今日の川

 1か月半以上ぶりに川へ来た。暇もなくなってしまい、休みは海へ行く気もないほど

不愉快続きだったり、天気が悪かったり。で座業と引きこもりのため腰がやばくなって

いたので、今日は曇って爽やかな風が吹くウォーキング日和でもありやっと出た。

 先日地元の鳥写真展を見に行くと、数年前セイタカシギが7月に20羽ほどいた記録が

あったのでそのつもりでいたら皆無であった。ハマシギやバンまでもいなかった。

 以前ギンヤンマみたいなオニヤンマがいて、それが新種のアマミオニヤンマらしいの

で、また見たくて行くが2匹(回?)しか見られず、写真を撮るにも超快速。このまっ赤

なトンボはじっとしてくれるのに…タイリクショウジョウトンボというらしい。

 大うなぎがたくさんいたようだが撮れたのはこれだけ。波紋だけがあちこちで湧き

上がっていた。大きな鯉や普通に食べられそうな感じの魚などもちらっと見えた。

 ピント合わなかったが、リュウキュウヒヨドリかな。内地と違って冬ではなく夏よく

見るが留鳥らしい。

 クロサギ?気がつかないうちに逃げるので、去っていくところを慌てて撮るのみ。

 ここでは意外と見ることが少ないカモメ。

詠草補遺

 1982年弥生書房より出版、これは2000年、改訂版ではなく少し手を入れただけとの

ことであるが、最初の父方の歴史部分には度肝を抜かれた。外国人の新説を参考にした

とのことだが、ある農場主夫婦が黒髪少年を拾ってきてかわいがるので、息子たちから

いじめられ…ってヒースクリフじゃん!後に復讐してその農場を手に入れたって…その

娘を誘惑したって…あんまりだ…時々外人にはすさまじいファンタジスタがいますね。

先日もエミリの日記という本を見つけて勇み立ったが、調べると研究者である作者が

たどり着いたエミリの真実を空想で書いたとか無理。それはともかくとして日本語で

手に入る大体の伝記を読んだ中でも新しく知ることがけっこうあっておもしろかった。

訳詩も超訳かもだけれど、古めかしくて感じが出ている。大基本のギャスケル夫人が

書いた伝記を読むべきなのだが、偏見ありだとか新説のいろいろを先に読んでしまった

ので、もういいかななどと思うのは不遜かな。ブロンテ姉妹コンプリートという英字版

電子本が出回っていて、まず読ま(め)ないだろうけれどあまりに安いので購入するか

悩んでいる。エミリの訳詩と読み比べたくて英詩のHPを開いても、対応する詩を探すの

に手間取るくらいなのに…。

 一葉の句はこれで終わり。残りは歌会の記録なのでぼつぼつ見ていくかな…

 

  きりぎりす 鳴く声寒くなりしより 賤が衣打たぬ夜もなし

  うば玉の 夜半の枕に聞こゆなり 秋風寒き初雁の声

  うち渡す 梢も見えず夕霧の 立ち隠したる川づらの里

  飽かず見し 千草の花も吹く風に うら枯れ渡る秋の暮れ方

  さらぬだに 暮れゆく秋のさびしさを 添へても降るか夜半の村雨

  いつしかと 庭の紅葉に白菊に 置く霜白く冬は来にけり

  刈り果てし 門田の面に霜見えて ひた(引板:鳴子)の音寒くなれる冬かな

  山里は 早く暮れぬと見しほどに 時雨るる空になりにけるかな

  むら時雨 やがてもよそになりにけり 高間の山に降ると見えしが

  遠山に 雪気催す風寒み 月の光のもの凄きかな

  払ふべき 木の葉も今はなき山の 月に吹きしく木枯らしの風

  あら玉の 年立つ今日を寿ぎて 友もろともに祝う楽しさ

  春待たで 軒端の梅の二つ三つ はや咲き初めて香に匂ひけり

  吹く風に 匂ひゆかしく梅の花 雪の下よりほころびにけり

  薄氷 解くる汀(みぎわ)の雪消えて 今朝吹く風に梅が香ぞする

  あら玉の 年の若水汲み初めて まづ父母に奉らばや

  この朝け 鳴くうぐいすの声のして 春立つ空ぞのどけかりける

  雪消えし 野辺の霞にたなびかれ 里の乙女子若菜摘む見ゆ

  年ごとに 疾く咲く庭の梅の花 一枝折りて甕に挿さばや

  空はなほ 春とも見えず風さえて 雪の花散る庭の笹原

  うぐいすの 初音と共にうち解けて 岩間の氷動き初めけり

  つれづれを 訪ふ人もがな春の夜の 軒端に雨の音ぞさびしき

  我が宿の 軒端を渡る夕風に 匂いこめても梅散りにけり

  春はまだ 浅き垣根に若草の 色珍しく萌え出でにけり

  寝ながらに 聞くものどけし挿し櫛の 暁起きの鶯の声

  梅香る 垣根に白む暁の 月に鳴くなるうぐいすの声

  雪折れの 声のみ聞きし山の端も かすみ初めたる夕月の影

  舞う蝶の 羽風にさへも匂ふかな すずな咲きたる小山田の里

  何ごとも つらきすくせ(宿世)をしのぶにも 夢は心にまかせざりけり

  ここかしこ すず菜の花は咲きにける 垣根に種を誰がこぼしけん

  桜散る 池の玉藻にみ隠れて まだしのぶ音に鳴くかわづかな

  咲き匂ふ 花はさやかに見えながら 夕の月夜おぼろなりけり

  咲き続く 花の雲間を漏る月も あはれおぼろに影更けにけり

  なつかしき 花のありかを知り顔に 吹き送りけり春の夕風

  うち集ふ 人の心も晴れゆきて 袂のどかに春風ぞ吹く

  むら雨は 晴れて月夜になりつると 見しは垣根の空木なりけり

  夏もなほ 寒き谷間に白妙の 雪と見るまで咲ける卯の花

  池水に 移ろふ見れば庭松の 千歳を共に住まんとすらん

  千代ふ(経)べき 気色もしるく見ゆるまで 抜け出でにけり庭の若竹

  うないらに 折り残されし竹の子の 憂き節知らで伸び立ちにけり

  風渡る 岸の柳のうちなびき 端居涼しき川面(づら)の宿

  夕月夜 いささ小川に影見えて 夏としもなき風の涼しさ

  朝露の 置き余りたる袖垣に 濡れてほほ笑む常夏の花(撫子)

  夕立の 名残り涼しき庭の面に 光も清く映る月かな

  をとめ子が 招くうちわにそこはかと 蛍飛び交う川面の里

  昨日今日 ふところせきまで茂りたる 庭の夏草いざや刈らまし

 

  我ながら などさも迷ふ心ぞと 思ひながらも思はるるかな

  あすか河 明日は知らねど水色に 今日は咲きたりあじさいの花

  世の中に 流れて後は知らねども 我が山清水清くもあるかな

  みなと川 同じ瀬にこそ立たねども 消えし越路の行き遅れめや(題:義貞)

  珍しき 声ならなくにほととぎす ここら(たくさん)の年を飽かずもあるかな

   

  さらばとて 立ち出で難し月が瀬の 梅の盛りは告げて来つれど

  梅の花 我に便りの風ならば よその軒には通はざらまし

  誰が宿の 花の便りぞ夕風に 心ときめく梅が香ぞする

  山の端に 入る日の返し空照りて 麓の花もまださやかなり

  夢路には 夜も見つるを山桜 夕暮れぬとて別るべきかな

  

  うぐいすの 声盛りなる山里も 残れる花は少なかりけり

  我が宿の 池の藤波立ち返り 雨降る今日は見る人もなし

  埋もれ居の 埋もれて過ごす春の日を おもしろげにも鳴く蛙かな

  一枝の 花に集めて見つるかな 待ちし幾日の心尽くしを

  宵闇は たどたどしきを庭桜 月待ちてだに散らば散らなん

  老松の 落ち葉ばかりぞ浮かびける 澄み透りたる山の井の水

  絶え絶えに 落つる筧の水の音も 心澄みては寝られざりけり

  我が宿は 三輪の山もとならなくに 過ぎ難しとて人の訪ふなり

  敷島の 歌の荒らす田鋤き返し 昔の春は誰かみすらん

  玉だれの をすの隙影ありながら 隔て心を見する君かな

  住吉や 田蓑の島の春雨に 濡れて匂へる山吹の花

  もしほ草 うち返されて今さらに 波の寄るべもなくなりにけり

  あづさ弓 春の行く日か降る雨の 軒端も暗くうちかすむらん

  敷島の 大和ますらをにえ(贄)にして いくらか得たるもろこしの原(新領地)

  今はとて 絶えんとすればはかなくも 寄り来て見するささがにの糸

  しのぶ草 いかでか根さへ枯れ果てむ 下葉の色に秋は見ゆとも

  かげろふの 夕影待たぬ身を知らで 明日とも人を頼みつるかな

  昔見し 草の原とやふるさとの 大路に立てり松の一もと

  

  山陰は まだ夜深きを庭つ鳥 明けぬと鳴くやいづこなるらん

  心疾く 咲ける梅かな雪降りて 世はまだ寒き年の始めに

  草も木も 水に浸りて大雨の 後の景色の凄まじきかな

  秋もまだ 扇の風を頼むまで 露のひる(乾く)間は暑けかりけり

  あま衣 誰を恨みの袖ならむ しほたれがちの袖の色かな(お題:尼)

  今さらに うきは返らであま小舟 なま浮かびなるよや渡るらん(同)

  心にも なき偽りはなかなかに 我が売りものの花にざりける

  かくばかり 恋しきものか春霞 立ても居ても面影に見ゆ

  夢路にて 夢と知りせば思ふこと 心のままに言はましものを

  白露の 心もかかる花なれや 起き出づるやがて見ぬ朝もなし

  春の野に 漁るきぎすの草若み(丈が低い) 隠れなきまで名は立ちにけり

 さをしかの朝伏す小野の草若み隠らひかねて人に知らるな(万葉集)

  嬉しさを 包み余りし袂より 漏れて浮き名や空に立ちけむ

 

  萩ききよほ(桔梗) 思ひ思ひに取りなして 野辺に一日を送りつるかな

  思わずも 一日をここに送りけり(下の句欠)

