波が折れる瞬間の透明部分が好きだがなかなか撮れない。
一
明治の義太夫界の巨人と仰がれ、近代絶倫の美音と称せられた竹本摂津大掾は、此の
程八十二歳を一期として、白玉楼中の人となってしまった。
僕は此の人が摂津大掾と改名してからは、折悪く一度も聴いたことがない。僕の此の
人に関する記憶は今より二十六七年前のことに属する。此の人がまだ越路太夫と云って
居た時分のことである。
元よりその越路太夫に関する記憶は単独の記憶ではない。それは他のさまざまな記憶
をばその後に率いて、僕の心に起り来たる記憶である。
それは僕等の学生時代であった。その時分に一緒に越路を聴いた友の中には最早とく
に故人となって居るものもある。遠い土地に居て消息も互いにし合わなくなってしまっ
たのもある。その時分からの知人で今時々行会う者と云っては、ほんの数える位しきゃ
残って居ない。
秋雨のしめやかに降る夜、そういう思い出に耽れば、昔親しかった人々の顔、昔行
なれて居た場所の光景などが、つぎつぎに目の前に現れて来るような心持がする。
そういう追憶を書き立れば何枚書いても書き尽くせそうもない。僕は今摂津大掾の
越路時代のことを重に思い出してみよう。それには幸い二十三四年前の僕の日記が残っ
て居る。
二
僕が最初に、越路を聞いたのは明治二十三年の五月三日である。寄席は本郷の若竹、
同行者は今朝鮮の何処かの知事である松永武吉氏であった。午後一時から始まって、
八時半頃に終って居る。それで木戸賃はというと、二十銭か精々で三十銭位であった
ろうと思う。物価の安い時代であったからでもあるのだが、それにしても現代の越路が
大劇場で金何円という木戸銭であるのは、少し個人に対して、くすぐったい気はしない
であろうか。
さて、少し蛇足の感はあるが、参考の為めに、その時の語物(かたりもの)を順に
書いてみよう。『八陣_正清本城』越栄太夫、『加賀見山_又助』小長太夫、豊沢
広子、『碁盤太平記_坂戸村』越尾太夫、豊沢広吉、『同_揚屋』村太夫、豊沢龍三、
『玉三』さの太夫、鶴沢小庄、『勘作』路太夫、豊沢花助、『酒屋』越路太夫、豊沢
広助というのである。
越路は此の時は声の美しさの方では稍(やや)下り坂だと云う人があったのである
が、まだ何うして実によい声であった。殆ど男の声とは思え無いほどの綺麗な声であっ
た。節を細かに語って行くところは、所謂盤上に玉を転ばすという形容は此の様な場合
に用いるのでもあろうかと思われた位であった。
『あとには園が』というところまで来ると、越路は見台に手を掛けて、膝で真直に
立った。それから『繰り返したるひとりごと』までが、如何にも悠揚に語られた。
同月五日にも、松永氏と共に聴きに行った。路太夫の『紙治の茶屋場』と越路の『御
殿』とが殊に面白かった。路太夫は如何にも声のない太夫であったが、その代り非常に
言葉の旨い太夫であった。此の『河庄』は今も猶僕は忘れ得ない。もう一度此の時の様
な『河庄』を聴いてみ度いと思う。越路の『御殿』では「お末の業をしがらきや」以下
のところの節回しの綺麗であったことが、今も猶耳に附いて離れないような気がする。
殊に『心も清き洗米』の節の細かったことは、僕の終生忘れ得ないものであろう。
同月十日には、母と姪と三人で聴きに行ったのであるが、その時は越路は病気で出な
いで、さの太夫の『松王屋敷』と路太夫の『帯屋』を聴いたのみであった。
三
同じ年の十月十七日に、若竹で又越路を聞いた。此の時は僕一人であった。遅かった
と見えて、路太夫の『沼津』と越路の『十種香』だけを聴いたことしきゃ、日記には
書いてない。
同月十九日には、比佐という学友と一緒に、越路の『柳』を聴いた。此の時の太夫の
出し物は「玉三」であったが、僕らは、さの太夫の大きい語口にひどく感服して、此の
