樋口一葉「わかれ道」

 「お京さんいますか」と窓の外に来てことことと羽目板を叩く音がする。「誰だい、

もう早く寝てしまったから明日来ておくれ」と嘘を言うと、「寝たっていいさ、起きて

開けておくれ、傘屋の吉だよ、俺だよ」と少し高い声で言う。「嫌な子だね、こんな

遅くに何を言いに来たの、またお餅のおねだりかい」と笑って「今開けるよ、ちょっと

お待ち」と言いながら仕立てかけの縫物に針止めをして立ったのは、年頃二十歳あまり

の粋な女、多い髪の毛を忙しいからと結び髪にして、少し長めの八丈の前垂れ、お召が 

いたんだ羽織を着て急ぎ足で靴脱ぎへ降りて、格子戸にそった雨戸を開けると、「お気

の毒さま」と言いながら入ってきたのは一寸法師と仇名のある町内の暴れ者、傘屋の吉

という持て余し者の小僧だ。年は十六だがちょっと見たところは十一二、肩幅が狭く顔

も小さく目鼻立ちはきりっとして利口そうだが、背が低いので人が嘲って仇名をつけ

た。「ごめんなさい」と火鉢のそばにずかずかと行くと、「お餅を焼くには火が足りな

いから台所の火消し壺から消し炭を持ってきて勝手に焼いてお食べ、私は今夜中にこれ

一枚縫い上げなければならないの、角の質屋の旦那様のご年始着だから」と針を取ると

吉はふんと言って「あの禿げ頭には惜しいものだ、お初穂を俺が着てやろうか」と言う

と「馬鹿を言ってはいけないよ、人のお初穂を着ると出世ができないというじゃない

か、今から伸びることができなきゃ仕方がない、そんなことをよその家でもしてはいけ

ないよ」と気遣うと、「俺なんて出世は願わないのだから人のものだろうが、何だろう

が着てやるだけ徳さ、お前さんいつかこう言ったね、運が向くときになったら俺に糸織

の着物をこさえてくれるって。本当にこしらえてくれるのかい」とまじめになって聞く

と、「そりゃこしらえてあげられるのなら、おめでたいことだもの喜んで誂えるけれ

ど、私の様子を見てごらん、こんな格好で人様のことをしてあげられる境遇かい、まあ

夢のような約束さ」と笑っている。「いいよそれは、できない時にこしらえてくれとは

言わない、お前さんに運が向いた時のことさ、まあそんな約束でもして喜ばせておくれ

よ、こんな野郎が糸織揃いを被ったところでおかしくもないけれど」と淋しそうな笑顔

をすると、「それなら吉ちゃん、お前が出世した時には私にも何かしてくれるかい、

その約束も決めておきたいね」とほほ笑んで言えば「それはだめだ、俺はどうしたって

出世などできないのだから」「なぜ」「なぜでもできない、誰か来て無理やりに手を取

って引き上げても俺はここでこうしている方がいいよ、傘屋の油引きが一番いいんだ、

どうせめくら縞の筒袖に三尺帯(貧しい)を背負って生まれてきたのだろうから、柿渋

を買いに行く時に銭をかすめ取って、吹き矢の一本でもして当たりを取るのがいい運て

ところだ、お前などは元が立派だったというから今に上等の運が馬車に乗って迎えに

来るだろう、でもそれはお妾になるということではないぜ、悪く取って怒らないでおく

れ」と火をいじりながら身の上を嘆くと、「そうさ、馬車の代わりに火の車が来るだろ

う、ずいぶん胸の燃えることがあるからね」とお京は物差しを杖に振り返って吉三の顔

