馬場孤蝶「文化の変遷と寄席の今昔」

                     一日この中で海風に吹かれていたい…

     

     古き寄席の思い出

 まだ、その外には、交通の不便などがあって、短時間のうちにそう遠方まで遊びに

行くことはできなかったので、人々はその住居の最寄最寄で、娯楽の場所を求めなけれ

ばならなかったというのも、寄席繁昌の一理由であった。

 各所に小さい寄席があったのは、重に此の理由で証明ができると思う。 

 泉鏡花君が『三味線堀』のなかに書いて居られるような寄席は随分方々にあった。

僕の記憶しているだけで云っても、本郷の田町から、小石川餌差町へ渡るところは小石

川側は大溝になって居て、鶯橋という小さい橋がかかって居り、その袂に初音亭という

のがあったが、それなどは、全く僅にその辺だけの客をアテにしたものであったろうと

思われる。

 小さい寄席では、本郷の消防署の西隣に伊豆本というのが、明治二十二三年頃に出来

たことを記憶する。近頃まで在った菊坂町の菊坂亭は伊豆本より少し後に出来たように

思う。

 今日では、寄席の数は市内全体では余程減ってはいはしまいか。麹町の山長も富士本

もなくなったし、両国の新柳亭、小川町の小川亭、池端の吹抜、麻布の福槌、京橋の

南鍋町の鶴仙、日本橋木原店の木原亭、瀬戸物町の伊勢本、など可なり名のある寄席で

あったのであるが、それ等も何時とはなしになくなり、神楽坂の藁店亭の如きも、広く

知られて居た寄席であったが、これはご承知の通り活動写真感になっている。

 根津の入口あたりにも一軒あり、駒込の蓬莱町あたりにも一軒あり、牛込の弁天町に

も一軒あったが、それ等は、今はもうないだろう。

 東京の人口が激増して、郊外や場末まで可なり賑かになったので、意外なところで、

寄席的興行の看板を見かけることはあるのだが、それが、寄席的に興行して居る家なの

か、何うも確でないように思われる。

 新開で寄席が出来て、今も取り続いてやって居るというようなところは、余りない

ようである。新開では、寄席の代りに活動館が大抵何処にもあるようだ。

 寄席で僕の今も尚忘れ得ないのは、前記の柳橋の新柳亭である。元の両国橋の袂か

ら、神田川の川岸へ出る横町があって、その右角にあった寄席であったが、大川に沿う

て立っていた家なので、入る時の気分も既に快かったが、楽屋寄の方へ行くと、川波の

音が聞こえるのであった。新柳亭は女義太夫の定席であった。両国橋が今の橋と掛け

替えられた時に新柳亭は取り払われてしまったのであろう。

     芸と人格の一致

 三十四五年前の落語家には、上手もあったと共に、実にタワイも無い、殆ど芸とは

云い得ないようなことで、高座を勤める者もあった。けれども、当人もそういう珍芸を

やけ気味にやって居るのではなく、落着払って、いわば生真面目にやっているのであっ

たから、客の方でも唯呑ん気に笑って見ていることができたのである。そういうのは、

一つには、芸人その人の人格の問題であり、一つには又、芸人と客とを包むその場合の

雰囲気の問題であると思う。

 ヘラヘラ坊万橘などという落語家は、話と云っても小咄位なものをしてしまうと赤い

木綿ですっぽりと頬冠りをし、扇を開いて ★この辺りは以前と同じ内容なので割愛

 『お前もどじなら、私もどじよ、どじとどじなら、抜けうらだ』という都々逸を円太

郎は何時も歌った。

 立川談志というのも変った噺家であった。顔の長い顎の尖った男であったが、克明に

素咄をするのであった。極く真面目に話すのであるから、滑稽味もなかなかよく客に

徹し、例の『子はかすがい』という話などでは、余程哀れな情味が出たものであった。

談志は、話の後で、郭巨の釜堀というのを踊った。★この辺も同じ内容なので割愛

 やる当人が如何にも実体な人柄で、それが大真面目なのだから、そういうことでも、

客は面白がって見ていたのである。若し生若い利口ぶった男などが、ああいうことを

やったのであったら、嘸(さ)ぞ厭に思われたのであろう。

 本当の大家では、円朝はただ一度しきゃ聞かなかった。体格の好い、なかなか品格の

ある男であったように覚えている。何ういう話であったか、それは記憶に止まっていな

いが噺のうちで一寸教訓的な言葉が出たが、若い書生客から弥次が出たので円朝は直ぐ

調子を変えたが、それで少し話の感興が殺がれたように見受けられた。唯如何にも落着

いた、飾り気を嫌った、描写式_会話を余り用いないという意味_の咄口であったよう

に記憶する。

 円生は数回聞いた。円生は骨太ではあったが、瘦せた、顔に凄みのある男であった。

