樋口一葉「暗夜 三」

                  九

 秋は夕暮れ、夕陽が華やかに差して、ねぐらに急ぐ烏の声が淋しい日、珍しく車夫に

状箱を持たせて波崎様より使いという人が来た。おりしもお蘭は垣根の菊に当たる夕日

が美しいのを眺めていたが、おそよが取り次いでお珍しいお便りですよと差し出すと、

おもしろいこと、白妙の袖でもあるまいにと受け取って座敷に帰った。

 花見つつまつときは 白妙の袖かとのみぞまたれける

  菊を見ながら人を待っているときは、白い花がその人の袖に思える

  (恋人ではなく酒を持って来てくれる人のようです、それもまた嬉し)

 文は長く一丈もあった。長らく伺えませんでしたが恨めしいともおっしゃらないのは

寂しいことです、俗事に追われても心はあなたの宿に通っていましたが、浮世には差し

障りが多いものです。今日は暇ができて染井の閑居に一人籠っています。訳はお分かり

になるでしょう、人目の煩いなく思うことをお聞かせしたいが、自分からお宅を訪ねる

のは見る目嗅ぐ鼻がうるさいので、この車でこれからいらして下さいとご立派な文章、

昔なら大喜びしたでしょうがおそよ見てご覧なさい波崎様は相変わらずお利口ですよ

と、たいして喜んでもいないお蘭の顔を不審そうに見守って、あなた様はそのように

落ち着いていらっしゃいますが、たまさかのお暇に先方様は飛び立つようなお気持ち

なのでしょう、早くお支度をなされませ車も待っておりますものをと急かせるので、

おや婆は私に行けというのですか、なんと正直者でしょうと笑いながら返事を書く。

 便りの度にもしやと思ったのは昔、今日のお蘭はそのような甘いお嬢様ではなくなっ

たのですから古い手を使って嬉しがらせても、仰せにかしこまってご別荘にご機嫌伺い

に行くような恥さらしなことはしません。つれないといっても急に訪ねなくなることは

世の習いとあきらめればいいものを、憎い男が地位を誇っていつまで私をもてあそぼう

というのか、父は山師の汚名を着せられたが幇間の名はとっていない、恋に人目を忍ぶ

とは表向きの言い分、闇夜に千里をはだしで駆けてくるのならその時に誠意を見ましょ

う、この家から遠くもない染井の別宅で月見の幾日とは新聞を見なくてもわかること、

ことさらに回り道して我が門前を通らないようにして、できないときは車を飛ばせて女

と会わないよう心配するなど笑止、私のために天地が狭いというのか、それが窮屈で

広々としたくなって私をだまして恋しいと言わせたいのか、正式な妻とは言えないが

時勢とあきらめて欲しい、心は後世にかけてもなどと私をどこまでも日陰者の人知らぬ

身にするつもりだろう、後ろめたいので心を休めたいからすることなのが見え透いて

いる、さすがに気になっていつか仇を討つ女だと思ったのだろうか、そのお道理ある

懸念だけでは済まされない私の心、長屋の夫婦がお互いに飽きたというようなものでは

ない、身分があるので世間から攻撃されては身の置き場がないでしょうからそのような

恥はお互い見せないようにしましょう、私の恨みはそのうちにと誰も知らない心の底で

冷ややかに笑っている。

 返事はただ「ちょうど風邪を引いてしまい乱れた姿が恥ずかしく、久しぶりのお目通

りなのに飽きられてしまってはつらいのでお許しください。次こそは」ときれいに取り

繕って使いを帰した。

 波崎の車が門前を通ると、直次が轢かれた夜の車の提灯の紋が澤瀉だったが、今日の

車夫も法被に澤瀉の縫い紋がある、あれとこれとは同じものなのか別なのか、直次は

使いが来た時に例のないことなので不審に思い、心に止めて始終目を注ぎ、帰る後ろ姿

を見送ると同じ澤瀉の紋が目に入ってきた。

 あれはどこからの使いかと佐助に聞くと「根掘り葉掘り聞きたがる男だ、人の家なの

だから使いが来ることもある」とすげない答え、「そう言われては返す言葉もないです

が、どこからの使いかぐらいは聞かせていただいても差し支えはないでしょう、喧嘩を

買うようにとげとげしく言わなくても」と下手に出ると「お前が聞いたって益のない