を見守った。いつものように台所から炭を持ち出してお前は食わないかと聞くと、いい

えとお京は頭を振るので「では俺だけごちそうになろうかな、本当にうちはけちんぼ

だ、やかましい小言ばかり言って人を使う方法も知りやしない。死んだおばあさんは

あんなではなかったけれど、今度の奴等ときたら一人として話せるのはいない。お京

さんお前はうちの半次さんを好きか、ずいぶん嫌味でいい気な奴じゃないか、親方の

息子だけど俺にはどうしても主人だと思えない、会うたびに喧嘩してやり込めてやるの

だ、おもしろいよ」と話しながら金網の上に餅を乗せて、おお熱つ熱つと指先を吹いて

いる。「俺にはどうもお前さんのことが他人のように思えないのはどうしてだろう、

お京さんお前は弟というものを持ったことはないのかい」と聞かれて、「私は一人っ子

だから弟も妹も持ったことはないよ」と言う。「そうかなあ、それではやっぱり何でも

ないのか、どこからかお前のような人が俺の真実の姉だと言って出てきたらどんなに

嬉しいか、首っ玉にかじりついてそのまま死んでもいい。本当に俺は木の股からでも

出てきたのかまったく親類らしい者にも会ったことがない、だから俺は一生誰にも会う

ことができないくらいなら今のうちに死んだ方が気楽だと考えるよ。それでも欲がある

からおかしい、ひょっくり変な夢を見たりするんだ。普段優しいことの一言でも言って

くれる人がいるとお袋か親父か姉さんか兄さんのように思えて、もう少し生きていよう

か、もう一年生きていたら誰か本当のことを話してくれるかと楽しみにね。おもしろく

もない油引きをやっているが、俺のような変なものが世間にいるだろうか。お京さん、

お袋も親父もまるっきり当てがないのだよ、親なしで生まれてくる子がいようか、俺は

どうしても不思議でならない」と焼きあがった餅を両手で叩きつつ、いつも言っている

心細さを繰り返すと「それでもお前、守り袋というような証拠はないのかい、何か手掛

かりがありそうなものを」とお京が言うのを打ち消して「何そんな気の利いたものは

ありそうもない、生まれるとすぐさま橋の袂の貸し赤子に出されたのだなどと仲間の

奴らが悪口を言うが、もしかするとそうかもしれない、そんなら俺は乞食の子だ、母親

も父親も乞食かもしれない。表を通るぼろを下げた奴がやっぱり俺の親類で、毎朝決ま

って来るびっこで片目のあの婆あなんかが俺の何に当たるか知れはしない。話さなくて

もお前は大体知っているだろうけれど、今の傘屋に奉公する前は俺は角兵衛獅子を被っ

て歩いていたのだから(貧しい子を買って仕込んだ)」と打ち萎れて、「お京さん俺が

本当に乞食の子ならお前は今までのようにかわいがってはくれないだろうか、振り向い

てはくれないだろうね」と言うと、「冗談をお言いでないよ、お前がどんな人の子で

どんな身かは知らないが、だからといって厭だとか厭でないとかいうことはない。お前

は普段の気性とは似合わない情けないことを言うけれど、私はお前が非人でも乞食でも

かまわない、親がなかろうが兄弟がなかろうが身一つで出世したらいいじゃないか、

なぜそんな意気地のないことを言うの」と励ますと、「俺はどうしてもだめだよ、何も

しようとは思わない」と下を向いて顔を見せなかった。

 