博奕打ちが欺されて家を出て、途中で要撃されるという話を二度聞いたように思う。

博奕打ちが、綿入れの上から水を冠ぶって、刃を防ぐ用心をして子分の危難にあって

いると伝えられた場所をさして、駆けつけて行くと、途中の藪畳から竹槍などが突き

出されるというような物凄い光景が、如何にも陰惨の気を帯びて、力強く話されたよう

に覚えている。

 松人火事という話があった。     ★これも同じ内容なので割愛

 先代の小さん_禽語楼小さん_男振りは見栄えがなかったが、それが却ってその芸風

と調和して、当人の為めには、損にならなかったようである。小さんも極めて生真面目

な顔で、可笑しい咄を話す話家であった。『五人廻』も、此の人が話すと非常に面白み

があったし、『将棋の殿様』『殿様蕎麦』などに至っては、全く天下一品の感があっ

た。恐らく、小さん以後ああいう話を到底あれだけに話し得る人はなかったろうと

思う。今の咄家がやると、侍でも殿様でも皆官員さん位なところにしきゃ聞えないので

あるから、今の咄家からは『将棋の殿様』などは何うしても聞くことはできなかろう。

 今現在の咄家の中で、侍を侍らしく話し得るものは恐らく円右一人であろう。今の

小さんの侍は何うしても官員さんにしきゃ聞えない。

 斯ういう点も、落語が現代人を離れて行くことの一実例である。

 それから、これは、此の頃よく人に話すことであるのだが、昔の噺家_殊に続き物の

場合_は地の言葉に可なり骨を折って今のように殆ど会話ばかりで話を運ぶというよう

なことはやらなかったと思う。今は時間の都合などがあるので自然と地の言葉を省い

て、専ら会話で話を進めて行くということになったのであろうが、話術の技量は、地の

言葉を旨くこなして行くところにあるのだから、話術の稽古をするものは、其処に留意

すべきであろう。

 会話でばかり咄を運ぶことになると、声色、身振りに骨を折るようになって、耳に

訴えるよりは、目ばかりに訴えるものになってしまうかと思われる。それでは、話術の

本意を失ってしまう訳である。 

 現に円右など、咄はなかなか面白いのであるが、少し身振りが過ぎると思う。近代の

名人橘屋円喬などは、そんなに身振りや手真似はしなかった。

     女義太夫も新芸術であった

 寄席のことを書く以上は、女義太夫のことを書かずにしまう訳には行くまいと思われ

るので、左に少しそれを書くことにする。

 寄席の女義太夫が一座をなし始めたのは、竹本京枝からだということになっている。

ところで、明治十四年頃には、伊東燕尾が女房の此勝という女義太夫と一緒に寄席へ

出たことがあるのだが、その時には此勝の弟子の若い女が二人程口語りをやったように

思われる。しかし、燕尾此勝の一座と同時に、女義太夫ばかりの一座も他に存在してい

たように思うのであるが、それが或は京枝の一座であったのであろうか。或は、それは

京枝の一座でなかったにしても、明治十四年頃から既に女義太夫の一座が出来ていた

ことだけは確である。

 女義太夫が可なり有力なものになりだしたのは、先代の東玉が東京の寄席へ現われ

だした頃からだと思う。けれども、女義太夫が全盛期に入ったのは、明治二十二年頃で

あろうと思う。即ち、竹本綾之助の出現と共にそうなったのである。

 綾之助は初めは、チョン髷であったので、男だろうか、女だろうかと、皆判じ迷った

のであった。その時分の綾之助の人気は全く素晴しいものであった。若竹のような大き

い寄席が殆ど連夜満員になるのであった。八時頃にでも行こうものなら極く後、即ち

帳場との境のハメにくっ附いて聞くより外に仕方がなかった。声は初めから如何にも

善かったが、本当に十分な善い声が出だしたのは、それから二三年経ってからであった

ろう。

 始めは東玉の一座にいた小政は、その時分では、上手な女義太夫であった。その当時

では、『吉田屋』を語り得るものは小政一人であった。

 後に素行となり、終りに瓢となった豊竹三福も二十三年頃には、可なりな人気を得て

居った。『小磯ヶ原』を語ったのは、その時分では三福ばかりではなかったかと思う。

 小清と小土佐は大抵同時位に東京の寄席へ現れたと思う。綾之助の出現時分を女義太

夫全盛時代の第一期とすることができるならば、小清の出現は第二期を画するものと

云えるであろう。小清の男性的な芸風は可なりの賞賛者を集め得たのであった。

『鰻谷』『岡崎』などは、それ以前の女義太夫から聞くことのできないものであった。

殊に我々は小清の『鰻谷』を面白いと思った。

 小土佐は、初めから矢張り後年の芸と同じ筋であった。この人の『新口』などを僕は