  思ふどち あくがれて越し秋野にも いつかは暮れて月になりけり

  よしやさは 月になるとも八千草の 花咲く野辺は立たれざりけり

  花薄 招く手振りに誘われて 野辺に一日を送りつるかな

  ほのぼのと 見ゆる尾上(山や丘の頂)の暁に 鐘の音するはいづこなるらん

  寝覚めせし 夜半の枕にかすかにも 聞こゆる鐘はいづこなるらん

  寝覚めして 岩井の水の音聞かば 結ばぬ(?)夜半も涼しかりけり

  木枯らしの 吹く音寒き冬の夜は かけても君の恋しかりけり

  かきたてて みれどあとなく消えにける 爐(いろり)火の近の今は恋しき

詠草四十四 四十五森のくち葉 四十六 四十七うたかた

  行く水の ゆいて帰らぬ年月に 思うことのみなど淀むらん

  人心 憂しと言ひしは昔にて つらきも今は恋しかりけり

  枕とて 草も結ばぬ旅ながら 露ばかりなる夢を見しかな

  草枕 憂さや忘ると見し夢の やがて重荷となりにけるかな

  葦間より 雲井遥かに立つ田鶴の 隔たりゆくか君が心も

  見送らん 人の姿もぬば玉の 闇の別れは苦しかりけり

  更けぬとて 山の端出でる月影の 有明の空はいづこなるらん

  逢ひ見ても 見ても逢はんの頼みこそ 絶えぬ命の玉の緒にして

  ふるさとの 花見急ぎて帰るらん 友も待ちあへぬ春の雁が音

  梅の花 散るを見しよりうぐいすも 常盤の松に思ひ変えけん

  いざさらば(さあ、それでは) 花見のつれやもよほさむ(仲間を集めよう)

   遅しといひし桜咲きたり

  咲きなばの 契りはあれど初花は 友のもとへもやられざりけり

   今年三月花開きて取る筆いよいよ忙がはし、あわれ此のこと終わりかのこと果て  

  なば一日静かに花見んと願へども、嵐は情のあるものならず一夜の雨にも木の元の

  雪おぼつかなし、つくづく思ふて雪仏の堂塔をいとなむに似たり

  風吹かば 今も散るべき身を知らで 花よしばしともの急ぎする

  ぬば玉の 夢の浮橋渡る間は 世にあるものと思ひつるかな(故人を夢に見る)

  つくづくと 打ち(見)守りてもあられねば さし向かふこそ苦しかりけれ 

  我のみか 人の心を沖つ波 打ち出でかねてこひ(越え・恋)渡るべき

  手に摘むは 似合わしからずなりにけり 春野の小草ゆかしけれども

  今さらに 子の日の野辺の小松原 ひかれて我も若返りぬる

 新年初の子の日に野に出て若菜を摘んだり、小松を抜いてその長寿にあやかる 

  思ふこと 少し洩らさん友もがな 浮かれてみたき朧月夜に

  何ごとの 思ひありやと問ふほどの 友得まほしき春の夜の月

  咲く花に 人は狂ひて見返らぬ 山下庵の春の夜の月

  小柴垣 我が庵ながらおもしろし 花散りかかる春の夜の月

  ほととぎす 思ひもかけぬ初夢を ひが耳かともたどりつるかな

  あれ聞けと 人呼び起こすほどもなし 初ほととぎす夜半の一声

  ともし火に 衣うち着せて見つるかな 簾にすがる窓の蛍を

  引き捨てし 閨のつまごと影見えて 伊予簾の外を行く蛍かな 

  涼しさも 世の人知らぬ宿ならめ 月に吹き添ふ竹の下風

  呉竹の 葉越しの月も移り来て 窓の夜風は夏なかりけり

  蓮(はちす)葉は うきはばかりに見ゆるかな 五月雨晴れし庭の池水

  朝風に 露散る池の蓮葉は 花に劣らずゆかしかりけり

  夏去れば とらぬ人なきかはほりを 世に扇とはうべもいひけり

 夏が終われば顧みる人もない蝙蝠を、扇(蝙蝠扇子)とはよくいったものだ

  取り出だす 去年の扇の写し絵は 昔ものにもなりにけるかな

  まほ(帆)揚げて 走る千里の舟足も 止むる錨の軽からぬ身や

  何方に ふなどまりせん錨綱 苦しき世のみ倦み(海)渡りつつ

  

  稲妻の 影もの凄く鳴神(雷)に 近づきぬらん夕立の雨

  立ち覆う 雲の景色も見る見るに 雨降(り?)くべし鳴神の音

  中垣は 竹の荒垣一重にて 汲まれぬ水の音ぞ涼しき

  涼しさも 隣の水の音なひ(響き)は よその宝の心地こそすれ

  たか(竹)むしろ 子らに敷かせてふしまち(秋)の 月影涼し蓬生の宿

  板びさし 荒れて漏り来る月影に 映るも涼し夕顔の花

  巻き上ぐる 乙女が髪はます鏡 移り行く世の姿なるらし

  美しき 妹がすさびの髪上げは こと国ぶりもゆかしかりけり

  花はちす 開くを見んの競いより 早くも覚めしあさぼらけかな

  青桐の 葉に置く露のあしたより 鳴くひぐらしの声ぞ涼しき

  よそながら 馴るる日数の数々に われ思うこと君知るらめや

  籠の内に 飼いつつ馴らす小雀の 慕いて人の来るよしもがな

  五月雨に 庭の池水あふれつつ 行方知らぬ恋もするかな

  鳴神の 音さえ添へて降る雨の にはかに人ぞ恋しかりける

  しのぶ山 下の通ひ路現れぬ 木の間の露に袖濡れしより

  今さらに 絶えなばいかが片糸の 来る人ありと知られ初めしを

  玉ぼこの 道の人目も厭はれぬ 闇をばやがてこの世ともがな

  何となく 伴われゆく心かな 入るさの月の山の崖路

  憂き人の つらさに懲りし心とも 思ほえぬまで思ひ乱るる

  絶えにけり 今はまことに玉の緒の 逢ひても人の見返らぬまで

 玉の緒:玉をつなぐ糸:切れやすい、絶える、短い=命、長いの意味もある

  いみじう人に憎まれて、彼は西行法師がいわゆる骨にて造りたる人のたぐいなる

 べし。形は人の様をしたれど情の無ければ歌詠むとも文作るともさらにそのせんある

 ことなく破れたる笛を吹けるに同じ。その声をなさずその調べ調うことあたはじなど

 いひふらす人侍るめる。よしや世の中かかる身にも榊は緑に花は紅に鳥のさえづり

 おもしろしと浮かるる春もあり。月清き秋の夕べ袂を絞ることなきにしもあらず

 色もなき 深山隠れの檜原 もゆる思ひはありけるものを

  かかるうめき言またこと様に取りなされて、知れたる名をば取りてんも口惜し

 用なき言争いなど引き出さんやは、とまれかくまれ行く水の流れに浮かぶ身なれば

  うない(切り下げ髪)子が 小川に流す笹舟の たはぶれに世を行く身なりけり

  夕されば 山路に帰る白雲の 忘れ難きはふるさとの空

  心なき 雲も山路に帰るなり 寝にゆく鳥の影ばかりかは

  おのづから こぼれて生(な)したね(根)ぞとは 見えぬ垣根の朝顔の花

  なかなかに 荒れし垣根ぞおもしろき 這いまつわりし朝顔の花

  荻の葉の 音にはあらでこの秋は 暑くなりしに驚かれぬる

  何をして 今日まであだに過ごしけん 今年もそよぐ秋の初風

  我が岡の 虫の音繁く聞ゆなり 昼間は暑き草の葉末に

  七種(たね?)の 数々虫も鳴き出でぬ まだ秋浅き庭の木隠れ

  

  虫の声 聞こゆるまでに茂りけり 移し植えたる庭の秋萩

  移し植えし 庭のま萩の初花は まばらなれども嬉しかりけり

  いとどしく 野分の風ぞ痛ましき 植えてほどなき庭の萩原

  秋萩の 花は籬のものとしつ を鹿の声を野辺に残して

  慕い来て 鳴く虫の音もあわれなり 移し植えたる庭の萩原

  折しもあれ 今宵の月にかかりけり ねじけ心の空の浮き雲

  窓の戸を ささば晴れんと待ちならし とばかりかかる月のむら雲

  打ち仰ぐ 空に声して過ぐるなり 便りやいづら(いづこより漠然)天つ雁が音

  我が思う 人は越路に音もなし 今朝初雁の声は聞けども

  寝覚めして 誰聞けよとや遠ざかる 山路の鹿の暁の声

  玉くしげ 明けば山路に帰るらし 小萩が原のさをしかの声

  たゆみゆく 賤が砧の音聞けば 今宵もいたく更けにけるかな

  唐衣 いつまで賤は打つならん さこそは秋の長夜なりとも

   親しき友の新たに司賜りて何がしの縣に赴きたる頃、日毎に雨降りていとつれ

  づれなるに(馬場孤蝶が彦根に赴任して送った手紙を読んで)

  降る雨の 晴れせずものを思うかな 今日もひねもす友なしにして

   人も淋しさの遣る方なければとて、任所に近き野山の名所など暇あるごとに見

  巡るめり。一日逢坂山よりとして汽車待つ間のすさびに文起こしぬ内に蝉丸の社の   

  物寂びたるもゆかしなど書かれたるを見れば、さようならん、縁の端などに仮初

  (かりそめ)の旅姿軽らかにしなしてわらんじなど仔細らしく履き締めつつ尻打ち  

  (こし)かけて矢立の筆は知らしけんさま面影に浮かびておかしく、今見てしがと  

  そぞろに懐かしうさへなりぬ

  よそに聞く 逢坂山ぞ恨めしき 我は雲居の遠き隔てを

 

