昔の寄席 馬場孤蝶

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                  一

 雨の音しめやかな夜などに、独り静かに物を思い続けて居るうちに、今まで別にそれ

程遠い事のようには思って居なかった自分の少年時の事などが、成る程随分前の事で

あるのに気が附くことがある。

 五十位な吾々に取っては、自分から俺は老人だと思うことは、甚だ困難である。

然し、若い人々は吾々を老人だと思って居るに違いないし、又そう思うのは尤もな事で

ある。

 吾々自身も青年時には、五十位の人を見れば、可なりな老人だと思って居た。そうし

て見れば吾々が自ら老人たることを承認するとせざるとに拘らず、若き人々から老人を

以て遇せられることは全く已むを得ないことである。

 されば、寧ろ自分も老人たることを承認して、精々古い方へ回ってしまう方が、骨の

折れぬみちかとも思われる。

 けれども、小生は生憎余り古い事を知らぬ。高々今より三十年前位のことならば少し

知って居る。これでは、昔物語とするには価値がないわけであるが、又一方から考える

と、それでも何かの足しにはなるような気もする。近来江戸研究とか、江戸趣味などと

いうことが云われだして、幕政の時分の事などは、書物になって居るものが多いけれど

も、明治十年位から二十四五年位までの市井の雑事は、江戸研究のなかには当然含まれ

て居ないのだから、存外文書になって居ないように思う。江戸時代の事を調べれば、

それで古い事のオーソリティになれるのであるが、知って居る人の今大分生きて居る

明治の事を書いたところで、誰もエラいとは云いはしないばかりではなく、それは斯う

違うああ違うと方々から槍が出る。賢き今の人はそんな損の多い仕事を買って出ること

は先ずしないのだ。しかし、そういう割合に近い時代の事であっても、もう二十年も

経てば、大分古い事として取り扱われるようになろうと思われるので、そういう時代に

なった際の参考にもと、吾々の青年時の市井の事を時々書いてみようと思って居る。

 左に記する寄席の事は、全くそういう追憶記の一つである。

 

                   二

 落語を何時頃聞き始めたのか、確な年代は今思い出せないが、小生の十二三の時分か

と思う。本郷の大学病院へ出入りの貸本屋があったが、それは、中背で何方(どちら)

