樋口一葉「別れ霜 五」

                  十三

 「覚悟したのだから今更涙は見苦しい」と励ますのは言葉ばかりで、まず自分がまぶ

たを拭う、はかなくも露と消えようとする命。ここは松澤新田先祖累代の墓所、昼なお

暗い樹木の茂みを吹き払う夜風がさらに悲痛の声を添え、梟の叫びも一段とすさまじ

い。お高の決心の眼差しはたじろがず、「お気後れですかそれともご未練ですか、高の

心は先ほど申した通り覚悟は一つ、二人の命を犠牲にすることです。あなた様のお心を

伺わなくても生きて帰るつもりはありません。お父様が今日おっしゃった、人でなしの

運平の娘を嫁になどとは思いもよらない、芳之助はともあれわしが許さないとご立腹の

数々、それも無理ありませんがあなた様と縁が切れてはこの世に何の楽しみがありまし

ょう、つらい錦野の話もあるので所詮この命一つを覚悟するだけです。行き会ったあな

た様のお心も同じでしたのだから今更背くはずがありません、私は嬉しいのです。」と

見事に言い放って嚙む襦袢の袖、「未練などはあるものか、男でありながら虚弱で力及

ばず、それだけではなく病に伏す両親にさえ孝養も十分尽くせない不甲斐なさ、この身

を恨めしく思って捨てたいと思ったのは昨日今日だけではない。我々二人がこうなれ

ば、さすがの運平の角も折れるだろうし父も同じ、その一徹の心が和らげば両家の幸福

となるだろう。二人がこの世にいればいかに千辛万苦しても運平が後悔することもな

く、ましてや手を下げて詫びるなどあるまいし、仮にひざを折って謝ったとしても父は

決して受け入れないだろう、乞食に落ちぶれても口が腐っても新田如きに助けを求める

ことはしないと日頃から言っている。未来永劫この不和の解けることはないが、数代

続いた両家の誼みを一朝にして絶やしては先祖の遺旨に背くことになり、世の人から

愚かとも痴れ者とも見られて笑われるだろう。しかし先祖と家に対する孝行として二人

の命を捨てて栄えある身となるのだ。未練などどこにもない、さあ身支度を」と最期の

用意をする。あわれ短い契りであった。井筒にかけし丈比べ、振り分け髪のかみ(幼馴

染)ならねばこのようなこともなかっただろう。紙で姉様人形を作って遊んだ昔、これ

は君様、これは私、今日はお芝居へ行くのです、いや僕は花見の方がよいなどと戯れた

こともあったのにその一つの願いが叶うことさえなく、待ちに待った長い年月に巡って

きたはかない結末、世は桑田の海ともならねど(移り変わりが激しいが)変わったのは

親の心、まして他人の底深い計略の淵を知らずに陥れられて、その後の後悔は空しく、

涙を呑む晴れ間もなく、降りかかる憂苦のため思慮分別も闇の中、星明りの中で目を

見合わせてにっこりと名残の笑顔もうら淋しく、さあと促し、ではと答えてもさすがに

ためらう幾数分、思いを定めて立ち上がり用意の短刀を取り直すと後ろの藪から何やら

物音がする、人が来たのかと耳をすませても吹き渡る風の音ばかりではっきりしない。

「追っ手でもなかろうがお高支度は整ったか、取り乱せば死んだ後も恥になるぞ、心静

かに」と戒める言葉も体も震える痛ましさ。惜しくも青年の身花といえば蕾の枝、今に

もに吹き起こる夜半の狂風、お高が胸を広げようとした瞬間に待てとばかりに後ろの藪

から飛び出して腕を取った男は誰か、離して死なせてとか弱き身で一身に振り切ろうと

するのを固く離さずいや離しません、お前様を殺しては旦那様に済みませぬと言うのは

「勘蔵か」とお高の声の終わらぬうちに闇にきらめく白刃の稲妻、あっと一声一刹那、

はかなく枯れた連理の片枝(相思相愛の相手)。

                 十四

 松葉が土に還るまで共にと契ったものを私ばかりが何として後れるものかと地団駄を