太夫の前途の多望なることを語り合った。越路の『柳』の面白さは前半にあった。一体
三味線のよく解らない僕等素人には、『柳』は柳の精の消える所までで沢山である。
十一月二十三日、芝の玉の井で、越路の『堀川』を聴いた。例の『鳥辺山』が何んと
も云いようの無い程心持の好かったことを記憶して居る。
翌二十四日、玉の井で、さの太夫の『加賀見山_尾上部屋』と、路太夫の『引窓』と、
越路の『太十』とを聴いた。この時は、比佐と竹本東佐(当時は弥昇)と三人であっ
た。東佐は路太夫を激賞した。東佐のお陰で、『太十』の終りに近い部分の三味線の
面白さを知ることが出来た。
十二月十九日、越路の『合法』を宮松で聞いた。路太夫の語り物は『重の井子別』で
あったが、これは余り好くなかったように思われた。
僕の東京で越路を聴いたのはそれだけであるのだが、これが越路を聞いた最後では
ない。
二十四年の十二月に、僕は高知市の共立学校というのへ、英語の教師に雇われて行っ
たのだが、その途中、神戸で船待ちの間、同月の十二日に、神戸の大黒座で越路一座を
聴いた。その時は、さの太夫が八兵衛の三味線で、『志度寺』、路太夫が同じく三味線
は八兵衛で『河庄』、呂太夫が『吃又』、越路が『太十』であった。呂太夫は如何にも
体格の魁偉な異相の男であった。そして、語り口が如何にも剛健であったように覚えて
居る。
四
越路を聴いたのはただそれだけである。越路はからだの小さい、顔の小さい、如何
にも濃い地蔵眉の色の赤黒い男であった。語り出す前に、本を両手で顔の前で捧げて、
長い間居るのであったが、或人が、丁度一分間そうして居るのだと云ったことがあるの
で、僕も一度時計を見て試したが、確に一分間であった。
名人長門太夫が初代の綱太夫に三年間に一段しきゃ教えなかったという伝説があるの
だが、越路も師匠が一年間一段しきゃ教えなかった。越路の家の者が一年間一つの物
ばかりでは心細い、何か他のものを教えて呉れと、師匠に申込んだ。師匠は言下に、
『それでも、当人は不平を云わずにやって居るから宜いではないか、先ずそういうこと
は一切わしにまかして置いて呉れ』と云ったという話がある。
越路の義太夫は邪道に入ったものであるとか、所謂ケレンであるとかいう評は玄人
の中に大分唱えられて居た。けれども、声の美しかったこと、節の細かったことは、
何人も争い得ないところであったろう。その点では越路時代の摂津大掾は不出世の人で
あったことは、疑いがない。
俳優、音楽家等は、刹那のヒーロォである。その人衰えると共に、その人逝くと共
に、その天才の技能、また永久に消え去ってしまうのは、憾みに堪えざることである。
夏目漱石君が或時次のような話をしたことがある。
或日、夏目君が兄さんから拝領の外套を着て、若竹へ越路を聴きに行って居ると、傍
に胡坐をかいて居るへんな男が、夏目君に『今日は休みか』ときいた。夏目君は、学校
のことだと思ったので、『今日は休みだ』と答えた。すると、その男は夏目君にいろ
いろ話しかけたが、だんだん話が喰いちがって来るので、夏目君もこれはすこし変だな
と思って居るうちに、到頭先方から『だって、おめえ、造兵じゃあねえか』と云った。
夏目君は砲兵工廠の職工と間違えられたのだ。
ああ、その夏目君も今は故人で、その一周忌が近々に来るのである。
僕が一緒に越路を聴いた比佐道太郎は、明治三十六年に磐城の小名浜でなくなった。
そのわすれがたみの男の子は、もう高等学校の試験を受け終ったくらいの年になって
居ようかと思われる。
その時分の学友で亡くなったものは、もう十指にも余るであろう。
夜は更け行くままに、雨の音はいやさびしく聞えて来る。人もなつかしい。事もなつ
かしい。鬢に数茎の霜の色しるき僕に取っては、今宵の雨は消え行く過去を低調に弔う
挽歌のような心持がする。