  世のことは 思いはなれて埋火の かき籠りつつ暮らす頃かな

  猫すらも 外に遊ばずなりにけり 日影も薄き冬のこの頃

  咲き残る 川沿い道のたでの花 枯れ生に見るはさびしかりけり

  漕ぎ出でて さのみもゆかぬ川舟の 影朝霧に隠れぬるかな

  舟人が 手に持つ竿の露の間に 帆の影消えぬ川の朝霧

  ゆく舟の 竿の音すなり見渡しの 川筋遠く霧に隠れて

  立ち渡る 淀の川霧夜を暗み ただゆく舟の人声ぞする

  引く舟の 綱手も見へず呉竹の 伏見の渡り霧に隠れて

  玉の緒の 縒りあ(合・逢)はんとは思ひきや 絶えば絶えよと向ひしものを

  剱太刀 思ひ断ちしを玉の緒の 縒りあふ世にも逢ひてけるかな

  ふるさとに 飾る錦は唐衣 世に勝ち色や着て帰るらん

  久方の 天つ日のもと名の如く 輝かしても君帰るらん

  剱太刀 冴えし霜夜の月影も 今年はいかにのどけかるらん

  いざ知らぬ 人の名さへに断ちにけり 心に込めて恋はしぬるを

  染め初めし 紅葉の陰に遊ぶ日は 冬になりたる心地こそせね

  吹く風の 寒けき冬に入りてこそ 紅葉の色は盛りなりけれ

  我が山の 紅葉残らず染めにけり(下の句欠)

  暮れ果てし 秋をばよそに我が山の 紅葉は今ぞ盛りなりける

  秋も今日 暮れぬと告ぐる山寺の 鐘の響きぞ悲しかりける

  遠くなる 鐘の音聞けば行く秋も 空の暮れぬる心地こそすれ

  つくづくと 眺むる空に響くなり 秋も暮れ行く入相の鐘

  遠くなる 鐘の響きをしをりにて(下の句欠)

  行く秋を 空に誘ひて突く鐘の 響きも遠くなりにけるかな

  宵の間の 月はいつしか影消えて 降りい出したる小夜時雨かな 

  待ちわびて 咲きたる庭の白菊は 残る日数も久しかりけり

  嬉しくも 咲き残りたり菊の花 待ちし日数も久しかりしか

  思うこと ありもあらずも悲しきは 時雨聞き入る心なりけり

  木枯らしの 風音寒くなれるまで また盛りなり庭の白菊

  小夜深み 寝覚めて聞けば閨の戸に またも時雨の音すなり

  うち群れて 漁る雀の鳴く音さえ 寒く聞こゆる冬の野辺かな

  うら枯れし 末の野原のはし(黄櫨:はぜ)の木に(下の句欠)

  冬ぞとは いはでもしるし昨日今日 時雨しぐるる空の気色に

  初時雨 降りて過ぎたるあしたより 世は寒けくもなりにけるかな

  立ち迷ふ 時雨の雲の色見れば 空より冬は立たんとすらん

  冬ごもり 心構えをいざせばや 時雨さへこそ降り初めにけれ

  咲き残る 庭の籬の菊の花 だた一もとも懐かしきかな

  締め結ひし 庭の籬の白菊は 秋より後も盛りなりけり

  木枯らしの 風音寒くなれるまで 垣根に残る白菊の花

  置く霜は 白く見ゆれど袖垣の 菊は匂ひも変はらざりけり

  石とのみ 思ひ捨てめや磨きては 玉となるさへありてふものを

  玉にとは かけても言はじ庭石の 見らるる程の世を経てしかな

詠草 四十一みやぎ野 四十二 四十三した草 四十四

  ただ一木 残る桜の花の色の さびしきまでに春更けにけり

  あさぼらけ かすむ軒端の青柳の 糸のしずくは雨にざりける

  山の端の 入日の名残それすらも ほのかになりて立つ霞かな

  吹く風の 夜寒の里は唐衣 打つ音急ぐ心地こそすれ

  夕烟 なびく里わの小林に 帰るか鳥の声急ぐなり

   陸奥の岩手に友の行くを送りて

  道の奥の いはでぞ今日は忍ばまし 別れ苦しと思う心を

  吹き下ろす 北山おろし見し野辺の 花も紅葉も残らざりけり

  晴れ曇る いづこの空を詠(なが)めけん 月は心の中にこそ住め

  小車の しぢの端書かくてこそ つらき心の奥は見えけれ

  八重草の 花に遊びし野辺見れば 浅ぢが原に木枯らしの吹く

  降る雪に 埋づもれながら山里は 春も待たれずのどけかりけり

  うぐいすの 鳴かぬばかりぞ神無月 我が山かげは梅も咲きつつ

  行く舟の 烟なびかし吹く風に 春は沖より来るかとぞ思う

  何ごとを 語るとなしに玉くしげ 二人ある夜はものも思わず

  明けて待つ 閨の戸口に来ぬ人の 便り聞かんと思いかけきや

  吹く風に 片寄る池の浮草の 絶え間涼しき夏の夜の月

  行く水の 瀬の音高く聞こゆなり 小夜更けぬらし淀の川舟

  起き出でる あしたも早くなくものを 日暮らしとのみいかでいふらん

  夏野行く をじかの角の束の間に 萩咲きぬべくなりにけるかな

  鳴く蝉の 声かしましき木隠れに 知らず顔なる口なしの花

  植え果てし 門田の早苗いとはやも 秋の田のみの面影に立つ

  とにかくに 踏みこころみん丸木橋 渡らで袖の朽ち果てんより

  宇津の山(駿河) うつつにあらぬ夢路まで つらき嵐の驚かすらん

  落ち瀧(たぎ)つ 木陰に響く声聞けば 目に見ぬほども涼しかりけり

  足引きの 山の麓は夏もなし 清水流れて松風ぞ吹く

  さらさらと 吹く風そよぐ若竹の 夜こそ夏は涼しかりけり

  世の中に 流れて後は知られねど 我が山清水清くもあるかな

  踏み通う 我が山川の丸木橋 よ(世?)渡るよりは危ふげもなし

  墨田川 誰が涼み舟さす竿の 馴れぬ手振りもおもしろきかな

  あさぼらけ 涼しき風のこれよりや 身にしむ秋にならんとすらん

  騒がしき 夢のみいかで見えつらん 胸には手をも置かぬものから

  浅かりし 梢も見えき神無月 またや訪ひてん山の紅葉を

  今日もまた 紅葉見にとて神無月 出でたつ袖に時雨降り来ぬ

  世の中に 秋に会はじと遅れけん 一もと野菊思ひ上りて

  冬の野は 菊も紅葉も枯れにけり 一人小松を見るものにして

  吹く風は さすがに寒し紅葉狩り 浮かれ心の小春日和も

  荻の葉の 宿りは枯れてうちつけに 朝窓寒き風の音なり

   今月はと契りける人の音せざければ晦の日遣わしけるということを

  久方の 空なるものを思えとや 月の内にと人の言ひけん

  ひたすらの 枯野といかで思ひけん 冬咲く菊の花もありしを

  尋ね得し 和田のはらから嬉しきは 面影にさへに似たるなりけり

 和田の原(海)にはらから(きょうだい)をかけている

  よそ目には 解けたる仲と見えもせん 言の葉のみの情なれども 

  玉ぼこの 道連れにとは言はざりし 時雨に今日も逢いてけるかな

  初雪は まだ朝霜の心地して 目馴れぬほどのおもしろきかな

  行く水の 流れを追ひて走りけり 世は留まらぬものと知るしる(題:流行物)

  はふりこ(神主)が 庭火の篝影更けて 榊葉白く霜降りにけり

  朝霜は 置かぬ火桶の炭がちに 黒きも寒きものにざりける

  あさぼらけ 向かう火桶の元こそは やがて立たれぬところなりけれ

  新しき 年は立てども冴えざえて 霞まぬ空を吹く嵐かな

  梅の花 咲かぬと告げて誇りたる 垣根は人のものとなりにき

  春霞 重なる君が齢をば 待ち喜びてうぐいすの鳴く

  山里の 友は都に出で果てて 松と二人になりにけるかな

  敷島の 歌の荒らす田鋤き返し 昔の春は誰か見すべき

  我が宿は 三輪の山もとならなくに 過ぎ難しとて人の訪ひ寄る

 我が庵は三輪の山もと恋しくば訪ぶらひ来ませ杉立てる門(古今)

  我が宿の 池の藤波立ちかえり 見る人もなし雨の降れれば

  埋もれ井の 埋もれて過ごす春の日を おもしろげにも鳴く蛙かな

  鳴きしきる 池の蛙のもろ声も 遠く覚えてねぶき夜半かな

  待ち待ちし 心づくしを桜花 この一枝に集めつるかな 

  遅れたる 友のためにとしをりして 谷間の蕨折り残しけり

  あさぼらけ 日影かすみて雲雀鳴く 片山端の桃咲きにけり

  春風は 吹くとなけれどすずな咲く 野辺の小蝶を立たせつるかな

  山桜 あはれまほにも見てしがな 木の間隠れはやましかりけり

  更級や おばすて山の月更けて 我が世の秋は見る人もなし

  我が背子が 昨日舟路に出で立ちし 湊しぐれて雪になりにき

  久方の あまの羽衣それならで 雪降りかかる三保の松原

  

  月影は 昨日の去年のままなるを 人の心やあらたまりけん

  夕月夜 さして変はらぬ柴の戸に 明けぬる年と聞くが侘びしき

  あさぼらけ 軋る車の音すなり 誰か若水をまづは汲むらん

  立ち返る 年の若水名のみして 老ひ行く影の鏡とやなる

   年の始戦地にある人を思ひて

  置く霜の 消えを争う人もあるを 祝はんものか新玉の年

   敵国の様を探りにとて立ち出でし人のはかなき終りを遂げたるも多しと聞くに

  それが妻などの心はとて

  定めたる 方こそあらめ旅衣 身さえ断たれむものとやは見し

   さりながらそれもまた

  うらやまし いづれ消ゆべき露の夜を 野原の嵐たちまさりつつ

   寒き襖かすけき灯火静かにあほいで故郷を偲ぶ時いみじきつわものといえども

 涙は襟に冷たかなるべし

  つるぎ大刀 冴ゆる霜夜の月に寝て 結ばぬ夢の行方をぞ思う

  中垣の 隣の花と見てもなお 折られぬ枝は恋しかりけり

  難波江の あしくはあらじもしほ草 波の返しは待つぞ嬉しき

  夕月夜 軒端に影を見しばかり とまらぬ人のつらくもあるかな

  ささがにの 糸の印のなくもあらず ありとは言はじ人のつらきに

  足引きの 山寺ならぬ鐘の音に 枕押しやるあさぼらけかな

  引止めし 昔の夢をしのぶにも 袖こそ濡るれ暁の鐘

  なにごとを 思ひ浮かべてにほの海の 深き言葉は書き留めけむ(紫式部)

