馬場孤蝶「明治の東京」

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 東京の思い出コレクション。ほかに長谷川時雨鏑木清方田山花袋のものを持って

いて、郷愁(って東京に住んだこともないが)を持って愛読している。

 復刻版なので、新字体に置き換えて読み進めていこうと思う。

 

   古き東京を思い出して  

                  一

           

 もうそろそろ『東京新繁盛記』というようなものが出て来るころになった。吾々は

そういうものによって、前の東京を大分思い出したが、思えば東京_震災前の東京_は

随分変っていた。いや、それは東京ばかりではなく、京都、大阪のような大都市は勿論

のこと、少し大きい地方市ならば、この二十年この方だけの変化も実に非常なもので

あろうと思う。現に名古屋の街区の今の変わり方などはその著しい一例であることは

疑いがなかろう。

 これまでの大部分の都市は、町と村との混合の形であった。昔の東京のごときは、市

の中に山があり、森あり、畑があり、田さえあったくらいである。多くの地方市も東京

ほどの程度でないにしても、何処も余程そういう風なところがあって、町と村の境界を

どの辺でつけていいかわからぬというような趣はあったろうと思われる。昔のように、

世人の生計が楽であった時代と違い、誰でもがさまざまの度合いに於て、外に出て働か

なければならなかったので、都市では誰もが、出入りに便利な部分に住むことを欲する

ようになり、市内の住宅の数は見る見る増加し、空地が次第になくなって行くという

有さまであったのだ。東京などでは、大邸宅_大庭園_を持つということが非常な不経

済であり、不便なことになってしまったので、それ等の大きい屋敷が売り物に出て、

小宅地に分割されるのが多いのだから、空き地はますます少くなって行くであろう。

 僕らが少年の時分には、まだ旧江戸の面影だろうと思わるるようなものが大分残って

いた。一例を挙げれば、今の中央大学の前は法学院、その前はイギリス法律学校、その

又前が明治義塾、その前身が三菱商業学校であったのだが、明治義塾時代までの校舎

は、昔の侍屋敷そのままの建物であった。いずれ何千石というようないわゆる布衣

御目見え)以上の旗本か、それとも、も少し大きい小名かの邸宅であったのであろ

う、大きな式台で、内には書院らしい部屋もあるという、日本建ての家としては可なり

広々とした建物であった。当時はそういう前代からの遺物である建物が錦町、神保町、

猿楽町、今川小路にかけて、幾つも見られ得たろうと思う。

 今日も神田の西部は学校町である。だが、その時代はより多く学校町であった。学習

院のあったのは、今の商科大学の前あたりで、帝国大学の予備門も、法学部も、理学部

も、その南手にあったのだろうと思う。ただ医学部と病院は今の帝国大学のある本郷の

旧加賀侯邸にあったのだ。従って、神田のあのあたりは、本屋町といってよかった。

勿論、新本のそう出版せられる時代ではなかったので、大抵古本屋であった。これは

それより少し後になってのことだが、駿河台下の停留所の西手の横町あたりから、俎橋

へ抜けるひどく狭い町がほとんど軒ごとに古本屋であったことを記憶している人は幾ら

もあるであろう。此の狭い横町が南の方を取り広げられて、今の電車通りになったこと

は、ここにいうまでもなかろう。駿河台下からお茶の水橋へ向う今の電車通りも小川町

寄りのところは、電車開通のためにできた新道だと思う。昔の路はあの坂道の下り口の

西手の小さい横町を通るようになっていたのだ。

 谷崎精二氏の前記『東京新繁盛記』中の神田の部には、神保町辺の火事のことが書い

てあったと思うのだが、あの辺が震災前に焼けたのは、明治四十二三年ごろであったろ

