馬場孤蝶「明治の東京」

                   三

 路は宮益の坂下から左へ折れて迂曲しつつ新宿へと向いている。

 もうどうしても三十年の前であるが、新宿駅から渋谷へ出る路が、一半(半分)は

生垣の傍に亭々たる(高くそびえ立つ)大木の欅並木のように並んだ東京郊外特有の

農家めいた屋敷の連続、一半は茅、薄の茫々と生い茂った高低のある広野という風で、

如何にも野趣満々たる景致(趣)であったので、それが全く気に入って、当時下渋谷

在住であった与謝野寛君を訪う時など、わざわざ新宿で下車して、渋谷まで徒歩した

ものであった。今その路はどのあたりなのであろうか。今はもう一帯に人家もふえ土地

も平にならされ、まるで見当もつかなくなってしまっておるのだが、地図を見ると、

昔のその路は代々木練兵場の中へでも入っておるのではなかろうかと思う。そうだ、

右手に衛戍監獄のあったことを覚えているものだから、今の渋谷区の代々木深町、神園

町、神南町、宇田川町というようなあたりに当るのであろう。

 われ等の自動車は新宿に近づくにしたがって、如何にも潔げな可なりな大きさの別墅

(別荘)風の邸宅の続いた町を通る。昔の番町、駿河台などの面影がこんなところに

残っているような心持がした。遠い郊外へ出ると、郊外とは名のみで、余り庭もない

ような家が建ち続いたり、さもなくば、周囲が余りに野味が多く、何んだか農家の借家

ではないかという感じのするような半洋館を見るのであるが、さすがにこの新宿裏あた

りの屋敷町には何処までも日本式らしい建築の十分な落着があって、結構だと思う。

どうせ他人のものなのだからどうでもいいようなものの、どっちがいいかと云われれ

ば、こういう風に手のかかった小綺麗なものの方がいいと思う。塵一つ落ちていない

ような、清潔な静寂な此の町の気分はまことに快かった。

 新宿近時の発達は全く文字通りに駭目(驚く)に値するといわざるを得ない。所謂

馬糞の臭いと嘲けられたのは余りに古い昔ではあるが、両側にあの薄ぎたない暖簾を

かけた陰鬱な大建物の間に、ぽつぽつと見る影もない小商店の介在していた時分から、

今の繫華の街路までの発達は殆ど一足とびの観がある。殊に旧市内より最も遠い部分が

中心になったのは、停車場のお陰即ち、郊外開進の恩沢といわざるを得なかろう。震災

の恩沢も十分ある事はあるが、新宿付近が殷賑(活気)を極むるに至るのは、単に年月

の問題であったので、震災はただその時期を早めたに過ぎないであろう。

この勢いで行けば、東京の繁華西遷の期が遠くはなかろうかと思われるくらいである。

銀座よりもここは卑野であると人はいうであろう。ところがこの野風が今の人々を引き

つける力があるのだ。大衆を引きつけるにはこの野風でなければ駄目だ。銀座がだんだ

んこの野味に降参しだすと共に、やがては、新宿の方がその繁華において凱歌を奏する

の日が来るのではなかろうか。

 古い小咄に、行倒れの日記というのがある。無論、偽って行倒れとなって、人から

恵みを貰う乞食の日記という意味である。

 『〇月〇日、神田にて行き倒れ候節、むすびに銭〇文。〇月〇日麴町にて行き倒れ候

節、灸とむすび。〇月〇日、青山にて行倒れ候節、灸ばかり』

 というのだ。これは当時の各地区の人気と生活程度を暗示した笑話だと思うのだが、

昔は山の手というのは、こういう風に蔑視されていたものであるが、これからは、新宿

あたりの気分は一変して、却って、下町の人気を笑う日が来ないとは云えなかろう。

とにかく今日の下町は住民の心持が一変しつつあるような気がする。古い東京は却って

片隅の四谷、新宿のあたりに残っているのではなかろうかというような気もする。

 寄席などでは神田の立花は振わなくなって、四谷の喜よしが東京で第一の入りの多い