  や(破)れ簾 かかる末にも残りけむ 千里の駒の負けじ心は(清少納言)

 千里の駒:曹休(三国志)自負が強い

  名取川 川瀬の埋もれ木それすらも 世に現るる時はありけり

  願わじな 風の妬みの繁き世に 深山の桜こだか(気高?)かれとは

  長閑なる 雨の夜語り更けぬらし ねぶり顔なる友も見えつつ

  帰るさは 朧月夜の影もあり まどい(円居)のむしろよし更けぬとも

  我が心 渡しも果てず失せにけり 世にはし(端)舟(艀・小舟)は危うかるもの

  松山の 松も限りはあるらむを のち瀬の波やかけて契らん(契二世の恋)

  中垣の 隣の花の散る見ても つらきは春の嵐なりけり

  下にのみ 萌ゆるは苦し春の野の 草の色にもい出ぬべきかな

  春の野に 萌ゆる小草の数はあれど 心尽くし(土筆)は我ぞまされる

  梅の花 咲けるはいづこ吹く風の この頃なべて香に匂ふなり

  山里は おのづからなる香に酔ひて 梅の花見といふ人もなし

  梅の花 咲かぬところは村消の 雲にも似たり月が瀬(奈良:梅の名所)の里

  浮かれては たぬ(狸)も鼓や打ち添えむ 初午祭り声のにぎわう 

 

  さらばとて 立ち出で難し月が瀬の 梅の便りは告げてきつれど

  木のもとを いかに尋ねん梅の花 便りの風は嬉しけれども

  梅の花 咲ける咲かざるとりどりに 風の便りは取る方もなし

  葛飾の 梅の花園それよりも よき木ぞ見ゆる賤が垣根に

  墨田川 幾朝露に濡れつらん 桜の色に袖や染まると

  山桜 花の下ぶし(臥し)寝はみねど あしたの露に濡れぬ日はなし

  朝露の かかるありきもならひつれ 岡辺の桜花ゆえにこそ

  吹く風の 静め難くぞなりにける 塵(散り)ならぬ名も空に立ちては

  我のみの 心浅さにとりなせど 一人は立たぬ浮名なりけり

  濡れ衣は ひる(干す)よ(世)もあらむ名取川 ある名取りしをいかにしてまし

  夕月夜 さすがに人も多からず しのぶが岡(上野)の花の下蔭

  山の端に 入日の返し空照りて 麓の花もまたさやかなり

  夢路には 夜も見つるを山桜 夕暮れぬとて別るべきかな

  花と見し 峰の白雲行けど行けど あとはかもなき恋もするかな

  おさなごの 昔の春に変わらぬは すみれ摘む野の遊びなりけり

  何ごとも 思い忘れて遊ぶらん 野辺の小蝶は我が身なりけり

  ぬば玉の 夜も見つれど山桜 飽くこと知らで散らしつるかな

  いささ川 昨日の春の面影も 返らぬ水にかわづ鳴くなり

  行く水に 春は流れて山川の 瀬の音早く夏は来にけり

  うたた寝の 夢に初めて見てしより 人恋ふ身とは思ひ知りぬる

  我はさは 恋する身なり人ごとに 聞けるが如きもの思ひ添ふ  

  足引きの 山の来隠れ鳴く鳥の 知られぬ音にも鳴きぬべきかな

  風吹かば 峰に別るる白雲の ただしばしなる恋もするかな

  逢うまでの 片身も今はあだなれど さすが疎くは覚えざりけり

  恋しくは 見ても忍べと留めけむ(下の句欠)

  今日も見つ 今日も見つれど白雲の 立ち別るればやがて恋しき

  明けて待つ 月の夜頃も過ぎにけり 何をかごと(言い訳)に起き明かすべき

  今さらに つの目立たんやかたつぶり 這い伏して越し国の使いを

   狂客小山六之助(李鴻章暗殺未遂)

  唐桃の あだ花とてや一筋に 折りたが(違)えたるすさびなるらし

  春雨は 軒の玉水絶え絶えに ことも途切れて夜は更けにけり

  さまざまに 思い乱れて片糸の 夜も安くは寝られざりけり

  涼みとる 人影慣れて更ける夜も 門も(守)る犬は咎めざりけり

  夏の夜は 更けて軒端の人影を 守りの犬も咎めざりけり

  水音も 近く聞えて飛ぶ蛍 行くは野河の上にやあらん

  掲げたる 軒のともし火ありながら 明くる間近し夏のみぢか(短)夜

  ほととぎす 啼きて過ぎ行く山寺の 軒端に高し有明の月

  思うこと 言はねば知らじ口なしの 花の色清き元の心も

  忍び音の 卯月も過ぎぬほととぎす など夜深くは鳴き渡るらむ

詠草三十六~四十

  我のみと 思ひしものをふるさとに 春さへ今日は立ち帰るてふ

  なやらひ(?)の 声も聞こへずふるさとの 春は音なく立ち初めにけり

  うち霞む 都大路の柳原 夕暮れよりや春は立つらん

  打ちつけに 春は来にけり都人 梅ともいまだ言い初めぬ間に

  埋み火の 元を離れて聞きてけり 春と告げたるうぐいすの声

  片鳴りの 声美しく聞こゆなり 春来にけらし庭のうぐいす

  朝ぼらけ かすむ軒端の青柳の 糸のしずくは雨にざりけり

  うち向かふ 外山の花もおぼろにて 春雨かすむ朝ぼらけかな

  花見にと 契りし今朝の春雨に 常より人の待たれこそすれ

  入相の 鐘の音ばかり漏れきつつ 立つや霞の夕暮れの山

  山の端の 入日の余波(なごり)それすらも ほのかになりて立つ霞かな

  見し花の 影消えてゆく春山の 夕霞こそ心細けれ

  春霞 立ち帰れとや山の端の 花の上暗くなりにけるかな

  なびきけり 花咲く山の夕霞 つれなき人もかからましかば

  花咲かば 訪はんと言ひしかねごと(約束)の いつはり見せて立つ霞かな

  なかなかに 曇りもやらで来ぬ人の つれなさ見ゆる春の夜の月

  吉野山 面影ばかり霞みつつ 雪の中にも春は来にけり

  炭竃の 烟かすみて大原や をしほの山に春は来にけり

  降り立ちて 干潟に拾う袖貝は 引き潮にしもなびかざりけん

  大わたの 底ゆかしくもおぼゆるは いつも春なる梅の花貝

  いささ川 昨日の春の面影も 帰らぬ水にかはづ鳴くなり

  たち濡るる 袖いかならむよそながら 見るだにあるを花の下露

  その人の たぐひと思えば桜花 匂へるさへにかなしかりけり

  散りにけむ 人こそ知らね桜花 風吹くからにものぞ悲しき

  待ちぬべき ものとも知らぬ中空に など夕暮れの鐘のさびしき

   よそながら門を過ぎて会わず

  見る目なき うらみは置きて寄る波の ただここよりや立ち帰るべき

  今はとて 替ふる袂の悲しきは 花の別れに劣らざりけり

  来ん年の 春の契りも知られぬを あな替へまうし花染めの袖

  思ひやる 心通わば見ても来ん さてもやしばし忘られぬべく

  いくばくの 涙やこもる水茎の 跡見るさへに袖の露けき

  逢うことは 思ひ絶えたる中空に 待ちしに似たる入相の鐘

  人はさぞ 忘れやしけん年月を ふる(古・経る)の神杉いや繫れども

  人はよも 飛鳥の淵瀬変はらじを ありしに似ざる我や何ぞも

  変はらじよ 変はらじとこそ契りけれ など言の葉の空に散りけむ

  はかなさを 憂き身一つに留むれば 変はらぬ世さへつれなかりけり

 

  世の中は 秋の初めになりにけり いかがはすべき袖のうは(上)露

  幾巡り 空は変はらぬ月影に 照らすも憂しや袖の上露

  なかなかに 捨ても果てざる憂き世なり 秋来るからにものぞ悲しき

  浮き雲の 大方かかる世を知れば かねても待たず望月(十五夜)の空

  いささ川 昨日の春の面影も 帰らぬ水にかはづ鳴くなり

  かはづ鳴く 川沿ひ野原水音の 涼しき夏になりにけるかな 

  

  世の中は 秋の初めになりにけり いかがはすべき袖の上露

  幾巡り 空は変らぬ月影に 照らすも憂しや袖の上露

  なかなかに 捨ても果てざる憂き世かな 秋来るからにものぞ悲しき

  うき雲の 大方かかる世を知れば かねても待たず望月の月

  

  秋深く なりにけらしな朝日影 晴れたる空もさびしかりけり

  村がらす 寝に帰りゆく声すなり あな短かかる秋のひと日や

  もみじ葉の 上のみならで夕日影 移ろふ雲も紅にして

  鶉鳴く 声も聞こえて花薄 招く野末の夕べさびしも

  舟歌の 声うらさびし仮寝する 淀の渡りの秋の夕暮れ

  遠ざかる 心地こそすれ夕霧の いや隔てゆく山もとの里

  思ひ捨てて 入りぬる山の甲斐ぞなき 秋の夕べは袖の濡れつつ

  花薄 招く人さへなかりけり あはれさびしき宿の夕暮れ

  夜は深く なりにけるかな花筐 幼き目さへ覚めがちにして

  いつのまに 降り出でぬらむ小夜更けて 虫の音占める庭の村雨

  路もなく なりにけるかな八千草の 野はいろいろの花に埋もれて

  浅ぢふの 小野の篠原白露を 玉と散らして夕風ぞ吹く

  わたの原 けぶり立て行く大舟の 別れやいかに秋の夕暮れ

  唐衣 打つ音さへも高安の 里(筒井筒)の寝覚めやさびしかるらむ 

  春霞 立ち別れしはいつならん 稲葉の風に雁が音ぞする

  契るらん 幾萬代の春かけて 御園の梅に鶯の声  

  よろづ世を 契り交わして梅の花 香れば歌う園の鶯

  うぐいすの 声の春さへのどかなり よろづ世匂ふ園の梅が枝

  

