馬場孤蝶「明治の東京」

                   六

 今仮に、飛鳥山から千駄谷あたりまでへ直線を描いて見ると、環状道路はこれに対し

て、大凡(おおよそ)放物線の形をなしているともいえるだろう。

 さて、路線はここで飛鳥山の北横を小回りして、低い傾斜を下り、東北線の鉄路を

越える。ここの川は名主の滝をなしておる石神井川で、本流は殆ど真直ぐに東へ向い、

豊島と小台との間で荒川へ注いでおるのだが、支流は飛鳥山から上野へ連亘している

丘陵の東麓に沿うて南へ向い、根岸へ入っていわゆる音無川となっておるのだと思う。

 今はその音無川も川ではなくって全くの泥溝(どぶ)になってしまった。今から四十

年ぐらい前までは、旧市内でさえ、少し場末へ行くと、可なり水の澄んだ小魚の影ぐら

いは見られるような小流があったものであって、それらが町家の間にあって、一種の

半都会的の景物をなしていたのだが、それらの風情ある小流は大抵は皆埋められてしま

い、僅に残っているものは、水汚れ、流れ細って、小虫さえ住まぬ泥溝になってしまっ

た。沿岸一帯に人家の周密になった結果で、是非なきところである。

 このあたりから、吾々の車は車頭を東南へ向けて、三の輪をさして急ぐのであった

が、尾久駅あたりからは、さすがに沿道に雑草の生い茂った空地が見えて、如何にも

郊外らしい空気が濃まやかである。家々の規模も余程小さくなりだした。路は瀧野川区

の東北端をかすかすのところで横ぎり、荒川区の南寄りを東へと貫いているのだ。 

 昔は本所あたりは下町の敗残者の逃避の地区であったといわれた。なお窮迫の度の

増すに従い、更に奥へ奥へと引っ込んで行くのであるが、その引越し荷物を見てさえ、

その家運衰退の度合いが明らかに看取されるというのであった。即ち、初め両国橋を

越える荷車には、まだしも少しは見栄えのするものが積まれているのであるが、次の

場所へと向う車上には、次第にガラクタの数さえ減って行くというのであった。

 今この新市の北端に住む人々を旧市からの敗残者であるとはいい難かろう。これ等の

人々は、一朝運来らば、大都の中心を一気に攻略せんがために、空拳先ず外郭より攻め

落さんといそしむ勇敢なる小市民であろうといい度いのだ。

 尾久駅の傍を過ぎてからであったと思うのだが、両側の家々が殆どみな仮小舎のよう

な小屋になり、商品が路傍へ滾(こぼ)れ出したように並べられ、まるで、露天の街の

ように見えるところがあった。そういう街の中心へ入る前、右側に、菊の鉢を歩道の縁

まで列べた植木屋らしい店を見かけたが、この霜に傲るという豪華な花の紅黄白、色

とりどりの豊艶な姿が、四辺のくすんだ物の色のなかから鮮かに抜け出しているのが

眼にはいった。

 古着の店、古靴の店、古金物の店、露天向の玩具の店、新品ながら三等品、四等品と

見えるさまざまの商品をごたごたと店先きへぶちまけたようにならべた小店、それ等の

店が皆屋根は、塗りも汚れきった古亜鉛(とたん)を屋根にした、仮小舎用の細い柱

の、形ばかりの小舎である。どう見ても、片田舎の市場でもなければ、都会では到底

見られない雑然たる光景である。要するに、此処が都会と田舎との境目という感じでは

あるが、それでいて、田舎には見られない不思議な一脈の活気が漂っているように見え

る。

 大都会という多足の大動物はその触手をさし伸ばして、周囲の村郊を腹中に抱入せん

とするというのであるが、この大蛸たる大東京は、これ等雑然、混沌たる北郊の一角を

ば、その吸盤多き手で吸い寄せ得るであろうか。土地そのものはすでに吸い得た。希わ

くは、今の住民諸君を圏外へ押し退けることのなからんことを望む。

                   七

 ある人々は、これ等の商店、商品の雑多にならんでおる有様から、支那にある泥棒市

の光景を憶い出したといった。このあたりの商品は勿論盗品ではなく、人も決して犯罪

者ではないことはいうまでもないが、支那の泥棒市というのは、甚だ面白いものだと

聞いている。盗まれた品物が、翌朝早くその市へ行ってみると、必ず何れかの店に出て

おって、僅の金で買い戻せるというのである。ふつう吾々は中古でまだ使える品物を

盗まれた時には、同じような中古の品を見附けて買って来るという訳には行かぬので

あるから、誰しも新しい品を新に買うことになる。そうすると、それは吾々に取っては

甚大な負担になることはいうまでもない。ところが、泥棒市の如きのものがあって、

そこへ早く駆けつければ盗まれたその同じ品が新品の三分の一なり、五分の一なりで

買い戻せるとすれば、盗難から来る損害は極めて小害で済んでしまう理屈である。文化

の進まざるところ、治安の行政の行きとどかざるところには、またそれはそれで一種

奇妙な便法が行われるものだと、微笑を禁じ得ない訳である。

 路は三河島の東端から、なお一層南へ曲折し、常磐線の鉄路を越え、三の輪町へ

入る。ここは下谷区であって、その北がいわゆる骨(こつ)即ち小塚ッ原である。やが

て、路は三の輪車庫の裏手数町のところで、正東へ転じ直きに浅草区の文字通りの最北

端を通じておる。その幾分下谷寄りのところで、花川戸から千住へ通じておる陸羽街道

を突っ切るのであるが、その北、鉄路を越えたところが、往時の小塚ッ原、即ち南千住

であって、近年までこつの娼楼が数軒淋しげに路傍に列んでいた。浄瑠璃などにある