後年になって、面白く聞いたことがある。

 何うする連というのが出来たのは、二十四五年頃からであろうと思う。しかし、そん

な者どもでも、まだ人間が馬鹿正直なところの失せない時分のことであったので、馬鹿

げたところに、一種の愛嬌があったのであろうと想像せられる。

 その時分では、義太夫専属の寄席が随分多かったほど、それほど女義太夫が流行った

のであった。

 当時の若い者が、女義太夫に寄席へ蝟集(いしゅう:ハリネズミの毛のように多く

寄り集まること)したのは、唯女を見る為めばかりではなかったと思われるのである。

矢張り芸術に対する欲求にも基いていたのだろう。浄瑠璃というものが文学として並に

音楽として、当時の吾々に取っては新しい芸術であって、決して今日の如く古ぼけたも

のではなかったのであり、従って女義太夫も今日の如くただ従来ある芸を機械的に演ず

る芸人とのみは思われなかった。浄瑠璃その者にも義太夫その人にも、何んだか新しい

生命が籠っているような気がしたのであった。要するに、吾々は芸術的欲求を満足させ

得る、善き高い対象を他で見出し得なかったのだ。いや、吾々は、極く卑近なところで

芸術的欲求を満足させ得るまでに、吾々自身の眼が低かった。心が進んでいなかったの

だ。

 世の中がだんだん進むにしたがって、女義太夫では芸術的欲求が満足せられない人が

増して来ると同時に、唯女を見るだけならば、カフエーの女給の方が面倒がないという

時勢になって来たのである。 

 これでは、女義太夫は廃滅せざるを得ないであろう。

 もうこの十年程前から女義太夫界それ自身の方が荒み始めたようである。今好い芸人

が出たところで、此の大勢は奈何ともしかたがないであろうが、しかも、実際に於て、

好い芸人は出て来ないのである。

 落語でも、女義太夫でも、総ての寄席が皆日陰の芸術になりつつある。いや、もう既

にそうなっていると云った方が確であろう。偖てそういう風に落目へ向って来ると、

気の毒なもので、よい芸人が生れてこ来ないことになるのである。

 そういう風であって、所謂寄席芸人は次第に趣味の中心を離れて、卑俗な方へと落ち

ていくのである。残念であるが、何うも仕方がない。

     衰退巳むを得ず

 寄席業者が衰運の予覚を感じだしたのは、明治二十八九年頃からであろうと思う。

さまざまな好みの客の欲求の為めに唯目先を変える為めにのみの場違いな芸を演じさ

せ、一座の出演者の数を無暗に多くし、唯いっ時の賑かしで落を取ろうとするように

なって、芸人の方では本当に高座で芸を鍛う機会がなくなり、客の方でもゆっくり芸人

の芸を鑑賞する余裕がなくなってしまって、芸人の素質が低下するとともに、客の柄も

だんだん悪くなって行ったという風に見えるのであるが、此は単に結果の表れであっ

て、実際は、前に云った通り、時代の変化が、芸人の方へも、客の方へも及んだのが、

寄席衰退の真因である。寄席衰運の歴史は、東京敗北の工程を象徴しているものと見る

ことができるであろう。

 前代に於て東京へ移住した人々は、その前方からして東京の感化が及び得た範囲内に

いた人であったのであるが、後の東京の移住者は、そういう伝統を更に持っていない

人々がますます多くなって来た。後の地方人は東京の文化に対してヴァンダルス(破壊

者)であった。そういう地方人なるヴァンダルスが、東京なる羅馬文化を破壊して行っ

た。その一局面が、寄席の衰退となって表れているのである。

 そうなって来ると、そういうヴァンダルス自身が猛威を揮うのみならず、羅馬人たる

東京人の方でも、そういうヴァンダルスに感化されて行くのが増して行くのである。尤

も征服者なるものは、何時も被征服者から何等かの感化を受けない訳には行かないもの

であるからして、ヴァンダルスそのものの中からも、東京的文化の感化を受けた者が

可なり出た訳であるのだが、それ等は数に於て、そう大したものではなかったのみなら

ず、そういう感化を受けたものも、根がヴァンダルスであるのだからして、究極のとこ

ろでは、東京文化の擁護者では有り得なかったのである。

 固(もと)より東京文化プラス地方精神というような文化が纏まりつつあることは、

事実であるのだが、しかし、それはまだ十分なものではないと云わなければならぬ。

 こういう風であって観れば、よい寄席、よい寄席芸というのは、極く少数のものが

残って行くに過ぎぬであろう。寄席業者も、寄席愛好者も、先ずそう諦めるより外に

仕方がなかろう。

 

 ちょっとこの回はいろいろ乱暴な意見が多いようです。でもそれが所謂東京人。