馬場孤蝶「明治の東京」

                         

 筍ご飯炊いて誰もいない、補助金もらって植樹されたまま放置されている公園へ行っ

独占お花見。大島桜が一番好きだが、これは小さくて葉も青くないのでどうだろう。

 先日古本屋さんに樋口一葉の評論を注文したら、一葉記念館のチラシを同封して

くれて嬉しかった。いつ行けることやら行けないことやら…田端文士記念館(あるの

知らなかった。田端文士村愛読してるので行きたい)泉鏡花記念館も。そしてなぜか

瀬戸内寂聴も…そういうくくりなのかな。

      

               人力車のことども

 

 地方の市などでは、まだそれ程古めかしい、間の抜けたもののようには見えないのだ

が、東京の自動車、バス、電車の往来織るが如きなかで見ると、あの古ぼけた幌をかけ

た人力車の姿は、まるで古い古い世から抜け出して来た、何かのすだまででもあるかの

ように見えて、怪しいまでに見すぼらしく哀れなものに見える。

 しかし、明治になってからの乗物としては、人力車ど長い間、交通機関としての任務

を果たしたものはないのだ。東京だけでは、既往少なくとも四十年の勤を了ってしまっ

た形になって居るのではあるのではあるが、地方ではまだその勤を了らずに居るところ

がまだ可なりあるだろうと思う。

 人力車の発明者は実に長い間、まことに多くの利沢を人に与えたものと言わなければ

ならぬ。

 人力車は明治三年春に筑前生まれの和泉要助が発明したという記録になって居る。

駕籠は担夫二人を要するのみならずこれを舁(か)くには腕力と熟練を要するという点

で、人力車より不便であるということはいうまでもなかった。

 馬車から思い附いての発明であったので、数人乗りのものも試みられたのであるが、

それは第一に速力の点などから実用が広くなく、直きにすたれて、二人乗りと、一人

乗りのみが非常な勢いで、弘布するに至ったのであった。

 

 発明の当初にあっては、非常な速力で走るもののように思われたのであった。東北の

或る地方などでは、『今度出来た人力車というものは実に驚くべき速力のものだ。全速

力で走るのであったら、乗って居る人間の腸はごちゃごちゃになってしまうほどの速さ

になるものだ。それだから乗る者は生卵一つ懐に抱いていて、その黄身と白身が一緒に

ならない程度に走らせれば、人間の身体には異常がないのだ』と、云う者があったと

いう笑話が、今日でも古老の間には残って居るというのである。

 ところで、その形には、二三変革はあったらしい。最初は轅即ち梶棒の突端に横木は

なかったし、車輪の上のところに附く泥除もなかったというのだが、僕などはそういう

点に関する記憶は少しもない。或は少年の観察は其処まではとどかなかったか、或は

又、明治十二年頃では、もう大体後々の形に治定していたのか、何れかであったろう。

もう一つは、幌の変革であるが、最初の時分のものの絵を見ると、幌が屋根のように

上だけのものになって居るのだが、僕などの知った時分には大凡後の形になって居った

ように思う。

 始めのうち、雨除けにだけ幌を使って、日除けには使ってくれなかったと思う。吾々

は蝙蝠傘をさして乗っていたことを記憶する。だから冬の寒風の中でも、雨か雪でない

限りは、吹き晒しで乗って居る訳であったので、年始回りの時など、一時間近くも、

車上に居ると全くふるえ上がってしまう程寒かった。冬の寒風を防ぐために、一般に

車体を全部包むようになったのは、恐らく大正になってからではなかったかと思う。

 

