水のうへ日記

 香水コレクターのはしくれでお金を貯めては、大半はテスターなどの値引き品を、

なにかとお金持ちアピールしたり、壮大な物語を妄語する不愉快な口コミを参考に購入

している。すでに一生使いきれないほど持っているがまだ欲しいものがある。打ち止め

にしなければと言いながら、最後にスズランの傑作らしいエルメスのが欲しいが何とも

お高い。以前少量お試し買ったのを大事にし過ぎて見つからないので確かめられない、

10分の1の値のヤードレーでもいいという口コミもあってそれも嗅いでみたいしその間

の値のフローリスもよいらしい。スズランだけでなくスミレも集めているので、ゲラン

の甘ーいやつも香害だけど欲しい。やはりゲランにたどり着き、集めているので最後に

夜間飛行も欲しい。どこつけてくねん。ほかにも高級なペンハリガンもできたらブルー

ベル、イングリッシュローズ、スズラン…せめてネロリ欲しい。あ、エルメスネロリ

が、安めのシリーズでイリスも水仙も出ている!香りがすぐ飛ぶったって、エルメス

香りとは相性がよくなくたって欲しい。(好きになれず人にあげてばかり)普段収めて

いる欲が、年頭早々不快事ありそいつのカードで買ったれ~と昨日一日ネットサーフィ

ンして欲しいのがほとんど半額以下で揃う変な店にうっかり申し込んでしまった。引き

落としでなかったのが幸い、後で調べると詐欺サイトにほぼ当てはまっていた。不幸に

不幸が重なるとはこのような時で、満ち足りていたら欲も涌かないのに…いや湧くか。

 

 ようやく世に名前を知られるようになって珍しがられ、かまびすしくもてはやされる

ことを嬉しいといえるものだろうか。ただ目の前の煙のようなものだ。昨日の私と何の

違いがあろうか。小説を書く、文章を綴ることだって7歳の昔から思っていたこと、

その一端を表しているだけなのに、事々しく言いはやされるとは。私の名が簡単に立っ

たように、すぐに秋の風が立ってたちまちどこかへ吹き飛ばされる運命だ。妙なこと

でも、心細くもあることだ。後に目覚めてどう思うか書き留めておきたい。

 

 7日の夜、母も妹も本郷に買い物に出たので、一人で燈火を守って読書していると、

如来氏がやって来た。例のおとぼけで、私が取次に出たのに「一葉さんはいますか」

と言う。「お上がりください」と燈火の下で差し向って初めて私だとわかったらしい

が、驚いた様子もなく話をしている。おもしろい人だ。前に来た時は秋風がとても寒い

朝なのに、白と黒の絣の浴衣を重ねて着けていたが、今日は二子織の袷ではあるが、

素肌に羽織り、事々しく袴など着けているのもおかしいのに、草履履きでいよいよおか

しい。母と妹が帰って来ても夜更けまで話す。子供の頃の話などが出ると、裏で聞いて

いる母と妹がこらえられずに声を出して笑っている声が聞こえる。「妻を娶りたいの

で、しかるべき人がいたら仲立ちをしてください。ご覧になったままの男で、何も心に

持っておらず、難しいことなど賭けても言いませんよ」と、家の様子などを打ち明け

る。「これから上田敏君を訪ねて坪内逍遥の『桐一葉』を批評してもらう。『滝口入

道』は大学生の某(高山樗牛)の作だが、その批評を坪内が『歴史小説』と言う題で

書いたので、大学から上田を呼び出して対抗させようと思う。さらに依田学海翁を頼ん

で横やりを入れてもらう。いやが応でも今夜上田を説き伏せるのだ」と意気盛んなのが

おもしろい。『読売新聞』紙上で批評を戦わせる目論見らしい。9時過ぎる頃に帰る。

雨が降り出したので傘を持たせる。「新坂の暗がりにタヌキが出ますよ」と言うと

「それは私の友達だ」と出て行った。嵐の後のようだ。夜更けてさらに雨が降った。

 

 8日も朝から雨が止まないが、明日は萩の舎の月次会なので、道が悪いが夕方風呂屋

に行く。帰ると「如来さんから」と、傘を返しに来た車夫が手紙を持ってきた。「ゆう

べはあまり遅くなったので、上田は家におらず抜け殻をつかんでしまった。今夜また

行く道すがら傘をお返しします。ちょっと立ち寄りたいが上田の用を済ませたら谷中に

大野洒竹を訪ねる用があるので手紙にて。今朝依田学海にあったら君の『にごりえ』は

上々の作だと褒めて一度お目にかかりたいとのことだった。ついでがあったら訪ねて

みなさい。淡泊な老人でなかなか面白い人です」と書き添えてあった。「月曜付録」

(読売新聞の文芸欄)の話もあり、終わりに「例の妻のこと、くれぐれも心から平伏

してお願いいたします」などと書いてあり、いつもに似ず真面目なのでみなで笑った。

 

