水の上

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 真っ白い(泥まみれだけど)世界にいるとなおさら青い世界への憧れが強まる。

 

28日の続き

 この夜に入って馬場さんが来た。『文学界』のことで大層怒っている。脱会しようか

と思うとまで言った。「このようなことは殆んどの人には言えない、常日頃親しくして

いる秋骨や藤村にも洩らせない。君を姉のように思うので心の内を全て打ち明けるの

だ」と憤りを隠せない面持ちは淋しげで、すさまじいようだ。「あまり潔癖に過ぎる

から人と衝突してしまうのでしょう、といって『世の人並みに裏表を持ちなさい」とも

言えませんが、そう人を気にかけず、ゆるやかにお過ごしなさい。お年を召したご両親

がいらっしゃる上、あなたも体があまりよくはないのだから、世の中を悲観して病気に

でもなったらどうするのですか。何も心に留めないようになさい」と言うと、「よく

分かりました」と答え、涙がこぼれると見えてしばしば眼鏡を拭っている。ある時は

熱を出したかのようにうかれ騒ぎ、ある時は心の底まで冷えたように沈み込む。これは

神経のなせる業で、一つには高潔な家風なので浮き世に合わず、心悶えるあまり若い人

らしく血が騒ぐのだろう。『文学界』の内輪揉めの、その元が何なのかはわからないが

私のところで馬場さんが心安くするのが禿木さんに不快な思いを持たせているのでは

ないか。私は浮き世の外に立つ身なので、どんな波立ちもよそ事として見るべきだが、

目の前にある悲しみを見過ごすことはできず、どうしようと深く思い悩む。この夜も

孤蝶さんは11時近くに帰る。試験のために過度に勉強した名残と、合格して緩んだ心、

他にどんなことが体に障っているのか足つきに力がなく、頭も支えきれないようにうな

だれて、靴も上がらず、筋骨無いようになって帰ってゆく姿は何とも悲しい。

 この日芦沢芳太郎より手紙が来て「台湾総督付属の身となって、いよいよ彼の地へ

赴くことになりました。これからは南国の伝染病と戦争との2つに向う覚悟です」と

言ってきた。「手紙は野戦郵便規則によって月1回以上出せないので、この手紙を佐久

間と広瀬、および故郷に送ってください」ともあったので、そのようにした。

29日

 晴れ。何もせず過ごす。悪疫が流行する兆しがあるとかで大掃除が始まった。日が

暮れてから西村さんが来た。

30日

 風が少しあるが空は晴れ。天皇が東都に還幸、すなわち凱旋する日なので戸々国旗を

掲げ、軒提灯をぶら下げるなど、場末の貧しい家にまで及んでいる。長屋に住む者たち

でもおもちゃ屋で売っている5厘の旗を軒に差していた。着輦(天子の車=お召列車)