 今は亡くなった傘屋の先代に、太っ腹のお松という一代で身上を上げた女相撲のよう

なおばあさんがいた。六年前の冬のこと、寺参りの帰りに角兵衛の子供を拾ってきて、

「いいよ、もし親方からやかましく行ってきたらその時のこと、かわいそうに足を痛め

て歩けないと言ったら仲間の意地悪が置き去りにしていったのだとか、そんなところに

帰ることはない、ちっともおっかないことはないから私の家にいなさい。皆も心配する

ことはない、この子くらいの二人や三人、台所に板を並べておまんまを食べさせるのに

文句があるものか。証文を取ったって駆け落ちするものもいれば、持ち逃げするような

けちな奴もいるのだから。料簡次第のものだよ、いわば馬には乗って見ろ、役に立つか

立たないかは置いてみなけりゃわからない、お前新網(貧民窟)へ帰るのが嫌ならここ

を死に場と決めて骨を折らなきゃならないよ、しっかりやっておくれ」と言い含められ

て、吉や吉やとそれからの丹精、今は油引きに大人三人前を一手に引き受けて鼻歌交じ

りでやってのける腕前、さすがのお眼鏡と亡き老婆を人は褒めている。

 恩ある人は二年目に亡くなり、今の主人もおかみさんも息子も気に食わないものばか

りだが、ここを死に場と決めたのだから嫌だと言ってもどこへ行けよう。癇癪で筋骨が

詰まったのか、人から一寸法師一寸法師と謗られるのも悔しいが、「吉、手前は親の

命日に生臭を食ったのだろう、ざまを見ろ回り回りの小仏」と、仲間の鼻たれに仕事の

仇を返されて、鉄拳で張り倒す勇気はあるが、本当に、父母がいつ亡くなっていつが

精進日とも心得ない身の心細さを思うと、干場の陰に隠れて大地を枕に仰向いて、こぼ

れる涙をのみ込む悲しさ、四季を通して油光りするめくら縞の筒袖を振って、火の玉の

ような子だと町内で恐ろしがられる乱暴も、慰める人がいない胸苦しさのあまりから。

もし優しく話してくれる人があれば、しがみついて離れたくないような思いでいる。

 仕事屋のお京は今年の春からこの裏へ越してきたのだが物事に機転が利いて、長屋中

への付き合いもよく、傘屋は大家なのでことさらに愛想を見せて、「小僧さんたちの

着物にほころびなどできたら私の家に持ってきてください、お宅は大所帯でおかみさん

も針を持っている暇はないでしょう、私は一日中畳紙(着物を入れる)と首っぴきです

からほんの一針くらい造作ありません、一人住まいで相手もなく毎日淋しく暮らして

いますからお手すきの時には遊びにも来てください、私はこんながらっぱちですから

吉ちゃんのような暴れん坊が好き、癇癪を起こしたときには表の米屋が白犬を殴ると

思って、私の家の洗い返しを艶出しする小槌で、砧打ちをやらせに来させてください。

それならお前さんも憎まれず私の方でも大助かり、本当に両方のためですから」などと

冗談交じりにいつとはなしに心安くなり、お京さんお京さんと入りびたるのを職人たち

がからかって、帯屋の大将のあちらこちら、桂川の幕が出る時はお半の背中に長右衛門

と歌わせてあの帯の上へちょこなんと乗って出るか、こいつはよい茶番だと笑われて

も、「男なら真似てみろ、仕事屋の家に行って茶棚の奥の菓子鉢の中に今日は何がいく

つあるかまで知っているのは俺のほかにあるまい、質屋の禿げ頭がお京さんに首ったけ

で、仕事を頼むの何がどうしたのと小うるさく入り込んでは、前垂れや半襟や帯皮やを

付け届けをしてご機嫌を取ってはいるけれど、いまだかつて喜んだ挨拶をしたことが

ない。ましてや夜でも夜中でも傘屋の吉が来たとさえ言えば、寝間着のままで格子戸を

開けて、今日は一日来なかったねどうかしたの、心配したよと手を取って引き入れられ

る者がほかにいるか、お気の毒さまなこったが独活の大木は役に立たない、山椒は小粒

で珍重される」と権高いことを言うので、この野郎めと背中をひどく叩かれても、あり

がとうございますと澄ましていく顔つき、背丈さえあれば人も冗談だと許さないだろう

が、一寸法師は生意気だと仲間外れのいいなぶりものにして、煙草休みの話の種にして

いる。

 

