みづの上日記

 寒さが多少緩み、雪も降らなくなって油断していたら寒波である。雪国って本当に

無駄しかない。不毛な雪かき、灯油代(節約すれば一部屋にいる以外何もできない)

タイヤ代、交換代(ホイールを軽んじて見た目はともかく、なしの中古で済ませていた

ら素人ではタイヤ交換できず)水道関係はしょっちゅう、まだないが屋根の塗り替え。

 仕事休んで雪かきして大汗かいた後は冷えに冷える。そしてまた積もってる…。

 

7月15日の続き。

 「君の本質を見極めようと思って、ここのところお伺いしているのですが、話の中か

振る舞いの中に僕が思っているところに合うものがあれば、僕の論が立つというもの

です。世の人はみな、君の『にごりえ』以降の諸作を『熱い涙をもって書いたもの』と

しています。これは誰もが言っていることです。それを僕の見方で言わせてもらうと、

むしろ冷笑を持って書いたものかと。嘲罵というものは、真向から浴びせるものもあれ

ば、ほほ笑みながら『あなた様は賢くて、大層よい人ですね』と優しく言うものもある

のです。君の作は、この冷笑というものに満ち満ちていると思うのですがいかがでしょ

う。しかし、世人の言う熱い涙というものもないわけではありません、泣いた後の冷笑

となればまさに涙に満ちています。同情の涙を持って泣きながら書いたとしても、ただ

悲しみの言葉を連ねて涙を表すことができるだろうか。人は一度は涙の淵に身を落とす

ことがあるでしょう。さて、その後どこに行けばいいのか、泣いてばかりで留まっては

いられない。君はまさにこの境界に立っていると思うのだが、それを口に出さないので

わからない。君が以前書いた『やみ夜』の主人公が、恨みに思っている男からの手紙

に、怒りを胸に持ちながら知らぬ顔で返事を返すところがあるが、それこそが包み隠さ

ない君の本心ではないですか。僕の見方が間違っていて、世人の見方が合っているの

ですか、どちらですか」とほほ笑みながら言った。「なんでそんな深い考えがあるもの

でしょうか、ただその時のはずみで書き流したものなのですから、そのような厳しい

お尋ねに答えられるような考えなどないのです。恥ずかしいことですが」と答えると、

「いや、そんなことはあるまい、私の考えはこうですと構えて答えてくださいとは言い

ません。しかし何かしらのお考えはあるでしょう、それなくしてあれだけのものが作り

出せるのなら真の大偉人です。君も大偉人かもしれないが、ともかく誰の心の中にも

理論というものがあるはずです。その尺度から観察眼というものが生まれるのではあり

ませんか」と勢いづいて語る。

「君の『書簡文』を評論しようと思ってこのように印をつけてきました。秘密だがお見

せしましょう」と小さい包みから取り出した。最初から最後までことごとく朱筆が入れ

られ、一つ一つ大変細やかに注釈されている。「この『書簡文』全体に、例の冷笑が

満ち満ちています」と言う。「なぜそう思うのですか」と聞くと「また話す折もあるで

しょう。僕が今思っていることは君を訪ねて何度になるだろうか、いまだに君のことが

わからないのはどうしてだろう、全く理解しがたいのは君の人となりだ」と笑った。

「この疑いが解けたら、僕は二度とお宅を訪ねることはないでしょう。ただ、この論を

何とか立てたくて研究しに来ているのです。これも仕事ですから仕方がない」と笑う。

「世の人は僕の名前を聞けば皮肉屋の大将だと思っているので、君のことだけを悪く

書かなかったら怪しまれるだろう。それでは正太夫の名が廃れてしまうので許してくだ

さい、悪口は僕の本職なのですから」と言う。「そうおっしゃいますが、これほどまで

にお手をかけて細かに批評してくださって、私の『書簡文』の名誉です。大変恐縮で

す」と言うと、「ほらその口、それこそ冷笑の印です」と言われたので「なんでそんな

ことがありますか、本当にそう思っているのですよ」と言って笑った。

「世の人は『正太夫に涙なく、ただ嘲罵する毒筆を持っているだけ』と言う。それは

うわべだけしか見ていないのではないだろうか。思いが深いあまり涙を飲み込みつつ、

憎い意見を言うこともあるのです。人は『先代萩』の政岡が千松の死骸を抱き上げて

打ち嘆くところだけが涙の場面だと信じ、『忠臣蔵』の山科由良之助が力弥を折檻する

場面は『無慈悲な父だ』と見過ごすのだ。君の『にごりえ』を『熱い涙を持って書いた

もの』などと言うのは笑いごと、裏に隠れた冷笑を看破する者がいないのは不思議だ。

僕はむしろ涙より意味のある冷笑を喜びます。どうですか、お答えください」と言う。

ただ笑って答えないでいると「甲斐がないな」とようやく話し止めた。

 大変遅くなって帰って行った。車は例のごとく待たせていた。