 車輪を護謨輪にするとか、梶棒の横木のところへ呼び鈴を附けるようになったのは

明治四十年頃であったと云って宜しかろう。但し、大阪あたりでは、音がしないのは、

威勢が悪いというので、わざと車輪がリンリン音がするようにしていたということを

聞いたことがある。

 護謨輪も場末の車宿などでは、容易に採用しかねたようであった。夏目漱石さんが

『出入りの車宿へ護謨輪の車を持って来いというと、鉄輪の車を護謨輪だと云って持っ

て来る。唯だ梶棒へ呼び鈴が附いて居るだけなのだ』と云って、笑って話したことが

ある。夏目さんが早稲田南町へ引越されてからのことであった。

 膝掛にも多少の変革はあったと思う。吾々の乗る辻待の車などは、長い間、毛布か、

さなくとも、ぼたぼたと厚い不意気な毛織物であった。大阪では、車の蹴込の両脇に

曲がった真鍮の棒が取りつけてあって、それが屋号か何かを染め抜いた暖簾のような

布を引き回すのであった。膝掛は用いなかったと思う。

 提燈の形なども、いくつかの変遷があったのであろうと思う。後に至っては、吉原

通いの車とか、花柳界の車は、細い縦に長い弓張り提燈を用い、屋敷方の抱車や、宿車

の方はもう少し短い箱提燈型の弓張りを用いたように思う。元よりこれらは車夫が梶棒

に添えて、手に持つのであったが、地方によっては、提燈を車へ取りつけてあったとこ

ろもあったのである。

 僕は明治二十四年の暮から、二年程、土佐の高知市の私立の英語学校を教えに行って

いたことがあるのだが、その時分高知市の人力車には蹴込の端のところに、籐で巻いた

湾曲した二尺余りくらいの棒が立ててあって、その先きへやや長めの丸い提燈が附けて

あるのであった。で、車が走り出すと、その提燈がぶらぶらと揺れていく訳であった。

電燈などはない、軒燈だって、殆どないような薄暗い夜の街では、遠くから、提燈のみ

が空中に揺れて来るのなどが見えて、余程可笑しかった。

 吉原通いの車夫が『アラヨ』というような掛け声をしながら、前期の江円筒型の提燈

を振り回して、行人を警(いまし)めながら疾走するのは、当時での見物であった。

 斎藤緑雨がその随筆のなかで、戯れに、

『ばかな会という歌の会があって、その会の詠草の中に、夕潮の切通坂をわれ行けば、

あららあららと車飛ぶなりというのがある』

というようなことを書いて居る。

 吉原通いの車の特徴は、高台と称して客の腰をかけるところが、後の方へ向けて斜に

低くなっているので、客は殆ど膝頭が胸近くとたいたいになるくらいに、後へ反って

乗って居るという風であった。つまり、客にそういう風に後へ反り返るように腰かけ

させるというと、車夫が輓いて疾走するのに、非常に都合が好かったからであろうと

思う。

 

 明治四十年頃になると、東京では、もう二人乗の車というのは殆ど跡を絶ったと云って宜しかったろう。極く早い時代の二人乗の車は後に武者絵とか、芝居絵とか、花鳥とかいうようなものが、彩色入りの漆で書いてあった。そういう車を見かけたのは、東京では、精々明治二十年頃までであったかと思う。

 初代の三遊亭園遊が創始したステテコの踊りの言葉に『相乗り幌かけ、頬ぺた押ッつけ、テケレッツのパア』というのがあった。相乗り即ち二人乗の車が、今の所謂アベックの場合に都合が好かったことは、誰にも理解し得られるであろうが、男同士の場合にあっても、道々話ができると云って、わざわざ二人乗に乗る人々があるのであった。辻待ちの車などだと、二人乗の方は車体が古ぼけていて汚くって、車夫もよぼよぼの年寄などであった。斎藤緑雨は、一人乗では連れとはなしができないからと云って、連れのある時は、遅いのなどは構わずに、二人乗にするのであった。

 車内で話をしながら行けるという点では今日の自動車は実に都合が宜しい。吾々は速力の外に、此の点で、文明の余沢を感ずることがいとど深いのである。

 昔の車屋は東京の道を善く知っていた。吾々の方では知らない場所へ行く場合でも、町名さえ云えば、車夫は真直ぐに其処へ輓いて行って呉れた。その点は実に安心なものであった。今の円タクではそうは行かぬ。小石川の石切橋あたりで拾った円タクでは、清水町へと云うと、既んでのことに谷中の清水町へ連れて行かれるところであった。青山墓地の入口で呼び止めた円タクの運転手は弁慶橋は渋谷の先きにあるのだと思ったらしく、三十銭では嫌だ、七十銭くれと云った。

 速力の点から、一つの車を二人で輓く場合は綱引きと称えて、梶棒へ綱を附けてその綱を一人が肩へかけて、先きへ立って引きながら駆け、また急ぐ場合には後からもう一人、車の背を押し、つまり三人輓きになるのである。これが先ず一番大業な車の輓かせ方かと思っていたのであるが、まだその上を越して、五人輓きの車というのに乗った人があるというのを聞いたことがある。それはどうするのかというと、梶棒を握る本当の車夫の前へ、綱を引く者が二人、それから後押しが二人、それで都合五人になるというのである。

 これ等はむしろ景気を示すためのものであって、速力の点では人数の割合程早いものではなかったろうかと思われる。雪の積もって居る路などは、車夫を疲れさすまいと思えば、綱引き、後押し附きぐらいでなければ駄目であったろうと思われる。二人輓き以上の輓き方は一つの車夫の労を軽くするための意味もあったのであろうと思う。

 