  もろともに 来て見ぬ野辺の悔しさも 添へてぞ見する秋萩の花

  湊川 同じ瀬に立つ君しもぞ 越路の雪といかで消えけん

  うち日さす 大路の柳かつ散りて 都も秋の夕風ぞ吹く

  夕月夜 影さす岡のま葛原 白きは風に(裏)返るなるらん

  折しもあれ つらき別れの暁に 吹きても行くか秋の初風

  騒がしき 夢のみいかで見えつらん 胸には手をも置かぬものから

  さし櫛の 暁月夜暗けれど しるきは梅の匂ひなりけり

  初若菜 摘まんと思ひし我が岡の 小松が原に淡雪の降る

  別れんと 思ふばかりも悲しきを いかにかせまし逢はぬ月日を

  なかなかの 逢瀬なりけりぬば玉の 夢よと言ひて忘られなくに

  朝月夜 かすみかすみて明け渡る 門田は雨になりにけるかな

  乙女子が 拾ふ干潟の桜貝 花なき袖も春めきにけり

  恨むらん 誰がきぬぎぬの別れ路も 思ひやらるる鐘の音かな

  山陰の 庭のしゐしば(椎柴)白がし(樫)の 人に見らるる夏は来にけり

  飛ぶ蝶の 袖も軽げに見ゆるかな 若葉を渡る庭の朝風

  蓬生の 垣根のかなめこの夏は 隙間も見えずなりにけるかな

  隔てても 同じ隣の庭松の 高ぶりてのみ見ゆる宿かな

  中垣の いつ打ち解けて物言はん 面馴れながら年を経ぬるを

  なかなかに 選ばぬ宿は蘆垣の 悪しき隣もよしや世の中

  春の日も ただかばかりや残るらん 若葉の奥の山桜花

  花陰に 遊ぶと見つる夢こそは やがても春のうつつなりけれ

  そのかみを 仰ぐ軒端の村雨に 濡れても鳴くか山ほととぎす

  ほととぎす 鳴かぬ年のみ多ければ 聞きつというも疑われつつ

  植え果てし 門田の早苗いと早やも 秋の田のみの面影に立つ

  風寒き 我が山里の遅桜 遅れたりとも知らで咲くらん

  手に結ぶ 垣根の水の細流れ 細きも夏の命なりけり

  世の中を 憂しと更に知らざらん 力車を引くも悩まで(題:牛)

  桂川 鵜舟の篝絶える夜に さし替わりぬる月の影かな

  刈り初めし 野川の岸のまこも草 さみだれてのみ日を重ぬらん

  あやめ草 軒に葺きしは昔にて 花にのみなる世にこそありけれ

 (節句に魔除けとして軒や髪に挿した)

  いささ川 魚の躍るも見ゆる夜の 月には夏を忘れつるかな

  ねぶりけり 誰が常夏の花ぞとも 知らでや蝶の我がものにして 

  今日こそは 刈らんと思う庭草の 茂みにねぶる蝶もありけり

  立ち出でて 影も見てまし夕月の ほのめく方にくいな鳴くなり

  秋咲かん 花の種のみ残し置いて いざや刈らまし庭の夏草

  手に摘みし うら若草は昔にて 刈り払うまでなりにけるかな

  よし玉は 拾わぬまでも和歌の浦の 蛍をだにも取らんとぞ思う

  蘆の葉に すがる蛍の影ばかり 見えて今宵も五月雨の降る

  宵々に 変わる木の間の月を見て 同じところに涼みつるかな

  

  夕されば 荻の上葉に吹く風の そよ音にたてて虫も鳴くなり

  夕月夜 一人は影の惜しかるに 来や友をかもまつむしの声

  忍びあまり 虫も音にこそ出でつらめ 一人眺むる宿の夕暮れ

  風そよぐ 夕べの野辺の小萩原 入日薄れて虫の音ぞする

  鳴く虫の 声へいづこと庭草の 露にも濡るる夕まぐれかな

  思うこと ありとは言はじよそにても うとまれぬのみ思い出にして

  いかさまに 思い初めつる心とか 忘れぬものを言はれざるらむ

  あまりにも 馴れたる仲は思うこと あらたまりても言われざりけり

  さし櫛の 暁寒き風の音に 出ても見つる庭の萩原

  暁の 露の濡れ衣着てもみつ 雄鹿のつまの秋萩の花

  さおしかは いつ別れけん小萩原 まだ暁の月は残れり

  小萩原 なびかすほどの風もがな まだ暁の霧の深きに

  降る雨の 寒くやあらんきりぎりす 今宵は壁の内に鳴くなり

  来ん人の 今は待たじの雨の夜に 名乗りもつらき虫の音ぞする

  呉竹の 夜長き秋と知りつるは 身に憂き節の添ひてなりけり

  八千草の 花咲く野辺に舞う蝶も つばさし折るる露はありけり

  虫ならば 音に現れて見えもせん 濡るる袂はただ一人のみ

  みしめ縄 かけても人は思わじを いつまで祈る心なるらむ

   契りて断ちける男思い出で、今よりはあだなる心あらじなど言いければ

  遣わしけるということを

  契りしも 跡なき風の訪れは うわのそらごとまたも聞けとや

   親しき人の失せける比(日?)草葉の露を見て      

  吹く風に 草葉の露の散る見れば 遅るると言ふもただしばしなりけり

   友なる人の尼になるよしいひて侍りければ

  思い入る 山路やいづこみ吉野も 咲き散る花の同じ憂き世を

  世を捨てて 入らんと言ふに知られけり 君が山路も深からぬかな

  通う田は いづら(どこ)稲妻置く露の 光のほどもなき契りかな

  きらめかす 光もさびしたちまちに あやめもわかぬ空の稲妻

  消え残る 心やいかにありへても また粟津(会わず)野の草の上の露

  粟津野の 露かかららんと思いきや 木曾の朝衣立ち出でし頃(題:木曽義仲)

  押し並ぶ 駒のあがきも早き瀬に たばかりごとやかけて留めし(題:佐々木

 高綱:先陣を切るために人をだました:↓ だまされた梶原景季)

  遅れしは 悔しかりとも宇治川の 波には君を思うものかは

  荒磯の 岩に砕けて散る波の 花にも似たり秋の夜の月

  行く舟の けぶり一筋なびきけり 青海原の秋の夜の月

  訪ね得し 紅葉一枝折り取れば 深山の秋もなくなりにけり

  ここまでは 嵐も訪はじ奥山の 岩がき(垣)紅葉冬も残れり

  あらじとて 引き返すべき山路より 奥に紅葉は残りつるかな

  木枯らしの 身は風ならでもみじ葉の 残る限りはあくがれんとす

  今日もまた 紅葉見に来て神無月 出でにたつ袖も時雨降りきぬ

  なかなかに 友とはいはじ神無月 一人や訪はん山の紅葉を

  浅かりし 梢も見えき神無月 またや訪ひてん山の紅葉を

  冬の野は 菊も紅葉も枯れにけり 一人こ松を見るものにして

  我ひとり 知らず顔にも立てりけり ね(妬)たし枯野の松の一もと

  人招く 尾花の袖は枯れにけり 何をきく(菊)とか咲き残るらん

  来ても見よ 秋の名残はとどめつと 枯野に残る白菊の花

  世の中の 秋に会はじと遅れけん 一もと野菊思ひあがりて

  立ち初めし 宇治の川波それよりぞ 静め難きは思ひなりけん(題:薫大将)

  浅ましき 流れに乗りし浮舟を 憂きし心を誰か咎むる(浮舟)

  上もなき 藤の花房長き世に この誹りをば残しつるかな(藤壺)

  いくばくの 深きゆかりぞ紫の 根摺りの衣君一人のみ(紫の君)

  はかなくて 消えにし露の夕顔は 長き思いの種となりけん(夕顔)

「文学界」のこと 馬場孤蝶

  「明治文壇の人々」再読。「春」や平田禿木の随筆を読んだ後なのでまた学ぶこと

多く、よく頭に入れるために写すことにした。鳥歩きは全然してない。セイタカシギは

まだまだ増えそうなので心配なくなったし、そんならありがたくなくなるという贅沢な

心、そして空梅雨になるのかもう夏の気配、暑いのはいいが紫外線が怖い。

 