うと思う。何んでも、春であったかと思うのだが、三崎町あたりから出た火で、可なり

広い地域へ焼け広がった。あの辺は二十五六年ごろに大火に逢いう一回

焼けたことがあるように記憶する。そういう風で神保町から錦町へかけての古い建物

は、或は焼け、或は改築されて、あの辺は震災前に既に新市街になってしまっていたの

だ。

 坪内逍遥大人の『書生気質』には淡路町あたりの横町で、学生が矢場(揚弓場)女に

引張られるところがある。なるほど、今の宝亭の横町にそんな家が二三軒あった。それ

は明治十五六年ごろのことである。

 淡路町にあった共立学校は、今の開成中学の前身であるが、高橋是清、鈴木知雄氏等

の創立した英語学校で、大学予備門、商業中学等の入学準備の学校であった。今五六十

代の人でそこに学んだ人々はたぶん多かろうと思う。田島錦治氏の顔はよく覚えてい

る。僕と同級にいたのは平田禿木、桑木厳翼、瀧精一、立作太郎氏の諸氏であった。

島崎藤村君もあの学校にいたことがあるという。明治二十年ごろの試験成績表のなかで

は、中村利彦(福島)という名を見出すであろう。これは堺利彦君の前名で、福島は

福岡の誤りである。

 今の万世橋が昔の昌平橋であり、それと今の昌平橋との間に石造の、下が水路を通す

ために、円形に二ヶ所開いておる橋があり、それを俗に眼鏡橋といって、それが昔の

万世橋(よろずばし)であったのだ。だから、昔の上野への本道はその橋を渡り、川に

沿うて右折し、すぐ左折し、又直に右折して、いわゆる御成道になっていた。鉄道馬車

の道もそういう風になっていたのであった。御成道は将軍が上野へ参詣の通路に当って

おったのだろうが鉄道馬車の通りだすまでは、実に狭い街であった。あの街は後では

古い絵双紙や、絵本を売る店が何軒もできていたのだが、昔はあすこで目に立ったの

は、鎧や古馬具や、槍、刀というような古武器を売る店であった。弓矢を売る店も一軒

黒門町あたりにあったことを記憶する。

                  二

 古い絵双紙には、上野公園の入口のあの広場に、風車のあるのがかいてあるだろうと

思うのだが、勿論明治になってできたものであろう。これは、鉄道馬車ができた時分

にはまだあったかと思う。その時分にはむろん三橋はあった。この方は極近頃まであっ

たと思う。切通し下から広小路へ出る今の電車道は近年になって開けた道で、あすこは

板倉候の屋敷であった。その裏手の近ごろまで吹抜という寄席のあった通り_南北の

通りは昔からあった。吹抜の筋向うあたりの西側の路地ようなところを入ったあたり

に、大弓場があり、それから南の方の横町に貸馬屋があり狭く短いものながら、馬場も

あって、そこで馬が乗れるようになっていた。それは、十六七年から二十年ごろへかけ

てのころのことではあるが、それにしても、あの辺でさえ、そんな空き地があったの

だから、その時分の東京生活には余ほどの余裕があったことが推知できるであろう。

 不忍池の縁が埋立てられて競馬場になったのは何時ごろであったろうか、今明らかに

は記憶しないが、明治十八年ごろにはもう馬場はできていた。その前はその周りは草の

生い茂った極狭い路で、池の周囲がもの寂びていて、いかにも風情があった。その時分

にはそういう池にくっついた草径と茅町の池へ面した道路との間には、もう一筋溝川が

流れており、それに月見橋だの、雪見橋だのという土橋がかかっていた。そういう溝川

と土橋は近年まで遺っていたが、何時かの博覧会の時か何かに埋められてしまった。

 森鴎外大人の『雁』という小説には、本郷の龍岡町から岩崎邸の裏手を通って池の方

へと下りて行く無縁坂あたりのことが書いてあるので、ひどく興を覚えたことがある。

 大学の東端と丘続きになっている茅町の西側に、忍ヶ岡小学校というのがあったが、

