馬場孤蝶に出した手紙とその返事

お忙しくしていらっしゃるのでしょうか絶えてお便りをいただけず、その地では悪い病

いが流行っているとかねがね伺っているので心配に耐えかねています。時々文学界の

方々のお出でもありますが、人様のお顔さえ見れば馬場様馬場様とお噂申し出すことが

少しはきまり悪くもあり、心のままにはご様子を聞くこともできないので、いよいよ

懐かしさが増すようです。お変わりなくお勉強されていることとは思いますが、萩も薄

も下葉が枯れて、やがて月に鹿が鳴く頃、色づいてゆく山の梢をご覧になっているあな

たの旅先でのお心はいかばかりかと想像しています。いつかのお便りに石山寺、義仲寺

などよそながら聞いただけでも快いような、あちこちをご遊覧するご様子がうらやまし

く、逢坂の関よりとお葉書が届いた時はむやみにあなたの旅姿が目の前に浮かび、やる

せないほど懐かしかったものです。それより絶えてお便りがないのは、私からお便りし

ない失礼をお怒りだからかとは思ってはいても、お詫びを申すのが嫌なので今日まで

我慢していましたが、もとより女子は弱いもの、負けてもそう恥ではありません。どこ

までもお懐かしいのだから無駄なやせ我慢をしてそちらの空を眺めてばかりいるよりは

と、お手紙を書いて出すことにします。お暇があったらただ一言でもお便りをください

ませ。文学界のお仲間ならば、あなたのことを知りたくなったらご両親に聞きに行く

ことができますが、なじみもないのに(あなたが)お留守のお宅に伺うこともできず、

空しく内々でお噂して暮らしているだけの私の心をお汲みになって折々のお便り、それ

だけをいつまでもお持ちしています。

 さて最近のことですが東京も寂しい秋の空となり、何も気のまぎれることもないまま

侘しく暮らしている中、一日妹を伴って飛鳥山から滝野川辺りをそぞろ歩きをしたこと

がありました。ある野道ですれ違った二十四五歳くらいの、あたりで手折った草花を

少し手に持って無造作にさっさと歩く後姿が似ているどころかお前様そのままでしたの

で、追いかけて名前を呼びたくなりましたが、まさかあなたであるはずもないのでその

身代わりの影が消えるまで立ち尽くしてお見送りしたのでした。このように思いがけず

野道でばったり会うことがあったらいいのにと儚いことを話し合いながら帰ったのです

が、その時すぐにお手紙を差し上げるつもりでしたのに、その頃はまだ負けることが

悔しくて今日まで放ってしまいました。彦根の風に染まって東京のことが上の空になる

ような勝弥様ではあるまい、馬場様はそのような情のない不実な方であるはずはない

ので、この頃絶えてお便りがないのはお忙しさに紛れて筆を取るお暇がないのでしょう

から押してはお願いしません。ただたまたま、おついでがあったらとのみ。なおなお

申し上げたいことは海山(のようにありますが)、それは十二月にお会いする時では

尽きませんでしょうが、明け暮れ指を折ってその日がいつかとお待ちしています。

お懐かしいばかり。 かしこ なつ

馬場様 御もとに

 

