水の上日記

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 またこの季節が来た。美しいが、寒さ雪かき水浸し金かかる全て嫌悪でしかない。

 

15日

 先生のところで、前田家に頼まれた詠草を書く。奥様のもの。

16日

 早朝禿木さんが、星野天知氏より手紙と「花ごもり」2回目の原稿料をあずかって

きた。禿木さんは学校が忙しいとのことで早く帰った。私も小石川の稽古に行く。

 この日三宅龍子さんから使いがあり「依緑軒漫録」(磯野徳三郎著、外国文学の抄訳

を紹介)を貸していただく。坪内さんから借りた本と一緒に読む。1時になった。

20日

 午後2時、いきなり大地震があった。我が家は山の陰の低い場所にあるので、そう

ひどくも揺れず、壊れたものなどはなかったが、勤め人などは仕事を止めて帰って来た

人もあった。新聞が号外を出したのを見て強震だったことを知った。被害のあった場所

は芝から麹町、丸の内、京橋、日本橋辺りが主で、貴族院衆議院、宮内、大蔵省内務省

などの諸省が大破し死傷者があった。三田小山町辺りでは地表が割れ、泥水が噴出して

その様は恐ろしいとのこと。すぐに久保木から秀太郎が見舞いに来た。続いて芝の兄も

来た。私も小石川の先生を訪ねた。先生は四谷の松平家地震に遭い、「床の間の壁が

落ち、土蔵の腰巻(下部分)が崩れたりして松平家は大変なことになっていた」との

ことだった。鍋島家でも新築の洋館が被害に遭って、貴重なものがだいぶ損なわれた

ようだ。先生のところは大したこともなかった。この夜、さらに強震が来ると人が言っ

ているからと兄が泊っていった。

 見舞状が横須賀の野々宮さん、静岡の江崎さんから来て、私も山梨に出した。例の件

の返事は来ない。

 

 この頃あったこと全てを書きつくすことはできない。朝鮮の東学党の騒動、我が国

からの出兵、清国との紛争など女子供にはよくわかることではないし、この頃続いた心

忙しさに紛れて忘れてしまった事も多い。また折りを見て書こうと思う。

 北里、青山両医学博士がペストの調査に香港に行ったのは大変な名誉だが、青山博士

がその病にかかって命が危ないという電信があり心配だ。全く知らない人というわけで

はない(知り合いがその妻)ので特に悲しい。

 

 樋口幸作兄妹が4月の中頃から来ていて、兄が桜木病院に入院しているとのこと。

26日の夜におくらさんがその病状を話しにきた。

 

