につ記

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27日 雨

28日

 号外があり「北航船鼎浦丸が難破し八戸鮫浦字大久喜に漂着。乗組員は一人も見えな

い。おそらく三番艇と同じ終末となったと思われる」とある。悲しむべきことだ。

29日

 曇り。どうにも困って伊東夏子さんに金を借りに行くと快く8円貸してくれた。昼過

ぎまで話をした。宗教のこと、哲理のことなど話はなかなか尽きない。反対意見が多い

のだが、二人で心を打ち明けて話すことが楽しい。邦子は吉田さんを訪ね、野々宮さん

のこと、喜多川さんのことなど奇談やら醜聞をいろいろ聞いてきた。この頃聞くところ

見るところ、清く潔いことが少なくて、このようなあさましいことばかりなのは、世の

中が全体的に濁ってきているからだろうか。一方伊東夏子さんや平田禿木さんなどの

ように年若くまだ世故に慣れない人達ではあるが、心より神を慕い神を敬い、道義の光

を起こそうとしているので、あながちに濁っているとも決められないだろう。思うに、

一葉生じて一葉落ちるのは天地の定めである。まさに今大いに大宗教が起こり、大教理

が行われようとしている兆しかもしれない。一方、世の中はどこまで乱れていくのか。

19世紀の孔子釈尊はどこに眠っているのだろうか。天下は来たるべきものを迎えよう

としている。詩歌文学は下り坂に見えるが、それもまた大詩人大歌人の眠りを覚ます

ものなのかもしれない。ことをなすべき人の舞台は目の前に迫っているのではないかと

楽しみになる。

 この夜郡司大尉が鮫浦で自殺をしたとの凶報があった。また別の報では変死であり、

現場に判事、検事が出向くともある。家で取っている「国会新聞」の報では大尉は自殺

ではなく、過失で負傷し傷も大きくはないとのこと。

30日

 雨。大尉のことを思うと朝から悩ましい。国会新聞によると破損した船体を焼却した

際、右目に火傷を負ったそうだ。

31日

 珍しく晴れた。郡司大尉の変死の報は針小棒大の偽りで、軽傷を負って5日ほどで

完治するだろうとのこと。

 姉より兄が受け取るべき金が届いたので、すぐに兄に送る。

 芦沢君が来て1円預かったので、前のものと合わせて2円90銭になった。

 今日も空模様が悪く1、2度雨が降り、夕方から晴れた。山梨県の伊庭隆次から葉書が

来た。雑誌を買い求めてほしいとの依頼。

水無月1日

 晴れ。中島いくこ様の一周忌のお菓子が到来し、明日式があるので招待された。おこ

う様が来たので古浴衣を渡した。久保木の姉が来た。平田禿木さんから『文学界』の

ことで手紙が来た。この夜はお風呂に行き遅く寝た。

2日

 曇り。この日は天皇陛下が土方邸に行幸した。午後から中島先生のところへ行く。

雨になった。会したのは5人で本当に内輪の集まりだった。夜になって帰宅。伊東さん

から読売新聞を借りたので12時頃まで読む。

3日

 珍しく晴れ。今日は皇后陛下が土方邸に行啓。「北航遠征記」を読む。遭難の顛末を

詳しく知ったが、一読三嘆とはこのようなことをいうのだろう。大尉の心中を思うと

痛ましい。

4日

 晴れ。小石川の稽古に行く。午後番丁に三宅さんを訪ねる。一月以来初めて行ったが

「家事にひたすら追われ、世の中のことも文学のことも耳に入らない」と、とても冷や

やかになっていた。少し話して帰宅。

5日 雨。山梨から広瀬さんが来て一泊した。

6日 

 晴れ。稲葉の息子さん、菊池のご隠居、兵隊(芦沢)が来て一日ごたごたした。

7日

 晴れ。稲葉君、西村さんが来た。藤田東湖と亀田鵬斉の書を人から頼まれて売りたい

のだが、中島先生やお仲間で誰かいないかとのこと。

  片々(雑報の意味)

 やかましいものは、弁護士会長選挙の騒ぎ、角石事件、花房氏とマーエット氏のもめ

ごと、市ノ川鉱山事件。

 勇ましいものは、福島中佐の遠征が済み、近々帰って来るとのこと。

 あわれなものは郡司大尉一行、軍艦磐城に曳航され5日に函館に入るとのこと。

 隣で騒がしいのは、朝鮮の東学党。鎮火してはまた燃え上がる。

8日 

 晴れ。寺島宮中顧問が亡くなったとのこと。夕方江戸川付近を散歩し、田中さんに

お手本を持って行った。夜号外が来て、吾妻山が三回目の爆発をし、調査技師の三浦

宗三郎、同行の西山総吉死去とある。痛ましいことだ。

9日 曇天。

10日

 雨。三浦宗三郎、西山総吉両氏とも妻が懐妊中だったとのこと、重ねて痛ましい。

 この頃の大取物

 河内10人斬り事件の犯人は二人で、金剛山に立てこもった。管下の警察が探し回った

が捕らえられずに、二人は自殺した。

 片々

 郡司大尉の一行はボートをやめ汽船で行くとのこと。

 

