樋口一葉「うもれ木 二」

                  三

 十三の年より絵筆を取って十六年、この道一心の入江頼三は富貴を浮雲の空しいもの

としていてもなお風前の塵一つ、名誉を願う心が払い難く、三寸の胸の中は欲の火が常

に燃えて、高く掲げるべき心鏡の曇りというのはこれだけだ。といって世に媚人に媚び

ることは命を変えなければできない質。自分から頭を下げることは絶対に嫌だと一点張

りで、頑固が名高くなるほど我儘と意地は満身に行き渡り、受け入れられない世にます

ます後ろ向きになっている。「見ておれ、この腕に何が住むか、時流に乗って発揮した

暁には」と誰も聞かない大言を吐いて、わずかに煮えたぎる心中を冷ますのは、さても

諸行の妨げという貧よりほかに伴侶のない身。その得意の暁とやらはいつまで待てば

いいのか、弥勒の出現(56億7千年万年後)と甲乙ないのではないかと思うと悔しさの

念が胸を刺して、亡き師のことをふっと思い出し、急に寺参り支度を始めた。垣根の夏

菊を無造作に折り取って、お蝶が少し待てと止めるのも聞かずに朝食前に家を出た。

 寺は伊皿子(高輪)の台町だがそれほど遠くはない。泉岳寺脇の生け垣が青々として

いる中を通りすぎて、打ち水が涼しい箒木目の立つ細道をざりざりとむかで下駄(歯が

すり減ってささくれた)に力を入れて、まつわる裾がうるさいとまくり上げたすねも

あらわな何の見栄もない小男、顔つきは見苦しくはないが色は黒々として骨ばって、

高い鼻、引き締まった口元、まなざしはぎろりと凄く、沈鬱な気性が見えて淋しく、

古びた紺薩摩に白い兵児帯の姿。懐に建白書(政府への意見書)を入れているような

形相だが右手に持っているのは夏菊なのでさすがに優しげに見える。

 絵柄ばかり考えている目には、映るもの映るものみなそのように見える。細作りの格

子戸の前に、米沢(織りの)透綾をつけた肌の美しい人が、黒繻子の帯の腰つきもすっ

きりして美しい顔に薄化粧、髪の飾りの好みも「なんと美しい、この美を追求する心

がけを自分の陶画に反映したい、協力してくれる人が欲しいものだ」と茫然自失として

眺めていると、気味の悪い人とばかりに逃げ込まれて、我ながら取り留めのないことを

考えたものだと振り向きもせずに五、六歩進むと三歳ばかりの男の子がちょろちょろと

走り出してきた。袖なし浴衣の模様は何か、籬に菊のくずし型か、それはよい、今度の

香炉にあれを描くのもおもしろそうだ、注文は龍田川とか、何の俺の腕で俺が書くのに

遠慮は窮屈だ、師の言うこと以外他人の意見は聞き入れたことのない頼三は「貧しさに

負けて意思を曲げることなどまっぴらだ、といって俺のような頑固者の兄のために世の

人並みのこともせず、米味噌醤油に追い使われているお蝶を思うと兄貴風も吹かせられ

ないが成り行きだとあきらめているようだ。それもそれ、時運が巡ればいつか花も咲く

ものだ。冠木門に黒塗りの車を出し入れさせて、奥様とあがめられるようになっても

不思議はない。ああ、その冠木門よりも立派な人物を選んで添わせたいものだ」と何と

なく案じて、ふと仰向くと今想像していた冠木門に、篠原辰雄という厳めしい表札が

ある。「なんと立派な住まいだろう、主人はどんな人だろうか、身分は。愛国心のある

人ならば、日本美術の不振や我ら画工の疲弊などを話したら相談に乗ってくれるだろう

か」と全く知らない人にも望みを託す狂気の沙汰だとも思いもせずに、あれを思いこれ

を思っていつの間にか坂を上った。

 寺の門をくぐって入ったがお坊さんは寝坊しているのかまだ読経の声もなく、自然と

寂寞の境地。朝風がさっと松に吹いて、身に沁みる心地が何とも言えない。本堂を巡っ

て裏手の墓所へと手桶の並ぶ水汲み井戸のそばを通った時「入江様、お待ちください」

と呼び止める声がした。覚えがあるようなと振り返ると、つかつかと馳せ寄ってものも

言わずに大地に手をつく男、何者かと呆れて立っている足元に身を縮めて、「お見忘れ

ですか、それとも人でなしの私にはお言葉もくださりたくないでしょうか、潔白の君に

対して合わす顔もなく、言葉も出ないほどの失策をして後悔し抜いて改心した今日、

言い訳ではないですが懺悔して滅ぼしたい罪のあらましを聞いてくださる人はほかに

