国会図書館で平田禿木に続き馬場孤蝶随筆を見つけ、一葉部分を大喜びで写している
と、知った話ばっかりだな…手持ちの「明治文壇の人々」を出してみるとやっぱり…
二日無駄にしてしまったが、このところ藤村を読み始め、「春」「桜の実の熟する時」は
2回ずつ読み彼等の青春にはまってしまった。ほか小品や不幸な姉の話、とうとう「家」
に入り、昨晩は怒濤の三人続けて娘を失う場面から目が離せず明け方まで読んでしまっ
た。次は「夜明け前」だ!
はともかく、モデル問題のあったらしい「春」楽しみに写すことにする。
孤蝶随筆
藤村氏の「春」に描かれたる人々
湯本の小菅屋の前の川岸に立つと、向う岸の大石の影あたりから河鹿の涼しい声が
聞える。
箱根へ来たのは十五年ぶりである。が、この辺りの山の姿は元より、水路の具合も
道の広さも全く旧態を存している。四千八年前の洪水で川中の様子の甚だしく変わった
のは、塔の沢から上であって、木賀の亀屋の当たりなど、昔のような急湍雲を吐く趣は
最早見られ無くなった。
とにかく、塔ノ沢のところは、川中の様子までそうは変わって居無い。一石一岩の
位置まで何だか昔のままであるような気さえする位なのだ。
箱根の温泉を始めて知ったのは、最早二十六年程前のことである。それは八月の十日
頃であったかと思うのだが、親族の者が病気で、それに連れられて塔の沢の鈴木へ来た
のであった。その親戚の者の病気見舞いにいろいろな人が訪ねて来た。大石正己氏と、
尾崎行雄氏と、犬養毅氏とが連れ立って来たこともあった。三氏は代わり代わりに将棋
を指した。
面白いことには、所謂る苦手というのであろうか、犬養氏と大石氏と指すと大石氏が
滅茶滅茶に負ける、犬養氏と尾崎氏と指すと犬養氏が手も無く負ける、所が、その尾崎
氏が大石氏に対すると殆ど敵で無い程に大石氏が何時も優勢である。
大石氏は、落ち着いた如何にも意地の悪そうな声で、尾崎氏に「君のは将棋を指すの
ではなくて将棋を引くのか?」と云うと尾崎氏は真面目な顔で「悪口を云うね」と云い
ながら、駒を退却させて居るのであった。大石氏は「尾崎は犬養に勝つ、然るに吾輩は
その尾崎に勝つのだから、ロジックから行くと、吾輩が一番強い訳だ」と云って、よく
吾々を笑わした。
二十六年はかなり長い月日である。その間に多くの水が流れた。これ等の人々の境遇
はさまざまに変わった。今は皆白頭の人となったこの三氏が、昔のように将棋盤を挿さ
んで、無邪気な冗談口をきくような日が、今もあるか何うか、私は知ら無い。
塔の沢への路は昔と少しも変って居無い。東京からの客が帰る時は私は大抵湯元の
停車場まで此道を送って行くのであった。その時分は湯本国府津間には鉄道馬車が通じ
て居るのみであった。
そういう時は、何時も宿の女中の十六位なのが、一緒に客を送って行くのであった。
それは、背の延やかな、面長の、色の白い、口数をきかぬ、地を如何にも軽く踏んで
行くような歩き方の娘であった。
停車場から帰途は、その娘と二人で何時も黙まって歩いた。明治学院での同窓の或友
の家で温泉宿を持って居るということを聞いたことがあるので、その娘に、その友人の
姓を云って、その温泉宿は何処だか知って居るか、聞いて見た。娘は何とも返事をせず
に歩いて居たが、玉の緒橋を越して、玉の湯の前を通る時に、垣根のような処から右の
手に持っていた自分の袂を桂(?)げるようにして、家の中を覗くようにしたが、直ぐ
私の方を向いて「此処です」と、低い声で行った。
この娘が二十六年の夏、即ち、島崎藤村氏の「春」の始めに描かれている時代には、
見違えるほど大きくなって居た。これが「春」の中の菅時三郎が恋したお君という娘で