 十二月十三日の夜、吉は坂上のお得意に誂えの期限の遅れを詫びに行って、帰りは

懐手の急ぎ足、草履下駄の先に引っかかるものをおもしろがって蹴って、ころころと

転げるのを右に左に追いかけては大溝の中に蹴落として一人からからと高笑い、聞く者

もなくて、天上のお月さまが煌々と照らしている。寒いということを知らないのでただ

心地よく爽やかで、帰りは例の窓を叩いてともくろみながら横町を曲がると、いきなり

後ろから来た人が両手で目を隠して忍び笑いをする。誰だ誰だと指を撫でて、「なんだ

お京さんか。小指の形がものを言う、おどかしてもだめだよ」と顔を振りのけると、

「憎らしい、当てられてしまった」と笑い出した。お京は御高祖頭巾を目深にかぶり、

風通の羽織を着ていつもと違ういい身なりをしているので、吉三は見上げ見下げして、

「お前どこへ行ってたの、今日明日は忙しくておまんまを食べる暇もないと言っていた

ではないか、どこへお客様に行ってたのかい」と不審がられて「繰り上げのご年始回り

さ」と素知らぬ顔をすると「嘘言ってるぜ、三十日に年始を受ける家はない、親せきに

でも行ったのかい」と聞くと、「とんでもない親せきへ行くような身になったのさ、私

は明日あの裏長屋を引っ越しするよ、あんまり出し抜けだからさぞ驚くだろうね、私も

急なことなので本当のことと思えない、ともかく喜んでおくれ、悪いことではないか

ら」と言うので、「本当か、本当か」と吉は呆れて「嘘ではないか、冗談ではないか、

そんなことを言っておどかしてくれなくてもいい、俺はお前がいなくなったら少しも

おもしろいことがなくなってしまうのだから、そんな厭な冗談はよしておくれ、つまら

ないことを言う人だ」と頭を振ると、「嘘ではないよ、いつかお前が言ったとおり上等

の運が馬車に乗って迎えに来たという騒ぎだから、あそこの裏長屋にはいられない。

吉ちゃんそのうちに糸織ぞろいをこしらえてあげるよ」と言う。「嫌だ、俺はそんな

ものはもらいたくない。お前そのよい運と言うのはつまらぬところへ行こうというのだ

ろう、一昨日うちの半次がそう言っていた、仕事師のお京さんは八百屋横丁で按摩を

しているおじさんの口入れでどこかのお屋敷にご奉公に出るのだそうだ、なに小間使い

という年ではなし、奥様の小間使いや縫物師になるわけもない、三ツ輪に結って房の

ついた被布を着るお妾さんに違いない、どうしてあの顔で仕事屋が通せるものかと言っ

ていた。俺はそんなことはないと思うから間違いだろうと言って大喧嘩をしたのだが、

お前もしかしてそこへ行くのか、そのお屋敷へ行くのだろう」と問われて、「何も私だ

って行きたいことはないけれど行かなければならないのさ、吉ちゃんお前にももう会え

なくなるねえ」とは言うが元気がなく聞こえたので「どんな出世になるのか知らないが

そこへ行くのはよした方がいい、何も女の口一つ針仕事で通せないこともないだろう、

あれほどの腕を持っていながらなぜそんなつまらないことをするのか、あんまり情けな

いじゃないか」と吉はわが身の潔白に比べて「およしよおよしよ、断ってしまいな」と

言えば、困ったねとお京は立ち止まって、「それでも吉ちゃん、私は洗い張りに飽きが

来て、もうお妾でも何でもいい、どうせこんなつまらないづくしならいっそ、腐れ縮緬

の着物で世を過ごそうと思うのさ」と思い切ったことを思わず言ってほほと笑ったが、

「ともかく家へ行こうよ、吉ちゃん少しお急ぎ」と言われて「俺はなんだかとてもおも

しろくない、お前さん先にお行き」と地上に長く引く影法師を心細げに踏んで行く。

いつしか傘屋の路地に入ってお京が例の窓の下に立ち、「ここに毎晩訪れてくれたのに

明日の晩はもうお前の声を聞けないなんて、世の中っていやなものだね」と嘆息する

と、「それはお前の心次第だ」と不満そうに吉三は言った。お京は家に入ると洋燈に火

を点け、火鉢の火を掻き起こして、「吉ちゃんお当たりよ」と声をかけると、俺は嫌だ

と言って柱際に立っている。「それでもお前寒かろう、風邪を引くといけない」と気を

つけてやると「引いてもいいさ、構わずに置いてくれ」と下を向いている。「お前どう

したの、おかしな様子をして私の言うことが何か癇に障ったのかい、ならはっきり言っ

てくれたらいい、黙ってそんな顔をしていられると気になって仕方がないよ」と言えば

「気になんぞ掛けなくっていい、俺も傘屋の吉三だ、女の世話にはならない」と言って

寄り掛かった柱に背中をこすりつけながら「ああつまらない、つまらない、俺は本当に

どういうのだろう、いろいろな人がちょっといい顔を見せてすぐさまつまらないことに

なってしまうのだもの。傘屋の先代のおばあさんもいい人だったし、紺屋のお絹さんと

いう縮れっ毛の人もかわいがってくれたのに、おばあさんは中風で死ぬしお絹さんは

お嫁に行くのを嫌がって裏の井戸に飛び込んでしまった。お前は不人情で俺を捨てて

ゆくしもう何もかもつまらない。なんだ傘屋の油引きなんて、百人前の仕事をしたから

といって褒美の一つも出るものじゃないし、朝から晩まで一寸法師と言われ続けて、

だからといって一生経ってもこの背が伸びようかい、待てば甘露というけれど俺なんぞ

は毎日毎日厭なことばかり降って来やがる。一昨日半次の奴と大喧嘩して、お京さん

だけは人の妾になるようなはらわたの腐ったのではないと威張ったのに、五日と立たず

に兜を抜がなければならない。そんな噓つきの、ごまかしの、欲の深いお前さんを姉さ

んのように思っていたのが悔しい、もうお京さんお前には会わないよ、どうしたって

会わない。長々お世話様でした、こちらからお礼を申します。人をばかにして、もう誰

のこともあてにするもんか、さようなら」といって立ち上がり、靴脱ぎにあった草履

下駄を足に引っ掛けると、「あれ吉ちゃん、それはお前勘違いだよ、私がここを離れる

からってお前を見捨てたりはしない、私はほんとにお前を兄弟だと思っているのだも

の、そんな愛想尽かしするのはひどいよ」と後ろから羽交い絞めに抱きとめて、「気の

早い子だね」と諭すと、「そんならお妾に行くのを止めにしますか」と振り返られて、

「誰も願っていくところではないけれど、私は決心したのだからせっかくだけどそれは

聞けないよ」と言うと吉は涙の目で見つめて、「お京さん後生だからこの手を放して

おくんなさい」