樋口一葉「にごりえ 三」

                   五

 誰が白鬼と名付けたか、無間地獄(銘酒屋:私娼を置いた居酒屋)を風情あるように

作り上げ、どこかにからくりがあるようにも見えないが逆さ落としの血の池地獄、借金

の針の山に追いやるのもお手の物だと聞けば、寄っておいでよという甘い声も蛇を食べ

る雉のように思えて恐ろしい。しかし(人の子と同じく)母の胎内にいたのは十か月、

母の乳房に甘えた頃にはちょちちょちあわわ(遊び歌)の声もかわいく、お札とお菓子

どちらを取るかと聞かれればおこしをおくれと手を出したもの。今の稼業に誠はない

が、百人の中で誰か一人くらいには心から涙を流すこともある。

 「聞いておくれ、染物屋の辰さんのことを。昨日も川田屋の店先でませたお六とふざ

け回り、往来まで出てきて打ったり打たれたりみっともない、あんなに浮ついていては

添い遂げられるのだろうか。幾つだと思う、三十は一昨年、いい加減に所帯を持つ準備

をしてくれと会うたびに意見をしてもその場限りではいはいと空返事をして、根っから

気に留めてくれない。父さんは歳をとり、母さんは目が悪いのだから心配させないよう

に身持ちよくなってほしい。私はこれでもあの人の半纏を洗濯して、股引のほころびを

縫ってみたいと思っているのに、あんな浮ついた心ではいつ私を引き取ってくれること

やら。考えるとつくづくこの仕事が嫌になってお客を呼ぶ張り合いもない、ああくさく

さする」といつもは人をだます口で薄情な男を恨み、痛む頭をかかえて思案に暮れる者

がいる。

 「ああ、今日は盆の十六日だ。閻魔様へお参りに連れ立って通る子供たちがきれいな

着物を着て小遣いをもらって嬉しそうな顔をして行くのは、きっときっと二人揃った

甲斐性のある親を持っているのだろう。私の息子の与太郎は今日の休みにご主人から暇

が出て、どこへ行ってどんなことをして遊んでも、さぞ人をうらやましく思っているだ

ろう。父さんは大酒呑みで未だに住処も決まっておらず、母はこんな身になって恥ずか

しい紅白粉をつけている。もし居場所がわかってもあの子は会いに来てはくれないだろ

う。去年向島へ花見の時に人妻のように丸髷を結って仲間と遊び歩いていたら、土手の

茶屋であの子に会ったので声をかけたら私の若作りに呆れて、おっ母さんでございます

かと驚いた様子だった。ましてこの大島田(若い娘の結い方)に流行りの花簪などを

きらめかせてお客をとらえて冗談を言っているところを見たら、子心に悲しく思うだろ

う。昨年会った時『今は駒形の蝋燭屋に奉公しています、どんなにつらいことがあって

も必ず辛抱して一人前の男になって、父さんにも母さんにも楽をさせますからそれまで

どうぞ堅気になって一人で世渡りをしてください、人の奥さんにだけはならないでくだ

さい』と意見されたが、悲しい女の身では燐寸の箱張りでは一人口を濡らすことはでき

ず、人の台所をはい回るのもか弱いので勤められない。同じつらさでも体が楽なこんな

ことをして日を送っている。決して浮ついた心でいるわけではないのだが、きっとあの

子からは言った甲斐のないお袋だと非難されるだろう。普段は何とも思わない島田が

今日ばかりは恥ずかしい」と夕暮れの鏡の前で涙ぐむ者もある。

 菊乃の井のお力にしても悪魔の生まれ変わりではない。何か事情があったからこそ

この流れに落ち込んで、嘘のありったけと冗談でその日を送り、情けは吉野紙のように

薄く、時々蛍の光ほどに思い出すくらい。人間らしい涙は百年も我慢してよそ事に見る

非情さを養い、自分のために死ぬ人があってもご愁傷さまとそっぽを向くつらさ。それ

でも折りふしには悲しいことや恐ろしいことが胸にたまって、泣くのに人目を恥じて

二階の座敷の床の間に身を投げ出して忍び泣くこともある。これを仲間にも漏らさない

よう包み隠しているので、根性のしっかりした気の強い子だと言う者はいても、触れれ

ば切れる蜘蛛の糸のようにはかないところがあることを知る者はない。

