樋口一葉「にごりえ 二」

                  四

 客は結城朝之助といって自ら道楽者と名乗ってはいるが折々実直なところが見える。

無職で妻子なし、遊び盛りの歳なのでこれを始めに週に二三度通ってくる。お力もどこ

となく懐かしく思うようで三日見えなかったら文をやるようになり、朋輩の女たちは

やきもち半分にからかって「力ちゃん楽しみだね、男振りはいいし気前はいい、今に

あの方は出世なさるに違いない。その時はお前を奥様にとでも言うのだろうから今から

気をつけて足を出したり湯呑みで酒をあおるようなことはお止めにおし、柄が悪いよ」

と言う者がいれば、「源さんが聞いたらどうなるだろう、気違いになるかもしれない」

と冷やかす者もいる。「ああ、(私が奥様になって)馬車に乗って来る時に都合が悪い

から道普請をしておいてもらいたいね。こんな溝板のがたついたような店先に、それ

こそ柄が悪くって横づけにもできないではないか、お前たちももう少しお行儀を直して

お給仕に出るよう心がけておくれ」とずけずけと言うので、「ええ憎らしい、その物言

いを直さないと奥様らしく聞こえないよ。結城さんが来たら思うさま言って小言を言っ

てもらおう」と、朝之助の顔を見るなり「このようなことを言っています、どうしても

私共の手には乗らないやんちゃ者なのであなたから叱ってやってください、第一湯呑み

で飲むのは体に毒でございましょ」と告げ口をすると、結城はまじめになって「お力、

酒だけは少し控えろ」と厳命する。「ああ、あなたらしくもない。お力が無理にも商売

できるのはこの力だとは思いませんか、私から酒気が離れたら座敷は三昧堂(修行する

ところ)のようになりましょう、少しは察してください」と言うので、なるほどと結城

はもう言わなかった。

 ある月の夜、階下の座敷ではどこやらの工場の一群が丼を叩いて甚句やかっぽれの

大騒ぎ、ほとんどの女たちが集まって例の二階の小座敷には結城とお力の二人きりだっ

た。朝之介が寝転んで楽しそうに話しかけるのをお力はうるさそうに生返事をして、何

かを考えている様子だった。「どうした、また頭痛でも始まったのか」と聞かれて、

「いえ、頭痛はしませんが持病が起こったのです」と言う。「お前の持病は癇癪か」

「いいえ」「血の道か」「いいえ」「それでは何だ」と聞かれて「何とも言うことが

できません」「他人ならともかく僕ではないか、どんなことでも言ってよさそうものだ

が。どういう病気だ」と聞かれても「病気ではないのです。ただこんな風になって、

こんなことを思うのです」とばかり。「困った人だな、いろいろ秘密があると見える。

お父さんは」と聞くと「言えません」「お母さんは」「それも同じ」「今までのこと

は」「あなたには言えません」「まあ嘘でもいいさ、かりに作りごとでもこういう身の

不幸だとか大抵の女が(言うことを)言わなくてはならない。一度や二度会ったのでは

ないのだからそろそろそのくらいのことは発表してくれても差し支えはないだろう、

口に出して言わなくても、お前に思うことがあるくらいめくら按摩にさぐらせてもわか

る。聞かなくても知れてはいるがそれを聞くのだ。どっちみち同じことなのだから持病

というのを先に聞きたい」と言う。「およしなさいまし、お聞きになってもつまらない

ことです」とお力はさらに取り合わない。

 ちょうど下の座敷から杯盤を持ってきた女が何やらお力に耳打ちをして、「ともかく

下までおいでよ」と言う。「いや、行きたくないからよしておくれ、今夜はお客様が

大変酔いましたからお目にかかってもお話もできませんと断っておくれ」「ああ、困っ

た人だね」と眉を寄せて「お前、それでもいいのかい」「はあ、いいのさ」と膝の上で

撥を弄んでいるので、女は不思議そうに立って行ってしまった。聞いていた客は笑い

ながら、「遠慮には及ばない、会ってきたらよいだろう、何もそんなに体裁を作る必要

はない。かわいい人を会わずに帰すのはひどいではないか。追いかけて行って会ったら

よい、何ならここへ呼びたまえ、隅に寄って話の邪魔はしないから」と言うので、

「冗談は抜きにして結城さん、あなたに隠しても仕方がないので話します。町内では

少し羽振りのよかった布団屋の源七という人が長らく馴染みだったのですが、今は見る

影もなく貧乏になって、八百屋の裏の小さな家でかたつむりのようになっています。

女房も子供もあって私のようなものに会いにくる歳でもないのだけれど、縁があるのか

未だに時々何のかのと言って今も下座敷に来たのでしょう。今さら追い出すというわけ

