樋口一葉「たま襷 二」

 洗い髪を束髪にして、ばらの花の飾りもない湯上りの浴衣姿、素顔の美しい富士額が

目に残る。世間は荻の葉に秋風が吹くようになったが、蛍を招いた団扇と面影が離れ

ない貴公子がいた。駿河台の紅梅町に名高い明治の功臣、千軍万馬(つわもの)の中の

一人と尊称を受ける竹村子爵という人の次男の緑、才識並び備わった美少年。「この夏

の避暑は伊香保に行こうか磯部にしようか、知った人がたくさんいるところはやりきれ

ない、どこか手近に気安いところはないだろうか」と、嘆息していると聞いた出入りの

植木屋が、「私の谷中の茅屋は、水を引き入れたような風流なものはありませんが、

土埃の舞うような町中ではございませんので、少しは涼しいですよ。来ていただければ

忍が丘の朝露を寝巻のままで踏めますし、蛍の名所の田端も近くです。ただし天王寺

近いので蚊は少なくはありませんが、吹き払うのに十分風が吹きます。どうです思い切

ってみませんか」と、迷惑そうにもなく誘うので、「それはよかろう」と夏の初めから

離れ座敷を仮住まいとして三か月ばかり過ごしてきたが、戻ってきた今も残る記憶が

二つ、隣家に咲く遅咲きの卯の花、都には珍しい垣根の雪が涼しげだったのと、月の下

で見合った花の眉、恥じらって振り返った襟足の美しさ、返す団扇に思いを寄せた時、

憎からず思って思わず微笑んだ口元などが目の前によみがえって、知らず知らず瞠目し

て考え込んでいることもある。「それにしても誰の住まいなのだろう、人品気高かった

のでただの卑しいものではあるまい。妻か娘かそれすらも聞かなかった悔しさ、植木屋

は隣家のことだから聞けば素性を知っているのになぜ空しくしたのだろう。といって今

さら聞くのも後ろめたい」などと迷いに知恵の鏡も曇らせて夢うつつでさまよっていた

が、さすがに思いを決めてある日慈愛深い母に打ち明けたのだった。「とはいっても

人妻であったら仕方がないので確かめたら諦めます。浮いた恋に心を尽くす軽率者だと

お思いでしょうが、父祖伝来の付き合いであってもその心はわかるものではありませ

ん。家柄を尊び、選びに選んで娶っても虫食いだったということも多いもの。藻屑に

埋もれた玉というものもあることでしょう、この願いをお許しになってあの人の素性を

聞いていただけませんか。迷った目にはよしあしが見極められませんので、鑑定はひと

えにお眼鏡にお任せします」と恥ずかしげもなく言うので母上も一度は驚き呆れもした

が、それほど熱心であるからには何が出てくるのかわからない、打ち明けただけ殊勝な

ので、「万事母に任せなさい」と子故の迷い(親ばか、でいいか)。ある夕方、墓参り

の帰り道に植木屋に車を止めて要りもしない鉢物を買ったり、園内の手入れを誉めたり

してそぞろ歩きしながらもしかしてその人の顔が見えるかと隣の垣根をのぞいたが、庭

が広くて家も遠い、茅葺の軒端を半ば覆うような大松の滴るばかりの緑が目に入るばか

り。声を聞く手掛かりもないので離れで渋茶をすすりながら、それとなく「この辺りは

どこも閑静で、お庭も広くてうらやましいこと、このお隣はどなた様の別荘ですか、松

だけでも見とれてしまいます」とほほ笑むと「家別荘ではございませんで、本宅です」

と答えたのを話の糸口として「見とれてしまうのは松ばかりではなくご主人もお美しい

のです」と言った。ほら来たと思いながらさらに知らない顔をして「ご主人はご婦人で

すか、では何某殿の未亡人でしょうか、それともお妾さんのような人に用意されたお宅

ですか」と聞くと「いいえ違います、昔をいえば三千石の末流です」と答えた。「では

旗本の娘さんですね、親御様もいらっしゃらないのですか、お一人住まいとはおいたわ

しいこと」と早くもその人が不憫になってきた。この家の主もおしゃべりなので、もっ

たいぶって咳などしてから長々と話し出した。祖父だった人が将軍家の覚え浅からぬ人

で、もう一足で諸侯の列に加わるべきだったのを不幸にも短命だったこと、またその時

の勢いは素晴らしく、今の家族など足元にも及ばないなどと口を滑らせて、慌てて唇を

かむのもおかしい。「それに比べて今の暮らしは火が消えたようです。あれほどのお屋

敷に公績をいくらかはお持ちのようだが、それもお嬢様の身の回りに使う程度のぎりぎ

りのようです」と自分が立ち入って見てきたような話しぶり。「爺はなぜそのように

詳しく知っているのですか」と聞くと「いえ私は全く知るはずもないのですが、一昨年

亡くなったお嬢様の乳母が常日頃遊びに来ていたので」「お年は十九ですがまだまだ

十六七にしか見えません、それから見れば松野様などずいぶん老けて見えますな」と

一人納得顔。「その松野殿とは娘さんの何ですか」「なるほどご存じないはずだ」と

さらに松野のためにしばらく口を動かした。暮れやすい秋の短時間で竹村夫人は糸子

主従の心の知己となった。

 

