樋口一葉「うもれ木 四」

                   八

 百花に先駆けて咲く梅の花、鶯よ来て鳴け、花瓶が完成し我が家には春風が吹いて

いる。四窯八度の窯の心配(一対の花瓶が完成するまで)、薪の増減や煙の加減、火の

色に胸を燃やし、温度に気を痛めて、ひびが入らないだろうか、絵の具が流れないだろ

うか、金がどう出るか色が変色しないかなどの苦労を尽くして幾月。やっと思いが叶

新藁で磨いて出した光沢、輝く光は我が光、花瓶の上部と見切りのうちで正面は龍に

立浪の丸模様、周りに飛ばせる菊桐、あしらいは古代唐草、見切りは雲型で、上下に

描くのは東大寺模様、さや型七宝の地つぶしに、帯の菊はありふれてはいるが筆の丹精

でいやしくはない。上部が終わって枠取りの内の絵は表面対の金銀閣寺、裏面に向い

合せるのは湊川稲村ケ崎、誠心誠意満ち満ちて装いなす彩色は凡筆ではない。枠の巡り

は古薩摩風の秋の七草、金模様の蝶の散らし描き、この地つぶしの雲ぼかし型金梨地は

先人もしたことのない工夫をこらして刻苦の跡が著しい。台の書きつぶしは淵腰の割模

様、「微でも細でもないと謗るなら謗れ、目を持つものは来て見てみろ、棒にも美は

籠るもの。不器用者の頼三の技量ここにとどめた」と誇り、晩酌一杯の酒気も加わって

心はいよいよおもしろく、篠原に話しがてらお蝶が招かれた礼も言おうと立ち出でた

門口で、「お兄様少し」と袖を引く妹、言おうとしながら迷っているのを「何か用か」

と戻ると、「何でもありませんが夜風が寒いので風邪をお引きにならないように」と

心づけるのが嬉しく「それほど遅くはならないつもりだ、しかし酔い覚めは油断ならな

いな、羽織をもう一枚着て行こう」と帰り、着重ねている縁側で襟に手を添えて折りな

がら「お兄様ずいぶんお鬚が生えています。新年というのに見苦しいですよ」と横顔を

つくづくと眺められて、「何、夜でもあるしわかるものか、明るいところで明日剃って

くれ、品物ができあがって、小成に甘んじるではないが祝ってもいいだろう、四五日中

に辰雄殿を誘って三人でどこかへ行こう、その約束を今夜してこようと思う、遅くは

ならないが金目のものが家にあるのが不用心だ、門の戸を差して待っていろ、それに

しても胸に雲はなし、ああ、月もよい」と立ち上がった兄の手にすがって門まで送る

と、地上に落ちる影が二つ、一つが見る見るうちに遠くなるのを見送って立つ影がうら

がなしく、軒端の夜風も榎に淋しく吹いている。

 以前は他人と見ていた表札、やがて弟となった家の門をくぐる頼三、玄関の挨拶も

小うるさいので辰雄の居間は知っている、庭の戸を押すと開いたので霜に湿った芝生の

上を音なく踏んで行くと、高くはないが声が聞こえる。影は障子に二人三人、何の相談

かと耳をそばだてると夢にも思わないような意外な話。「その子爵を使って何某長官に

嘆願させれば必ず成功する。その殿の証印は柳橋の(芸者)に握らせ次第だ、資金源は

例の大尽で気脈はかねてから通じてある。あとは野となれだ、山師とも詐欺師ともいえ

ばよい、愚か者が持つ不要の財を引き上げるのは世のためだ。思い出しても笑えるのは

洋行帰りの才子殿だ、何の活眼だか知れたもの、麻酔は入江の妹、この間の宴会で目じ

りの角度は見てとった。あの頑固者を説得するのが難しいが恩という監獄に入れたので

何重に絡めたも同じ、女はまして懐育ちの世間知らず、情が深いだけに丸めやすい、