 これは28年10月9日の手紙である。一葉君の日記には10月9日「この夜手紙を二通書

く。ひとつは如来氏、ひとつは馬場様へ。前は昨日の返事で付録のことなどについて、

後はしばらく便りがないのでどうしているか心配で。」とある。この返事として、

「若い者を感動させるような手紙を書いてはいけません、僕だってどんな思い違いをし

ないものでもないですよ。」というようなことを書いたら、すぐ折り返して、ちょっと

面白い返事が来たのだが、それが今見つからない。誰かが持って行ったのか、どこか

箱の奥にでもあるのか無くなってしまったのだったら惜しいものだ。

   一

 弱り行く虫の音、風の景色のうら淋しさ、さらにはようやく緑あせて行く山の端の姿

など秋の哀れは一日ごとにまさり、都恋しい今朝のこと、羽織袴に身を固めて制帽片手

に宿を走り出ようとした刹那、お心遣い細やかな、心も解けるようなお言葉に接して

ただただあっと恐れ入りました。訪れのなさはお互い様のこと、お詫びなど特別なご挨

拶には及びません。ましてや彦根の風に染まって都を忘れたかなどのお恨みはさらに

さらにお受け取り難く、あいにく当地はよき吹かればゑのする風(?)などなく、少し

まごつくとおこりに取りつかれることになってしまいます。日々校舎の勤めに追われて

いるのではありませんが、破れ宿に帰ると気が倦み神経が疲れてぐずぐずと時を浪費

し、筆を取るのも物憂く書を読むのもおもしろくなく、思いのほか諸方への義理を欠い

ている次第でございます。去る九月二十九日の朝、はからずもご高作「にごりえ」を

拝読、菊の井のお力さんのどこやら、否(いな)確かにお手許のご化身ではないかと

までに驚き、大変感動いたしました。伺うところではほかにも追々ご傑作のご披露の

お約束もあるとのこと、ただただ筆硯の万歳を祝し奉ります。「私のようなものがどう

なりますものかな」など、そうそうやたらには仰せになってはいけません。私は毎日

生徒を相手におとなしく教務に服しておりますが、休日になると巣穴を飛び出した鉄砲

玉のごとく汽車に乗るか、膝栗毛で思いのままに走り回っています。先月二十二日は

午後二時より宿を出て中山道鳥居本というところを経て、摩鍼嶺に登って湖光万頃翠巒

(湖面に緑の山々が)映るのを見、竹生、多景の島々、描いたかのような湖北の山々に

見とれ、越えて二十三日は午前八時二十三分の列車で大津へ行き、そこから粟津の松林

の間を雨の中通り過ぎ、秋雨がようやく止んだ頃石山寺紫式部の昔をしのび、近くは

藤村がこの辺りをさまよった頃のことを思い出して、ここでもまた都路恋しき心が起こ

りました。見晴らしのよい台上の腰かけで休んで眺めると、瀬田川は滔々として流れて

おり、唐橋が組み上げたように架けてあります。三上の山、比良の峯の満々たる湖濤

(大波)を差しはさんで静かに相対し、見飽きぬ眺めだと心で賞して山を下り、川に

沿って建つ三日月屋という離れ屋でしばし休んで新鮮な鯉の刺身を食べました。螢谷の

ほとりで車夫がしきりに乗車を勧めるので、草津までと思っていた計画をここで変え、

車夫の案内に任せて義仲寺へ向かいました。膳所と大津との間にある町にある寺で粟津

(の戦いで亡くなった)と聞いているので知らないのも無理からぬことだと思いながら

門を入ると、俗なお堂がたくさん建てられていたのが惜しいことでしたが、芭蕉の墓は

さすがにもの寂びていました。七尺ばかりの石垣の中に大きな天然のままの台石があっ

てその上におおよそ二尺ばかりもあろう、(図)このような形の墓標があり、数株の

芭蕉がそれを覆う

   二

 ように後から生えており、右の方には一株の萩の花が今日を盛りと咲き出でているの

が、雨の名残を露としてこぼれるばかりにたわんでいました。「一つ家に遊女も寝た

り」と詠じられた昔のことが思われて、我を忘れて久しく立っておりました。それから

三井時に登って湖景の浩蕩たる(ゆったりした)を眺め、月夜に鐘をついたという狂女

のことや(能)、はてはまた三井寺の門を叩こうと言った俳叟(蕪村:三井寺や日は午

にせまる若楓)のことに思いを馳せ、名物の大津絵などを買い求め、高観音に登って、

道を聞いて逢坂山を横切り、関大明神という蝉丸の宮に詣でました。宮は鉄道のトンネ

ルが通っている山の方にあり、落葉散り敷く境内の様子は古寂、幽邃(奥深く物静

か)、いかにも詩仙の祠たるに恥じず、神様はこうであってこそなどとくだらない理屈

を心の中で繰り返し、大谷停車場で汽車を待つ間の手すさびに葉書を差し上げたのでし

た。帰途はうら悲しい秋の野中を車にゆられて宿へは八時ごろ帰り着きました。去る

二十九日は九時頃より湖畔をたどって長浜へ向かいましたが途上の光景がなかなかおも

しろく、磯山というところに近いほとりでは繁った葦の中を分け入るように道がつけら

れており、漁舟(いさりぶね)が葦間に隠れて水際(みぎわ)につながれているところ

など殊に風情がありました。湖の波はなかなか高く、鎌倉あたりの波くらいは普段でも