ある。実の名はお千代、お君というのは、私が明治二十七年に雑誌「文学界」に載せた
「流水日記」で用いた名である。
藤村氏は入念な人である。「春」の中の人物の名は、それぞれ所由のあるものを用い
て居る。菅の恋人の名に私の付けた名を重ねて用いたのは、藤村氏のそういう用意の
一つであるのだ。
「春」の中の足立弓夫というのは、私のことだ。私は明治二十四年の十二月から高知
市の共立学校という私立の英語学校の教師に雇われて行って居た。島崎氏が高知まで
私を尋ねて来て呉れたのは二十六年の二月の末頃であったかと思う。「春」には土佐を
伊予としてあるのだ。
藤村氏からは岸本捨吉のようなことを告白されたことを覚えている。「春」には、
岸本の恋人を「盛岡岡」と呼んで居るのだが、これは「仙台」位なところでは無かった
ろうか。「春」で勝子となって居るその娘は、東北の代議士の女で、兄は今或る博士に
なって居る人である。
一度くらいは見たことはあるかも知れ無いが、何ういう風の人であったか記憶して
居無い。唯、当時連中の中ではその娘をオフィリアと呼んで居た。これから推すと、
その娘は慎ましやかな気の弱いように見える娘であったのであろう。
これは岸本に恋していたと見て宜かろうと思われる「西京」というのは「神戸」で
あったように聞いている。この女は夫を持って明治四十年には大久保辺に住んで居た
ように聞いた。
大久保に藤村氏が住んで居た時分のことであるが、藤村氏が、
「………此処に住んでいるので、遊びに来いと、人伝に云って来たのだが、行か無かっ
た。家のやつの思わくもあるのでね………」と云ってから、少しきまり悪そうに、
「ジイラス(ジェラスか)・テンパアなんだから………」と苦笑した。
それを聞いた秋骨氏も私も、一緒に笑った。「春」の時分であったら、吾々の方からは
「ヨウヨウ」位な声を掛けたのであろうと思うのだ。
「春」の女学校は当時下六番町に在った明治女学校である。「春」に関根とあるのは、
巌本善治氏のことである。秋骨氏も、藤村氏も、星野天知氏も、北村透谷氏もその学校
を教えたことがあるのだ。明治女学校は極めて進歩主義の女学校であった。現今の女子
大学などよりは遥かに活気のある学校であったように思うのだが、一つは国民の一部に
飽くまで進んでみようという機運が未だ衰えて居無い時分であったからでもあったろう
と思われるのだ。
巌本氏の「女学雑誌」は、当時の思想界には可なりな勢力を持って居た。
雑誌「文学界」は始めはその「女学雑誌」から分派したものと云って宜いのである。
明治二十五年になると、「女学雑誌」が著しく文学趣味を帯びだして、文学付録を
附けるまでになった。星野、島崎、戸川残花その他の所謂基督教文士が筆を執ったので
あるが、それ等の文士の主張が巌本氏の宗教的信念と甚だしく相容れ無いことになった
ので、それらの文士連中は、自由に自己の主張を言明すると同時に累を巌本氏に及ぼす
処の無いようにし度いと云うので、星野天知氏が金を出して、「文学界」という雑誌を、
明治二十六年の一月から出したのであった。
執筆者の顔振は、星野天知、戸川残花、北村透谷、古藤庵無声(藤村氏)、平田禿
木、これに時々田辺花圃女史(今の三宅夫人)が寄稿することになって居た。編集その
他経営の仕事は、星野夕影(工学士星野男三郎)氏が引受けていたのだ。樋口一葉女史
の「雪の日」が出たのは、「文学界」の第三号位であったかと思う。
何しろ、皆若い連中であった。残花氏は別格であったので、これを除いて、天知氏が
一番年長で三十位であったろうか、透谷氏は二十六、島崎氏が二十二、秋骨氏が二十
四、禿木氏が二十一であった。秋骨氏は楼月という名で書いた。
「春」には大伝馬町とあるのだが、星野氏の家は砂糖問屋で、本町三丁目、現今の