踏んで嘆いた命ははかなくも止められて、再び見ようとも思わなかった六畳敷きの我が

部屋がそのまま座敷牢となり、障子の開けたてにも乳母の見張りの目が離れず、まして

や勘蔵の用意周到、翼があればともかく、飛ぶ鳥ならぬ身にはどこにも抜け出す隙がな

い。何とか刃物を手に入れたい、場所は変わっても同じ道に後れまいと願う娘の目の色

を見る運平の気遣わしさ。錦野との縁談が今にもとなっている中、これを知られては

みな画餅となるので、隠せるだけ隠して娘をなだめすかし、手を変え品を変え意見して

も袖の涙は晴れない。ともすれば自分も一緒にと決死の素振りに油断がならず、何は

ともあれ命あっての物種なので娘の心が落ち着かせる以外はないと、無理に結婚を進め

ず、去る者は日々に疎しということわざ通り日が経てば芳之助への追慕の念も薄らぐの

も必定、心長く時を待てば春の氷も朝日に自ずから解ける折りもあろう、今は何を言っ

ても甲斐はないのでもう誰も意見するな、心浮き立つ話をして気を慰めて、面白い世を

面白いと思えるようにするのが大事だと、自ら機嫌を取り、慰め、心を引き立たせよう

とすると同時に見張りを厳しくして細紐一本、小刀一挺もお高の目に触れさせないよう

に、夜は特に気をつけてと気配り目配りは尋常ではないので、召使たちも心得て風の音

も聞き逃さず、ネズミが走り回る音にも耳そばだてている。疑心暗鬼が高じて奥の間に

本人が座っているのを見ながら、お嬢様はどこへ行ったお姿が見えないと人騒がせする

者もいるので、乳母は夜もろくろくまぶたを閉じられず、お高の横に寝床を並べて雑談

に戒めを交えながら面白おかしい話をして、沈みがちな主人の心がいじらしくて気遣っ

て片時も離れないのでこれも関所である。どうやって越えようかどうやって逃れようか

とばかり考えている。

 お高は終日涙に暮れて、終夜涙に明ける。髪も結わず化粧もせず、昔の紅白粉(お化

粧)はあなたのためだったのにそのあなたに後れた顔を鏡に映すのもつれないと、伽羅

の油(鬢付け油)の香りも失せた乱れ放題の花の姿がやつれていくわが身が頼もしい、

このまま死にたいと願っているが、命は思うようにはならないので病むことも患うこと

もなく、つくづくと空を眺め、つくづくと涙を流すことだけを友として月日を送って

いる。来るものは月、改まるのは歳、散って帰らぬ君を思えば、桜が春知り顔に今年も

咲く憎らしさ、また聞く堀切(名所)の菖蒲の便り、車を連ねて行ったのはいつの世の

夢だったか、精霊棚(盆の祭壇)のまこも(のござ)の上にも表立って供えることが

できない恨めしさ。月の照る秋の夜草葉に置く脆い白玉(夜露)のように消えかねる私

をどれほどお恨みだろう、雪の夜に出会ったとき、二つとない貞節の心嬉しいぞとほろ

りとした涙顔が今でも目の前に残っている。しかしこの気持ちは幽冥の境(霊界)には

通じないだろう、悲しくも無情に引き留められた命なのに未練出惜しんだと思っている

のだろうと苦しんではうち沈み、思い出しては涙にむせぶ。笑いというものを夢にも

忘れて知るものは人生の憂きという憂きの数々、無意無心に過ぎる春夏秋冬、落花流水

に散って流れて寄せ返る波の年また一年、今日は心が解けるか、明日思いが離れるか、

あわれ栄華の身にしたい、娘に着飾らせて自分も安心の楽隠居、願わくは家運長久、

子孫繁盛、ともかく身の上に凶事が無いようにとの親心に引きかえて、今日身を捨てる

か明日こそと窺う心に怠りはないが人目の関守に暇はなく、七年の時が経ってもまだ

籠中の鳥であった。

                 十五

 お父様、勘蔵、ばあやには特にいろいろご苦労をかけました。今思うと恥ずかしやら