あります。長浜まではおおよそ四里半、四時頃戻って、光成の城跡澤山というのに登っ

て、湖景の美しさを賞して宿には七時頃帰り着きました。去る二日は同僚の画家と連れ

立って湖波が雪と散り霧と散じる風情を眺め、三日には古城に登って皎(白い)月の下

で無限の感慨をしのびました。膽吹の巨嶽(伊吹山)や湖北の山々は夢のように淡く、

近くの澤山、磯山が黒いのに相対して濃淡の配合が素晴らしく、湖面、米田共々に淡々

とした霧に包まれて一面薄衣のようで、どれをそれと見分けようもなくて、そこここに

ある田家の燈火も、かすかな漁火に似て幽趣(おくゆかしい)さらに深く思えました。

月はますます細くなり遠山はますます淡く、群雲はいつしか沈み星影がまばら、ああ

よい月、ああ美しい風光、されど都ではこの月をわが父母はどう見ているのだろう、

友はどうしているだろう、故旧はいかになど思うと私の心は内に沈んで長く低徊しまし

た。城を下ろうとすると坂の傍らに古い鐘が時を知らせるために掛けられていました。

   三

 首をひねってようやく「この夕べ鐘撞く人や秋の月」の一句を得ました。相変わらず

の駄句だと我ながらおかしく山を下り、曇りかけた月光を踏んで宿へ帰ったのは十時も

近い頃でした。去る五日は大阪の友と打ち合わせて午後六時に西京七條停車場で会い、

空腹を抱いて三條のあたりをさまよい、橋上に立って宿屋の品定めをしました。月は

布団を着てとかいうなだらかな東山(蒲団着て寝たる姿や東山)の頂を離れて、比叡の

大嶽は秋霧の上にそびえています。鴨(川)の川波は見渡す限り銀を敷き詰めたよう、

空腹耐え難いとはいえ二人は思わず声を上げて、期せずして共にこの素晴らしい景色を

称賛しました。古都の地はもともとみだらな風潮が盛んなところなので、橋の袂で水に

つかる宿の多くは白鬼(娼婦)の穴倉であると聞いて、泊まれるところはないと二人の

大きな子は橋上で迷ってしまいました。ようやく生亀という家で夕飯を食べて三條小橋

の山城屋というところに泊まりました。入浴後白地の貸し浴衣で橋上の月を賞するため

に出て行って道行く人から注視されることとなってしまいました。宿に帰って柿を食べ

ながら大いに処世の方針を談じました。友も大阪の俗には合わないですし、私も大阪の

まどろっこしさが嫌いです。会って共に積もり積もった不平の大きな塊を吐き尽くす

壮快さは言うべくもありません。友は安眠しましたが私は歯痛のために夢を見ることが

できず輾転反側、いたずらに煩悶しました。三時過ぎ頃か友も目覚めて共に窓を開くと

東山は静かに眠り、冴えに冴えた月の光は全ての物音が絶えた街路に落ちて、深い思い

が胸に沈み相対して言葉もなく、ただ黙ってこの清い宵の清らかな趣きを賞しました。

越えて六日は北野天満宮金閣寺を見ようと三條の通りを西行して、行く道で太陽十号

と地図を求めて某氏の「文学界に与ふるの書」を読み、(自分の)「蝶を葬るの辞」が

やり玉に挙げられたことに大笑いしました。二條の城のほとりに出ると嵐山に続く山々

にはまだ朝靄が風情よくかかって、柔らかい日光と優しい朝風とが我々の顔をなでるよ

うで心地よいことは言い表せません。顔を見合わせてこの旅の幸運を喜びました。北野

の宮の古雅や総門の姿の趣き深さを賞し、平野の宮を過ぎて鹿苑寺金閣の昔をしの

び、池や庭園の松の木の寂とした眺めに驚きました。金閣寺はそれほどではありません

でしたが鹿苑の寂びの趣きは確かに一見の価値があります。友は、この寺が建った当時

は今のように趣き深くは

   四

なかっただろうと言い、私も大いに同感しました。ここからは車を走らせて離宮の傍ら

をよぎり、ただすの森、下鴨の森、吉田の社などを見、黒谷の山門に登って京都市の全

景を脚下に眺め、南禅寺の松林にある瓢亭というところで昼食をとって、南禅寺を見、

青蓮院を見、円山に出て八坂神社をよぎり(よぎるには、過ぎると立ち寄る意味あり)

その傍らにある写真屋に入ると明り取りの硝子は破れ、床は凸凹激しく、窓かけは汚れ

てむさくるしく、二階になるのだろうか部屋の板の間には四方一尺七八寸くらいの穴が

あり、下の土間から荷物を引き上げるためか長いひもが下がっています。光景はあたか

も西洋の小説にある盗賊の住処のようです。友は大いに笑ってディケンスの筆にかかり

そうなところだと言いました。まさにディケンスは今世紀の英国小説界の大家で、英都

ロンドンにおける下層生活をよく活写しているからです。私も友の批評がすこぶる奇抜

であると称えました。私は制服制帽のまま、友はこの頃ようやく生え揃った短い髭を

ひねって撮影しました。どんな風に写っているか、今日明日の内には手に入るだろうと

楽しみにしています。さてここからはまた、清水寺を見、大谷の蓮池をのぞき、方廣寺

に入って大仏を見ました。道々二十四年前に友と初めて出会った時の話をし、私が記憶

の全てを呼び起こしたので友は驚かせました。君も知っているように、このことは私に

は忘れ難い記念の、あの温泉の青山流水の間に刻まれた頃のことです。(高知?)