博文館の編集局の真向位なところに在ったと記憶する。「春」の(二十)には、(略)
とあるのだが、「文学界」の編集はその通り星野氏の本町の家で編集されるのであった
のだ。「春」の岡三兄弟は星野兄弟のことであって、清之助は男三郎氏のことである。
島崎氏は「男三さん」と呼んで居た。天知氏は鎌倉…「春」では大磯…に別荘を持って
いて、東京には居無いことがある為めもあって、前に云った通り「文学界」の用事は
多く男三郎氏が扱っていた。「春」の(二十)の終りに近いところにある清之助の描写
は、実際の男三郎氏の面影を紙上に躍如たらしめて居る。
「春」の始の方にある岸本等四人が泊ったという湖畔の宿屋というのは、元箱根の青木
という小さい宿屋であった。
十五年程前に湖畔まで行ったことはあるが、その後の変遷は更に知ら無い。しかし、
絵葉書などで見ると、この辺も此の頃は余程開けたようである。湖沿いの宿屋が、湖の
眺を余程善く使った家の建て方をして居るようである。
が、明治二十六年頃には、まだ彼の辺は開け無かった。青木などでは、宴会まで附い
て一日五十銭になるかならず位であったろうと思う。今で考えると、まるで嘘のような
安さであったのだ。
藤村、秋骨の両氏の居たその宿へ私が尋ねて行ったのは、八月の十日頃であったろう
かと思うのだが、その翌日あたりから雨が太く降り続いた。湖面には見る見る深く霧が
立ち籠めて、数町の前面の権現の森さえ見え無くなって、霧の裡から打ち寄せて来る波
は、広さの際涯(さいがい・果て)のない海からでも寄せて来るもののような気がした
のであった。
藤村氏も、秋骨氏も、学校(明治学院)時代とは、最早余程変って居た。要するに、
両氏とも余程さばけて来て居たのだ。明治学院時代には、藤村氏などに、通りがかりの
車上の女を見て、なかなか別嬪だねなどと囁こうものなら、殆ど睨め付けぬばかりに、
厭な顔をされたものであった。その藤村氏が青木ではかなり陽気な調子で女のことを
話すのであった。艶福という言葉が両氏の口からよく出た。誰某は艶福家だとか、誰某
の艶福というのはこれこれだという風に云うのであったのだ。斯ういうと、両氏をのみ
怪しからん者のように云うようであるが、両氏のそういう変り方に勢いを得て、私自身
が大分両氏に聞かせたことがあったことは勿論である。
その時隣の座敷には、一組の泊り客があった。女の方は最早四十近くだろうかと思わ
れる声の、東京弁であり、男の方は少し年下であろうかと思われた上方弁の声であっ
た。男が大阪では番地と云うことは無くって、何処の何番屋敷と云うのだと云うと、女
は余程侮蔑した調子で、其様なことがあるものか、番地というのが無い筈が無いという
ようなことを云う、すると男の声が甚く気色ばんで、これ此の通り何通もの葉書に何れ
だっても何番屋敷と書いて無いものは有りはし無い、さアこれは何うだと云うのだ。
女は、如何にも鋭ったような声で、「ふん為方が無い負けてやろう」と云った。我々は
女のそういう声を襖越しに聞いて、顔を見合せてクスクス笑わざるを得無かったので
あった。夜遅くなってから、男の泣いて何事か訴えるような、述懐するような声が聞え
た。言葉は何とも聞き取れ無かった。その時は女の声は少しも聞え無かった。声の様子
では女は何うも芸人らしく思われた。此の曰く付きらしく思われる男女は何ういう者で
あったのであろうか。何うして、元箱根のような不便なところへやって来たのであろう
か。唯声を聞いたのみで姿は見ることができ無かった。多分その朝その二人は発って
しまったのであろうと思う。
藤村氏等と一緒に山を下ったのは、八月の中旬であったと思う。新道をば下って
