塵之中

f:id:utsuginatsuka:20210923084538j:plain

 「落ぶれてそでに涙のかかるとき人の心の奥ぞしらるる」(落ちぶれた時こそ人の本当

の心を知るものだ)とはよく言った言葉で、不自由のなかった昔、私は人はみな情け深い

ものだと思い、それはいつの世も変わりはないと信じていたが、生きることの困難は

世の人の人情が不安定だからなのだと知った。父や兄が生きていた頃の私と、今のよう

に落ちぶれた今の私は、見た目には何の変りもないけれど、今までの心模様を思い返す

と、浮き世と同じように移ろってきたようだ。だからこそ義人君子と呼ばれるような人

は少なく、貞女孝子など稀にしかいないのも当然である。人はただその時々の感情に

追われて一生を送るものなのだ。ああはかない、そして哀れな世界。西村釧之助は昔は

私の家に非常に親切だったものだが、最近のつれなさで、その心が変わったことが目に

見えるようにわかる。もし私が邦子をやろうと言ったら今すぐに手の平を返すように

態度が変わるだろう。おかしな世の中だ。ここにはこのような恋がからんでいる。昔は

家の方が家柄が高く向こうは低かったので、欲心から妹を欲しいと願っていたのだが、

時が移り変わって家の方が貧しくなったので、今度はもらってやると、恩を着せようと

しているのだ。私たちが従う気配がないのでそれを憎んで、悔しがって今度のことを機

に、思いのままに私たちを苦しめようとしているのだ。これは私の考え過ぎで、もしか

したらそんなことはないのかもしれないが、あちらほどの家に5円や10円の金がない訳

がない。もし家になくても友や知人の多い人なので、男として何とかしてくれるべきで

あろう。まして私の母が頭を下げて頼んだのに、などあれこれ考えているとやはり彼は

私に仕返しをしているのだ。もしそうなら徹底的にしてみろ、樋口の家に二人残った娘

たちは、骨なしでもはらわたなしでもない(性根が座っている)、正道には従うが、敵に

背中を見せる私たちではない。この虚無の浮き世にいい死に場所があればそこで死んで

みせる。釧之助風情に何で頭を下げるものか。しかし今は母のために穏便に済ませよう

と再度手紙を書いてみて、その返事次第かと考え直しもする。

26日

 雨。西村に手紙を出す。できるだけ丁寧に、ひたすらお願いした。母は中之町に仕立

物のことで行った。午後に仕上がったものをまた持って行く。私も母も今日は例の血の

道で横になっていたが、母は日没前に三間町に見舞いに行った。あまりよくないようだ

った。今日は一日寒くて綿入れを着る人もいた。

  あはれいかにことしの秋はみにしまむ すみもならはぬやどの夕かぜ

   今年の秋は特に身に沁みる、住み慣れない家に冷たい夕風が吹く

  いづれぞやうきにえたへで入そむる み山のおくと塵の中とは

   つらさに耐えきれずに行くとしたら、山深くと俗世どちらがいいのだろう

「ご隠居様」と呼ばれたのは昨日まで、ここに来たら誰も昔を知る人がいないのだから

どのように下品な下町風に呼ばれるのかなどと話していたら、お隣の奥さんがやはり

「ご隠居様」と言った。場所柄そのように呼ばれるとは思いもしなかった。

27日

 晴れてはいるが涼しい、と言うよりも寒いと言った方がよい。24日の寒暖計は正午に

93、4度(34℃)だったがその夜から下がりに下がって、25日は70度から80度(21~26℃)