細工は流々、頼三は思いのほかに使い道はないが飼っておけば何かになるだろう。不要

の人間などないものだから広く愛する、これもまた仁だ」と不敵な言葉は辰雄の声か、

おのれと憤然立ち上がっても腕をさするだけの無念、部屋からはいつしか話し声も絶え

て笛の音が聞こえてきた。

                   九

 その人の笑顔に無限の喜びを知り、その人の涙に計り知れぬほどの悲しみを知り、形

よりも濃い影のように、立ち居のすべてに心従ったのがその人、玉のように穏やかな顔

に憂いを含んでしみじみと語ったのは「どういう縁だったのか、前世を忘れられなかっ

たのか、国家のために尽くす心を半分は君に取られて、人に言えないことを思う身と

なりました。はかなくもお心を知らずに天下に妻はまたとないと思い、子爵の娘など

振り向くどころかにべもなく断っていましたが、それが悪かったのです。その子爵から

助力を得て支出の金にもこと欠かず事業が運んでいる今になって、にわかに破談の申し

込みがあったのです。この道が絶えてはことは成らず、恨みを吞んで自分はこのまま

退くべきか、残される謗りも嘲りも君のためだと思えば惜しくもないが、世の中はどう

なるのだろうか、国家の末を思いやると無念が山のようでこの胸は破れそうだ。誰にも

話せないことで隔てない君にさえ言えないのだ。ほかに道はなくもないがそれも心苦し

くて」と言い終わらない言葉ももどかしく「私の真心がお分かりにならないのですか」

と恨むと「その真心、それがわかるからこそ悲しいのは君の身の上なのです。成否も

善悪もお心一つですが今日の賓客の一人は有力な方、私の資金源となってくれるという

のです。そのためには、どこで君のことを聞いたのか私の妹だと思い込んで立っての

所望、大変つらいことだが君を他人に許すのは国家のためだとあきらめられない。もし

欲から離れても、こんなことを自分の口から言うことができますか」と恋人が断腸の

思いを見せるのがつらい。

 可憐な少女は魂を奪われ骨を消されて、責を自分の身に負った。「操を破って操を

立てても、人の知らない罪が私の心の中にある。といって私のために君の名まで世から

滅ぼされるのを他人事として見ることは恩をあだにする畜生の所為、どちらもつらい、

どうすればいいのか」胸から思慮分別が消えて、取るのは死ただ一つ。「影と形がある

からこそ差支えも妨げも多いのだ、生まれぬ昔の空無量の世界へ、私という身がなけれ

ばどこにも義理もはばかりもなくこの恋は円満に叶うのだ。病で死んでも恋に死んでも

命は一つで再びは行かぬ道、天地に恥じるところはない、神仏も咎めまい、兄様も許し

てください、私に悔やむところはない」と決心は固く未練もない。哀れお蝶の二つと

ない潔白な体、汚れに染まらないよう行いを乱さないよう寝ている時も片時も忘れず、

富貴に目を閉じ貧賤に心を磨いて、今年十八の曇りない美玉を打ち砕くのは胸の中の恋

という魔物。形を辰雄に借りて声を篠原に借りてある時は誘う春風花開く園、ある時は

指さす秋雲月の暗い空、喜憂を包んだ袂の先を引いて行く先はどこか。東西南北影も

なく形もなく、愛らしかった頬のえくぼはどこへ行ったのか、懐かしい目元はどこへ

行ったのか、二つの星の瞳、開きかけた蕾の唇はもう輝かず開かず、漆黒の髪雪白の肌

も全て失せてしまった。寒風吹きしきる夜半の月の下、追っても見えず呼んでも答え