いません。相弟子のよしみ、昔なじみの君を見かけてお頼みします」

と頭も上げずに侘び入っている。襟足が美しく耳の裏に二つ並ぶほくろ、ああ、姿こそ

変わったが新次の奴か、師に寵愛されてゆくゆくは養子にもと大事にされたのに、材料

の注文にと多額の金を引き出してそのまま行方知らずになった上、師の臨終にも来なか

った人非人、今頃この辺をうろつくことが憎い、何が相弟子だ失礼千万と生来の潔癖が

目じりに現われ、言うことを耳にも入れず「聞きたくもない、黙れ、相弟子ならば兄弟

分だ、言うこともある、咎めることもある、責めることもある。しかしお前と俺はもう

何でもない。他人も他人の見ず知らず。入江頼三は潔癖を尊ぶ身だ、友とも言うな耳障

りだ。そこをどいてくれ、朝露がついたままの手向けの花が萎れる」と言葉少なに通り

過ぎようとする袂をあわただしくとらえて、「ごもっともながら恨めしきお言葉、責め

てください、咎めてください、罪と知って苦しい身の上、ご折檻の鞭に打たれればかえ

って本望ですのに捨てて顧みない他人のようなことを。昔の入江さまと今の入江さまは

お人が変わったのですか、私の目違いですか、君を師の形見と思って改心と謝罪の心を

表したい願いはかなわないのでしょうか」半ばまで言わせずに頼三は「黙れ」と一言、

憂鬱のあまり凝った気持ちが何かあれば当たって破裂する勢いとなって、唇ばぶるぶる

と震え、もともとの訥弁がいよいよつかえながら「おのれ新次、人非人、恩知らず義理

知らず道知らず、自分の罪を責めるのは知らんが俺を非難するのか、俺頼三は昔も今も

正義を立て、公道を踏んで一歩の過ちも覚えない身だ。どこのどちらに何の欠点がある

のだ。言えば聞くぞ」と詰め寄るまなじりがきりきりとつりあがって「おのれ不忠不義

の奴だが師が寵愛するあまり、世にその罪を隠して知るものは師と俺ばかり、俺も一言

も言わないと決めて十年近くこの口を開かないからこそ安穏に月日を拝んでいられるの

は誰のおかげか。頼まれなくても折檻の鞭はここにあるぞ、墓前に手向けようと持って

きたこの花で打ってもおかしくはない、打つ手は頼三、心は師匠、悔しく身に沁みよ、

骨に沁みよ」と続けて打って、手に持った菊を投げつけ、目をつむるまぶたの内に感じ

られる新次の姿、昔ながらの美男に一層の品を備えて、かわいそうに好男子が身じろぎ

もせず、まぶたにあふれる後悔の涙、目元に満ちる慚愧の情、「この人は師が愛したの

だ。それが自分に謝罪しようとしている、憎むのが本義か、捨てるのが道か」と迷って

判断の心がうやむやになった時、静かに頭を上げて今までの一通りを話し始めた。

 それを聞いて「俺の短慮軽率の仕業は誤りだった。この人の罪ではない、選んだ道を

間違えた不幸の身なのだ」と憐みの情から聞いていると、「もともと私利私欲ではなか

ったのです。小を捨てて大につく国利国益の策を立てようというのがそもそもの破滅だ

ったので、思えば料簡が若すぎました。腕を組んでの考えと、手を下しての実験とは

雲泥の差、人は自分より利口で、世は思うようにならないものだとつくづく嘆息するに

つけて、正義は人間の至宝だということがやっとわかって、才走った考えを身から離し

たのは無一文になってから。それ以来幾年も志を磨いて遠国や他国に流浪した結果、

不思議と人として世に立つようになり、少しは名も知られるようになりました。今年は

珍しく帰郷したので錦を飾り、お顔を見るのを楽しみに、師匠はお亡くなりになりまし

たが涙を絞って毎朝汲む手桶の水、どうしても会えない人に残念が積もり、ひとしお君

のことが懐かしく慕わしかった今日今日です。打たれたのも嬉しく、罵られたのも嬉し

く、真の兄弟に会った心地です」と堪えかねて流す涙。頼三は見る見るうちに感嘆して

大地に着く手をまず上げたまえと助け起こし、「知らなかったとはいえ今までの失礼を

後悔しています。打ち割った心の中には何もないことがわかりました。さあ墓前で仲直

りをしましょう、もう心置くものはない」と引いて立つ手に恨みも残さず、さっぱりと

取りなすと、「これも師の導き、ありし友で相弟子だ。家にも来てください」「あなた

も来てください」「住まいはどこです」「ここから遠くない如来寺前に結んだ草深い庵