 心は変化するものだ。雪三のかつての心理は糸子に対してその名の通り潔白だった。

主人大事の一筋道でほかを振り向くことなどなかったが、寄る辺もなくかわいそうだと

思う情がだんだん長じて、自分だけが天地にたった一人の頼みで、一にも二にも松野と

隔てなく、遠慮なく甘えたりすねたりと親しんでくるのをかわいいと思い始めたのが

流れに塵が一つ浮かんだようなもので、この考えが追っても去らず、思いを澄まそうと

してもかき濁り真如の月(煩悩が晴れる)はどこだろう、朦朧の淵深くに沈んでいるの

で遮られたまま。月日が経つほどに艶が増す雨後春山の花の顔、美しさに磨きがかかり

中秋の名月のような糸子の姿。しかしながらまだ一片の忠誠の心は雲にもならず、霞と

なって消えもせず、さすがに自分を顧みて慚愧の汗が背中に流れ、後悔の念が胸を刺し

「これは魔に魅入られたのだろうか、あるまじきことだ、私に邪心がないからこそ幼い

人を託して、安心して瞑目された亡き主人に面目ない、位牌の手前もあるではないか。

早く婿殿を選んで今世来世の主人に忠節のほどを示したい。しかし気遣わしいのは言葉

巧みで誠の少ない今の世の常、どこに真心があって誠実な、私の愛敬する主人の半身と

なって生涯の保護者になる者がいるのだろうか、考えても全く疑わしい。主従関係が

なければ、この松野雪三以外に青柳糸子さまの手を取って生涯の保護者になれる者は

天下にないのだが。しかしこれは叶うことではない、仮にもこのような心を持つことは

は愛するのではなく害をなすのだ、今後は虚心の昔に帰って何事も思ってはいけない」

と勇ましく断念して胸が涼しくなるのは青柳家に踏み入れていない時だけ。糸子から

愛らしい笑顔で出迎えられ、かわいい言葉をかけられれば「道に背いてもよい、世の物

笑いになってもよい、あなた故捨てる名は全く惜しくはない、今日こそこの思いを言お

うか、明日こそ胸の内を明かそうか」とまじめな人ほど恋は苦しい。このような思いの

幾筋を撚り合わされた身なのに、糸子の心は春の柳のように背かずなびかずなよなよと

して、いつもの無邪気な笑顔でかわいく「雪三、向島百花園の秋草が今盛りだそうです

から連れて行ってくれませんか」と口説くので「あなた様のご都合次第、いつでもお供

しましょう」と何の異論なく答える。秋雨が晴れて一日後、今日はと思い立って糸子は

いつもの飾り気ない装いなので身支度は早く終わり、松野が来る間が待ち遠しくなって

自分から雪三を迎えに行った。すると玄関に見慣れぬ靴が一足ある。「お客様か、折が

悪かった」と引き返そうとしたが「でもここまで来たのだからこのまま帰るのももった

いない」と庭を回って縁側に上がると客間のような部屋で話し声がする。そっと隣の

部屋に入って聞くともなく聞いていると客は誰なのだろう、青柳という声、糸子と呼ぶ

声が折々に交じっている。「何を言っているのだろうか、私に関係があるようだ」と

襖に寄って静かに聞いていると、断続的に聞こえる話は明瞭ではないが大方分かる。

聞く人がいるとは知らなくとも声はあまり高くなく、松野に向っているのは竹村家の

侍従の何某、主人の命で糸子の縁談の申し込みに来ていたのだった。その時雪三は決然

として「せっかくのご懇望ながら、糸子様は他家に嫁ぐ身ではありませんので、お心を

承るまでのこともありません。雪三が断然お断り申し上げますのでお帰りいただきこの

旨お伝えください」と言い放ったので、「そうおっしゃることも存じていました。では

婿として迎えていただくことはできましょうか」と聞くと「いえいえ、ともかくご身分

が釣り合いませんし先がわかりませんから」と言いかけるのを打ち消して、「それは

ご懸念が深すぎませんでしょうか、釣り合う釣り合わないというのはあなたのお心、

