うとましきはたゝかひ也

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                         安達太良山の空と梅、今満開

 

 いにしえの人を手本にしないというわけではないが、故きを温ねて新しきを知ると 

いうのはどういうことか。私が少し思いついたことを言葉なり歌にして、それが広まる

と人は変だ、おかしい、そのようなことを言うのかなどとそしる。大方の人はいにしえ

の人の書いたものだけを尊び、そういうものだと思い浮かべている。ただものではない

と言うばかりで、その心を探ろうとは思いもよらずに流されて、とうとう酔ったまま

世を終えることだろう。光源氏の物語は素晴らしいが、同じ女性が書いたものである。

仮に仏の化身だと言われているとしても、人の姿である限り何の違いもないのだ。それ

より後に同じような人が出てこなかったのは、書こうと思う人が出なかったからだ。

あの時にはあの人がいて、あの書を書き留めたが、この世ではこの世を移す筆を持って

長く伝えるべきなのに、そう考える人はいない。はかない花紅葉(和歌)についても、

今の世の様を歌うことを大変卑しいことだと言う心は図り難い。千年の後に今の世の

言葉で今の世の様を映しておくことを、なんとけしからぬことだ、このような卑しい

ものは見てはならないなどと言われるとは。明治の世の衣類や調度、家の様子などを

どうやって古代の言葉で表せようか。それこそ変ではないか。そのようなものが後世に

残っても、人は怪しんでどこかの陰に置き去るだろう。

 

 芝居はおもしろいものだが、寄席はもっとおもしろい。卑しい者も品のよい者も寄り

集まって、打ち解けて話をするのだ。高座で三味線を弾き、歌うのを見るだけのもので

はない、立て込んでいる人々の中にこそ見るものがある。三遊亭圓三が離縁された妻の

話をした時、大方の人はそのおけた言葉をおもしろがって、ひっくり返り、どよめいて

大笑いしている中で、三十代くらいの官職のように見える、黒い七子織に三つ紋羽織を

着けた男性が一人うつむいて、ハンカチで目元をぬぐっていたのはどうしてだったの

か、憐れみ深いことだった。

 

 人づてに聞いた時にはなんと素晴らしいと思った人が、会ってみると見劣りするのは

残念だ。ということは世で素晴らしいと言われている人は大体そんなものなのだろうが

珍しくないとか、あさましいなどと思うのはどうだろうか。だからこそ世の中を侮って

はいけないだろう。高い名を取っている人がそれほどでもないように、物陰に忍んで

人の知らぬところに誰も思いもよらない賢い人がいるものだ。確かでない世であるから

目にも耳にも頼らない、やんごとなき位など何を恐れるものか。粗末な小屋をどうして

貶めようか。名は実ではなく、実もまた名でない。つまるところ、侮ってはならないの

は世間である。

 

 丁汝昌が自殺をしたのは敵とはいえとても悲しい。あれほどの豪傑を失ってしまった

と思うと、厭わしいのは戦争である。

  中垣の隣の花のちる見ても つらきははるのあらし成けり

   垣根越しに隣の花が散るのを見ても、春の嵐を悲しく思う