がそうです」「では私の宿も目と鼻の先、この坂下。篠原というのが今の姓です」

「それは奇遇、辰雄殿とは君のことか」

                   四

 月を恨み風に憤り、天下を悪魔の巣窟と見て闇の中で迷っていた頼三にどこともなく

一点の光がかすかに見えて、前途の希望がやっと膨らみ始めた。以前の新次、今の篠原

辰雄という男、職人時代には負けん気の気性で人受けがよくなく、師の愛が深いほど

憎む者がさまざまなことを言って、傲慢だとののしり、狡猾だと嘲って交際するものが

あまりいなかったのだが、頼三が例の弱いもの助けたさに弟のようにひいきをしたのだ

が、恩は二代の親と同じ師匠の金を持ち逃げするような奴、師匠も自分も目違いだった

とあきらめて、なまじ恥をさらすまいと包み隠した七八年目、どこで悪人の仲間入りを

して今頃は何になっているのかと時々は思い出し、さすがに忘れることはなかったが、

今日の身分とは思わなかった。変わりも変わって立派な紳士となって、しかも主義は

高潔、話し合うほど頼もしさが募って墓参帰りの半日を篠原の所で話し込んだ。

 辰雄は今までの経歴を、善事も悪事も漏らさず隠さずに、篠原と呼ぶ今の家は何某

地方の金満家だということ、そこに住み着いた当初から次第に気に入られて一人娘の婿

養子となったこと、その戸主となって二年と立たない間に親も妻も引き続いて死んで

しまったこと。さてその幾万の財産を指さされることなく自由にするというのも気にな

るので、家に続く親戚に譲って身を退きたいと願ったが、人は聞き入れてくれずにその

まま安楽に暮らしているとのこと。自分の地位が高まるにつれて湧いてくる企てのさま

ざま、及ばぬと知っても捨てられないのが癖で、社会のために東奔西走、ここ東京にも

計画があって上京したのがつい最近。なまじあちらこちらから名を呼ばれて讃えられる

のも身に汗が流れる心地、昔を思えば大恩ある師匠に、理由はどうにせよ重ね重ねの

不始末もあるのに素知らぬ顔で青空の下を歩くのも日月の手前恐ろしく、世を欺いてい

るようで心が休まらなかった。人の知らない罪とはなかなか苦しいものだったと全てを

告白して潔しとした様子は、うわべを繕って底の濁った軽薄を厭う目には、よくも元の

善人に戻った、稀な人だと思えて過ぎた過去は美玉の曇り、しかも拭ってみればかえっ

て光り輝くようだ。頼三はますます憎からず思うようになった。なかなか物語も尽きな

いが、交際の広い人の習いで訪問者が続々とくるので「そのうちに入江様、人気のない

閑寂な所で一日ゆっくりとご高説を伺いたいものです。君はいつもお暇ですか」と聞か

れて、「いやはや、貧者に余裕はありません、気楽なことをおっしゃるな。人気のない

ところと言えば私のわび住まいの閑寂さ、裏の車井戸の釣瓶を繰る音か、表に子守唄が

聞こえるくらいなものです。ここからついそこです、いつか来てください。麦飯を炊か

せてとろろ汁くらいのごちそうはします」と無造作に言うと、「なんて羨ましいこと、

世間と関係なく人に交わらず、どこにも憂さがなければ胸の中はいつも涼しいことでし

ょう、凡界俗境から遠く離れて取る筆一つに楽しみを知るご身分とは、私と雲泥の違

い」と嘆息する辰雄に引き取って「何がうらやましことですか、筆は心に任せられず、

技は世間と合わず、埋もれる身の果ては首陽か汨羅か(餓死か身投げ)底知らずの境涯

ですよ、世の中にあてがないのです」と笑って遠慮ない昔語りに胸も開いて、障子の外

に出れば廊下を幾曲がりも広々とした住まい。誠に人の身は水の流れだと物言わず振り

返ればにっこりと送る辰雄の姿。なんと人物だろうと心で褒めて、女中が直すむかで

下駄を恥じる体もなく喜色満面で門を出た。帰宅後もお蝶相手にこの話をして、日頃は

蛇蝎と嫌う世の人を、兄さんの褒め者とはどんな人だろう、見たいとは思わないが喜ぶ

兄を見るのが嬉しく一日過ぎて二日目の夕方、軒端の榎に蜩が泣き出す頃、手仕事を

丁寧に片づけ、家回りをきれいに掃除して打ち水を忙しくしている門口で、「入江さま

は」と尋ねられて「どなた」と振りかえる襷姿をなんと美しいと見る辰雄。お蝶ははっ

と気がつき、急に頬が赤くなったのはどういうことなのか。あれは清正公の、あの時の

あのお人、なぜわが家へと騒ぎ立つ胸、これより知った恋。