一葉のことども

 …というものを暇にあかせて見つけたので書き写します。

 

 文芸春秋の新年号に「明治文壇憶え書」というのが出ている。物故した明治時代の

文学者に関する逸事のようなものを書いたものであるが、どうも、余りよく詮議をした

ものではないようだ。失礼な推測ながら、伝聞が多いのではないかと思う。のみなら

ず、ふるい人に関する文献なども、殆ど読んでいないで書いたもののように見える。

 

 神代種亮氏が、かつて明治文学の事を調べる時には、実話のみならず、文献を併せ

調べることにしているという意味のことをどこかへ書かれたように記憶するが、これは

至極道理だと思う。自分が経て来たことでも、誤聞があり或は憶へ違いがあって、どう

も後での記憶はあてにならない。正直な日記でも書いて置かない限りは、自分自身の

ことでさえちょっと解りかねることが屡々(しばしば)である。で、実地に当った人の

話と、文献を併せ調べて判断するという方法は、ふるいことを調べるのに是非共とる

べき方法であることは論を俟たぬ。ところで文芸春秋の某君は、どうもそういう事が

怪しいと思う。

 もうふるいことだからどうでもいいことなんだが、僕の記憶とどう違うかということ

と、それから手近な文献とをあげて、某君の書かれたものに対する異見を樹てて見る。

 