 雑誌「文学界」に集まっていた五六人の者の思想なり作物なりがどういうものであっ

たか、それらの者共の為人(ひととなり)がどういうものであったかというようなこと

に就いては島崎藤村君の「春」という小説が殆んどそれを書き尽している。その小説の

中の青木というのが北村透谷君であり、岸本というのが島崎藤村君であり、市川という

のが平田禿木君であり、菅というのが戸川秋骨君であり、岡見兄弟というのが星野天知

君と同夕影君であり、福富というのが上田敏君であり、栗田というのが大野洒竹君で

あり、足立というのが馬場孤蝶であるという風で、中に書いてある事実も先ず全部実際

あったことだと云って宜かろうと思われる。そうして見ると、「文学界」のことを僕が

茲(ここ)で話すのは全く蛇足である訳になるのだが、しかし「春」の方は小説である

のだから、幾らか朧げなところもあるかも知れないと思うので、茲には事実として話し

て見ようと思う。

 所で「春」はご承知の通り印象的に書かれたものであるので、あの中に出て来る

個人々々の行為、思想というようなものに就いては、「春」の中で書かれなかったこと

は大分にあるのであって、それを話せば当時の文学者の謂わば裏面的生活に対して好奇

心を持つ人々のおなぐさみだけには確かになることだと思われるけれども、これは茲で

はやらない。何故それをやらないかというと、実際の事実というものは様々な人の利害

に関係を有って居るものであるから、それからしてまた、個人の私的生活というものは

何等か已むを得ざる理由あるにあらざれば他人から公にすべきものではないのである

から、それを芸術にでもするのでない限りは、この場合に於て公にすべきものでないと

僕は考えるからであるのだ。

 「文学界」の第一号(二十六年一月刊行)を僕が見たのは高知に於てであった。僕は

二十四年の暮に両親を東京へ残しておいて僕一人高知市の共立学校という英語専門の

学校へ教師に行って、二十五年の夏休みに東京へ帰って、それから九月の末位に高知へ

行ったのであるが、その夏休みの間は眼病に懸っていたので島崎君にも戸川君にもそう

度々は会わなかったように思う。島崎君が巌本善治氏の「女学雑誌」の寄稿家でその時

あったことは知っていたが、別に島崎君の交友達に就いて聞いたことはなかった。

 ところで、「文学界」第一号は島崎君から僕の手元へ郵送されたか、それとも島崎君

自身の手から受け取ったかどちらであったか今確かには覚えていない。

 二十六年の一月の末か二月の初めであったか、その時の記憶は今確かでないが、教場

に出ていると小使が古藤庵無声という名刺を持って来て、こういう人が会いに来たと

僕に言った。僕は新聞社の人でも来たことかと思って暫時待っていてもらいたいと小使

に言った。で、それから少し経って教場から出て来ようとしていると、小使がまたやっ

て来て、お客様は甚くお急ぎのようでございますというのだ。その瞬間に僕の心には、

余程親しい人が訪ねて来て呉れたのではなかろうか、思いもかけぬ人が来たのではなか

ろうか、というような予覚が生じた。今思えばその時何となく島崎君の名が僕の心の中

に微かに閃いたように思うのであるが、それは今の記憶なので当にならない。で大急ぎ

で小使部屋へ行って見ると旅装束の島崎君が居た。僕は予期したようなことが当った

感じと意外なことが起ったという感じとが妙に雑り合った心持で島崎君を迎えた、が、

島崎君に其処で会ったのは僕にとっては非常に嬉しかった。高知は僕の故郷である、

しかしながら幼年の時其処を去った僕に取っては、高知の言葉を殆ど忘れてしまった

ような僕に取っては、高知は全く旅先であった。その遠国の旅先で親しい友に会ったの

であるから僕は非常に嬉しかった。僕はその時甥を東京から連れて行っていたので、

それにいいつけて島崎君を僕の家へ案内させて、それから僕自身は学校の仕事をしまっ

てから家へ帰って島崎君とゆっくり話をした。「文学界」のことや「春」の中にある

岸本捨吉の恋愛の話を聞いたのはその時であった。二十三年以後の島崎君は、非常に

沈黙な、非常に厳格な人に見えた。それは島崎君の自己改造に努力せられた時代であっ

た。女のことなどを話し合ったことのそれ迄一度もなかった島崎君の口から、恋愛の話

を聞くのは僕に取っては甚く意外であった。僕はその時は既に性欲上の或る経験は有し

ていたのであったが、島崎君の話したような…即ち「春」の中の岸本君のやったよう

な…恋愛をば十分に理解することができなかった。同情はあったが、所謂共鳴はなかっ

た。島崎君は僕の家には精々四五日位しか居なかった。或る霙の日に高知の湾から船に

乗って帰ってしまった。それから少し後になって我々の親友某君が、某君自身の恋愛に

対して島崎君の同情が足りないという不満を島崎君に訴えた。すると島崎君は「それは

誰しも有つ感情なのだ。現に高知の馬場の所へ訪ねて行ったときにも先方は非常に歓待

して呉れて心持がよかったが、ただ自分の恋愛に対しては馬場の同情や理解が足りない

ように思われたので、ただそれ丈けだけが自分には不足であった。誰でも恋愛に熱中

しているときには、他人の同情なり理解なりが足りないように思うものだ」と答えた

そうである。が、実際のところ僕は島崎君の恋愛に就いての話には面喰わされたような

気持であった。異なった世界を近々と見せられたのであるが、僕はその世界の人であっ

たこともなく、又その世界へ突入しようという気もなかったので、僕の同情は熱中した

恋人を慰めるに足りるものでは決してなかったのだ。僕が島崎君の心持を理解し得る

点まで近附き得たのは、それより後のことである。そうして見ると、島崎君は文学者と

して僕の先輩であると共に、そういう人情の点でも確に僕の先輩であるのだ。 

 高知の鏡川の岸にあった僕の家で、早い春の夜、島崎君は物静かなしかし沈痛な声

で、島崎君自身の文学を本気にやりだした考や自身の人生観などを詳しく話した。

 「春」を見ると、次のような青木の文章が引いてある。

 「極めて稚拙なる生涯の中に尤も高大なる事業を含むことあり。極めて高大なる事業

の中に、尤も稚拙なる生涯を抱くことあり。見ることを得る外部は、見ることを得ざる

内部を語り難し。盲目なる世眼なる儘に睨ましめて、真摯なる霊剣を空際に雄士は、

人間が感謝を払わずして恩沢を蒙る神の如し、天下斯の如き英雄あり、為す所なくして

終り、事業らしき事業を遺すことなくして去り、而して自ら能く甘んじ、自ら能く信じ

て、他界に遷(うつ)るもの、吾人が尤も能く同情を表せざるを得ざる所なり。」

 これが北村透谷のみならず島崎君始め其他の文学界同人の考を最も雄弁に説明して

いると思う。

 高知で島崎君から聞いた話や、其の他の諸君から聞いた話を総合して見ると、「文学

界」の起った過程は大凡次のような風であったらしい。巌本善治氏が出して居られた

「女学雑誌」が次第に耶蘇教に縁故のある若い文学者の作物を発表する壇場になって

来たのは、明治二十五年頃である。ところで、その年の秋頃からして「女学雑誌」に

文芸附録というようなものを附けることにして、そこへ「女学雑誌」関係の若い文学者

に力を尽くさせようという話が出来た。が、巌本氏は宗教家であるのだから、文学者と

は…殊に其の「文学界」同人になったような人々とは…大分道徳観も違うのであった

し、殊にそういう文学者の連中にはもう既に耶蘇教に対する反対的立場を表明し出して

いた連中さえあった位であったのだから、そこで双方の為に「女学雑誌」とは一向関係

のない雑誌を出す方がよかろうということになって、愈々二十六年の一月から「文学界」

を出すことになったのであった、ということだ。金は星野天知君が出し編集は星野夕影

君がやることになった。でその時の執筆者は、北村透谷、星野天知、古藤庵無声(島崎

藤村)、平田禿木というような後来「文学界」の幹部になった人々に、戸川残花氏が

謂わば特別寄稿家のような位置に加わっていたのであったように記憶する。その時分、

島崎君の書いたものは各行十七字になっている戯曲若しくは抒情詩が主なもので、その

他に芭蕉の俳文脈を大分取入れた散文が大分あった。高知で島崎君に会った時に、島崎

君は「十七字にすると漢語が自由に使えるから、こういう形を始めたのだ」と僕に説明

して呉れたことのあるのを記憶する。

 北村透谷は、「文学界」に加わらないうちから可成り作をしていたようである。「蓬莱

曲」という戯曲のようなものがすでに単行本になって出ていたと思う。僕が透谷を見た

時分には、最う透谷の体が病的になり始めていた時分なのだと、いつか島崎君が云った

ことがある。それはそうなのであろう。如何にも神経質らしい落着きのない人のように