 七月十六日の夜はどこの店も客が立て込み、都都逸や端唄が景気よい。菊の井の下座

敷にはお店もの(商家の奉公人)が五、六人集まって調子の外れた端唄や、自慢するの

も恐ろしいどら声で清元を気取るものもいる。「力ちゃんはどうした、得意の声を聞か

せないか、やったやった」と責められ、「お名はささねどこの座の中に(都都逸)」と

いつもの嬉しがらせを言ってやんややんやと喜ばれ、「我が恋は細谷川の丸木橋、渡る

にゃ怖し、渡らねば・・」と唄いかけたが何かを思い出したように「ああ、私はちょっ

と失礼します、ごめんなさい」と三味線を置いて立つ。「どこへ行く、どこへ行く、

逃げてはならない」と座が騒いでいる中「照ちゃん高さん少し頼むよ、すぐ戻るから」

とすっと急ぎ足で廊下に出て、何も見返らずに店口から下駄をはいて筋向こうの横町の

闇に姿を消した。

 お力は一目散に家を出て、「行けるものならこのまま唐天竺の果てまで行ってしまい

たい。ああ嫌だ嫌だ嫌だ、どうしたら人の声の聞こえない、物音のしない、静かな静か

な心も何もぼうっとして、もの思いのないところに行けるだろう。つまらない、くだら

ない、おもしろくない、情けなく悲しく心細い中をいつまで私は留められているのだろ

うか。これが一生なのか、一生がこれか、ああ嫌だ」と道端の立木に寄りかかってしば

らく我を忘れて立ち止まっていると、「渡るにゃ怖し、渡らねば」と言う自分の唄声が

どこからとなく響いて来たので、「仕方がない、やはり私も丸木橋を渡らなければなら

ない、父さんも引き返そうとして落ちてしまい、おじいさんも同じことだったという。

どうせ幾代もの恨みを背負って生まれた私なのだ、するだけのことをしなければ死んで

も死ねないのだろう。情けないと言っても誰も哀れだと思ってくれる人はいない、悲し

いと言えば商売を嫌うのかと一言で済まされてしまう。ええ、どうでも勝手になれ、

これ以上考えたって自分の行く末はわからないのだからわからないなりに菊の井のお力

を通してゆこう。人情知らず、義理知らずだとかも思うまい、思ったからといってどう

なるものでもない。こんな身でこんな商売、こんな運命でどうしたって人並みでないの

だから、人並みのことを考えて苦労するだけ間違いだ。ああ陰気なことを、なんでこん

なところに立っているのか、何しにこんなところへ来たのか。ばからしい、気違いじみ

て我ながらわからない、もう帰ろう」と横町の闇を離れて、夜店の並ぶにぎやかな小路

を気を紛らせようとぶらぶらと歩いても、行きかう人の顔が小さくなり、すれ違う人の

顔がはるか遠くに見えるように思える。自分が踏む土だけが一丈(3m)も高くなった

ように、がやがやという声が井戸の底に物を落としたような響きに聞こえ、人の声と

自分の考えが別々になって、さらに気が紛れることはない。人だかりがしている夫婦

げんかの軒先を過ぎても、自分一人だけが冬枯れの荒野を歩いているように心に留まる

ものも気にかかる景色もなく、ひどくのぼせて人心地でなくなったようで我ながらおぼ

つかない。「気が狂うのではないか」と立ち止まったとたん、「お力、どこへ行く」と

肩を叩いた者がいた。

                   六

 「十六日に必ず待っていますから来てください」と言ったことを忘れて、今まで思い

出しもしなかった結城朝之助にふと出会ってあっと驚いた顔をし、いつもに似ない慌て

方がおかしいと、からからと男が笑うので少し恥ずかしくなり「考え事をして歩いて

いたので思いがけず慌ててしまいました。今夜はよく来てくださいました」と言うと、

「あれほど約束をして待ってくれないのは不実だな」と責められ、「なんなりとおっし

ゃい、言いわけは後にします」と手を取って引く。「野次馬がうるさいぞ」と注意する

と、「どうとでも勝手に言わせましょう、こちらはこちら」と人中をかき分けて連れて

行った。

 下座敷ではまだ客が騒いでいて、お力が中座したことが興覚めだと騒いでいたさなか