 9日は空晴れて昼前から中島先生の会に行く。例によって例のごとくおもしろいこと

もない。伊東夏子さんより大西祝氏の伝言で「ぜひお会いしたいとお噂しております」

とのことで「世は飛鳥川だ」と嘆かわしい。(世の中はなにか常なるあすか川 昨日の

淵ぞ今日は瀬になる(古今集))この夜中町に原稿用紙を買いに行く。出ている間に

安井てつ子さんが岩手からもらったという大きなリンゴを持ってきた。それも女子師範

学校に田舎から届けられたものを、すぐに我が家に持ってきてくれたとのこと。「普段

口が重く、お世辞など全く言う人ではないが、心に沁みて嬉しいと思うことがあれば、

このようにおすそわけをしてくれる。かわいい心持ちの人だ」と母も邦子も言う。

夜手紙を書く。一つは如来氏に昨日の返事で付録のことについて、一つは馬場さんに。

しばらく便りがないのでどうしているかと気になったので。だいぶ夜も更けたので何も

せずに寝る。

 

 10日は例のごとく例の通りに過ぎる。ただ大島みどり子さんが歌を読んでほしいと

頼みに来たのと、安井さん、野々宮さん他が稽古に来ただけで、何事もなく終わる。

郵便三通、田中さんより二通、本願寺より一通。

 

 11日も晴れ。

 

 15日より31日までの間に如来さんが我が家を訪うこと4回。用があって来た日も

あれば、なくてきたこともあった。「『にごりえ』の批評が各雑誌にかしましい」と

いうことで、まだ私が見ていないものを郵便で送ってきた。妻のことを頼まれたので

写真を送るよう言うと、後日写したものを送ってきた。武骨な男かと思っていたが、

馴れてくると子供のようなところがあってかわいい。

 川上眉山さんもこの頃よく来る。今月に入って4、5回は来た。一度は関さんと一緒に

来たが、その次の夜、互に知らずに来て一緒になったことがあった。私は心に何もない

ので何とも思わないが、二人の顔つきがおもしろく、話しぶりもしどろもどろで、思い

がけず落ち合ったことを恥ずかしがっている様子が、男でもそういう感覚があるのかと

おかしかった。

 さて馬場さんから便りが来たので少し書いておこう。これも今月に入って3通、長い

ものは巻紙6枚を重ねて大きなものだった。一度は名所古跡の写真を2枚、「紫式部

間」というものを送ってきた。例の細かく包みない言葉で、恋人にでも送るようなこと

が書いてあるのも趣深く、誠意ある人なので私を励ましてくれるような言葉もあった。

心美しい人だ。

 平田さんには今月は会っていない。手紙はこまごまとよこしてくるが、孤蝶さんとの

間を疑っているようで妬まし気なことを書いて来たので煩わしく、返事はやらなかっ

た。2度ほど来たのだが邦子が取り計らって門口で返した。才子なのだが少し憎らしい

ところがあるのが惜しい。

 秋骨も何度我が家を訪れたことか。大体土曜日の夜には来る。来れば11時より前に

帰ることがない。母も邦子も嫌っているのはこの人だがどうしようもない。ある夜川上

さんと来て話をしているうちに震え出した時の怖ろしかったこと。「僕はどうしても

この家を立離れられない、どうしよう、どうしよう」を身もだえして自分でも「これは

奇怪だ」などと言いながら辺りを見回しながら打ち臥したので、川上さんもただ呆れに

呆れて、ようやく連れて出て送り返したことがあった。「その夜は泣き寝入りしまし

た」と翌朝早くに手紙をよこした。いろいろ書いてあったが「より親しくさせてくださ

いませんでしょうか、中途半端に扱われて恨めしい」などと書き連ねてあり、なんとも

不快な哲学者だ。

 よいのは上田さんだ。この人も最近よく来る。しかし彼は他と違って全てに学問の

香りがし、洒落の気配はないが、若い学生なのでそれでよい。『桐一葉』の批評を書く

ことを厭がってなにかれと言い訳などするのも、高ぶらないところが好ましい。しかし

心の内はどうだろう、ああ言い、こう見せていずれ世に立とうとしている人かもしれな

い。侮りがたいところもある人だ。

 

 恐ろしい世の波風にこれから私は漂っていかなければならない。思うも悲しいのは、

子供の境遇を離れて争いの世界に交じらなければならないことだ。「昨日は何某の雑誌

にこの様に書かれた」「今日はあの大家がこう評した」などと栄えあるように見られて

も、あさましいのはその陰に潜む様々なことだ。「若松賤子、小金井喜美子、田辺花圃

の三女史が先んじていたが、遅れて出たこの人こそ女流一と言うを憚らない。讃えた上

になお讃えるべきはこの人の筆である」などともあった。「紫式部清少納言が去って

幾百年、とってかわるのはこの人だ」というのもある。あるいは外国の女流文豪の若か

りし頃と引き比べて、名高い秀才たちと並べようとしている。何を言わんか、一昨年の

今頃は大音寺前で一文菓子を並べて乞食相手に朝夕暮らしていた身だ。学を誰に習った

ものか、文をどうやって学んだものか。草むらに潜む小さな蛍がもし一時光を放ったと

しても、空しき名であり、仇なる声でしかない。私よりもはるかに優れた嵯峨の屋御室

氏のはかない終焉、山田美妙の奇行など、哀れなことばかり。安い世間の好みに身を

投じてその争いに立ち混じるなどどれほど浅ましいことか。しかしどうしようもない、

舟は流れに乗ってしまった。隠れた岩に砕け散るまで引き返すことはできないだろう。

  極みなき大海原に出にけり やらばや小舟波のまにまに