 なぜ待つのかはわからない、それに待つ当てがあるわけでもない。聞いて嬉しい便り

か、聞かないことがかえって幸せなのか、どちらなのかもわからない。「表を走る郵便

屋さんが家に寄りますように、あの人の便りでありますように。一人は空しく走り去っ

たけれど、次の人こそは」と窓に寄っていつも待っている。はかなく通り過ぎるのも

憎いが、隣に入っていくのも憎い、表札をしばらく眺めて「違うな」と言いながら行っ

てしまうのはさらに憎い。

  わすれぐさ などつまざらんすみよしの まつかひあらむものならなくに

   住吉の松のように待つ甲斐もないので 忘れ草を摘みましょう

恋が心にあると身にはつらい、

 沖つ波きしのよる辺とねがはねど くだくるものはこころ成りけり

  沖の波が寄せる岸になるなど望まないが、心が打ち寄せ砕け散る

 もろともにしなばしなんといのるかな あらむかぎりは恋しきものを

  生きている限り恋しいので、一緒に死んでしまえたらと祈っている

 久方のあめにまじりて我おらむ みえぬかたちは人もいとはじ

  雨の姿になってしまえば、あの人も見えない私を嫌わないでしょう

  (会いに行く日はいつも雨だったことから)

去る者は日々に疎しと他人事のように言ってはいるが、

 しげりあふ まどのわかたけ日にそえて うとしやなにのこと葉なるらむ

  窓辺の若竹は日毎に繁ってゆく、疎(まば)らに生えるのは何の葉なのだろう

  (思いは日毎に募ってゆく、疎いとはどんな意味だったかしら)

雨ふる日、その人の著書を見る。

 かきくらしふるは涙かさみだれの 空もはれせずものをこそおもへ

  暗くして降るのは涙か五月雨か、空(心)は晴れることなくもの思いする

見るのも心憂いが、見ないのもつらい。

 くりかへしみるに心はなぐさまで かなしきものをみづくきのあと

  繰り返し見ても心は慰められない、手紙の文字も悲しいものとなってしまった。

 