来て、塔の沢で泊まった。「春」にある「千歳橋の畔にある温泉宿」というのは、環翆
楼という鈴木のことである。
「往来の方へ向いた二階の一室へ案内された。庭の池へ落ちる筧の音は早川の水音と
一緒になって、涼しい雨を聞くような思いをさせる。山の上から下りて来て宿の浴衣に
着更えた時は、三人蘇生ったような心地になった。」と「春」(十一)にあるのである
が、全くその通りであった
「春」の(十)から(十一)に亘って、藤村氏は温泉宿の描写をして居るのだが、藤村
氏は「春」を書くに先だって、箱根へ行ったことがある。(十一)の始めにある女中が
二三人で話をして居るところなどは、何うも意味が私には解り兼ねる。彼れは、藤村氏
が何時得られた材料に基づいたものなのであろう。
現今では、鈴木はだんだん家を建て増して、全く大廈高楼の感を有して居るのである
が、「春」に描かれて居る時代には、鈴木はまだそれほど大きくはなかった。三階は
無かったと思う。
「春」に描いてある事柄が事実そのままで無くとも、それは一向差支の無いことでは
あるが、藤村氏が何ういう材料に依って「春」を組み立てたかということが明らかに
知れれば、吾々の興味はますます加わるのであるから、私は此処に、藤村氏は明治四十
年頃の鈴木と「文学界」時代の鈴木とを絢(?)い交ぜて「春」の中の温泉宿を書いた
のでは無かろうかという推測を加えて置く。お君、即ちお千代の家元というのは、小田
原から熱海へ向う街道の振り出しに当る早川という村であった。家はその村の中程の
右側であったと思う。
私は、鈴木の主人善左衛門と一緒に、その家へ尋ねて行ったことがある。お千代は
今は最早何処かの人妻になって居ることであろう。
四十三年あたりの洪水からであろうが、早川の川尻が幾つにも分れてしまって、早川
の村へ入るまでには橋を三つ渡ら無ければならなくなって居る。十五年前には畑の中に
立って居た清光館が今は家に取り巻かれて居る。鈴木に長く居た此の家の長女は台湾の
某高官の妻になって居る。
お千代のことでも聞こうというのは鶴屋の内儀さんのみであるのだが、急いて居たの
でそれにも逢わずにしまった。
善左衛門は中気になったというのである。これも見舞い度いと思ったが、意を果たす
ことができ無かった。
秋骨氏とはよく一緒に箱根へ行ったものであった。その時分には鈴木が今の小田原の
養生館を持って居た。それは鴎盟官という名であって、その西隣に伊藤博文氏の滄浪閣
があったのだ。
最早これで許された紙数が尽きたのであるが、もう一枚容赦して貰って、「春」の人物
のモデルの名だけを云って置こう。
青木駿一は北村透谷(門太郎)氏であり、菅三郎が戸川秋骨(明三)氏であり、市川
仙太が平田禿木(喜一)氏であって、家は伊勢町一番地の絵具問屋であったのだ。岡見
兄弟が星野兄弟である事は前に云った通りである。菅の従兄の栗田というのは故大野
洒竹(豊太)氏であり、福富というのは故上田敏氏であり、堤姉妹というのは、樋口
一葉氏姉妹であり、菅千春は戸川残花氏であり、陶山というのは山路愛山氏であり、
菅の伯母さんというのは故横井玉子氏である。「文学界」時代には女子学院の幹事で
あったのだが、後は女子美術学校の幹事になって居るうちに、胃癌で亡くなった。
北村透谷氏の家であった元数寄屋町の家は勿論代は変って居るのだが、今も尚煙草屋で
ある事は昔の通りである。
岸本の恋人の本名は覚えてい無い。姓には藤という字が附いて居たように思う。古藤
庵の藤、藤村のふじがそれから来たものだか、何うだか、それは知ら無い。
あらら…どうでもいいことばっかりだし、全然関係ない話には落ちがないし、文章に
癖があって写すのも面倒だし見苦しい。孤蝶推しの私でもがっかりでした。