16日

 早朝兄は帰宅した。今日は大変よい日和だった。日暮れ頃西村のつねさんがきた。

樋口勘次郎から手紙が来た。

 二十日には東京を発って関西の教育研修会に出席するので、一月ほどお会いすること

ができません。お願いしていたことの中でお話ししたいことがありますので、いつ頃

お伺いすれば不都合でないでしょうか。もしお忙しくて二十日より前にお目にかかれな

い場合、これこれのことをお心に入れてお筆を取ってください。

 と文体のこと、朗読のこと、標準語のことなどが書いてあった。「18日土曜日には

一日家にいます」と返事を返した。

17日

 早朝、戸川残花さんのところへご無沙汰見舞いを兼ねて、いろいろいただいたお礼を

言いに行く。午前中に帰宅。午後智徳会の泉谷氐一氏が夏季付録号の催促に来た。

18日

 早朝、奥田老人の件で井出良翰という弁護士が来る。様々な話があり、事なく終わっ

たが、今後の私たちの浮き沈みの伏線になるのではと思う。野々宮さんが明日の稽古の

断りを言いに来た。昼食を一緒にして午後早々に帰る。入れ違いに樋口勘次郎が来た。

それほど話すことも多くあるわけではないので、しばらくして「20日に東京を出て、

千葉の野田町の研修会に参加し、一度戻って関西へ行く」とのことで「帰京は来月20

日より後になりますが、またその時にお会いしましょう」と言って帰った。上野房蔵

さんが来て「これから野尻さんに会いに行く」とのこと。今日坂本三郎さんから写真が

届いた。夜になって横山源之助から葉書が来た。 

 一昨日正太夫から手紙が来て、「『君は先日僕と話した時に、まさしく嘘をついたと

今にして気がついた。そのうちそちらに伺うので明らかにしてほしい』とあり、噓と

言われては癪なので昨夜彼の家に何事かと聞きに行ったら『この間、君は僕に一葉女史

とは知り合いではないような顔つきでいたが、あれが嘘でなくてなんだ』とのことで、

思わず失笑してしまった。これはあなたに関わることなのでお知らせしておく。大阪

行きはやめにした」

 とのこと。相変わらずの緑雨の神経質は、本当におかしいことだとほほ笑まれる。

 みなが寝室に入った後に手紙が二通来た。一つは神奈川の小原与三郎、一つは樋口

勘次郎から切手二枚を貼った長文のもの。今日会った時には何も言わなかったのに、

今さら手紙とは何の用事かとまずこれを読むと、まったく胸のつぶれるようなことが

書いてある。巻紙に書いたものと、原稿用紙を縦横に塗りつぶしたり、書き足したり

したもの二つで、

 もったいなくも君に恋い焦がれること幾十日、断ち難い思いが日増しに強くなり、

どうしようもありません。「どうしたってかなうはずがない」と自分を戒めながら座禅

をしてやっと心が落ち着かせました。別紙は、このやるかたない思いを日ごと夜ごとに

書き記した多くのうちの一枚です。先日座禅をした後にことごとく火にくべてしまって

いる中友達が来て、一枚残っていたものですが形見にお送りします。今日伺った際お見

せしようと思っていましたが、お顔を見ると煩悩の雲が立ち起こり、潔く渡すことが

できずに持ち帰ってしまいました。一読いただきましたら八つ裂きの刑にしてください

とあった。別紙の方もかれこれと書いてあったが、最後に塗り消した歌が一首あった。

  のぼりゆき手折らんすべも白雲の 花にみだるるわがおもひかな

 昔は厭世の教えを持って、教育者無妻主義を主張していた身なのに、その翌月に事業

の助けを乞いに行ってお会いした時から、このような骨抜きの身になってしまうとは

なんと情けないことだろう。などと書いてあった。

 小原からの手紙には、

 「先日参上した後、あなたから一通くらい葉書をいただけるかと思っていたのに、何

もご連絡のない口惜しさ。私などに書くことなどないのでしょうか。思う人に送る手紙

は長々しくなるものですからお時間もかかりましょうが、一通の葉書にいくらも時間は

取られないでしょうに」とあり、最後に「原稿の売り先を紹介してください」とあって

『霜夜の月』という37、8枚ものがついていた。今月10日頃、わざわざ上京して、我が

家と内田不知庵を訪ねてきたことがあったが「なんでこの男がこんな手紙をよこすの

か、本当にばかばかしい」とイライラしたまま怒れば怒れと思い、返事を書く。しかし

原稿のことは別なので「『文芸俱楽部』に話そうと思うがどうか」といってやった。

19日

 昨夜は眠れず、今日は頭がとても痛い。樋口に手紙を出そうかと思ったが、支障が

ありそうなのでやめた。

 

 この小原という人にやった手紙がお宝鑑定団に出たことがあり、けっこう怒っていて

おもしろかったのだが、DVDが見つからない。そのうちに。