11日

 晴れ。昼過ぎに芦沢さんが来る。雨が少し降った。今日は梅雨入りだ。

  片々

 ひうちなだ事件が少し収まる。

12日

 雨。寺島宗則氏の葬儀があるそうだが、道が大変だろう。お寺は海曇寺だということ

だ。今日は珍しく過ぎた鶯の声が絶えず聞こえ、ホトトギスと競うようにしているのが

おもしろい。早朝星野さんから葉書が来て『文学界』への掲載作の催促だったが、断り

の葉書を出した。

13日

14日 大石公使が帰朝、新橋停車場での出迎えのは万雷の喝采だったとのこと。

15日 雨。芝の兄が来た。

16日 雨だった。

17日 曇り

18日 清水の次郎長が亡くなり、今日葬儀があった。会したのは千人余り。上州、

   武州甲州博徒の長たちだけでも五百名にもなったとのこと。

19日 晴れ。日没後邦子と摩利支天にお参りに行った。

20日 晴天。

21日 

 曇り。山梨から芦沢芳太郎の着物が届いた。小説ができないので今月も一銭も入金の

当てがない。 

22日

 晴れ。今日は邦子の誕生日だが、25日にお祝いすることになった。夜母と近所を散歩

した後、小石川に行って中島先生にご機嫌伺いに行く。風邪をひいたと臥せっていたが

話すことは多かった。「みの子さんの品行が日増しに乱れていくようだ」などと言う。

「伊東夏子さんはキリスト教に敬虔なのはよいが、偏りすぎてしまってあのままでは

この先どうなるかと思う」とも言う。「夏子さんはともかくみの子さんがあのように

好色なのはどうでしょう、嘆かわしいことです。内々では済んでも、他から見て萩の舎

の名誉が傷つくようなことはあってはなりません。私は無学でよくわかりませんが、今

の世に文や歌に携わる女性でしかるべき人は全くいません、先生の門下からは、学は

ともかくとしても道徳心の高い人を出したいものです。田中さんの不道徳は今に始まっ

たわけではないですが、何とか教え諭して正道に戻すことはできないのですか」と聞く

と先生はうち嘆いて「いえだめです。みの子さんは元々候補にはないのです、ここだけ

の話ですが、鳥尾広子さんがこの頃歌に自信を持ってきて世に出たいと願っているよう

です。しかしそれは虚栄心であり誠の道を志すとはいい難いものです。伊東夏子さんを

こそとは思うのですが、裕福で苦労のないお嬢様がただ時世に乗って(たしなみとして

歌を習って)いるだけで野心がないのです」とお弟子のことをひたすら悪く言うばか

り。先生は私には親も同然なので思うことをこのように言うのだろうが、表向きその場

に応じたきれいごとばかり言っても、右は左に、左は右となって私の友達の誰彼を批判

し軽蔑しているとは道理に合わない。私のこともそのように言っているのだろう。

「いや、もうよい、昔はこのようなことをとても憎んで『友達の中にそんな人がいたら

付き合うものか』などと思っていたが、今思えば人が私を汚すことはなく、その程度の

人がその程度のことを言うだけなのだから、真実がわからないことに惑わされだら後で

どのような災難になることか」と決め、差しさわりない話をして帰った。先生が家計が

大変苦しいと言うので「そんなことはないでしょう、山海の珍味を味わい、身を飾って

もお一人のことではないですか」と言うと「私だけのことなら問題ないのです。兄が

困難に陥り、助けるために今春からどれだけ苦労したかわかりません、しかしよくなる

兆しもなく今だにめどがつかないのです」と言う。「なんだ、お兄さんに自分の不徳の

罪を押しつけて。聞くだけ気分が悪い」と思うのは全てを聞いていないからだろうか。

23日

 晴れた。芦沢君が明日から鎌倉に行軍なので今日は休みだと言って来た。特に何事も

なく終わる。日没少し前に母と右京山に花を見に行く。今晩から蚊帳をつり始め、早く

寝た。

  盛んなもの

 福島中佐の歓迎沙汰。噴火で亡くなった西山さんへの義援金。どちらも当然のことで

大変嬉しいが、何事も名ばかり尊ぶ世の中なので本当のことは… 

  かわいそうなもの

 郡司大尉一行が択捉島に着いたというのでほっとしたが、これからどうなるのだろう

か。先行した人たちが食料が足りずに亡くなったと聞いているのに、蓄えをいくらも

持たずに出立させたとはかわいそうだ。気がつく人がいなければならない。北海道は

紳士の遊び場ではないのだ。身を捨てて国に尽くそうとする人たちなのに。

25日

 晴れ。昼過ぎ夕立があった。行水をして邦子と一緒に天王寺へ中島先生のお母さんの

お墓参りに行った。それから根岸に行って御行の松を見た。その辺りの田んぼでは早苗

を取る最盛期で、日が暮れるのも忘れて見とれてしまうほど趣深かった。邦子が蓮の葉

と里芋の葉を間違えたのがおもしろかった。帰りは阪本通りに出て、五条天神のお祭り

を見て池の端から帰る。夕暮れに差しかかり、芸妓たちが行きかうのを見るのは風情が

あった。競馬場では福島中佐の歓迎式典をするために火を焚いて工事を急いでいるのが

賑やかだった。家に近くなると雨がぱらついたがしばらくして晴れた。ともしびの下、

一人で夜遅くまで読書をした。

26日 晴れ

27日 晴れ。金策に出る。・・・・・・・この夜小柳町より失火。山下兄弟が来た。

28日 山下次郎君が来た。

29日

 晴れ。福島中佐の帰郷のための歓迎会はさぞ華々しかろうと思い、母に見せたくて昼

から一緒に上野に行く。このことはとても書ききれない。3時頃帰宅した。伯父と清次

君が来た。上野に行った帰りだということだった。私はすぐに一昨日頼んだお金はどう

か聞いたがだめだったという。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊東さんの

ところから帰ったのは日没後だった。この夜家族で真剣に話し合って商売に就くことに

した。前から思わなかったことでもない、むしろ願うところであったが母はただただ

嘆いて「お前の志が弱く、身を立てようとする気持ちがないからこんなことになるの

だ」と責め立てる。家財を売っても、商売を始めてもそのことで私の心が変わるもの

でもないのに、年取った人はものの表しか見ずに良し悪しを決めてしまうのだ。世渡り

が難しいのは何をしても同じことだ。これから行く道は大変困難だろう。しかし私たち

姉妹は世の人に何と言われようと省みずにただ自分達が正しいと思う道を進むだけだ。

霜柱が崩れたらまた立て直すだけのこと。

30日

 早朝母が鍛冶町に貸したお金を返してもらいに行った。芳太郎君からの預かり金は

2円40銭になった。