 第一_これは間違いではないが_北村透谷の遺族のことを気にかけて居られるよう

だが、これは今度出た改造社の「現代日本文学全集」のための、改造社の月報を見れば

分ると思う。 

 その次に、高山樗牛上田敏が当時のハイカラであったとあるが、高山君のことは

僕はよく知らないけれども、上田君は成程身綺麗ではあったが、それほどハイカラでは

なかったと思う。

 その次には川上眉山と一葉女史のことが書いてあるが、眉山君と一葉女史が、初めの

うちはかなり親しかったことは事実である。眉山君を一葉女史に紹介したのは、平田

禿木君と僕とであったと思うのだが、眉山と一葉の交際は、一葉の生きている間は、

それほど文壇の噂さには上らなかった。眉山が一葉を一人で訪問したことは殆どなかっ

たと書いてあるが、一葉の日記によると二三度あったように書かれている。これに反し

て、一葉の方が、眉山の家を訪問したことは、全くないのではなかったかと思われる。

すくなくとも、日記にはその記載はない。すこし年をとって、家庭を持っている人の

ところは別であったようだが、独身の若い男のところを、一葉女史が訪問するという

ようなことはなかったのであるから、或は眉山君のうちへは一葉女史は一度も行かなか

ったのではあるまいかと思う。

 一葉は若くって美しかったとも書いてあるが、一葉は美しい婦人ではなかった。今、

全集にのっている写真は仲々立派だが、実際の人間はあれよりよ(ママ)ずっと見栄え

がなかった。

 また「憶え書」には次のように書いてある。

眉山は、一葉が裁縫に巧みであった処から、彼女に羽織の仕立を依頼したことがあっ

った。それが余程経ってから一葉から葉書が来た。それにはこういうことが書いてあっ

た。

 この頃は創作の方が忙しく、遂々(とうとう)御依頼のお羽織は未だに手をつけて

ありませぬ。それに兎角妹がぐずぐず云うものですから困っています。お急ぎでなけれ

ば其中(そのうち)に何とか致しますがそれで如何ですか。

 眉山はその葉書を見ると、使っていた婆やをとりにやって、他の仕立屋に回して終っ

たことがあった。』

 これもどうであったかと疑われる。一葉女史自身の話でも、また日記を見ても、一葉

が裁縫が上手であったことは考えられないので、裁縫が巧みだなどと眉山君に云い相も

ないことだと思う。これは、実際は次のようなことではないかと思う。

 一葉女史の妹の邦子さんが手の利く人であって、裁縫も上手であったらしい。一葉

女史がなくなってから、邦子さんは、仲ノ町の伊勢九という引手茶屋のお針にはいって

いたという話を聞いたこともある位だ。だから、この眉山君に関する話は、一葉女史が

妹さんに縫わせるつもりで眉山君の羽織を引受けたのだが、妹さんの健康が勝れぬか

何かの理由からそれを断ったのではないかと思う。

 それからその次には斎藤緑雨対一葉のことが書いてあるが、斎藤緑雨が一葉のところ

へ度々訪ねて行ったけれども、一葉の方では相手にしなかったというのは、一葉の日記

を見れば全くその反対であることは断言し得られる。

 日記によると、緑雨が一葉に交際を求めた筋道が複雑なように見えるのであるが、

緑雨は男に対してすらも、何かきっかけをこしらえて訪ねて行くという風で、ただ、

卒然訪ねて行くというのではなかったようだ。大抵一遍手紙をよこしてそれから訪ねて

行って知合になると云ったような、変に手数のかかる交際の方法をとった男であった。

一葉女史の場合も、日記で見ると全くそうであったらしい。しかし、一葉の方では、

日記はいかにも緑雨を悪人視して用心しているように見えるけれども、それだけ余程

心をひきつけられていることは、あの日記の行間にさえ、明らかに読み得られる。

 日記は明治二十九年の夏でとまっているのだが、その後になって、女子の病気が重く

なってからは、斎藤は色々好意を表したように聞いている。鴎外さんに話して、青山

博士に一葉を診て貰ったことなどもあったと聞いている。

 実は、一葉の日記は、当人が焼き棄てろと遺言をして死んだそうなんで、かなり長い

間、出そうか出すまいかという相談を、遺族並びに友人間でしたものであったが、明治

三十六年の秋、出せるものならば出そうではないかという相談が我々の間に起り、その

時、緑雨は樋口の家から日記を預って来て、露伴氏にも鴎外さんにも相談したらしかっ

た。ところで、鴎外さんも緑雨も我々も、いくらか削ることは已むを得なかろうという

考えであった。_これは僕だけの考えなんだが、緑雨は、自分のことはもっと、尊敬

した筆つきで日記に書かれているだろう位には思っていなかったろうかと思う。それが

あの日記の調子であるので、いく分意外な思いがしたかもしれぬ。それに斎藤は、

『「めざまし草」へ一葉を引張り込もうと三木竹(三木竹二)が一葉の所へ行った

あと、僕が出かけて行って、話を打ちこわしてしまったことがあるんだが、それが日記

にちゃんと出ているのだから、そこを鴎外さんに見せるのは一寸困るがね』

 と云ってにやにや笑っていたことがある。

 

 その日記は、緑雨が預って本所横綱へ引越したのであったが、三十七年の春、彼が

医者から宣告を受けて、死ぬる三日前に僕を呼びに来て、僕がそれを預って樋口の家へ

返し、それから、明治四十四年になって、僕の手で、今度は一行も脱かずに印刷に附し

た訳なのだ。

元はもう少し書いた部分があったのだけれども、当人が生きている頃にほどいて手習

草紙としたりなんかしたというので、その部分は保存されてあるけれども、どうしても

字を読むことが出来ない。が、そんなに秘密なことはその部分にもないのだろうと

思う。あの時分の教養ある婦人のことであったのだから、公けになって困るような行い

そのものは、全然なかったのであろうと思う。その次は、長田秋涛対紅葉館のお絹の話

があるのだが、ただ、お絹と云ったのみでは、今の人にはまるっきり分るまいと思う。

お絹と云うのは、威海衛(の戦い)で支那の艦隊が降服した際、旗艦(軍艦)定遠

自殺した支那の水師提督丁汝昌が、その前日本に来た時に、その相手になった女だと

いうので名高かったのである。ふるいことを書くのには、それ位の詮釈位は当然必要で

あろう。

 尚、これは云わでものことだが、ある人は、長田君は文章の書ける人ではなかったの

で、あの人の名になっている翻訳などは、皆他の人の執筆したものであるということを

云っていたことがあった。しかし、僕はその真疑は全く知らない。

 それから最後に、小栗風葉の身長が三尺八寸位と書いてある。これは二月の文芸春秋

鈴木氏亨氏が是正された通りに、全く「憶え書き」の筆者の興太(与太)である。

僕も無論鈴木氏の書かれた通りであると思っている。三尺八寸では不具者と云わなけれ

ばならぬ。

 

 僕の話にも記憶にの間違いがないとも云えないが、較べて読まれる人のために僕の

憶えているだけのことを云って見たままである。