お気の毒やら、幼稚な心で後先考えずに無分別なことをしましたが命運あって、難なく

助かったことを嬉しいとも思わず、理由もなく義理立てして心苦しく、芳様のお後を

追おうと思うことは何度もありましたが、命が二つもあるかのような軽々しい考えで

した。今までのことは後悔と悔しさばかりでこれからの身が大切になりました。死ん

人への操立てなどばからしい、何にもなりませんしいつまでも一人でいることが心細く

なりました。こうなるとなぜ昔お言葉に背いてまで嫌がったのか自分の心がわかりませ

ん。お母様なしの手一つで育てていただいたのにご苦労ばかりおかけしました上の上

に、何年もお心を休ませなかった不料簡、不孝のお詫びとして今後さっぱり芳様のこと

を思い切って、どちらでも縁組をしてくださいましたら従います。勘蔵もばあやも長い

間のお心遣いをたいそうお気の毒でした、私の心は今言った通り迷いの雲は晴れたので

これまでの気持ちは一切ありませんからご心配くださいますな、とさすがに心弱ったの

か後悔の涙を目にためてお高はこう言いだした。

 長年心配った甲斐があってやっとこの言葉に安心したものの運平はなおも油断をせず

に立ち居振る舞いに目を注いだが、お高は言葉に違いなく眉の憂いもいつか解けて今迄

までとは打って変わったまめまめしさ、父のもの我がもののみならず手代や小僧の衣類

の世話をし、縫いほどきまで気を遣ってうきうきとしている様子に、本当に後悔して

嫁に行く気になったかと運平のみならず内外も者も思うようになり、安心しはじめた。

 ところで気になるのは松澤夫婦の身の上、芳之助が生きていた時でさえ台所の煙は

絶え絶えだったのに、今はどうやって日を送っているのか。若い息子に死に後れるはず

だった病は癒えたとはいえ、わずか手内職の五銭六銭で露命を繋ぐことはできないだろ

う。不思議なことだと尋ねると末世の世とはいうものの、なお陰徳者がいないわけでは

ない、その薄命を憐れんでの恵みに浴して生活の苦労はないと言う。それはまたどこの

誰なのか庇護されている夫婦でさえも知らないのに、他の誰がわかるものか。怪しむべ

き、尊ぶべきこの慈善家の名前も言わず心情も言わず、義理のしがらみをそれと知るの

はただ一人、お高の乳母だった。忍びながら貢ぎ物を人手から人手に渡して元は誰かを

わからないようにする用心、昔気質の一刻(頑固)を立てて通そうとするご遠慮ご心痛

おいたわしや、右も左もご苦労ばかり、世が世ならばお嫁様がお舅様に孝行するのに

ご遠慮もいらないはずですのにと、ある時泣きながら言うと、お高も涙を流して「私の

心を知るのはあなただけ、芳様のことは思い切ってもご両親の行く末が心配です。明日

にも私が嫁に行ってしまえば自由がきかなくなります、その時の頼みはあなた。お父様

のご機嫌をよく取って、松澤様との仲を昔通りにしてほしいのです。これだけが頼みで

す」と両手を合わせて伏して拝む。亡くなった芳之助を悼まないわけではないが主人の

身の上はもっと気遣わしく、陰になり日向になって意見した数々がようやくわかったの

か、今日この頃は涙も心も晴れて縁にもつこう、嫁にも行こうと言い出したので喜び、

七年越しの苦労が消え、安らかに眠れるようになって幾晩経ったか、ある朝強い風が

吹き抜けて枕が冷えるので目覚めると縁側の雨戸が一枚外れており、並べた寝床はもぬ

けの殻だった。あっと飛び起き蹴倒した行灯提灯がふっと消え、乳母の涙声が慌ただ

く、嬢様が、嬢様が、

 変わらぬ契りの誰なれや、千年の松風颯颯として、血潮は残らぬ草葉の緑と枯れ渡る

霜の色、悲しく照らしはじめる月、何の恨みや弔わん、ここ鴛鴦の塚の上に。

(難しいので)永遠に変わらぬまごころ、月が照らす相思相愛の二人の墓。