でもありませんが、会ってもいろいろ面倒なことになるので当たらず触らず帰した方が

いいのです。恨まれるのは覚悟の上、鬼とも蛇とも思えばいいのです」と撥を畳に置い

て少し伸びあがって表を見下ろしたので「どうだ、姿が見えるか」とからかうと、

「ああ、もう帰ったようです」とぼんやりしているので「持病というのはそれか」と

問い詰められて「まあ、そんなところです、お医者様でも草津の湯でも(恋の病は治せ

ない)」と薄ら淋しく笑っているので「ご本尊を拝みたいな、役者でいったら誰のよう

だ」「見たらびっくりですよ、色が黒く背の高いお不動様みたいな」「では心意気か」

と聞かれて「こんな店で身上をはたくような人なので、人がいいばかりで取柄などは

全然ありませんよ、おもしろくもおかしくもなんともない人」と言うので「どうして

お前はそんなのにのぼせたのだ、聞きどころだな」と客は起き上がった。「大方のぼせ

症なのでしょう、この頃はあなたのことを夢に見ない日はありません。奥様がおできに

なったり、ぴたっとおいでがなくなったり、まだまだもっと悲しい夢を見て枕紙がびっ

しょりになったこともあります。高ちゃんなんかは夜寝たとたん、枕を頭につけるより

早く高いびき、気持ちがよさそうでどんなにうらやましいことか。私はどんなに疲れた

時でも床へ入ると眼が冴えて、それはそれはいろいろなことを思うのです。あなたは私

に思うことがあるだろうと察してくださるから嬉しいけれど、私が何を思っているのか

はとてもお分かりにならないでしょう。考えても仕方がないので人前では大はしゃぎし

て、菊の井のお力は行き当たりばったりで、苦労というものを知らないと言うお客様も

います。本当に因果というものか、私ほど悲しい者はいないと思います」とさめざめと

涙を流す。「珍しく陰気な話になったな、慰めたくても話の初めから終わりまでわから

ないから見当もつかない。夢に見てくれるほど思ってくれるなら奥様にしてほしいくら

い言いそうなものなのに全くお声がかりもないのはどういうことだ。古風なことを言う

が袖すり合うも(多生の縁)というではないか、こんな商売が嫌だと思うなら遠慮なく

打ち明ければいい。僕はまたお前のような性分はこれが気楽で、おもしろおかしく渡っ

ているのだと思っていた。では何か理由があってやむを得ずしているのか、嫌でなかっ

たら聞かせておくれ」と言うので「あなたには聞いていただこうとこの間から思って

いるのですが、今夜はいけません」「なぜだ」「なぜでもいけません。私はわがままな

ので言わないと思うときはどうしてもいやです」とついと立って縁側に出ると、雲の

ない空に月の光が涼しく、町を見下ろすとからころと駒下駄の音をさせて行きかう人の

姿がはっきり見える。「結城さん」と呼ぶので「なんだ」と側に寄ると、「まあここに

お座りなさい」と手を取って「あの水菓子屋で桃を買う子がおりますでしょ、かわいい

四つばかりの。あれがさっきの人の子です、あんな小さい子供心にもよほど憎いらし

く、私のことを鬼、鬼と言います、そんな悪者に見えますか」と空を見上げてほっと

ため息をつく。耐えかねている様子が声の調子に表れた。

                  四

 同じ新開の町はずれ、八百屋と髪結い床の軒が重なったようにある細い路地。雨が

降っても傘も差せないような窮屈さで、足元はところどころにどぶ板の落とし穴がある

危ない道を挟んで立つ棟割長屋。突き当りのごみ溜め脇に九尺二間の上がり框は朽ち、

雨戸の具合が悪いのでいつも不用心、さすがに表口だけではないのが山の手の幸せで、

三尺ほどの縁側の先に草ぼうぼうの空き地がある。その端を少し囲って青紫蘇、えぞ

菊、隠元豆の蔓などを竹の垣に絡ませているのが、お力に縁のある源七の家である。

 女房はお初と言って二十八か九にもなるだろう。貧乏にやつれて歳も七つは多く見え

る。お歯黒はまだらになり、生え放題の眉毛は見る影もない、洗いざらしの鳴海(絞

り)の浴衣(高級品)の前と後ろを縫い替え、膝のあたりも目立たないように細かく

縫った継ぎ当てがある。狭い帯をきりっと締めて蝉表の内職を、お盆前の暑い時期の今

が稼ぎ時だと大汗をかいて忙しくしている。少しでも手数を省こうとそろえた藤を天井

から吊り下げて、数をこなすのを楽しみにわき目も振らない様子が哀れだ。「もう日が

暮れたのに太吉はなぜ帰ってこないのだろう、源さんもどこを歩いているのかしら」と

仕事を片付けて一服つけ、心配性らしく目をしばたたかせて土瓶の下をほじくり、蚊い

ぶし鉢に火を取り分けて三尺の縁側に出し、拾い集めた杉の葉をかぶせてふうふうと吹