ことだ、お嬢様あての文なのだからお嬢様しか知らぬこと、波崎という新聞にも出る

ような議員様からの使いだ」と言う、「それはご親戚ででもあるのですか、今まで

お出でになったことはないようでしたが私が来る前にはお出での時もあったのですか」

と聞くと、「それがくどいのだ、聞いて何になる」と笑われて、「何もなりませんが

被布の紋があの夜の紋と同じなので気にかかって知りたいのです」と答えると「では

あの車夫をつかまえて小指の一本も切るつもりか、恐ろしい執念だ、前世は蛇ででも

あったか、しかしあの夜の恨みを忘れないとは頼もしい、恩はとっくに忘れているよう

だから恨みも忘れたかと思っていたがさすが、関心関心」などと何が癇に障ったか、後

で思い出せば恥ずかしくなるようなことを舌の動くままに言う。いつもなら口に泡を

飛ばせて口論する直次郎が無言のまま、それ程思い悩んだ訳は、もしその夜(直次)が

お蘭様のひざ元に行ってした嘘のない涙の白状を(もし佐助が)立ち聞きしたなら共に

涙しただろう、まだ直次の影が薄くなったことを夢にも知らないからであった。

                  十

 三十一文字などを詠んで風流のふりをしていても、童心の誠意という愚に似たものを

いつなくしてしまったのだろう。その夜更けに燈火の影のお蘭様を驚かせたのは、涙に

濡れたただ事ではない眼付きで畳に両手をきっとかしこまった直次、これは何事かと

お蘭様は不安になったが、「私に斟酌は無用です、遠慮なく思うことを言いなさい」と

優しく聞くと、我慢できずに涙をはらはらと落としていたが、思い切って「私にお暇を

ください」と一言、後先がないので何のことかわからず、「いつもの喧嘩の名残りです

か、いつも言っている通り頑固な年寄りの遠慮ないお小言などを気にしていたら、一日

も辛抱できませんよ。あれに悪気はみじんもなくお前のためによかれと思って言うので

すから、苦にしないこと。まあ、何があってそのようにお腹立ちですか」といつもの

ように慰められると「いえ、いえ何も言われたりしていません、喧嘩はいつものこと、

ただわが身に愛想がつきましたので、もうこの世にいるのが嫌になりました」と畳に

ひれ伏して泣くばかり。「直次、お前は死のうと思うのですか、本当ですか」と膝を

正して聞くので、「嘘で死ねるものですか、いつか庭で遊んだ日に旦那様のご最期を

お聞きしてから、この池の底だけは浮世のほかの静かさであろうとおっしゃった言葉が

忘れられません。私の胸は明けても暮れてもかき乱されてちょっとの間も気の休まる時

がないのです。生れ落ちて以来の不幸な身なので一生を不運に終わるのが私の本分なの

でしょう、何か月もお世話になりました、あなた様はまさしく私の大恩人、袖の陰に

隠れて(庇護によって)楽しいと思うことや嬉しいと思うこともありましたが、それが

最初で最後、明らかに悟ったことがあったのでもうこの嫌な世に残りたくありません。

しかし未練ながら情け深いお嬢様に黙ってこの世を去るのは淋しい、いくらでもお礼を

言いたいのですが口が回らないのが悔しいですが、いつまでもご無事で、ご出世して

ください。私は愚かに生まれましたのでお為になりたいと願ってもかないませんが、

魂は必ずあなた様をお守りします」と涙にむせびながら悲しいことを言う。

 「なぜあなた様が慕わしいのかなぜ恋しいのかわかりませんが、日が増すほどに時間

が増すほどに私の心はあなた様の心に引き付けられるようで、明け暮れお姿を見、お声

を聞くことで満足すれば事足りますのに、心の中は火が燃えるようで、我ながらわから

ない思いに責められています。静かに考えてみるともったいないようなことを考えて、

恥ずかしいという思いがこの苦しみだと悟った今、この身を八つ裂きにして木の空に

掛かり(磔にされ)たくなりました。今日の夕暮れのお使いがあなた様のご縁ある人と

知ったからです。言うべきことではありませんが、私は本当に妬ましく、悔しく思いま

した。しかも車夫の法被は見なければよかったのに澤瀉の紋、頭がおかしくなっている