だったので、店口の「おや、お力か」と言う声を聞きつけて、「客を置き去りにして

中座するものがあるか、戻ったのならこっちへ来い、顔を見なければ承知しないぞ」と

威張っているのを聞き流し、二階の座敷へ結城を連れて上がった。

「今夜は頭痛がするのでお酒の相手はできません、大勢の中にいるとお酒の香りに酔っ

て気を遠くなるかもしれませんから少し休んで、その後はどうなるかわかりませんが

今はごめんなさいませ」と断りを言ってやると、「それでいいのか、怒りはしまいか、

騒がれたら面倒だろう」と結城が気遣うと、「何の、お店ものの生っ白いのに何ができ

るものですか、怒るなら怒れです」と小女に言いつけてお銚子の支度をさせた。来るの

を待ちかねて「結城さん、今夜私には少しおもしろくないことがあって気分が違って

いますからその気で付き合ってください。お酒を思い切って飲みますが止めないでくだ

さい。酔ったら介抱してください」と言うので、「君が酔ったところをまだ見たことが

ない。気が晴れるほど飲むのはいいが、また頭痛にならないか。何が逆鱗に触れたの

だ、僕に言えないことか」と聞かれ、「いえ、あなたに聞いていただきたいのです。

酔ったら言いますから驚いてはいけません」とにっこりして大湯呑みを引き寄せ、二、

三杯、息をつかずに飲んだ。

 いつもはそれほど気に留めない結城の風采が今夜は違って見えて、肩幅が広く、背が

高く、落ち着いてものを言う重みのある口ぶり、眼付がするどく人を射るようなのも

威厳があると嬉しく、濃い髪の毛を短く刈り上げて襟足がくっきりしているところなど

今さらのように素晴らしく見える。「何をうっとりしている」と聞かれて「あなたの

お顔を見ていますのさ」と言うので「こいつめ」と睨みつけられ、「おお怖い方」と

笑っている。「冗談はともかく、今夜は様子がただごとでないな。聞いたら怒るかも

しれないが何かあったのか」と聞く。「特に降って湧いたこともないし、人とのいざこ

ざがあったとしてもそれはいつものことと気にもしないので、何も悩むことはないので

す。私が時折気まぐれを起こすのは、人のせいではなくてみな自分の浅ましい心柄から

来るものです。私はこんな卑しい身の上、あなたは立派なお方、考えもうらはらでしょ

うから聞いても汲んで下さるか下さらないか、それはわかりませんが、もし笑いものに

なっても私はあなたに笑ってほしくて、今夜は残らず言います。さあ何から話しましょ

う、胸が騒いで口がきけません」とまたもや大湯呑みで盛んにやる。

 「何より先に私が自堕落だとご承知ください。もちろん箱入り娘でないことは少しは

お察しでしょうが、口ではきれいなことを言ってもこの辺りの人で泥の中の蓮のよう

な、悪行(売春)に身を染めない女がいましたら繁盛どころか、見に来る人もいないで

しょう。あなたは別ですが、私のところへ来るような人だって大体はそんなものだと

思ってください。これでも時々は世間並みのことを考えて恥ずかしくつらく、情けない

と思い、いっそ九尺二間(の貧乏長屋暮らし)でもいいから夫を決めて添い、身を固め

ようかと思うこともありますが、それが私にはできないのです。といって来てくれる

お客さんに不愛想もできず、かわいいの愛しいの、見染めましたなどとでたらめな

お世辞も言わなければならないので、数の中には真に受けてこんなやくざを女房にと

言ってくださる人もいます。持たれ(人のものになれ)たら嬉しいか、人に添うのが

本望か、それが私にはわからないのです。初めからあなたのことは好きで好きで、一日

お目にかからなくても恋しいほどですが、奥様にと言ってくれたらどうでしょう。持た

れるのは嫌で、よそながら慕わしく思いたいのです。一言でいえば浮気者なのでしょ

う、こんな浮気者に誰がしたとお思いですか。三代に渡っての出来損ね、親父の一生も

悲しいものでした」とほろりとするので、「その親父さんは」と聞かれて「親父は職人

で、祖父は漢字を読んだ人でした。つまり私のような気違いで、世の役に立たない反故