小磯ヶ原というのはここであろうと思うのだが、線路の下に濡仏が見えたことを記憶

する。今はそれはどうなったのであろうか。或はこの辺少し鉄路の模様が変わったので

はなかろうかと思う。とにかく、上野から行くと、鉄路の土手下、右手に大きい青銅の

濡仏があったと思うのである。

 地図で見ると、このあたりでは環状道路が浅草の北の区界ぎりぎりのところを東へ

通っている。恐らくこの道路の北側は荒川区になっておるのではなかろうか。地方今戸

町から南千住へと出る路は大昔は隅田川添いの沢地であったと見え、ところどころ沼の

ようなものが見えて、じめじめした如何にも場末らしい見すぼらしい地域であったのだ

が、今はなかなかに潔げな物静かな街路になっておる。文明の恩沢というべきところで

あろう。

 吾妻橋から以北、千住大橋までは、吾々の知っている時代は勿論、幕政時代にも橋は

一つもなかったようである。ところが『南向茶話』を見ると、左の通りの記述がある。

『橋場辺の義、此地の古老物語りにいにしえここに橋有候故、橋場と号しけると云、

その儀尋候所に、只今墨田川渡し舟有之候所より川上台町程に古の橋杭残り、折ふし

往来の船筏にかかり候由なり』

 橋場の渡しは近年は寺島の渡しと呼ばれていたのである。この記述によるとすれば、

現今の白髭橋付近(或はその少し下流か)に往時_寛延よりずっと以前_橋があった

ものと見なければならぬことになるのである。

 路は、その白髭橋を渡って、向島へ入る。即ち、この頃まで、向島の寺島村、隅田村

と唱え来たった地区である。路線は白髭神社のところから、斜に東南へと向い百花園を

右にし、玉ノ井を左にして、昔の吾嬬村の方へと向っておる。また『南向茶話』を引く

が、往時の本所は現今の地区より可なり北までをいったものらしい。

                   八

 その『南向茶話』の一節には、本所は本庄というのが古い名であって、今の信越線の

熊谷の先きに本庄という地名があるので、同名を嫌って、元禄年中本所と改めたと

ある。梅若の事跡については、猿楽伝という謡の由来及び謡の家元四太夫の家伝を記し

た書物には、家康の関東入国後、武蔵野国を謡ったものが余り少いので、命じて梅若

事跡の隅田川の謡を作らせた。その頃、夫婦の非人があって、梅若の有様を物真似して

歩いたというのだから、余りそう古くからの伝説ではなかりそうである。ある説には、

事跡は上戸円融院の時代(凡九百五十年前)の事だというのだが、『茶話』の筆者は、

それよりずっと後の足利時代乱世の頃のことであろうと思うと記しておる。又、文明の

頃(凡四百五十年程前)五山僧横川叟景三の詩集にも梅若童子悼という詩があるから、

或はその時代のことかも知れぬとある。それから又この土地に業平天神その他業平に

縁故のあるらしいような地名があるのは、伊勢物語にある都鳥の歌などから、業平を

祭ることになったが為であろうといってある。それに因んで憶い出すが、荻生徂徠

『南留別志』』には、伊勢物語は歌の作例を示したものであろうと思う。これを伝記的

価値のあるものとするのは誤りであろうとあるのだが、これは道理ある説であろう。

 一体、本所の郊外寄りは、小梅といい、中ノ郷といい、割下水といい、砂村といい、

縛られ地蔵(これは仮作)、置いてけ堀、狸囃子等のいわゆる本所の七不思議等さまざ

まの伝説に富み、且演劇、小説の場面に使われておる地点を多く有する地区である。

大都の場末ではあったが、それでも交通その他の関係で、人的交渉が多かったので、

山手よりは多くさまざまの物語の中に使用されるに至ったのであろうと思う。

 環線道路は、曳舟川を越し、直線的に進んで、おむらい(小向井?)に至って、右へ

向けて少し弧線を描き、福神橋北十間川を渡り、房総線の亀戸停車場の西側を掠めて

南向しておるのであるが、吾々が往時は郊外の果だぐらいに思っていたところの押上、

業平、柳橋亀戸天神などはこの大路線からいえば、西側、即ちずっと内側になって

しまった。これだけでも、市域の拡大したことの概念が得られるであろう。

 街路は荒川区の場合とは違い、そう新開らしい珍奇な光景は見られない。勿論、所

がらさして目立つほどの活気は見られはせぬが、両側の小商店皆かなりな落着を見せて

いる。甚だしく新しい新開の地域ではないためかも知れぬ。福神橋のあたりは天神の

直ぐ裏手に当るくらいなのだから、この辺などは割合に早く開けたものと見て宜しかろ

うと思う。

 北十間川を越えると、区は城東区になり、町は亀戸町になる。新市はまだこの先放水

路を越して、北から足立区、葛飾区、その南に江戸川区と、下総との国境江戸川縁に

まで広がっているのであるから、もう、尾久、三河島向島、亀戸あたりを郊外の新開

のように思うのは、吾々の全く時代遅れの考えである。

 また、西の方でいえば、板橋区、中野区、杉並区、世田谷区、その南で荏原区、大森

区、蒲田区という風に、神奈川県との県境、六郷川まで延長しておる。新市は全くとて

つもなく広がったものである。

 さて、環線道路は五ノ橋で堅川を渡って、大島町へ入ってから、現今のところ、少し

未了になっておる。この路線は新市からいえば、外回りの道ではなく、むしろ中心に

近い目黒、淀橋、瀧野川、荒川、下谷、浅草、向島城東区の十区を貫通するに過ぎな

いのであるが、しかもなおその幅凡十三間、延長十里に垂(なんな)んとする大路線

なのだ。