かと云えば丸顔な、道具立てのはっきりした容貌の男であった。所謂キリリと締った顔

立ちであったのだ。年齢は幾つ位であったか、少年の考では確でないが、もう三十近い

男であったような気がする。

 断って置くが、勿論その時分の貸本屋のことであるから、今のような活版本を持って

歩く訳では無い。八犬伝、弓張月、水滸伝、三国誌というような木版のものをば背負っ

て、方々を回るのであった。

 その男が落語が旨いそうだと誰かから聞いたので、本を貸しに来た時に、うちの者が

大勢で、一つ落語をやってみろとおだてた。貸本屋はその時二つばかり短い話をした。

 一つは斯ういうのであった。或る侍が茶店に休んで、婆さんに此の辺には白狐が出る

ということだがときくと、婆さんはそういうことはございませんというので、侍がイヤ

それでは大かた人の説だろうと云って行ってしまう。職人がそれを聞いていて、侍の

真似をしようと思って婆さんに此辺にはダッコ(脱肛)が出るそうだねと聞く、婆さん

はそんなきたない物は出ませんと答えると、職人は、大かた人のケツだろうと云った。

 も一つは、嫁いびりの姑が、浴衣へ糊のかい方に就て、無理を嫁に云いかけて、まだ

糊が足りない足りないと云って、浴衣がごわごわになって袖がまるで突張ってしまうま

でに糊で固めさせてしまう。それを着て門口へ出て居ると、前の二階から子供が、向う

の伯母さんお茶あがれという。姑はノリ(糊)がコワくて行かれませんと云ったという

話である。

 田舎者であり且つ子どもであった小生には、落は両方とも解らなかったが、全体と

しての話の調子だけは何うににか解かったので落語というものはなかなか面白いものだ

という印象は受けたのであった。

 そのうちに、母などが主唱で、寄席へ行くことになった。初めて行った寄席は、今の

本郷の電車交差点から切通しの方へ向って行くと、右に日陰町へ曲る横町があるが、

その角にあった荒木亭というのであった。それは、当時二流以下の寄席であったろうと

思うのだが、木戸銭は四五銭のところであったろう。吾々はその時分は敷物代を倹約

するために、毛布を持って行ったように覚えて居る。

 荒木亭で何んな話を聞いたのか、大抵今は忘れてしまったが、その中にたった一つ

記憶に残って居るのがある。

 酒飲みの爺さんが、娘を売った金を持って帰る途中、居酒屋の前を通り過ぎることが

できなくって、一寸一杯という心算(つもり)で、入って飲み始める。所が、あと引き

上戸のことであるから、もう半分、もう半分とだんだん飲んで行くうちに、とうとう

ぐでんぐでんに酔ってしまって、財布を忘れて出て行ってしまう。居酒屋の夫婦はその

財布を隠してしまって、爺さんが酔いが醒めて、財布をさがしに来ても、そんな物は無

かったと云って渡さない。爺さんはその金がなければ何うにもならない身の上なので、

身を投げて死んでしまう。居酒屋の方は、その爺さんの金で、だんだん店を広げて、

商売が繁昌して可なりな身上になった。そのうちに夫婦の間に子どもが出来た。乳母を

雇ったが、何ういうものだか、皆二三日たつと、ひまを取って帰ってしまって、居附く

者が一人もない。亭主が何うも合点のいかぬことだと思って、一と晩ねずに番をして

居ると、真夜中になって、赤んぼがそろそろ寝床を抜け出して鼠入らずから湯呑を取り

出して、旦那もう半分と云った。

 此の話は、爺さんが居酒屋でもう半分もう半分と云うところは可笑味で十分笑わせ、

財布をさがしに来るところから、調子を引きしめだし、夜中の怪談は十分凄く話して、

落のもう一杯で、客を笑わすという話し方であった。

 元より善い寄席ではなかったので、咄家も善い芸人ではなかったのだろうが、今の

記憶では、何うも話し方が旨かったように思われる。落を余り聞かないうち、而も子ど

ものうちのことであるから、何がなしに旨かったように思われたのであるかもしれぬ

が、しかし又他方から考えると、当時の咄家は中流どころでも、今の咄家より芸がずっ

と上であったかも知れないのだ。

 此の話は、その後何処でも聞いたことがない。当時でも善い寄席ではしない話になっ

て居たのかも知れぬ。

 