夜になって60度(15℃)にまでなり、昨日も今日も70度台だ。昼過ぎに戸籍のことで区役

所から呼び出しが来て、母が地主に判を押してもらいに行った。西村が来て頼んだほど

は用立てできなかったと3円持ってきた。

 再燃しているのは、

  相馬家の毒殺事件。どう収まりがつくのだろうか。

  大石氏が辞任し、大鳥氏が清国と朝鮮の公使を兼任しているが、朝鮮の勢いが強く

 なっていると聞いた。

  杉浦重剛氏が朝日紙上で「日支(中)の関係」を論じた。同感することが多かった。

28日

 晴れ。寒暖計は80度。午前中区役所に行くと戸籍上に違いがあり本郷区役所に照会

するなどして今日中に済まないようだった。この夜おわかに頼まれて伊三郎に手紙を

出した。

29日

 晴れ。お千代さんといそじさんが来て昼まで話をし、羽織を一枚頼まれた。酒井さん

の娘2人が私に家庭教師を頼みたいとのこと。あとは特に何もない。夜伊三郎から先日

の返事が来て、頼んだ金は必ず送るとのこと。母は今日望月さんに例のもの(利子)を

取りに行くが、一銭も持たずに帰った。

30日

 晴れ。何事もない。夕方吉田さんと野々宮さんが来た。野々宮さんは27日に帰京する

とのこと。婚約が調ってその支度のためだとは前から吉田さんに聞いているが、知らん

顔をしていた。野々宮さんが何か言いたげだったのがおかしかったが、吉田さんにはば

かってか何も言わなかった。その後みなで絵燈籠を見に行った。歩きながらいろいろ

おしゃべりし、おもしろい話が多かった。帰ったのは10時頃。岩手土産として名物の

豆銀糖というものをいただいた。味はあまりよくないが珍しい。松島の写真3枚と竹の

印材もいただいた。

31日

 早朝雨が降ったが、少なかったので一日中蒸し暑かった。邦子は仕事のことでいろい

ろ思い悩んでいるので、吉田さんや野々宮さんに相談してみたら何かいい案があるかも

しれないと、夜二人で池之端の吉田さんを訪ねた。帰ったのは9時。甲府の伊庭さん

から転居見舞いの葉書が来た。伊勢久からおいくさんが来たとのこと。

葉月1日

 晴れ。芦沢君が今朝習志野から帰ったとやって来た。中之町の燈籠が今晩から人形に

なるとのことで、前の通りを走る車がおびただしい。母は散歩がてら見に行った。私は

「(兵法)七書」を読む。午前中母が伊勢久に頼まれた仕立物を持っていくと、大変褒め

られたとのこと。

2日 

 晴れ。一日何もなし。日が暮れてから望月の奥さんが25銭持ってきた。広瀬さんから

も為替が来た。夜家族会議をした。

3日

 曇り。早朝家を出て根津片町のほうずき屋を訪ねた後、上野を抜けて郵便局で為替を

受け取った。7円。それから門前町に回って問屋に送ってもらうものを頼んだ。帰って

すぐに伊勢利に葉書を出す。母は広瀬さんから来た中から2円を持って、おわかさんに

渡しに行く。芳太郎君が朝から来ていた。昼過ぎに時々雨が降った。

 