床次竹二郎氏の出身校である。

 根津にあった遊郭が今の洲崎へ移された年代を今記憶しないが、明治十七年ごろまで

はあすこに娼楼が一廓をなしていたと思う。藍染橋までは引手茶屋であったらしく、花

暖簾などが風に翻るのを見たことがある。橋から先が娼楼の区域で、権現の方へ曲がっ

ている八重垣町の方に大楼があったのではなかろうかと思う。とにかく大八幡の跡と

いうのが、温泉になり、旗亭になり、後には病院になってごく近頃まで遺っていたが、

それは庭なども見事になかなかの大建物であった。

 今では、根津の大通りは動坂の方へと突き抜けておるのだが、昔はあの道はじきに

突き当りになっていた。その突き当たりにもなっていたところと、団子坂から谷中へと

通じている路との間は、池などのある屋敷のようなものになっていたようだ。或は田

などもあったかもしれぬ。谷中の坂への上り口の右手の方は田になっていたのだから。

 団子坂が改修されて長い坂路になったのは、七八年前かと思うのだから、あの坂の

へんに曲がって下りになっていたのを、藪蕎麦と菊人形と共に記憶している人は多いで

あろう。そして、あの辺の道が今よりもずっと狭かったことはいうまでもあるまい。

 菊人形といえば、入谷の朝顔のことをいわなければならなくなるのだが、それは上野

駅の北端あたりの右方をば、狭いさまざまに折れ曲がった小道へと入っていくのであっ

た。両側は竹垣らや生籬やらで仕切った植木屋で、門を入ると、葦簾で高く上の方を

日覆をして、その下へ板で花壇をこしらえてそれへ鉢入りの朝顔を列べてあった。朝顔

は土鉢に植えてあるのだが、それをば、瀬戸の鉢の中へ入れ子にしてあるのであった。

客は薄暗い中で、花の色の気に入ったのを選んで買い取って、自分で持って帰るなり、

配達を命ずるなりするのであった。七八月ごろの、天気のいい朝は、入谷の狭い路を

そういう客が、花見か縁日かのように、ぞろぞろ歩いていたのであった。何しろ、朝

四時か五時に起きて、不忍の蓮を見がてら、入谷へ朝顔だけを見に行くというのだか

ら、随分呑ん気な訳のものであった。その入谷を東へ抜け切ると、その先は、いわば

漠々たる水田といっていいくらいで、蓮池や稲田が青々と続いて、それを隔てて右寄り

には浅草寺の塔や堂の屋根が見え、正面には、吉原の娼楼の洋館まがいの塔や円蓋

(ドーム)のような屋根の一族が見える。全くいい気分の眺めであった。無理のきく

ものなら、今日までもあのままに残して置きたい場所であった。

 朝帰りの客、入谷の朝顔から帰る客は、よく根岸の笹の雪へ寄って、絹漉し豆腐へ

葛餡をかけたのを菜にして、酒を飲んだり、飯を食ったりもした。その時分は、笹の雪

はこのあんかけ豆腐専門の家であったが、入谷の朝顔がなくなると共に、料理屋にな

り、今ではあの辺には芸者屋ができるまでになってしまった。

 入谷の朝顔は明治三十年ごろまでは確かにあったと思うのだが、菊人形の方は場所は

変っても今日まで遺っておるけれども、朝顔見物の方はあまりに呑ん気なことなので、

何時の間にかなくなって、朝顔は縁日の草花屋が売っているくらいなものになってしま

った。

 『たけくらべ』の場面に取られている大音寺前_坂本通りの三島神社の角を曲って

吉原の裏手へと行く路_なども、寺などの生籬が道に沿うていて淋しい所であって、

浪人が廓通いの客を脅かしたという昔話も憶い出せるような場所であった。

 昔の東京は震災までにもう大部分滅されていた。そこへ持って来て、あの大震災で

あった。沿革も風情もあったものではない。何もかも骨灰になってしまったのだ。つい

このごろの新聞には日本堤を削り取ることになったとあった。もう別に風情のある場所

ではなくなったのだから、便利のための変革はむしろ歓迎すべきであろう。