寄席になったという事実の裏には、東京の文化の配置とその変遷とについて何ものかを

語るものがあると思う。 

                  四

 京王電車の発着駅から先き数町のところは路面がまだ出来上っていなかったので車は

大通りを右へ少し直行してから、左折して狭い新宿の華街を抜ける。

 いわゆるナイト・クラブの店がかりは、入口に目隠しのようなものが出来ている。

洋館まがいの建方、夜見ればどうだか知れぬが、白昼の光線の下では、如何にも陰鬱な

景気の悪いものに見えた。どうせ変態の場所には相違ないが、こうまで普通と違った

重苦しい空気を作らずとも、何んとか工夫のありそうなものだと思われる。

 左側の褐色に塗った家の入口には、まだ三十にもならぬと見える例の妓夫君(客

引き)が退屈そうに、粗末な椅子に腰を下していた。こういう職業も今にどうなるので

あろうか。その伝統の能弁と機知などは何処へ用いられるのであろうか。

 ひどく古い事をと思われるであろうが、昔ある友と、吉原の狭い町を歩いていると、

とある店から、『寄ってらッしゃい、舶来とジャッパン』という声が掛かった。それは

揚屋町へ曲がるあたりの河岸であったと思う。いうまでもなく、友は和服、僕は洋服で

あった。

 五年程前かと思うのだが、僕の数字の誤記のために、ある人の旧居の位置が不確に

なったので、増田龍雨さんを引張りだして、吉原裏のあたりを見てもらった。その

途中、増田、久保田万太郎、平林襄二、新潮者の某君、および僕五人で郭内をば、

揚屋町の門へと抜けて行くと、ある町の楼の前に立っていた若い妓夫君が、白昼のこと

ではあり、気がなさそうに『おあがりなさい。名誉職のお方』といった。

 吉原の小店では、昔は妓夫君が上った客の勘定の工合を、前以て客の履物で鑑定した

という。あと減りのしているような、すこし履き古した履物であったら、安心だが、

小粋な真新しいのめりの薄手の駒下駄などだと、この客は、翌日は馬(金が足りずに

取りに帰るのについていく)だと覚悟するのであった。ところが、近頃になっては、

それが反対になってしまった。つまり、履物も順当に、金銭のある者が新しい下駄を

穿くようになってしまった。履物だけは、見すぼらしい物を用いないというでんぽう、

てっかの伝統が消えてしまったのだ。こんな話を余程前に聞いたことがある。

 店頭の素晴らしき能弁も、通りすがりの客にからかう縦横無碍の機知も、元より吉原

の妓夫君の殆ど独占のものといって宜しかったのであろうが、こういう不思議な職業

気質などは、遊郭の衰微と共に、遠からず消滅し去るものの一つであろうと思われる。

 世の中が穏当に平坦にされて行くのは、まことに目出度いことではあるが、古き世の

悠長さを伝えておるさまざまの、延びやかなる馬鹿げた物や事が、つぎつぎに進化変転

の大波に洗い浚われて行くを見るのは、如何にも心淋しいことである。

 こんな用もない追憶にふけっているうちに、車はもう大久保の大道を北へ向かって

まっしぐらに進んでいる。やがて、戸山練兵場の裏手である。それからは、直きに戸塚

の源兵衛(早稲田)の踏み切りの東を通る。ここを流れている川は神田上水で、この末

が小石川の江戸川になる。この川の沿岸の変遷もこれまた非常なものである。今より

二十年も前には、源兵衛あたりは田舎の村の路に過ぎず、今の早稲田の市電の終点から

流れに沿うて、関口の大滝に至るまでは、野川の堤防で、蘆荻いやがうえに生い茂って

いた。対岸には、工場らしい家は一軒、それから、大分飛んで古い鳶色の藁家の屋根が

見えるぐらいなものであった。

 環状線が川を越すところから、少し下流面影橋というのがある。しかし、ここは昔

は橋などのなかったところではないかと思う。『南向茶話』に出ている姿見橋一名面影

橋というのは、穴八幡下にあった橋ではなかったかと思われる。