を作ってお上から版を禁じられたとか、許されなかったとかで断食をして死んだそうで

す。生まれも卑しかったけれど十六の時から思うことがあって一心に修業しましたが、

六十を過ぎるまで何を成し遂げたこともなく、終わりは人の笑いものになって今では

名を知る人もないと父がよく嘆いていたのを子供の頃から聞き知っておりました。

 私の父というのは、三つの年に縁側から落ちて片足が不自由になり、人に立ち混じる

ことが嫌だと飾り職人になりましたが、気位が高くて愛想がなかったのでひいきにして

くれる人もなく、ああ、私が覚えているのは七つの年の冬のことでした。寒中親子三人

が古浴衣で、父は寒いと思わないのか柱に寄りかかって細工物に工夫をこらしていまし

た。母は欠けたかまどに破れ鍋をかけて、私に買い物を言いつけました。味噌漉しざる

を持ってわずかな金を握って米屋の門まで嬉しくかけて行きましたが、帰りには寒さが

身にしみて手も足もかじかんでいたので五、六間軒先のどぶ板の上の氷に滑って転んだ

はずみに手に持っていたものを取り落とし、一枚外れたどぶ板の中にざらざらとこぼれ

ればその下は汚い泥水です。何度ものぞいてみたけれどどうすることもできません。

その時私は七つでしたが家の様子や父母の心がわかっていたので、お米は途中で落とし

ましたと空の味噌漉しを下げて帰ることができずにしばらく立って泣いていましたが、

どうしたと聞いてくれる人もなく、聞いたからといって買ってやろうという人などなお

さらいるわけもない。あの時近所に川か池があったならきっと私は身を投げていたで

しょう、話は誠の百分の一(も伝えられません)、私はその時から気が狂ったのです。

帰りが遅いのを心配して母が探しに来てくれたので家には帰りましたが、母は物も言わ

ず、父も無言、私を叱るものもなく家の中はしんとして時々ため息が漏れるだけ。私は

身を切られるよりもつらく、今日は一日断食にしようと父が言い出すまでは、息をする

の忍ぶほどでした」

 言いながらお力はあふれる涙を止められず、赤いはんかちを顔に押し当ててその端を

かみしめつつ黙ってしまい数十分、座には物の音もなく酒の香りに寄って来る蚊の唸り

声ばかりが高く聞こえた。

 顔を上げた時には頬に涙の跡は見えるが淋し気な笑みを浮かべて、「私はそのような

貧乏人の娘、気違いは親譲りで時々起こるのです。今夜もこんな分からないことを言い

出してさぞあなたもご迷惑だったでしょう、もう話は止めます。ご機嫌に障ったらお許

しください。誰か呼んで陽気にしましょうか」と聞くと「いや、遠慮はいらない。その

父親は早くに亡くなったのか」「はい、母さんが肺結核というものを患って亡くなって

から一周忌の来ないうちに後を追いました。今生きておりましたら五十歳、親だから

ほめるわけではないですが、細工は本当に名人といってもよい人でした。でもいくら

名人でも上手でも私たちのような(世に入れられない生き方をする)生まれつきでは

何も成すことができないのでしょう、私の身の上も知れたことです」ともの思わしい

風情。「お前は出世を望んでいるな」といきなり朝之助に言われて、「えっ」と驚いた

ようだったが、「私たちのようなものが望んだって味噌漉しが落ち、まさか玉の輿など

とは思いがけません」と言う。「嘘を言うのは相手による、始めからわかっているの

から隠すのは野暮だぞ。思い切ってやってみたらどうだ」と言うので、「まあそのよう

にけしかけてはいけません、どうせこんな身です」と打ち萎れてまた黙ってしまった。

 今夜は大層遅くなった。下座敷の人たちもいつしか帰って、表の雨戸を閉めるという

ので朝之助は驚いて帰り支度をするが、お力は「どうしたって泊まらせる」と言う。

いつの間にか下駄を隠されて、足を取られては幽霊ならぬ身は戸の隙間から出て行く

こともできないので今夜はここに泊まることになった。雨戸を閉ざす音がひとしきり

にぎやかになり、その後は漏れる燈火の影も消えて、ただ軒下を行き通う夜行の巡査の

靴音だけが高く響いた。