塵中につ記

 

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 白湯を飲むとか整えるとか、丁寧な暮らしとやらはうさんくさいが、丁寧じゃない

暮らしをして胃を悪くし、アルコール以外で胃に優しい生活を心がける中、毎深夜目が

覚めて眠れぬ長い時間に、白湯はありがたいものであった。

 

 思い立つことがあり、詠う。

  すきかへす人こそなけれ敷島の うたのあらす田あれにあれしを

   和歌の畑は荒れに荒れているが、鋤き返す人もいない

 

 いや、荒れに荒れているのは和歌ばかりか道徳も廃れて人情は紙のように薄く、民も

官も私利私欲に走り国事の道を考える者はなく、世はどうなるのだろうか。甲斐もない

女が何を考えたとしてどうしようもないことだが、私はたった一日の平安をむさぼって

百世の憂いを忘れる者ではない。かすかでも人の心というものを備えた者がその身一代

の欲をすべてそこに投げ入れて死をいとわずに天地の法に従って働くのなら、立派な人

と愚かな人、男と女になんの差があるだろうか。笑う者は笑い、謗る者は謗ればよい。

私の心はすでに天地と一つである。私の志は国家の大本にある。私の屍は野に捨てら

れ、やせ犬の餌食となってもよい。私の努力は賞されることを期待せず、私の苦労も

報いを求めるものではないので、縦横無尽である。一分一厘の争いにこの身をつなげる

べきではない。どう身を処すかは風の前の塵と同じでどうとでもなろう、先を心配せず

にこの商いを止めることにした。

 

 邦子は物事に耐え忍ぶ気概が乏しい。一分一厘の商いに飽きたと言って前後の思慮も

なく「止めましょうよ」とひたすらに言ってくる。母も「こんな塵の中でうごめいてい

るより、小さくとも門構えのある家にいて柔かい絹ものを着けていたいものだ」という

のが願いなので、私の心を知ってか知らずか二人して止めることを切に勧めるのだ。

何もかもを売り尽し、借り尽したのだから店を閉じたらどこからも一銭の金も入って

くることはないと思えば、思慮を巡らさなければならない。どうすればいいかと考え

る。まず鍛冶町の遠州屋に50円借りることにしよう、ここには父が存命の頃常に2、300

円は貸していた人で、商売も手広くして顔の広い人であるし、金を借りに行くのは初め

てのことであるから、つれなくもされないだろうと思うからである。この金額は多くは

ないとはいえ、先を危ぶむ人たちのこと急には決めかねて、来月花見の頃、商売の成り

行きを見て決めようということになった。

26日

 半井先生を訪ねた。「今後はいよいよ小説を本格的に書く心構えなのだから、先生の

お力添えがあればさらに良いでしょう」と母が言ったためである。今までの曇った空が

家の上だけとはいえ晴れて、堂々と先生を訪ねることができるようになって本当に嬉し

い。先に手紙を出して在宅の有無を尋ねると「病気で伏せているところでもよかった

らどうぞ」と返事があった。この日は空模様もよくはなかったが、心がはやりとても

とどまることはできなかった。午後より出かける。先生は痛ましく顔色悪く痩せて、

かつての面影はどこにも見当たらなかった。最後に会ってから一月も調子のよい時が

なく「病みに病んでこんなになってしまいました」と言う。本当にかわいそうだった。

話すのもつらそうだったので、あまり話すこともできず帰る。

27日

 小石川の師匠を訪ねた。田辺龍子さんの発会が昨日あるはずだったが病気でしばらく

延びたとのこと。その話の流れで、私にも何とかこの道に尽くしてはどうかという話に

なった。「萩の舎の号を譲って私の死後のことを頼めるような人は門下には一人もいな

いので、あなたこそと思っているのですよ」などと調子のよいことを言った。ひたすら

に願っているようには聞こえたが、そう言うだろうと思っていたことなのでそうとも

言わず、いろいろな話をして帰った。

28日

 母が音羽町の佐藤梅吉さんに金策を頼みに行く。難しそうだったので帰りに西村に

寄って私が中島先生の元に戻ることを話して金策を頼んできた。「すぐには難しそうだ

った」と言っていたが、母が帰ってすぐに釧之助さんが車を飛ばして来て、いくら必要

かと聞いた。親の手前があったらしい。

 

 四月に入って釧之助さんより50円借りた。清水たけという夫人が貸主だとのこと。

利子は20円につき25銭で期限は決められていない。きっとこの金の出どころは釧之助

さんだろう。そして中島先生の方もようやく話が進んで、私にいくらかの報奨を出す

ので手伝ってほしいと話があった。「あなたのことは我が子だと思っているのだから

あなたも私を親と思い一生のこととして考えてください。私のこの萩の舎はあなたの

ものなのですから」と言うので「もとより私にそのような大任を負う才能はありません

から過分な大役となりますが、このささやかな身を上げて歌道のために尽くしたいのは

心願ですので、道をお導き下されば嬉しいです」と答えて話は整った。この月の初め

より稽古に通っている。

 

 花は早く咲いて、散るのも早かった。あいにくの雨風が続いて、鍛冶町の方は上都合

とはいかずかろうじて15円持ってきた。いよいよ引越しすることに決まった。家は本郷

の丸山福山町というところで、阿部(老中伊予守)邸の山に沿った小さな池の上に建て

られた家である。守喜といういうなぎ屋の離れ座敷だとのことで、そう古くもなく、

家賃は3円、高いがここに決めた。

 店を売って移るまでのくだくだしいことは思い出すのも煩わしく、心憂きことも多か

ったので書かない。

 

皐月1日

 小雨だったが引越し。手伝いに伊三郎さんを頼んだ。

2日

 小石川の先生を訪ね、引っ越しのことを話した。帰り道に西村にも知らせた。どちら

もその速やかなのに驚いていた。久保木にも近く知らせるが、どれだけ驚くことか。