 上野の山下、浅草公園、吉原遊郭の内外の吉原へ行く客をあての車夫は、一般に悪性

の者であったが、その中でも一層質の悪い者どもを、もうろう組と云った。朦朧の字を

当てているようであったが、身元の怪しいという意味の外に、浮浪というような意味も

その音から感じ得られるのであった。これは、夕方からを専門に稼ぐ者どもであって、

初めは相当の賃金で客を乗せ、綱輓きにするとか、後押しにするとかして、途中で脅迫

的に不当な増し賃を要求するのであった。

 明治二十六七年頃であったと思うのであるが、僕の知人の或る紳士が、夕方浅草を

歩いていて、車夫がしきりに勧めるので、吉原まで乗ることになったが、するとその

車夫は綱輓きにしてくれと云って、仲間を四五人連れて来た。つまり綱が二人の、後押

しが二人、それに手がわりが一人という訳で五人綱を引く者が二人、それから後押しが

二人、それで都合五人輓きになったのである。断れば、喧嘩になって面倒だと思って、

結局は皆の頭へ二円もやればそれで済むだろうという気で、乗って居るというと、その

五人輓きの車は少しも駆けないで、唯歩くように緩々(ゆるゆる)と進んで行くので

あるが、その代り、後から来る車を皆止めてしまって、その車の跡へ附かせてしまう。

多分花川戸の方から行ったのであろうと思われるのであるが、吉原通いの車が何町も

続いて、その先頭には、山高帽を冠った紳士を乗せた五人輓きの車が立ち、その全体が

練り物ででもあるかのように、悠々緩々と進んで行くのであるから、これは如何にも

奇観であったろうと思われると共に、先頭の車上の紳士の面はゆさは又、察するに余り

があるのであった。

 が、それでもどうにかこうにか馴染の引手茶屋までは行くことができたのであるが、

やがてその悪車夫どもは予定の行動であったのか、どうか、他の車夫たちと喧嘩を始

め、その手打ちをするからという言柄(いいぐさ)で、十円とかをその紳士からいたぶ

り取ってしまった、というのである。その時分の金の価値なのだから、雷門から吉原

までの車賃としては、全く途方もない金額であったのである。

 朝になって、勘定の払えない遊び客に附いて行って、金を貰ってくる者を附け馬と

称することは誰も知って居ることであり、此の附け馬に関する笑話は多く落語には残っ

て居るのであるが、昔は附け馬は大抵歩いて客に附いて行ったのであったけれども、

人力車ができてからは、大抵その車夫が附け馬を兼帯にすることになったらしいので

ある。即ち、客からは、遊興の勘定と車賃を受け取って帰って来るのであった。

 人力車は空車よりは客を乗せて輓く方が楽なものだというのである。鉄道馬車が出来

てからも、筋違即ち今の昌平橋内あたりに立って、馬車を待って居ると、日本橋まで

馬車並みの賃銭で客を乗せようと勧める車夫があったものである。所で、京橋までその

倍の賃銭で行かぬかと云っても、決して承諾しなかった。思うに日本橋まで出れば、客

を拾う便が多いので、空車を輓いて行くよりは、いくら安くても人を乗せて行く方が、

輓くのに楽だというのであったらしいのである。船ならばバラスト(重心を安定させる

ための荷物)というような訳に、吾々が使われるという振り合いであったのである。

 車の輓き方にも、いろいろ技巧があるらしかった。平地に馴れた車夫が山坂の多い

土地へ行って困るというのは、吾々にも直ぐ理解のできる事柄なのだが、山坂を平気で

客を輓き上げる車夫は平地へ来るとカラ駄目だというのであった。平地では早く駆けな

ければならぬのだから、山坂の多い地方の車夫は、その駆けるという点で、平地の車夫

にひどく劣ることになるというのであった。

 成田街道あたりの車夫の俊足には東京の車夫などはとても及ばない。しかし、東京の

街中の、馬車が走り、自転車が来り、荷車が続くというような、往来織るが如きなか

を、少しも困らずに、悠々として車を輓いて行くということは、これは全く東京の車夫

の独擅場であると、ある屋敷の抱車夫は云っていた。

 車夫の服装についていえば小説や、劇などでは、黒鴨仕立というのが抱車夫の気の

利いた正装ということになって居る。濃い紺の筒袖の上着と腹掛に、同じ色の股引と

いう出でたちであって、夏は真っ白な装いになるのであった。帽子も饅頭笠、麦藁帽

などを経て、学生帽のような最近の形になったのである。しかし、古い錦絵などを見る

と、初めは半纏着の向う鉢巻ぐらいで、車を輓いたものであったらしいのである。

 駕籠舁に絡む雑多の面白い物語が残って居るとともに、車夫の方にもさまざまな物語

があり、小説や劇にどういう風に人力車や車夫が描かれて居るかを見るのも、興味の

尽きざる事柄であろうと思うけれども、予定の枚数も可なり越えて居るので、これで

一先ず此の稿を終ることにする。