思われたのだ。年齢の割には世間的知識の狭い、考の偏った人のように思われた。妙に

角の立った人のような気がしたのであった。が心の弱い人とは見えなかった。野卑だと

いうようなところは決してない人であった。が、惜しいことに耶蘇教がそれ程抜け切っ

ていなかった。けれども、そういう風にや一本調子に見えたところがある仕事の…或る

思想上の仕事の…開拓者としては必要な資格であるかも知れないのだ。

 平田禿木君は、その時分はまだ二十一歳位であったろうと思うのだが、平田君は却々

(なかなか)成熟していた。芸術上の技巧に対する鑑賞力の精至なる人であり、一体に

趣味の豊富な人であるのは勿論、人情に対する知識及び考察力が年齢の割には余程多か

った。今日の平田君は如何にも控えめな人になってしまって、今は殆ど隠遁的生活を

送っているような有様である。けれども、二十六七年の頃の平田君は筆に於ても口に

於ても却々の論客であり、警句家であった。平田君の紅葉露伴両氏の作物に対する批評

などはなかなか気の利いた粋な文章であって、紅葉が書を寄せて平田君に或る作物の

批評を頼んで来たことがある。「春」を見ると、「市川という男は西洋料理を食って反吐

を吐いたようだ…こういう有難い批評をある大家から頂戴したといって市川は反りかえ

って笑って……」と書いてあるのだが、僕が誰かから聞いた話では、紅葉が「文学界」の

連中は西洋料理と日本料理を一緒に食って反吐を吐いたようなものだと云ったというの

である。成程これは当って居る批評であろう。所で平田君の所謂反吐は、西洋料理と

日本料理が可成り融合していたのであるが、島崎君ら始め僕等に至る迄もの反吐はその

二つの料理が生のまま出ていた趣が確かにあったろうと思う。

 「文学界」の創立者達のことに就いては先ずそれ丈けにして置いて、その人々の志と

いうようなものを説明する事を試みよう。

 「文学界」の創立者等は、兎に角孰(いず)れかの耶蘇教の教会に籍を置いた人々で

ある。その当時の耶蘇教なるものは可成り新知識の進歩主義の人々を集めていた。が、

しかし、そういう人々の中心思想は東西の旧い道徳から何程も脱出しているのではなか

った。「文学界」の創立者等の間には「縄墨(じょうぼく・軌範)を脱する」という

言葉が行われた。即ち古い覊絆(きはん・妨げになるもの)を脱する、即ち習俗を脱す

るという意味だと解して宜かろう。

 前に引用した透谷の文章の中からも窺い得られるが如く、「文学界」の創立者等の志

は所謂凡人の思想行為、即ち凡人の生活の尊重にあった。凡人の存在の意義、凡人の

尊厳を主張するに至った。

 「文学界」創立者等の当時文界に対する態度は…其当時の思想界に対する態度は、その

当時文界の権威を成していたところの硯友社派及び民友社派の文学に対する反逆の態度

であった。洗練に対する野生の反抗であった。文界の紳士に対する文界の書生の反抗で

あったのだ。言葉を換えて云えば、理知主義に対する感情主義の反抗、客観主義に対す

る主観主義の反抗であったのだ。

 「文学界」の同人は自分等の失恋のことを平気で書いた。尤もその点では僕と戸川君

とが一番罪が深かったかも知れないが、他の諸君もその点で全然無罪だとは言えなかろ

う。ところで、二十八年頃だと思うのだが、川上眉山が、尾崎紅葉が「文学界の連中は

恋の失敗のことを殆ど誇りがに書いているのだが、あれは並の人ならば隠すのが本当で

あるのに、どうしてああいう風に露骨に書くのであろう、あの連中の心持がどうも解ら

ない」と云っているということを僕に話したことがある。「文学界」の連中が露骨に

自分等の失恋を告白したのは、前に云った通りの平凡生活の尊重、客観主義に対する

主観主義の反抗、洗練に対する野生の反抗、というような所に根拠を有していたのだと

思う。「英雄畢竟馬前の塵である。つわもの共の夢の後は夏草である。羅馬の城壁は

跡なく崩れてしまった。英雄の事業に何の永遠があろう。恋を索(もと)め天地の美を

探る凡人の心の方が、夐(はるか)に永遠であり、意義がある」と島崎君が高知で僕に

話したことがあるように思う。

 「文学界」の同人等は当時の思想界の現状、当時の文界の現状にはあきたらなかっ

た。で、彼等はその現状から脱却しようとした事は前に言った通りであるが、その脱却

しようと思った当人がやはり彼等自身の裡に旧い多くのものを有って居った。なおその

上に残念なる哉、彼等は自然主義の開拓者等の如き良き師表を有っていなかった。

「ハムレット」と「若きエルテルのわづらひ」とではそう遠くまで行けないことは知れ

切っている。彼等は人生にロオマンスを求めた。即ち彼等の向った方向は間違っては

いなかった。が到着点を確かに睨んでいたのではなかった。「文学界」の創立者等及び

「文学界」に可成り関係を有っていた人々の中で、出発点から到着点まで少しも疲れず

に来た人が二人ある。それが島崎藤村君と田山花袋君である。

 ところで、一口に云えば「文学界」の同人ということになるのであるが、勿論個人

々々に就いて言うと色々異ったところがあるのは勿論のことである。けれども茲に極

大まかな類別を示してみたいと思う。明治四十二三年頃かと思うのだが、島崎君の浅草

新片町の家で、「馬場君とは生まれた階級が違うので、色々相違があるように思う。馬場

君らは上流の階級から出、僕等は下流の階級から出たのでそこに色々面白い相違がある

と思う」というようなことを島崎君が僕に言ったように覚えている。(前者は士族、

後者は大まかには商家となるのかな…)この大類別法に従って見ると、一寸と面白い

ことを発見する。即ち北村透谷、戸川秋骨の両君へ更に僕を加え、それを一方に立た

せ、 島崎藤村君と平田禿木君とを他方に立たせて見るというと、一方の人々は考が

抽象的であり、趣味も粗大であり、万事大掴みな人々であるが、他方の両君はそれとは

まるで反対で、思想も緻密であり、趣味も細かく、万事に精至(行き届く)している。

前者は謂わば予言者肌であるが、後者は何処までも芸術家肌である。北村透谷は生き

つまって斃れたのであるが、性格に於て似通った多くを有っていたと云わるる島崎藤村

君は、非常な努力によって行くべき道を自ら開拓した。これは、この両君の性情の差に

も基づくことであろうが、上に言ったような種別もその原因を為していないわけはなか

ろうと思われる。

 そこで、その次に来る問題は「文学界」の創立者等の為し遂げたところのものがどう

いう影響を、その後の思想界及び文学に及ぼしたかという問題であるのだが、これは

最も手取り早くいうとよく分らないというより外はない。「文学界」の廃刊したのは

明治三十年の十二月であるのだが、雑誌はそれ以前よりもその以後において弘く読まれ

たと信ずべき理由がある。そうして見ると、少なくともその時分の文界には多少の影響

を与えたには違いなかろうが、その代り「文学界」の連中それ自身が明治二十七八年頃

の思想界及び文界から様々の影響を受けたことは事実であるし、また彼等の出現はその

時分の青年の間に勃興しかけていた思想の大勢に推されたものと見るのが至当である。

即ち彼等の出現は「時の徴(しるし)」であったのだ。でその後から起った思想界並び

に文界の様々の運動に「文学界」の出現それ自体がどれ程の貢献をしたのかであるが、

これを定めることは全く不可能である。が「文学界」同人中の個人々々になると、それ

は大分異った話になって来ると思う。我々は北村透谷、島崎藤村、田山花袋の三君の

如きその人の思想、文体技巧等がその後に来れる若き人々の芸術に様々な影響を与えた

人々に与えた人々に敬意を表すべきであろうと思う。言いたい頃は尽きないがこの話は

先ずこの辺で打切る。そこで断って置くが、この話の中で故人には大抵「君」という

敬称をつけなかった。これはその人々を軽蔑したわけでは決してない。唯こういう場合

の先例に従ったまでである。

 それから「文学界」同人のことに就いては、島崎藤村君の「春」が最も良い説明書で

ある。「文学界」同人のことを知ろうと思われる人々は「春」を精読せられんことを

希望する。

藤村氏の「春」に描かれたる人々 馬場孤蝶

 国会図書館で平田禿木に続き馬場孤蝶随筆を見つけ、一葉部分を大喜びで写している

と、知った話ばっかりだな…手持ちの「明治文壇の人々」を出してみるとやっぱり…

二日無駄にしてしまったが、このところ藤村を読み始め、「春」「桜の実の熟する時」は

2回ずつ読み彼等の青春にはまってしまった。ほか小品や不幸な姉の話、とうとう「家」

に入り、昨晩は怒濤の三人続けて娘を失う場面から目が離せず明け方まで読んでしまっ

た。次は「夜明け前」だ!