ず、形見は残された一通の文。残った手跡が麗しいのも涙。

                 十

 花瓶の前にどっかと座り、あふれ出す熱い涙をぬぐいもせず睨む眼光に火花が散り、

腕を握りしめて「この骨も砕けよ、生まれながらに使えなければこの道を志すことは

なかったのに、戻れぬ昔に何を願うか。なまじ陶画の粋と呼ばれ師の工場一と讃えられ

て自ら売らなくても知られた名、貧しさゆえ埋もれることが悔しくて潔白の心から湧い

た願うまじき名誉を願ったのはなぜか、頼むまじき人に頼んだのはなぜか、食べるまじ

き不義の食を口に入れたのはなぜか、許すまじきお蝶を不義の人に許したのはなぜか、

おのれこの腕とこの芸、心を惑わせ目をくらませて見えず悟らなかったから今月今夜、

不幸なお蝶の家出は誰のせいか、長年磨いた筆のために最愛の妹を殺したのか、経営

惨憺の苦労は汚職をわが身に沁み込ませたのか、あざ笑え辰雄、嘲れ辰雄、声は彼でも

罪は自分。交わりを断って悪声を出さず、君子の道は知らぬが受けた恵みの大きさに、

無念は骨髄まで通るが恩は恩、奴の企みを耳にして聞き捨てにするのではなかった。世

のため人のため正義のために奮うべき拳はここにある、秘蔵の短剣をひらめかせてあの

胸元を貫くことも容易だ。しかし無念はこの花瓶、あの恩を恵みに身を縛ってしまった

ので向くべき刃も振るうべき拳もない、全て恨みは自分に、腕に、芸に、そしてこの

花瓶にある。憎い、悔しい敵め、おのれを砕いて辰雄も刺そう、おのれさえなくば何の

恩か恵みか」と拳を固めて立ち上がり、見れば月明かりに浮かび上がる金銀閣寺、砂子

一つ筋一本心のこもらないものは一つもなく、ましてや巡りの金梨地。「ああ、幾年の

苦の名残、描きも描いた我ながらあっぱれ斯道の妙、この筆を絶やしては継ぐ者がいる

だろうか。道に入って十七年、惜しみに惜しんだ名を記して、万国の陶器画工よ来い、

海外の青目玉よ見よ、日本帝国の一臣民入江頼三自慢の筆を、心に誇る満足の品を。

どうしてこれを砕くことができようか、世に合わない身の一生の思い出をこれにとどめ

て深山に入ろうか、それも悔しい、もしお蝶が戻った時、もし辰雄の邪心がなくなった

時のためにこれを保存しておきたい」と両手に抱いて何度も見返し、眺め入るうちに

恍惚として自分が画中に入ったか、絵が自分に寄り添ったか、お蝶もなく辰雄もない、

我儘もなく意地もない、輝く光に照らされて四方に響く喝采の声、にっこり笑うと耳の

そばで「頼三は愚かで使い道がない」と聞こえるのは篠原の声か、「おのれ」と振り

仰ぐ袖を控えて「お風邪をお引きになりませんように」と優しい声がする。「ああ嬉し

い、お蝶帰ったのか」「お兄様あちらへ一緒に参りましょう」と指さすのは金銀閣寺、

秋草が咲き蝶が飛び、立ち渡る霧は我が金梨地のように見える。

 ああおもしろい、龍は遂に池を出て湧き立った雲の中へ、立浪の丸模様、昇り龍に

下り龍の丸、蝶の丸、花の丸、鳳凰の丸、踊り桐、狂い獅子、二葉葵、源氏車、槌車、

牡丹唐草、菊唐草、吉野龍田の紅葉に花、「あれもこれも美しい、お蝶も美しい、辰雄

も美しい、中でも我が筆の美しさ、これを捨ててどこへ行くのか、天下万人全て開き

めくらなのだ、見せるべき人はおらず見せるだけ無駄だ、わが友はお前だ、お前の友は

私だ、さあ一緒に行こう」と抱き上げて庭石に投げ出す一対、割れる音に大笑いの声、

夜半の鐘が遠く音を引き、残ったものは金色に輝くかけらと天の月。