のかもしれませんが、あの夜の車上にちらっと見た薄髭の男、その、その、波崎とか

いう、国会議員と聞けば世に尊ばれる人に違いありませんが憎くてたまらず、妄執に

取りつかれているのだと何度頭に言い聞かせても甲斐がありません。大恩あるあなた様

の恋人を恨む私はあなた様の敵となります。そしてその思いがさらに増したらどうなる

ことでしょう、それが恐ろしいので私は死にたくなったのです。私が死ぬのはあなた様

に危害を与えないため、もし私の想像が間違いで今日のお手紙が何でもなくても、もう

すでに私の心が腐っていることがはっきりしたので、清くない思いで生きていることは

大罪を犯したと同じ。うわべを繕い人目から隠しても、明け暮れあなた様に付き纏う

恥ずかしい思いは餓鬼道の苦しみ、妙なるお声も身を焼く炎です。本当に人の心は頼り

ない、今までのことを思っても時が移り変わった後には自分らしくない自分になって、

どのような恐ろしいことをするのではないか、今消えてしまえばご恩の万分の一も返せ

ませんが、せめて害を与えまいというつまらない考えです。憎い奴だと思うでしょうが

死んだ後には弔ってくださいと真心からの涙に言葉は震えて、畳に着いた手を上げる

こともできずに恐れ入っている、これを哀れといわず何というか。

                 十一

 「恋を浮いたものだと誰が言ったのでしょう、恋に誠がないとは誰が言ったのでしょ

う、昨日までの心中が我ながら恥ずかしい、直次は私をそれほどまでに思っているの

すか、私はそれほどではなかった、あなたをいとおしいとは思っても命をかけて愛して

はいませんでしたが、今日の今、あなたは本当に愛する人となりました。本当です、

今日の今までお蘭が自分から恋しいと言った人はいませんし、心に染みる一生の恋と

いうものをしたことはありません」

 「憂き世を知らない乙女の昔、春風に誘われて才知、容貌などのうわべに心を乱した

のが、今日の文の主波崎でした。会ったこともありました。こう言うと私を不貞だと

お思いだろうとつらいのですが、守れなかったのは操だけではなく(愛)謡の班女の

ように捨てられたのです。捨てられた者の恨みは愚痴ですが、つらい憂き世にもてあ

ばれて、恐ろしいと思わないでください、いつしか心に悪魔が入り込んであなたの前で

は肩身の狭い悪人になりました。それで私を嫌いになりますか、恐ろしいと思います

か、悪人でも嫌でなく、悪魔でも恐ろしいと思わないなら今日から私の心の夫となっ

ください、蘭をあなたの妻と呼んでください」

 「でもこの世での縁はないと諦めてください、私も諦めます。思いがけずあなたの

嬉しいお心を知ったのに私の口からは言い出し難く、心苦しい限りですが、この憂き世

の不運同士が寄り合ったと思ってください。私を本当に愛してくださるのなら、その命

をこの場でいただけますか、仁に背いた言葉、無慈悲な心で、常の世の仲でも言うまじ

き言葉です。ましてやもったいないお心の底を知り抜いた今、このように情けないこと

を願って血を吐く思いの私の心を汲んでください。今日の文の主は私の昔の恋人、これ

からは敵となりますが私の心の枷は彼だけです。命を絶たなければ止まない執着を、

これも恋というのでしょうか、わかりませんが憎いのは彼です。なんとしてもという

恨みは日夜絶えませんが、私が手を下してしまわないのは、お察しください、まだ後に

入用の体だからです。つらいことですが欲心からとは思わないでください、父の遺志を

継ぎたいからなのです。二十五歳の私の命に変わりあなたの体を捨てて、闇夜に足場の

よい所を求めて、どうしてもやり遂げてください。こんな恐ろしい女に私はいつから

なったのでしょう、死ねる体なら私も死にたいけれども」と涙を見せたことのないお蘭

様が襦袢の袖を濡らしている。

「あなたの恨みの澤瀉はまさにその人だと私も思います。染井の家に飛ばす車に、運悪

く家の門前の出来事でしたが、知られまいとして飛んで逃げた、けがはまさしくその人