                  三

 所謂怪談ばなしなるものも、当時ではよい寄席には出ないものになって居たように

思われるが、荒木亭には佐龍というのが、懸ったことがある。

 話は、侍が腰元を殺すとか、家来を殺すとかして、その死骸を埋めに行くというよう

なところまで話して、それから、高座と客席の燈を消し、薄暗い中で、死骸を埋めるよ

うな所作がある。鬘位は附けて居るようであった。そのうち、あっと叫んで、その男が

倒れたようで見えなくなってしまうと、幽霊がそろそろと高座の隅から現われ、煙硝の

煙か何かが裾の方でポッと立つ。時には高座の直ぐ下位へは下りて、引込んでしまうの

だ。ハテ恐ろしい怨念じゃなァとか何んとかいうような白(せりふ)が聞えて、燈が

つくのである。

 昔は幽霊が客のなかを歩いたなどという話も聞いたのであるが、吾々の時分にはそん

な事はなかった。

 荒木亭に懸った一座のなかで、今一つ覚えて居るのは、しん粉細工の何とかいう男で

あった。前芸にしん粉細工をやるというのならば、兎も角であるのだが、これは真打で

あって、出来上ったのを、籤引きか何かで客に呉れるのであるから、荒木亭の寄席と

しての格式も大抵それで知れようと思うのである。

 荒木亭は明治十七八年頃には最早潰れて居たかと思うが、その後牛肉屋のいろはに

なって居たことを覚えて居る。今はその家は取り崩されて、その地面の一部分に農工

銀行の支店が建ち、他の一部分が瓦屋か何かになって居る。

 日陰町の岩本は、内部へ近頃入ったことがないので、それは何うかわって居るかも

知らぬが、外部はそうたいして違って居なかろうと思う。

 小生は、十三四の時分かと思うが、岩本へも行った覚えがある。一人で行ったのだか

ら、大抵は昼席であったと思うのだが、聞いた話のなかでは、渋川伴五郎が霧島山

土蜘蛛を退治する話と、姐妃のお百とが記憶に残って居るのみである。講釈師の名など

は覚えていない。

 講釈専門の寄席は本郷近くでは、上野の広小路に本牧亭というのがあった。これは

今の鈴本の筋向うあたりであったから、今何んとかいう蕎麦屋兼料理屋になって居る

あたりにあったのではなかろうかと思う。

 神田の白梅はその当時は位置が好かったので、眼に立つ講釈席であった。小柳のある

町はその時分は横町であったので、講釈好きの人が知って居るだけであったろうと

思う。

 白梅は今はもう講釈席ではない。此の頃は、田町あたりでも、白梅へ行くとは云わず

にしらんめに行くと云うのだそうだ。時世の変化がこんなところにも窺われて、微笑を

禁じ得ない。

 白梅で憶い出すが、明治十二年頃のことだと思うけれども、白梅の右手の裏を入った

ところに茶番狂言の常小屋があった。

 父の知人に連れて行ってもらったことを憶えて居る。

 掛合話か何かで、侍が亭主と客と二人で庭を向いて話して居るうちに、客が庭をほめ

ると、亭主が植木屋に作らせたという。客がさすがに餅屋は餅屋で御座るという。亭主

はイヤ植木屋で御座るという。それでも、客は矢張り餅屋は餅屋で御座るなと感心して

居る。亭主はイイヤ植木屋で御座ると奴鳴るので、看客は大笑いするのであった。後は

弥次、喜多が盲按摩におぶさって川を渡る場と、長兵衛の鈴ヶ森が出たように覚えて

居る。

 近頃その常小屋のことを、人に話しても知って居るという者がない。或はその小屋は

その後まもなくなくなってしまったかも知れぬ。

 

                   四

 序だから、なくなった寄席を二つ三つ書いてみようか。本郷の元富士町に伊豆本

いう寄席が出来たことがあった。位置は消防署の隣のところであった。出来たのは明治

二十二三年頃かと思うのだが、此の寄席は明治三十一年頃にはもう潰れて居て、あとが

甲子飯になって居て、斎藤緑雨などと、懐中都合の悪い時分に、其処で一二度飯を食っ

たことを覚えて居る。

 これは伊豆本よりも後で出来たと思うが、菊坂に菊坂亭というのがあった。勿論格の

低い寄席で、源氏節だとか、浪花節とかいうようなものしきゃ懸らなかったのである

が、近頃まで商売を続けて居たようであった。けれども、今は病院のようなものになっ

て居るようである。

 大横町_壱岐殿坂の通り_弓町の裏に、低級な寄席が出来て居たことを記憶して居る

が、これも何時の間にかなくなってしまった。

 小石川の初音町に鴬橋というのが大溝にかかって居て、その袂に初音亭というのが

あった。場末の寄席らしい絵看板などを時々見かけたのだが、今はもうなくなってしま

ったろう。

 麹町の山王町の山王へ下りる角のところに、山長というのがあった。これは女義太夫

の常席であったかも知れぬが、今はその跡が薪屋になって居る。

 九段坂の鈴木写真館の東隣に富士本というのがあったが、これは可なりな寄席であっ

た。今はその跡が仏教の講義所になって居る。

 小川町の小川邸は女義太夫の常席として、名のあった寄席であったが、今は改築され

て、天下堂になって居る。

 下谷の数寄屋町の吹抜というのは、心持の好い寄席であったが、何時の間にかなくな

ってしまった。

 旧両国の橋詰から左に、柳橋の方へ出る横町があって、その角に新柳亭という女義太

夫の常席があった。川縁で、裏は大川であったのだから、一寸、心持のかわった面白い

寄席であったが、両国橋の架け更(か)えられると共に、彼(あ)の辺の模様がかわっ

て、新柳亭もなくなってしまった。

 京橋の南鍋町の鶴仙は風月堂の横町の左側であったと思うが、これも今はない。

 麻布の十番あたりであろうと思うが、福槌という寄席があったが、これももう今は

なかろうと思う。

 日本橋では、木原店(だな)の木原亭だの、瀬戸物町の伊勢本などが、名の聞こえた

寄席であったが、今は一向名を聞かぬ。或は二軒ともなくなったのではなかろうか。

 斯ういう風に、なくなった寄席が随分多いのであるから、新に出来た寄席も大分有る

には有るけれども、総数から云えば減って、増して居る気遣いはなかろうと思われる。

 けれども、近来では、郡部に近い昔の全くの場末が開けたので、其処には寄席の出来

て居ることを見かけることがあるので、或は中央部では減ったが、場末ではふえて居る

ので、結局総数は三十年位前と同じだという訳になって居るかも知れぬ。