はともかく、モデル問題のあったらしい「春」楽しみに写すことにする。

孤蝶随筆

藤村氏の「春」に描かれたる人々

 湯本の小菅屋の前の川岸に立つと、向う岸の大石の影あたりから河鹿の涼しい声が

聞える。

 箱根へ来たのは十五年ぶりである。が、この辺りの山の姿は元より、水路の具合も

道の広さも全く旧態を存している。四千八年前の洪水で川中の様子の甚だしく変わった

のは、塔の沢から上であって、木賀の亀屋の当たりなど、昔のような急湍雲を吐く趣は

最早見られ無くなった。

 とにかく、塔ノ沢のところは、川中の様子までそうは変わって居無い。一石一岩の

位置まで何だか昔のままであるような気さえする位なのだ。

 箱根の温泉を始めて知ったのは、最早二十六年程前のことである。それは八月の十日

頃であったかと思うのだが、親族の者が病気で、それに連れられて塔の沢の鈴木へ来た

のであった。その親戚の者の病気見舞いにいろいろな人が訪ねて来た。大石正己氏と、

尾崎行雄氏と、犬養毅氏とが連れ立って来たこともあった。三氏は代わり代わりに将棋

を指した。

 面白いことには、所謂る苦手というのであろうか、犬養氏と大石氏と指すと大石氏が

滅茶滅茶に負ける、犬養氏と尾崎氏と指すと犬養氏が手も無く負ける、所が、その尾崎

氏が大石氏に対すると殆ど敵で無い程に大石氏が何時も優勢である。

 大石氏は、落ち着いた如何にも意地の悪そうな声で、尾崎氏に「君のは将棋を指すの

ではなくて将棋を引くのか?」と云うと尾崎氏は真面目な顔で「悪口を云うね」と云い

ながら、駒を退却させて居るのであった。大石氏は「尾崎は犬養に勝つ、然るに吾輩は

その尾崎に勝つのだから、ロジックから行くと、吾輩が一番強い訳だ」と云って、よく

吾々を笑わした。

 二十六年はかなり長い月日である。その間に多くの水が流れた。これ等の人々の境遇

はさまざまに変わった。今は皆白頭の人となったこの三氏が、昔のように将棋盤を挿さ

んで、無邪気な冗談口をきくような日が、今もあるか何うか、私は知ら無い。

 塔の沢への路は昔と少しも変って居無い。東京からの客が帰る時は私は大抵湯元の

停車場まで此道を送って行くのであった。その時分は湯本国府津間には鉄道馬車が通じ

て居るのみであった。

 そういう時は、何時も宿の女中の十六位なのが、一緒に客を送って行くのであった。

それは、背の延やかな、面長の、色の白い、口数をきかぬ、地を如何にも軽く踏んで

行くような歩き方の娘であった。

 停車場から帰途は、その娘と二人で何時も黙まって歩いた。明治学院での同窓の或友

の家で温泉宿を持って居るということを聞いたことがあるので、その娘に、その友人の

姓を云って、その温泉宿は何処だか知って居るか、聞いて見た。娘は何とも返事をせず

に歩いて居たが、玉の緒橋を越して、玉の湯の前を通る時に、垣根のような処から右の

手に持っていた自分の袂を桂(?)げるようにして、家の中を覗くようにしたが、直ぐ

私の方を向いて「此処です」と、低い声で行った。

 この娘が二十六年の夏、即ち、島崎藤村氏の「春」の始めに描かれている時代には、

見違えるほど大きくなって居た。これが「春」の中の菅時三郎が恋したお君という娘で

ある。実の名はお千代、お君というのは、私が明治二十七年に雑誌「文学界」に載せた

「流水日記」で用いた名である。

 藤村氏は入念な人である。「春」の中の人物の名は、それぞれ所由のあるものを用い

て居る。菅の恋人の名に私の付けた名を重ねて用いたのは、藤村氏のそういう用意の

一つであるのだ。

 「春」の中の足立弓夫というのは、私のことだ。私は明治二十四年の十二月から高知

市の共立学校という私立の英語学校の教師に雇われて行って居た。島崎氏が高知まで

私を尋ねて来て呉れたのは二十六年の二月の末頃であったかと思う。「春」には土佐を

伊予としてあるのだ。

 藤村氏からは岸本捨吉のようなことを告白されたことを覚えている。「春」には、

岸本の恋人を「盛岡岡」と呼んで居るのだが、これは「仙台」位なところでは無かった

ろうか。「春」で勝子となって居るその娘は、東北の代議士の女で、兄は今或る博士に

なって居る人である。

 一度くらいは見たことはあるかも知れ無いが、何ういう風の人であったか記憶して

居無い。唯、当時連中の中ではその娘をオフィリアと呼んで居た。これから推すと、

その娘は慎ましやかな気の弱いように見える娘であったのであろう。

 これは岸本に恋していたと見て宜かろうと思われる「西京」というのは「神戸」で

あったように聞いている。この女は夫を持って明治四十年には大久保辺に住んで居た

ように聞いた。

 大久保に藤村氏が住んで居た時分のことであるが、藤村氏が、

 「………此処に住んでいるので、遊びに来いと、人伝に云って来たのだが、行か無かっ

た。家のやつの思わくもあるのでね………」と云ってから、少しきまり悪そうに、

 「ジイラス(ジェラスか)・テンパアなんだから………」と苦笑した。

それを聞いた秋骨氏も私も、一緒に笑った。「春」の時分であったら、吾々の方からは

「ヨウヨウ」位な声を掛けたのであろうと思うのだ。

 「春」の女学校は当時下六番町に在った明治女学校である。「春」に関根とあるのは、

巌本善治氏のことである。秋骨氏も、藤村氏も、星野天知氏も、北村透谷氏もその学校

を教えたことがあるのだ。明治女学校は極めて進歩主義の女学校であった。現今の女子

大学などよりは遥かに活気のある学校であったように思うのだが、一つは国民の一部に

飽くまで進んでみようという機運が未だ衰えて居無い時分であったからでもあったろう

と思われるのだ。

 巌本氏の「女学雑誌」は、当時の思想界には可なりな勢力を持って居た。

 雑誌「文学界」は始めはその「女学雑誌」から分派したものと云って宜いのである。

 明治二十五年になると、「女学雑誌」が著しく文学趣味を帯びだして、文学付録を

附けるまでになった。星野、島崎、戸川残花その他の所謂基督教文士が筆を執ったので

あるが、それ等の文士の主張が巌本氏の宗教的信念と甚だしく相容れ無いことになった

ので、それらの文士連中は、自由に自己の主張を言明すると同時に累を巌本氏に及ぼす

処の無いようにし度いと云うので、星野天知氏が金を出して、「文学界」という雑誌を、

明治二十六年の一月から出したのであった。

 執筆者の顔振は、星野天知、戸川残花、北村透谷、古藤庵無声(藤村氏)、平田禿

木、これに時々田辺花圃女史(今の三宅夫人)が寄稿することになって居た。編集その

他経営の仕事は、星野夕影(工学士星野男三郎)氏が引受けていたのだ。樋口一葉女史

の「雪の日」が出たのは、「文学界」の第三号位であったかと思う。

 何しろ、皆若い連中であった。残花氏は別格であったので、これを除いて、天知氏が

一番年長で三十位であったろうか、透谷氏は二十六、島崎氏が二十二、秋骨氏が二十

四、禿木氏が二十一であった。秋骨氏は楼月という名で書いた。

 「春」には大伝馬町とあるのだが、星野氏の家は砂糖問屋で、本町三丁目、現今の

博文館の編集局の真向位なところに在ったと記憶する。「春」の(二十)には、(略)

とあるのだが、「文学界」の編集はその通り星野氏の本町の家で編集されるのであった

のだ。「春」の岡三兄弟は星野兄弟のことであって、清之助は男三郎氏のことである。

島崎氏は「男三さん」と呼んで居た。天知氏は鎌倉…「春」では大磯…に別荘を持って

いて、東京には居無いことがある為めもあって、前に云った通り「文学界」の用事は

多く男三郎氏が扱っていた。「春」の(二十)の終りに近いところにある清之助の描写

は、実際の男三郎氏の面影を紙上に躍如たらしめて居る。

「春」の始の方にある岸本等四人が泊ったという湖畔の宿屋というのは、元箱根の青木

という小さい宿屋であった。

 十五年程前に湖畔まで行ったことはあるが、その後の変遷は更に知ら無い。しかし、

絵葉書などで見ると、この辺も此の頃は余程開けたようである。湖沿いの宿屋が、湖の

眺を余程善く使った家の建て方をして居るようである。

 が、明治二十六年頃には、まだ彼の辺は開け無かった。青木などでは、宴会まで附い

て一日五十銭になるかならず位であったろうと思う。今で考えると、まるで嘘のような

安さであったのだ。

 藤村、秋骨の両氏の居たその宿へ私が尋ねて行ったのは、八月の十日頃であったろう

かと思うのだが、その翌日あたりから雨が太く降り続いた。湖面には見る見る深く霧が

立ち籠めて、数町の前面の権現の森さえ見え無くなって、霧の裡から打ち寄せて来る波

は、広さの際涯(さいがい・果て)のない海からでも寄せて来るもののような気がした

のであった。

 藤村氏も、秋骨氏も、学校(明治学院)時代とは、最早余程変って居た。要するに、

両氏とも余程さばけて来て居たのだ。明治学院時代には、藤村氏などに、通りがかりの

車上の女を見て、なかなか別嬪だねなどと囁こうものなら、殆ど睨め付けぬばかりに、

厭な顔をされたものであった。その藤村氏が青木ではかなり陽気な調子で女のことを

話すのであった。艶福という言葉が両氏の口からよく出た。誰某は艶福家だとか、誰某

の艶福というのはこれこれだという風に云うのであったのだ。斯ういうと、両氏をのみ

怪しからん者のように云うようであるが、両氏のそういう変り方に勢いを得て、私自身

が大分両氏に聞かせたことがあったことは勿論である。

 その時隣の座敷には、一組の泊り客があった。女の方は最早四十近くだろうかと思わ

れる声の、東京弁であり、男の方は少し年下であろうかと思われた上方弁の声であっ

た。男が大阪では番地と云うことは無くって、何処の何番屋敷と云うのだと云うと、女

は余程侮蔑した調子で、其様なことがあるものか、番地というのが無い筈が無いという

ようなことを云う、すると男の声が甚く気色ばんで、これ此の通り何通もの葉書に何れ

だっても何番屋敷と書いて無いものは有りはし無い、さアこれは何うだと云うのだ。

女は、如何にも鋭ったような声で、「ふん為方が無い負けてやろう」と云った。我々は

女のそういう声を襖越しに聞いて、顔を見合せてクスクス笑わざるを得無かったので

あった。夜遅くなってから、男の泣いて何事か訴えるような、述懐するような声が聞え

た。言葉は何とも聞き取れ無かった。その時は女の声は少しも聞え無かった。声の様子

では女は何うも芸人らしく思われた。此の曰く付きらしく思われる男女は何ういう者で

あったのであろうか。何うして、元箱根のような不便なところへやって来たのであろう

か。唯声を聞いたのみで姿は見ることができ無かった。多分その朝その二人は発って

しまったのであろうと思う。

 藤村氏等と一緒に山を下ったのは、八月の中旬であったと思う。新道をば下って

来て、塔の沢で泊まった。「春」にある「千歳橋の畔にある温泉宿」というのは、環翆

楼という鈴木のことである。

 「往来の方へ向いた二階の一室へ案内された。庭の池へ落ちる筧の音は早川の水音と

一緒になって、涼しい雨を聞くような思いをさせる。山の上から下りて来て宿の浴衣に

着更えた時は、三人蘇生ったような心地になった。」と「春」(十一)にあるのである

が、全くその通りであった

 「春」の(十)から(十一)に亘って、藤村氏は温泉宿の描写をして居るのだが、藤村

氏は「春」を書くに先だって、箱根へ行ったことがある。(十一)の始めにある女中が

二三人で話をして居るところなどは、何うも意味が私には解り兼ねる。彼れは、藤村氏

が何時得られた材料に基づいたものなのであろう。

 現今では、鈴木はだんだん家を建て増して、全く大廈高楼の感を有して居るのである

が、「春」に描かれて居る時代には、鈴木はまだそれほど大きくはなかった。三階は

無かったと思う。

 「春」に描いてある事柄が事実そのままで無くとも、それは一向差支の無いことでは

あるが、藤村氏が何ういう材料に依って「春」を組み立てたかということが明らかに

知れれば、吾々の興味はますます加わるのであるから、私は此処に、藤村氏は明治四十

年頃の鈴木と「文学界」時代の鈴木とを絢(?)い交ぜて「春」の中の温泉宿を書いた

のでは無かろうかという推測を加えて置く。お君、即ちお千代の家元というのは、小田

原から熱海へ向う街道の振り出しに当る早川という村であった。家はその村の中程の

右側であったと思う。

 私は、鈴木の主人善左衛門と一緒に、その家へ尋ねて行ったことがある。お千代は

今は最早何処かの人妻になって居ることであろう。

 四十三年あたりの洪水からであろうが、早川の川尻が幾つにも分れてしまって、早川

の村へ入るまでには橋を三つ渡ら無ければならなくなって居る。十五年前には畑の中に

立って居た清光館が今は家に取り巻かれて居る。鈴木に長く居た此の家の長女は台湾の

某高官の妻になって居る。

 お千代のことでも聞こうというのは鶴屋の内儀さんのみであるのだが、急いて居たの

でそれにも逢わずにしまった。

 善左衛門は中気になったというのである。これも見舞い度いと思ったが、意を果たす

ことができ無かった。

 秋骨氏とはよく一緒に箱根へ行ったものであった。その時分には鈴木が今の小田原の

養生館を持って居た。それは鴎盟官という名であって、その西隣に伊藤博文氏の滄浪閣

があったのだ。

 最早これで許された紙数が尽きたのであるが、もう一枚容赦して貰って、「春」の人物

のモデルの名だけを云って置こう。

 青木駿一は北村透谷(門太郎)氏であり、菅三郎が戸川秋骨(明三)氏であり、市川

仙太が平田禿木(喜一)氏であって、家は伊勢町一番地の絵具問屋であったのだ。岡見

兄弟が星野兄弟である事は前に云った通りである。菅の従兄の栗田というのは故大野

洒竹(豊太)氏であり、福富というのは故上田敏氏であり、堤姉妹というのは、樋口

一葉氏姉妹であり、菅千春は戸川残花氏であり、陶山というのは山路愛山氏であり、

菅の伯母さんというのは故横井玉子氏である。「文学界」時代には女子学院の幹事で

あったのだが、後は女子美術学校の幹事になって居るうちに、胃癌で亡くなった。

北村透谷氏の家であった元数寄屋町の家は勿論代は変って居るのだが、今も尚煙草屋で

ある事は昔の通りである。

 岸本の恋人の本名は覚えてい無い。姓には藤という字が附いて居たように思う。古藤

庵の藤、藤村のふじがそれから来たものだか、何うだか、それは知ら無い。

 

 あらら…どうでもいいことばっかりだし、全然関係ない話には落ちがないし、文章に

癖があって写すのも面倒だし見苦しい。孤蝶推しの私でもがっかりでした。