の仕業ですが原因は私を恐れてのことでしょう、思えば全て私の罪。私があなたを助け

たのではなく死に導いてしまうような成り行きになりましたが、ここまでの契りと思っ

てお命をください。もしあなたの運が強く、その場から逃げることができたら、夜に

紛れてここに来るまで難を避けてこの門の内に逃れられたら安泰です。今知る通り人気

もなく出入りするものといっては垣根の穴にさえ子犬の影もなく、女主人なので警察の

目にもかかからないでしょう、何とか逃げてくださいとささやいた。

 言葉もなく聞き入っていた直次郎は「もう何もおっしゃいますな、よくわかりまし

た。嘘だとしてもこの世で思いがけないお言葉を聞いて(あなたに)残る恨みはなくな

りました。もともと今夜こそと決心していたのであなたの願いで死ぬのなら願っても

ないことです。見事にやってお目にかけます。今日までは思い立ったことは何事もでき

ず、浮世の意気地なしの見本でしたが、一心に思うあなた様の命によって身を捨てる

この度の仕事は、あっぱれ直次も男だとあなたのお心だけで誉めていただけたら本望、

その場に倒れても捕らえられて首に縄をかけられても思い残すことはありません。ただ

恨めしいのは逃げられるのなら逃げて来いという言葉、それはお情けとは言えません

逃げようという卑怯な心で人一人殺せるものでしょうか、私が愚かですのでそのような

世の利口者がすることはわかりません。相手が倒れるか自分が死ぬか二つに一つの瀬戸

際なのに、自分一人が助かろうという汚い心で後ろ髪を引かれていては清く本望を遂げ

られません、相手にやられたらそれまでです。し遂げた後に捕まえられても決してお名

前は出しませんので案じないでくさい。罪は私一人、首尾よく行った暁に神仏の助けが

あっててその場を逃れられることが万が一できたとしても、二度とお顔を見ることは

ありません。どんなことから罪が顕れて愛するあなたに迷惑をかけるかもしれません

から。直次は今日限りお暇をいただき、この世にないものと思い捨てて事の成否は世の

噂で聞いてください、ご縁もこれまで、私は潔く死にます」と、思い定めたので涙も

こぼさないが悄然とした影が障子に映って長く、長く、お蘭は生きている限りこの夜の

ことは忘れられなかった。

                  十二

 直次はその夜闇に紛れて松川屋敷を出た。朝になって佐助夫婦は驚いたが、日頃は

なにかと小言を言ってはいても、どのような決意で出て行ったのかとさすがに胸が騒い

でいろいろ噂しながら、おそよは毎朝手を合わせる神々に心得違い(道に外れた行い)

がないよう祈っていた。

 しばらくした冬の初め頃、事は番町の波崎の本宅前で起こった。何某の大会の幹事と

して席上演説も大喝采の内に終わり、酔いも紛れて車上をゆるゆる半ば夢の中で帰って

きた表門の前、急に躍り出た男が車の幌に手をかけて引き倒すと、耐え切れずにひっく

り返ったところを押さえ頸筋をかき切ろうと閃かせた刃、手元が鈍ったか頬先を少し

かすめてかすり傷を負わせたが、狼藉者という叫び声が辺りに響き、ここまでと逃げ足

はどこへ向かったか、あっという間に姿を消して誰かわからなくなってしまった。翌朝

の新聞の見出しは事々しく、ある党派の壮士だろうとか、何々倶楽部の誰に嫌疑がかか

ってその筋に引かれて行ったとか、しまいには何者の仕業かわからないまま、一月後に

は噂は跡かたもなくなった。傷はなおのこと半月も経てば治り男の値打ちも下がらず、

跡が残っても向かい傷だと誇るのもおもしろい、才子で利口な男の人生は万々歳、また

もやり損ねて日陰者になって、生きていたとしても世間が狭くなった直次郎はどうして

いるのか、川に沈んだか山に潜んだか、それとも心機一転してまともな人間になったの

か。それより謎は松川屋敷、このことがあってから三月ばかり経つと門が立派になり、

壊れた敷石も直り、毎日植木屋や大工の出入りが足繁くしているのは主が変わったから

のようだ。では佐助夫婦とお蘭はどこへ行ったのだろう、世間は広い、汽車が国中に

通じている時代なのだから。