                   五

 牛込の馬場下から、戸塚の方へ行くには、穴八幡の狭い坂を上るのであったが、その

上り口のところに古称蟹川という小流があって、それに小さい橋がかかっており、その

橋を渡って、早稲田大学の方へ行くようになっていた。橋の袂にそば屋のあったことを

記憶する。即ち、その橋が、和田靱負守祐の女(むすめ)於戸姫が良人の敵村山三郎

武範を討って後、身を流れに沈めて野川の底の藻屑と消えたという伝説、又、将軍の

鷹野の時、外れた将軍の愛鷹がこの橋までその姿が見えたので、鷹匠が追って行って

捉えたという伝説のある姿見橋即ち面影橋ではなかったかと思う。

 それはとにかくとして、この辺りは実に途方もない大変転だ。そんな小流は埋めら

れ、橋などはとっくになくなり、穴八幡の前の坂にしても、もうなくなっているのでは

なかろうかと思われるくらいである。

 さて、吾々の行く道は、現今の面影橋、即ち、戸塚から北へ真直に鬼子母神へと上っ

て行く路に架した橋から数町西の方で、神田上水、即ち井の頭上水を越して、高田へ

入り、学習院の角で川越街道を横断し、鬼子母神から数町の西を回り、小曲折をなして

池袋へと通じ、巣鴨の山手線の少し手前で、大塚からの新道路を越え、やがて、その

先きで鉄道線を横ぎっているのだが、このあたり一帯が見渡す限り青青とした菜圃で

あったのは、まるで昨日の事であったような気がする。恐らくは精精十五年ぐらい前

から開けはじめたのではなかろうか。この辺では、路が山形をなして曲っている。大久

保からここらまでの路になると、もう十分に郊外気分が濃くなり、旧式の手輓きの荷車

などの往来を度々見かけたのであった。

 巣鴨の踏み切りから以北は、路は殆ど直線をなして西巣鴨を貫き、庚申塚の北で中仙

道を横ぎり、瀧野川を通って一路飛鳥山へ突き当る。勿論昔の本郷からの路へは直角を

なして合している訳である。この桜の小丘を見るのは、何年振りなのであろうか。恐ら

く四十何年か振りではなかろうか。昔はここをもこんな狭いところとはわれわれは思っ

ていなかった。神田の学校はここまで運動会をもって来たのであった。当時の市内に

公共用の空地の少かったことと、それ等の運動会の小規模であったこととが、これで

直ぐ想像し得られるであろう。いや、今日の若い人々にはそんな想像はしがたくって、

却って嘘の話のように思うくらいであろう。昔と違い四辺も丘上も小ざっぱりと清潔に

なっているので、なお一層山の地域が狭いように吾々の眼にも見えるのであろう。

 前に挙げた『南向茶話』は酒井忠昌の著で、寛延四年の手記のものであるらしいのだ

が、このあたりより青山百人町までは昔の鎌倉街道であったという記述がある。即ち逆

にいうと、千住から王子の脇の谷村即ち豊島村へ出て、瀧野川、雑司ヶ谷護国寺後、

高田馬場、大久保、千駄谷八幡前、原宿を経る路で、そういう時代には、豊島村がこの

郡の府であって、百人町から小田原へ向かう道をば俗に中路と称えたというのである。

そうすると今吾々の通って来た環状線はこの大昔の海道であった。全くの野中の路と

いうべきものの、西側の外回りをば大きくぐるうりと一回りして、ここらあたりで、

その古道に合したことになるのらしいのだ。ところで、青山からの中路というのは、

今の渋谷を通っておる厚木大山道と大体同じものではなかろうか。ともあれ、この中路

は小田原まで十八里で、日本橋から行く東海道より二里近いと記されている。

 ここで前記の面影橋のことが気になるので、嘉永板の江戸地図を見ると、今の面影橋

と同じ位置に橋がある。『南向茶話』には『高田の末より向こうへ渡り候橋』とあるの

だから、どうもこの橋らしくも思われる。前記の蕎麦屋の傍の小橋だというのは、筆者

の記憶違いなのであろう。