28日

 おくらさんから私に迎えの使いが来たが、留守だったので母が代わりに行った。

文月1日

 秀太郎が来る。しばらくして横須賀から野々宮さんが来た。悲しく、情けなく、哀れ

な、気づまりな話がいろいろあった。女学生の失敗例ともいうべきか。10時頃桜木町

から使いが来て幸作さんが亡くなったとの知らせがあった。母は驚愕してすぐに病院へ

行った。なきがらはその日にお寺に送って日暮里で荼毘に付されたとのこと。あまりに

空しい終末を近い人に見て、自分の宿命もなんとはなしに悲しい。

2日

 早朝母、おくらさんと一緒に日暮里まで骨上げに行く。遠く離れて暮らした叔父(父

のこと)と甥が同じ場所で煙となったのは、これも逃れられない宿命というものだろう

か。父が生きていればどんなに悲しんだかと思うと、この場にいなかったことがせめて

もの慰めだ。

5日は小笠原家の数詠みがあった。会したのは4名。

7日

 小石川の稽古日。12日までにはどうしても金の必要があるのに今月は特にどうしよう

もなく、先生に言わなければと思い定めてはいるのだが、なかなか言い出せなくて昨日

まで来てしまった。「今日は何としても言わなければならない」と思って昨夜の書き物

が終わった後に、そのことを手紙に書いて机の上に置いて帰った。そうすれば今日の

稽古日に何か言ってくれるだろうと思う。よい返事だったら嬉しいが、例の気難し屋の

先生のことなので何と言うことだろうか。

8日

 平田さんが来た。田中さんの「鎌倉紀行」をどこかの雑誌に載せてほしいと頼む。

「これから森鴎外先生のところへ行くので『しがらみ草紙』に出してもらえるか頼んで

みましょう」と言って帰った。午後中島くらさんが来ていろいろな話をしていった。

夕飯をご馳走して返す。樋口のおくらさんも来て「明日の早朝、一番汽車に乗って帰郷

したい」と言うのでお土産を持たせるために一緒に出て本郷通りへ行く。

9日

 早朝おくらさんを送って上野に行く。上野町の小松屋という旅館に知り合いが待って

いて一緒に山梨へ帰るとのことでそこまで行く。新宿発の汽車に乗るというので私は

ここから帰る。朝食を済ませしばらくご無沙汰していた伊東夏子さん、田中みの子さん

を訪ねて日暮れまで遊んだ。田中さんのところにあった「艶道通鑑」と言う5巻の随筆

のような、小出先生の蔵書だというものを借りた。

10日

 禿木さんから手紙が来て「森先生が、田中さんの寄稿文を載せてもよいとのことだっ

たので本名と住所を知らせてほしい」とあり返事を出す。奥田の老人が来た。

11日

 中島先生のところへ行く。田中さんもお盆の挨拶に来たので雑誌掲載のことを話すと

大変喜んだ。先生はどうしたことか着物などを質に入れて金を整えたとのことで、隣の

家の奥さんから金を受け取った。先生は早くに出稽古に行ったそうだ。この日は日暮れ

前から雷雨となりなかなか晴れなかった。夜になって帰宅。佐藤さんがお盆の挨拶に

来たとのこと。

12日

 到来物があったので半井先生のところに持って行った。珍しく調子がよさそうで

にこやかに話をされたが来客があって長くは話せず、帰る時に「近い内にお尋ねしま

す。15、6日のどちらか、雷雨でなければ必ず」と言う。立派で男らしいこの人の口

から雷が怖いなどと聞くのがおかしい。

 

 静かに考えてみると、この人と疎くなったのはまさに一昨年の今日からだった。隔た

ってゆく月日の中で何度心の変化があっただろうか。これを機に悟りの道に入ろうと

思ったこともあった。「二度とこの人のことは考えまい、考えるからこそいろいろな

苦しみを引き起こすのだ。全ては夢、この人を恋しいと思うのもいつまでのことか。

自分の心に陥れられて共々迷いの淵に沈むこの身のはかないことだ」と諦めたことも

あった。そもそも思いを断とうというのが私の迷いであり、ことさらに捨てるものだろ

うか。宇宙の闇の中、前世からの縁があってついに離れられない仲ならば仕方がない。

姿を見ては迷い、声を聞いては焦がれ、馴れ親しむほどに慕うような私であったら、

何を成し遂げることができよう。これほど慕わしく懐かしいこの人を彼方に置いて、

思うことを言わず、嘆きも漏らさず、押さえようとするほどさらにふくらむこの心は、

大河をせき止めて、かえってあふれさせるようなものだ。共に悟りの道に入って兄の

如く妹の如く、誰も成したことのない潔白な、清浄な関係で一生を送りたいと思う。

 

14日

 小石川の稽古に行く。榊原家から浴衣地、中村さんから帯留とハンカチをいただく。

この夜は更けるまで眠ることができなかった。明日雷雨になるだろうか。

15日

 晴れ。早朝芝の兄が来て話していると、半井先生が来た。少しやつれたけれど、以前

よりさらに威厳が備わった立派な姿に一楽織の単衣と嘉平次の袴を着けて、絽ではなさ

そうだが羽織の大変素晴らしいものを羽織っていた。門前に車を待たせていたので長く

いるつもりはないだろうと思い、強いては引き止めなかった。卵の折をいただいた。

兄は夕暮れまで遊んでいった。夜になって西村の礼助さんが来た。今夜の月は見たこと

がないくらい美しい。

16日

 晴れ。風が秋風のようだ。

17日

 平田さんから手紙が来て避暑に奥羽の旅に出たとのこと。雑誌掲載のこともあった。

18日

 小石川に行く。前田家の詠草を書き終わる。

19日

 小説「やみ夜」の続稿がいまだにまとまらない。編集の締め切りが近づいているので

心慌ただしい。この夜馬場孤蝶さんのところに手紙を出して明日の編集を明後日にして

もらうよう頼む。

20日

 芦沢さんが習志野より帰営。今日は土用の入りだからと鰻をご馳走になった。

22日

 晴れ。今朝「やみ夜」の続稿を郵送した。

 朝鮮との開戦の日が近づいている。青山博士はだんだん快方に向かい、北里博士は

香港を出立したとのこと。郡司大尉が19日に東京に入る。昨年の隅田川での旅立ちを

思えば心ある人は涙をこぼすことだろう。