(御心の上、二人のお心、かもしれない)ともかく糸子様のご心中を伺ってください。

その答えを聞くまでは帰るわけにはいきません、平にお願いします」と押し返すので、

「それほどまでの仰せなのに包み隠しても仕方がない。本当のことを言いましょう、

糸子様にはもう決まった人がいるのです。そのためお断りしているのです」とにっこり

すると、侍従は少し身を進ませて「初めてお聞きしました。それはどちら様とのご縁組

みですか、よろしかったら教えてください」と雪三の顔をきっと見る。糸子も襖にぴっ

たりと身を寄せて、変なことを言うと耳をそばだてると、松野はいつもに似ない高い

調子で、「ではお聞かせいたしましょう、お帰りになってご主君、特に緑様にお伝え

願いたい。糸子が約束した夫とは誰でもない、松野雪三、即ちこの私です」

 

 恋は片方が強く、片方は弱いものだというのは偽りだ。どちらも捨てることはできな

い、(竹村様とは)比べようもないけれど松野の心根が哀れだ。それでも竹村様の優し

いお姿、一度は思い切ったとはいえ浅からぬお志は感謝に堪えない。そう思うのは私に

貞操がないからだろう、もろい情はやる方ない。それにしても今日の松野の言葉に驚い

たのは私だけではない、竹村様の使者もどれほどのことだったろうか、帰ってこれこれ

と言えばまず蔑まれるだろうことが情けない。仲のよいのも道理、主従とは名ばかりだ

ったのだなとあの人に思われる口惜しさ。それも誰のせいかと言えば雪三のため、松野

の邪心一つのためなのだ。とはいってもお使者が帰った後、身を投げ出して言った言葉

が忘れられない。「あなたは竹村に心惹かれているのですか、緑殿という人が慕わしい

のですか、ではどれほど雪三を憎いとお思いでしょう。しかしいつかのお言葉は偽りだ

ったのでしょうか、お前さえ見捨てなかったら私の一生の幸せだとかたじけないお言葉

をいただいてから一層心が狂うのを止められなく、口にするのは今日が初めてですが、

これほどの思いは見て取っていただいていたのでしょう。姿が武骨で、器量が人に劣っ

ているから嫌というのであれば私も男のはしくれです、聞かせてくれなくてもわかりま

すが、(聞かれ参らせずとて只やはある、話の前後から考えてもわからない)人を眺め

て妬んでいるよりはと、花に吹く嵐のような心を思わず起こしてしまったのでしょう

か。お許しください」恋のために、忠義の塊の六尺の大男が身を震わせて号泣した姿を

思うと(我が身は)罪深い。

 六歳だった昔、両親に先立たれて以来延びた背は誰のお陰か、幼い頃からの習いで

慎みもなくまとわりついて、鉄の心を動かしたのは松野のあやまちではない。私の心が

至らなかったからなのだ。今私が松野を捨てて竹村の君にせよ誰にせよ、寄る辺をそち

らに決めたなら哀れな雪三は気が狂ってしまうだろう。私の幸せを求めるからといって

忠義者を世の笑いものにさせるなどできない。といって(雪三に)従うことはできな

い。どうしたら松野の心の迷いを覚めさせ、竹村の君に私の潔白を明かすことができる

だろうか。どちらにせよ誰かひとり憎い人がいればここまで胸を悩ませることはないの

に、はかない身だと打ち仰げば空に住む月影が清々しい。肘を寄せた丸窓の下に何の

ささやきか、風に鳴る荻の友ずり(ひそひそ声)は私への陰口か、恥ずかしい。見渡す

庭は夜の錦を月に誇り、転がる露が麗しい。「思えば誰でもいつかは消える世なのだ

から我が身一つをなきものにすればどこにも差し支えがない。私の憂き世嫌いは今に

始まったことではなく、身を捨てることはかねてよりの願いなのだから嘆くことはなか

ったのだ」とにっこり微笑み静かに取り出した紙と硯。墨を磨って筆先を改めつつ書き

流す文は、誰の手に落ちるのだろうか。明日は形見となる名残りの名筆。