽をさせてあげますよ』威張って言うのですよ」とさす

がに頼もしげに笑って言った。「また来ます」と出れば夕風が吹いて、大通りはすでに

暗くなっていた。

 

 29日30日の両日は必死に著作に従事。明け方少しまどろむだけで、なんとか31日

に間に合わせようとして大変苦しむ。30日には上野の伯父が歳暮に来たので、一日筆を

取れなかった。その夜も11時まで灯の下にいたが、邦子が「名誉も命あってのこと、

こんなになるまで頭を使って心をすり減らして、病気になったらどうするの、見ていて

もとても苦しいから小説は断ってしまって今夜はもう寝てください」と繰り返し諫める

ので、「それもそうね」と筆を置くと、心身ともに疲れて急に眠くなった。

31日

 早朝三宅さんに断りの葉書を出した。一日家の掃除をして、日没前にすべて片付けた

ので邦子と買い物がてら下町の景気を見に行った。本郷通りから明神坂を下り、多町で

買い物をし、小川町の景気を眺めて三崎町へ行く。半井先生の店先を覗いながら邦子が

「若い人が髪をきれいに飾っていて、女中ではなさそうな振舞いをしているので奥さん

じゃないかしら」と言う。大阪の富豪の娘が先生にご執心と聞いたが、持参金を持って

嫁に来たのだろうか。いくら働きのある人とはいえこれほどの店を簡単に持つことは

できないから、金の出所はそこに違いない。世の中とはそういうものだとため息をつい

た。帰り道、富下坂で邦子が拾い物をした。大変のどかな大晦日で、母が「家を持って

以来この年の暮れほど心が楽だったことはない」と大変喜ぶ。9時という早さではあっ

たが戸を閉めて就寝。