き立てるとふすふすと煙が立ち上がり、軒端に逃れようとする蚊の羽音がすさまじい。

 太吉ががたがたとどぶ板の音をさせて、「母さん今戻った、お父っさんも連れてきた

よ」と門口から呼ぶと、「ずいぶん遅いじゃないか、お寺の山にでも行ったのではない

かと心配したよ、早くお入り」と言うと太吉を先に立てて、源七は元気なくぬっと上が

る。「おやお前さんお帰り、今日はどんなに暑かったでしょう、帰りも早いかと思って

行水の湯を沸かしておきました。ざっと汗を流したらどうですか、太吉もお湯にお入

り」と言うと「あい」と言って帯を解く。「お待ち、今加減を見よう」と言って流し元

にたらいを据えて釜の湯を汲み出し、かき回してから手ぬぐいを入れて「さあお前さん

この子を入れてやってください。何をぐったりしているのですか、暑さが障ったのでは

ないですか。そうでなければ一杯浴びてさっぱりしてご膳を上がってください。太吉が

待っていますから」と言うと「おおそうだ」と思い出したように帯を解いて流しに下り

ると、急に昔の自分を思い出して「九尺二間の台所で行水を使うとは夢にも思わなかっ

た。ましてや土方の手伝いをしたり車の後押しをするように親は生んでくれたのでは

なかった。ああ、つまらぬ夢を見たばかりに」と身につまされじっとしていると「父ち

ゃん、背中を洗っておくれ」と太吉は無心に催促する。「お前さん、蚊に食われますか

ら早く上がってください」と妻も気遣うので「おい」と返事をしながら太吉を洗い自分

も浴びて上に上がると、洗いざらしだがさっぱりとした浴衣を出して「お着かえなさい

まし」と言う。帯を巻いて風が通るところへ行くと、妻ははげかけて足がよろめく古い

春慶塗りの膳を持ってきて、「お好きな冷奴にしましたよ」と小丼に豆腐を浮かせて、

青紫蘇の香り高く持って来れば、太吉はいつの間にか台から飯櫃を下ろしてよっちょい

よっちょいと担ぎ出してきた。「坊主は俺のそばに来い」と頭をなでながら箸を取ると

何を思っているわけでもないのに食欲がなく、のどが腫れたようで「もうやめにする」

と茶碗を置くと、「そんなことがあるものですか、力仕事をする人が三度のご飯が食べ

られないということはないでしょう、気分でも悪いのですか、それともひどく疲れたの

ですか」と聞く。「いやどこも何ともないが、ただ食べる気にならない」と言うと妻は

悲しげな眼をして、「お前さんまた例のが起こったのですね、そりゃ菊の井の肴はおい

しかったでしょうが今の身分で思い出したところで何になります。向こうは売物買物、

お金さえできたら昔のようにかわいがってもくれましょう。表から見てもすぐにわか

る、白粉つけていい着物を着て、迷ってくる人を誰彼なしに丸めるのがあの人たちの

商売。ああ俺が貧乏になったから構わなくなったのだなと思えば済むでしょう、恨みに

思うのがお前さんの未練です。裏町の酒屋の若い者を知っているでしょう、二葉屋の

お角にほれ込んで得意先の掛け金を残らず使い込んで、それを埋めようと博打を打った

のが身の終わり、次第に悪事に染まり最後には土蔵破りまでしたとか。今男は監獄入り

して臭い飯を食べているそうだが相手のお角は平気なもの、おもしろおかしく世を渡っ

ているのに咎める人もなく見事に繁盛しています。あれを思えば商売人の利益のために

騙されたのはこちらの罪、考えても始まることではありません。それよりも気を取り直

して家業に精を出して、少しでも元手をこしらえるように心がけてください。お前さん

が弱ってしまっては私もこの子もどうすることもできず、それこそ路頭に迷わなければ

なりません。男らしく思い切る時は諦めて、お金さえできたらお力どころか小紫でも

揚巻でも、別荘をこしらえて囲ったらよいでしょう、もう考え事は止めにしてご機嫌

よく召し上がってください、坊主まで陰気らしく沈んでしまいましたよ」と言うので

見ると、茶碗と箸を置いて父と母の顔を見比べて、何のことかはわからないが気になる

様子。「こんなかわいいものもあるのに、あのような狸が忘れられないとは何の因果だ

ろう」と胸の中がかき回されたようになって「我ながら未練者め」と叱りつけ、「いや

俺だってそのようにいつまでもばかではない、お力などと名前さえも言ってくれるな、

言われるとしでかしたことを思い出して余計顔があげられなくなる。こんな身になって

今さら何を思うものか、飯が食えないのも体の加減だろう。別に心配してくれるほどの

ことでもないから、小僧はしっかりお食べ」とごろりと横になり、胸のあたりをばたば

たと打ちあおぐ。蚊遣りの煙にむせぶわけでもないが、思いに燃えて暑そうだった。