水の上

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 とうとう「水の上」に来た。もうすぐ終わってしまうのが淋しい。夜中目覚めて眠れ

ないことが多く、そういう時はほとんど幸田弘子さんの一葉日記の朗読を聞いている。

「抄」なのが大変残念。名前の確認のために調べたら昨年の11/24に亡くなっていた。

 

  水の上日記

4日

 晴れ。午後小石川のご老人の墓参りに天王寺へ行く。昨日三回忌があったのだが行け

なかったので邦子と一緒に行った。墓前に花を奉って頭を上げて周りを見ると、どこか

ら来たのか蝶が二匹、花の蜜を吸ったり墓石の上に来たりしてなかなか去らないのが

哀れにも寂しくも思えた。しばらくそこで邦子と話してから、寺内を見て回った。雲井

辰雄の碑文などを見る。夕日も暗くなる頃雨雲が立ち、空の色がすさまじくなったので

「さあ帰ろう」と急ぐ。団子坂から藪下を過ぎて根津神社の坂にかかると、登り口の

左側にささやかな枝折戸があり、黒木の階段が厳かに見える古い庵があった。「二十二

宮人丸」と書いてあるのもいわくありげだが、邦子はいつもこういうものを怪しいと

けなすたちなので、ただ笑うばかりだった。 

5日

 例の人丸の異様さが気になって、こんなところにおもしろい人がいるのではと思い

庵を訪ねた。不思議な話がいろいろありおもしろかった。いくつぐらいなのだろうか、

髪は長くひげは白く、萎えばんだ長い着物を着けている。家は三間あるが天井がなく、

台所らしきものもない。雨戸というものも一枚もないので雨風をどのように防ぐのかと

怪しむ。7、8年遊行して、この庵には一昨年位からいると言う。「訪ねてくる人がいて

も嫌いな人には会わない」とのことで、門にもそのように書いてあるが、そうはいって

もどうだかとおかしい。しばらくすると人が来たので、またと言って帰る。

 この世はどうなるのだろう。上を見てもこの人はと思うような人はいない。浅ましく

てうっとおしい人ばかりなので、埋もれた廃墟の中に語るべき人がいるのではないかと

こんな怪しいところまで来てみたが、取るに足らない利己的なばか者ばかりで、初めは

おもしろいかと思っていても再度その説を聞けば、いやらしくてその顔に唾を吐きたく

なるようなことが多い。以前天啓顕真術会の本部長だとかいう久佐賀と話した時も、

その善悪はしばらくは問わないこととして、この世に大いなる目当てがあってその身を

捨ててでもその一事に尽くすのかと思って聞いていた。さて幾度か話してみれば、なん

のことはない、浅はかな小さな望みを持ってただ目の前の一分一厘(相場)だけに迷っ

ていたのだった。このような輩と大事を語ることは子供に向って天を論じるようなもの

だ。苦労した割に何の益もなかった。思えば私も敵を知らないこと甚だしいと、自分

さえもあざけられる。

 9日だったか、久佐賀からの手紙が届き「あなたが歌道に熱心に取り組むために困窮

しているご様子は、私と引き比べても本当にお気の毒に思います。それが成り立つまで

のことを、私が何とかして引き受けたいと思うのです。しかしまだ一面識しかないのに

このようなことを頼まれるとか頼むというのもあなたとしても心苦しいでしょうから、

その身を私にゆだねてくださいませんでしょうか」といういやらしい内容だった。

「全く、このばかものは私の本性をどのように見ているのだろうか。この世が衰え行く

ことを嘆き、道のために小さな光を起こそうと志している私が、目の前の苦しみを逃れ

るためだけに女の身の最も尊ぶべき操をどうして捨てるだろうか。笑い捨てることも

できないほどの大ばか者だが、そうは言っても彼もひとかどの山師であるのだから、

私の言葉を理解できないこともないだろう」と返事を書く。「一つの道で世に立とうと

することに私もあなたも異なるところはないでしょう。私の今日までの言葉や行いを

見て、もし大事を成すことができると思し召しなら援助してください。私を女と思って

怪しいことをお考えならむしろ一言にお断りください。いかがでしょう」とはっきり

決心を表して彼からの返事を待つ。

 その夜返事が来た。同じようなことを言って憎らしい言葉を並べている。もう返事は

書くまいとそのままにした。

 あの人丸も我が家にやって来た。あのような人のすることらしくなく、何度も私を

この世の異人だ(心がけが高い)と讃えて、長くおつき合いを願いたいなどと言う。

つまらない者共ばかりだ。

 

 この日は田中さんの発会の日だったので、手伝うことが多く朝から行った。来会者は

22、3人あった。人々が帰った後しばらく小出先生と話す。歌を詠みなさいと切に勧め

られた。「君の著作業ももちろん悪くはないですよ、おもしろいこととは思いますが

小説を書く人は世にたくさんいるでしょう。しかし歌はそうではない。今の世で、歌の

才能を持ち一身を打ち込み、その道で立とうとする人は全くおりません。中島さんの

社中も人は多いが、私が見るところでは君を置いてほかにこれと思う人はないのだか

ら、君さえ奮い立てば必ずのちの世に名を残して不朽の事業となると思うのだが。どう

です、やってみませんか」と熱心に言う。歌論もいろいろ伺ったが、なるほどと思う

ことが少なくなかった。この人もあまりよい人だとは言えないのだが、さすがに歌では

人の上に立つ人だと思った。