 陽が暮れてから邦子と絵燈籠を見に行く。人形に変わるところを見に行くため。帰り

は雨になった。人形は安本亀八と弟子の作で、ここは東京名所となっている。

 毎晩廓で心中物などを三味線に合わせて謡っている女がいる。年は30をいくつ過ぎて

いるだろうか、水色のうろこ紋の浴衣を着て、黒繻子の丸帯を締め、手ぬぐいを吉原

かぶりにして、柄の長い提灯を襟に差した様子は小粋でしゃんとしてその昔は何だった

のか、芸者のなれの果てなのだろうか、いまだ衰えない色香を封じて商売をしているの

は、悟りの末の聖人のようにも思えるが、自分を買いかぶっているただの歌自慢で、人

に喉を聞かせたいだけなのか。人がひやかす格子の中から「ちょっと一服」などと袖を

引かれ「上がりなさい」「上がろう」などの駆け引きに心浮かれた戯け者にはわからな

いだろう。(粋が身を食う思う同士、二階に呼ばれて忍び足、垣根につたう蔦の門、松

の大夫とささやきの、哀れ命を引け四つ(午前二時の閉店)の鐘に限り、鴛鴦瓦上置く霜

の:端唄や都都逸の文句)「明日を待たずに」と心中を思い詰めた身(真剣に恋をした

もの)にはどんなに身に沁みる声だろう。細く澄んだ声を張り上げて、三味線の音色も

しめやかに、大通りや路地を流して歩く後ろ姿こそものの哀れというものではないか。

 おとといの夜、家の門の前を通る車の数を数えてみたら10分の間に75台だった。これ

から考えてみると1時間には500台にもなる計算だ。吉原がどんなものかわかるというも

のだ。とはいえ多くは女連れの冷やかし客ばかりで、茶屋や貸座敷の収入は少ないと

聞いた。伊勢久でも客が一人もなかったという夜があるそうだ。そんなものだろう、

この夜は9時まで見ていたが、茶屋の名前の付いた車で送られた客は一人も見られなか

った。しかし角海老だけは大変景気がよく見える。同じ夜江戸町で迷子を助けた。4歳

くらいの男の子で何もわからないのには困った。後でわかったことだが両親以外に男女

2、3人連れで、それほど込み合っていたわけでもないのに迷子にさせた親は、どれだけ

うかうかと見歩いていたのか。我が子を探し当てたというのに、私たちにもろくにお礼

を言わず向かいの横町へ行ってしまった。おかしな人がいるものだ。

4日

 晴れ。終日待っていたのに問屋が来ず、伊勢利も来ない。「どうかして行き違ったの

か」とみなで待ちわびた。夕方問屋に聞きに行くと、間違えたことを大変謝り「明日

早朝に持って行きます」と言った。「ではお願いします」と頼んで神田の雉子町に北川

さん(菓子、玩具問屋)を訪ねる。途中お土産を買って三味線堀から車に乗る。彼女は

邦子の友達の中では一番のように思える。少し軽率で重みがないのだが、人懐こくて

奥底がないようなのがかえって心深いのではないかと思う。言葉遣いや振る舞いがさっ

ぱりした人だ。商売についていろいろ頼み、帰りは暗くなった。

5日

 晴れ。早朝根津のほうずき屋に行って話しをした後、下谷区役所に回って菓子小売の

鑑札をもらいに行くが、戸籍のことがまだ決まらないのでだめだった。今日も昼過ぎま

で問屋が来ない。伊勢利が手伝いに1時に来たので、中村屋に行ってみると「すぐに送

る」と言ったのに2時になっても来ない、3時4時が過ぎて5時近くなってから来た。暗く

なるまでには飾りつけは済んだ。二間の間口の店に5円程の商品では何とも淋しかった

が、幸い田部井さんでガラス箱を買ったので、それを置いたら少しはにぎやかになる

だろう。伊勢利さんに一杯出すと、10時近くまで飲みながら話していった。

6日

 晴れ。店を開いた。向かいの家の人がすぐに買いに来たのがおかしかった。母は

「奥田さんへいつもの利子を持って行き、田部井さんから箱をもらってくる」と出て

行った。中島先生から手紙が来て、今日か明日伊香保に湯治に行って留守にするので、

私が主となって数詠みの会をしてほしいとのことだったが断りの手紙を出した。手紙と

いえば、おととい伊庭さんに葉書を出したのだった。

 夕方着物を3、4枚持って本郷の伊勢屋に行き、4円50銭借りてきて菊池さんのところ

で紙類を少し仕入れた。2円近くだった。この夜初めて荷物を背負ったが中々重いもの

だ。家に帰ったのは10時近かった。持って帰った紙類を明日の朝店に出すよう準備し、

床に就いたのは11時。

7日

 晴れ。早朝花川戸の問屋に糸と針を買いに行く。石けんの値段が中村屋より安いよう

だったので一本買う。駒形のろうそく屋でろうそくを買い、看板のことを頼む。帰宅後

も用事が多かった。西村から手紙が来て頼んでいた金が近々用意できるとのこと。区役

所から入籍のことで呼び出しが来た。今日は昨日に比べて売れた。

8日

 晴れ。早朝髪を結って8時に区役所へ行く。母の生まれ年が芝区の時から間違ってい

たが、今更直すのも面倒だったので天保9年のままにした。菓子小売願の許可を取りに

東京府庁の分署に行く。浅草南元町という厩橋よりもまだ先にあった。印紙代が30銭、

税金を半年分で50銭を納めて全て調った。帰りに中村屋蚊取り線香があるか聞いたり

の用を済ませ、他の問屋の様子を知るべく紙類をあちこちで少しずつ買う。今日の暑さ

は大変ひどく、田んぼ道には誰もいなかった。家についたのは正午で、しばらく昼寝を

した。夕方から母は中之町に仕立物を持って行く。夜習字をした。

9日

 晴れ。早朝二人買いに来た。慣れないとおかしなことをするもので、5厘の客に1銭

のものを売り、1銭の客に8厘のものを出したりして、後で調べると呆れるようなこと

をしている。こんなことではなかなか利益を出すことはできないが「だんだん知恵も出

てくることでしょう」と話し合った。伊勢久のお千代さんも買い物に来てくれて、20銭

ほど利益があった。午後上野さんが来たので夕食を出す。日が暮れてから西村が10円持

ってきた。上野の房蔵君は徴兵の抽選には当たらなかったとのこと。

10日

 晴天。早朝母と一緒に森下へ行って菓子箱を買う。帰りに母が三間町を訪ね、伊三郎

の奥さんが今朝出て行ってしまったと聞いてきてびっくりし、すぐに山梨に手紙を書い

た。北川さんには明日の朝お菓子を仕入れに行く旨の葉書を出す。