しかもこの友とは彼の家で出会った時から今日のように肝胆相許し合ったのです。どう

してそれに伴う全てを忘れることができるでしょう。いかなる些細な点も今なお私の心

には明らかで、描かれたものを見るようです。友は何度も私の記憶の精細なことを称し

て、やがて七條停車場に着き、ここで惜しくも袂を分かち、一声の汽笛と轟然とした

響きに送られて東西に分かれました。私は三井の月を見ようかと思いましたがあまりに

遊んで食傷するのもよくないと思い直して、夕月がようやく東の山の端を離れる頃彦根

にある我が宿に帰り着きました。京都の旧跡をまるで年始でも回るようにお義理一遍に

走り回りましたが、おもしろいことはなかなかでした。

   五

 その翌日からは相変わらず真面目くさって教室に構え込んで教師面をしております。

上級の生徒はいいのですが下級の輩になると少しは渋い顔をしなければ、生徒が慣れて

後ろの方では話をするやらつつき合いをするやらして教室の秩序が乱れてしまいます。

仕方ないので時々は努めて苦い顔を作っていますが、我ながらおかしくて耐え難く、

講義の真最中に吹き出してしまうことがあります。当地は非常に人気の穏やかなところ

なので、決して教師を愚弄するとか抵抗するとかいうようなことはなく、叱ればすぐに

静かになりますので都合はよいと思います。前述のように暇さえあれば運動している

せいか色は黒くなりましたが体は大変壮健になりましたので、この点についてはご配慮

はご無用です。またここはとても質素な土地なので教師間の交際などに金銭は少しも

いらず、したがってご心配になるような場所へは決して近寄りもしません。学校の規律

はなかなか正しいので教師一同こぞって謹直な人ばかりという様子です。それにどうも

彦根には語るに足るようなのはないだろうと思うので、意地悪な油断のならないような

者の筆先に乗るようなどじはしないつもりです。学校では丹後の宮津まで行軍の計画が

あるようですが今はまだどうなるかわかりません。明後日は早朝より番場、醒ヶ井、

柏原、果ては寝物語の里(美濃と近江の境)を過ぎ、不破の関谷の旧跡を探って関が原

から帰途に就こうと企てております。興きあることがあったら直ちに管城子(筆)の役

をします。数日前から肩がとても凝って大いに閉口していますので、これほどの長文を

したためるのは大変奮発の至りだとお知りください。あだおろそかにお思いなら天罰が

あなたの座から去りませんよ。毎度ながらお手紙のお言葉は私どものような世間知らず

には魂が揺らいでしまうばかりでございます、あまりにお調子

   六

がよいと、私も人間ですのでどんな狂気が現れないとも限りません。その時に知らぬと

は仰せになるまじきことです。お義理であろうとは思っていますが、あまりわたくしの

ような田舎者をおだててはなりません、この暮れにはぜひぜひ上京していろいろお礼を

申し上げに行きます。

 それにしても恐ろしいのは君の筆、大恩寺前を捉えて丸山の光景を使い、この次は何

を写すのでしょうか。追々お鉢が我々の方にも回り来るのではないかと恐ろしいです。

お力さんとやらはいかにも生きているような心地がいたします。何と言っても文芸倶楽

部第九編の白眉はご高作「にごりえ」でしょう。驚くことに小倉山人(藤森桂谷)と

残花先生の小説は、銭が欲しいとこんなものまで書くのかと悲しいような心地がしまし

た。どうしたって老朽の士はだめです。盛春妙齢の御許様などはますますご奮発なされ

たく、ひたすらお祈り申し上げます。荒物屋のご計算はそれほど差し迫ってお急ぎにな

らなくてもよいでしょうから、そのお暇にご高作をどしどしお見せくだされたく、希望

の至りでございます。君はすこぶる神経質なお方と聞きますが、度々差し上げる手紙で

は不注意な私の無礼な言葉、不当な言葉を少なくしようとしています。常に私が悪意を

持って出しているのではないと信じてくださいますことを願っています。この手紙の中

にも二三失敬なことがあるかもしれませんが、それを塗り消すのもかえって悪いと思い

このままで差し上げますので、悪からず推し量ってお読みくださいますようお願いいた

します。孤蝶がどうして恩に報いる道を知らないことがありましょうか。敬具

十月十一日夜 勝弥

おなつ様

御北堂様ならびに御令妹へ末ながらよろしくお伝え願い上げます。