は午後2時になると言う。10時頃安井さんが来た。「これから高等女学校師範校一同と

一緒に奉迎に行くのですが、野々宮さんがここから行きましょうと言うので誘いに来ま

した」と言う。「いえ彼女は来ていませんよ」と答えると「ではまたあとで」と言って

急ぎ出た。午後過ぎて花火の音が絶え間ない。3時過ぎに芝の兄が来た。芝区民奉迎の

徽章を胸にかけて、塵の中を馳せ廻ったのでとても疲れたと見え、倒れるようにして

入ってきた。酒の支度などしていると野々宮さんも帰って来た。利休(緑がかったグレ

ー)と鶸(黄に近い浅葱(薄い青緑))の三つ紋の二枚袷、もちろん地はちりめんに

白茶二重緞子の丸帯、雪駄履きで来た。この人も疲れて正体がないようになっていた。

「今日の様子はどうでした」と聞いてもただ、「こんな騒ぎは今まで覚えがない」と

みなが言う。そうしていると秀太郎も来た。「安井さんも今に来るかしら」と言って

いると使いが来て「どうしても断れないお客が来て一緒にお祝いしましょうと言うの

で、そちらには行けません」とのことだったので、それではと野々宮さんに夕飯を出し

て家の単衣を貸し、着替えさせて帰した。兄と秀太郎も日没頃帰った。この夜は早く

寝た。

31日

 空は曇り。今日はお妃の還幸の日なので「どうか雨が降りませんように」と祈る。

午前中母は西村へ見舞いに行った。秀太郎が来る。博文館より『経机』の原稿料が届い

た。午後、母と邦子がその金を持って浴衣を買いに行った。明日の稽古日に着るものが

ないからだ。

水無月1日

 小石川の稽古に行く。おとといの話で大騒ぎだった。「誰も行った」「彼を見た」

「あなたは」などと問い交してみると、本当に行かなかったのは先生と田中さんと私

だけだった。凱旋門を今日取り壊すと聞いて「それは情けない、千年に一度というほど

の祝い事があったのに空しくもその門まで見過ごしてはいけませんね。稽古が終わった

らすぐに行きましょう、車の支度を」ということになった。4時にみな帰ったので中島

先生を先頭に田中さんと一緒に車を急がせる。和田倉門を入って坂下門の辺りまで来る

とあちらこちらに警官が立っていて「車を降りよ」と停める。どうしたのかと聞くと、

「ただいまより上野青山から還御されるので、拝むのならここに並びなさい」と言う。

「これは思いもよらないことだ」と留まった。「まだ御先の騎馬も見えないのでお渡り

するまでには時間があるだろう」と思い、辺りを見回すと私たちと同じく凱旋門を見に

来た人だろう、田舎の爺さんが嫁を連れていたり、若い書生が老いた母を導いている。

車を4、5代連ねて立派な着物を着けた人達もおり、お召車の通過を拝もうとして乗り

捨てた車の様子などなんとも風情がある。賀茂の祭りのお使いが渡る行事でそこかしこ

に牛車が連なって、簾の下から袖を見せる古代風の様子(源氏物語)だけを珍重しなく

ても、黒漆の車、金紋の車に赤い幌、海老茶の幌がかかっているのは風情があるし、

白茶のビロードに黒い毛皮のふちどりをしたひざ掛け、車夫はみな真っ白な上下をつけ

て小松の下の芝に集まり、さすがに大きな声を出さず、天秤棒を降ろして休んでいる

商人と話している様子など、絵巻にして残してもよいくらいだ。あまりに優美なので

田中さんが「この様子を百年後の人に見せたら『明治の世の古雅なことだ』と褒め讃え

るでしょうね」と言ったので「本当にそうですね。でもこの見物では起こるべきはずの

車争いもなく、もちろん高貴な方などいるわけもなく、みな私たちのような軽装で、

召使が差し掛けるのでもなく、自分で洋傘を差したりしては雅やかではないですね」

などと言って笑うと、興ざめたようでほほ笑んでいた。そうこうしていると騎馬の兵士

が見え始めた。「お渡りになるようだ」と人々は静まり、御車はたった2台で、前後の

御付きもそう多くはなく、静かに坂下御門より入ってきた。あまり遠いのでよく拝見

することはできなかった。警備が解けると人々は急いで車を呼びよせて凱旋門へ急ぐ。

近くへ行くとすでに取り壊しかかっていて、降ろした杉葉などがそこかしこに山と積ま

れている。あれだけ大きなものをあっという間にどうやって壊したのだろう。桜田門

向っている方の杉葉は全て取り外されて、組み上げた材木だけが高々と見上げられる。

車を降りて中に入ると、高く盛った砂に下駄の歯が埋まり、時折風が吹くのでとても

難儀をした。全てを杉と樫の葉で覆ってあり、さながら青地の錦で巻かれているよう

だ。前後三カ所に門があり、「奉貢商人有志者何々」と書いて河原撫子の紅白の花を

差し込んであるのがとても麗しく、優しげに見えた。しかしそれも日に照らされ、やが

て枯れてしまうのは悲しい。「このまま見捨ててしまえばかまどの薪になってしまうの

でしょう、このおめでたのためにあったものなのに」と哀れがって杉の葉を1、2本、

撫子も1、2本取ると、先生も田中さんも同じように取った。「さあ日の暮れそうです

からいつまでもはいられませんね」と車に乗ったが、大変名残惜しかった。次は霞が関

を登って、外務省の裏から帰る。九段の上に出るまでお濠の水が美しく、松の枝ぶりや

芝生の色を眺めているうちにほどなく牛が淵近くに出た。ここで三人は別れてそれぞれ

の家に帰った。