「明治文壇の人々」再読。「春」や平田禿木の随筆を読んだ後なのでまた学ぶこと
多く、よく頭に入れるために写すことにした。鳥歩きは全然してない。セイタカシギは
まだまだ増えそうなので心配なくなったし、そんならありがたくなくなるという贅沢な
心、そして空梅雨になるのかもう夏の気配、暑いのはいいが紫外線が怖い。
雑誌「文学界」に集まっていた五六人の者の思想なり作物なりがどういうものであっ
たか、それらの者共の為人(ひととなり)がどういうものであったかというようなこと
に就いては島崎藤村君の「春」という小説が殆んどそれを書き尽している。その小説の
中の青木というのが北村透谷君であり、岸本というのが島崎藤村君であり、市川という
のが平田禿木君であり、菅というのが戸川秋骨君であり、岡見兄弟というのが星野天知
君と同夕影君であり、福富というのが上田敏君であり、栗田というのが大野洒竹君で
あり、足立というのが馬場孤蝶であるという風で、中に書いてある事実も先ず全部実際
あったことだと云って宜かろうと思われる。そうして見ると、「文学界」のことを僕が
茲(ここ)で話すのは全く蛇足である訳になるのだが、しかし「春」の方は小説である
のだから、幾らか朧げなところもあるかも知れないと思うので、茲には事実として話し
て見ようと思う。
所で「春」はご承知の通り印象的に書かれたものであるので、あの中に出て来る
個人々々の行為、思想というようなものに就いては、「春」の中で書かれなかったこと
は大分にあるのであって、それを話せば当時の文学者の謂わば裏面的生活に対して好奇
心を持つ人々のおなぐさみだけには確かになることだと思われるけれども、これは茲で
はやらない。何故それをやらないかというと、実際の事実というものは様々な人の利害
に関係を有って居るものであるから、それからしてまた、個人の私的生活というものは
何等か已むを得ざる理由あるにあらざれば他人から公にすべきものではないのである
から、それを芸術にでもするのでない限りは、この場合に於て公にすべきものでないと
僕は考えるからであるのだ。
「文学界」の第一号(二十六年一月刊行)を僕が見たのは高知に於てであった。僕は
二十四年の暮に両親を東京へ残しておいて僕一人高知市の共立学校という英語専門の
学校へ教師に行って、二十五年の夏休みに東京へ帰って、それから九月の末位に高知へ
行ったのであるが、その夏休みの間は眼病に懸っていたので島崎君にも戸川君にもそう
度々は会わなかったように思う。島崎君が巌本善治氏の「女学雑誌」の寄稿家でその時
あったことは知っていたが、別に島崎君の交友達に就いて聞いたことはなかった。
ところで、「文学界」第一号は島崎君から僕の手元へ郵送されたか、それとも島崎君
自身の手から受け取ったかどちらであったか今確かには覚えていない。
二十六年の一月の末か二月の初めであったか、その時の記憶は今確かでないが、教場
に出ていると小使が古藤庵無声という名刺を持って来て、こういう人が会いに来たと
僕に言った。僕は新聞社の人でも来たことかと思って暫時待っていてもらいたいと小使
に言った。で、それから少し経って教場から出て来ようとしていると、小使がまたやっ
て来て、お客様は甚くお急ぎのようでございますというのだ。その瞬間に僕の心には、
余程親しい人が訪ねて来て呉れたのではなかろうか、思いもかけぬ人が来たのではなか
ろうか、というような予覚が生じた。今思えばその時何となく島崎君の名が僕の心の中
に微かに閃いたように思うのであるが、それは今の記憶なので当にならない。で大急ぎ
で小使部屋へ行って見ると旅装束の島崎君が居た。僕は予期したようなことが当った
感じと意外なことが起ったという感じとが妙に雑り合った心持で島崎君を迎えた、が、
島崎君に其処で会ったのは僕にとっては非常に嬉しかった。高知は僕の故郷である、
しかしながら幼年の時其処を去った僕に取っては、高知の言葉を殆ど忘れてしまった
ような僕に取っては、高知は全く旅先であった。その遠国の旅先で親しい友に会ったの
であるから僕は非常に嬉しかった。僕はその時甥を東京から連れて行っていたので、
それにいいつけて島崎君を僕の家へ案内させて、それから僕自身は学校の仕事をしまっ
てから家へ帰って島崎君とゆっくり話をした。「文学界」のことや「春」の中にある
岸本捨吉の恋愛の話を聞いたのはその時であった。二十三年以後の島崎君は、非常に
沈黙な、非常に厳格な人に見えた。それは島崎君の自己改造に努力せられた時代であっ
た。女のことなどを話し合ったことのそれ迄一度もなかった島崎君の口から、恋愛の話
を聞くのは僕に取っては甚く意外であった。僕はその時は既に性欲上の或る経験は有し
ていたのであったが、島崎君の話したような…即ち「春」の中の岸本君のやったよう
な…恋愛をば十分に理解することができなかった。同情はあったが、所謂共鳴はなかっ
た。島崎君は僕の家には精々四五日位しか居なかった。或る霙の日に高知の湾から船に
乗って帰ってしまった。それから少し後になって我々の親友某君が、某君自身の恋愛に
対して島崎君の同情が足りないという不満を島崎君に訴えた。すると島崎君は「それは
誰しも有つ感情なのだ。現に高知の馬場の所へ訪ねて行ったときにも先方は非常に歓待
して呉れて心持がよかったが、ただ自分の恋愛に対しては馬場の同情や理解が足りない
ように思われたので、ただそれ丈けだけが自分には不足であった。誰でも恋愛に熱中
しているときには、他人の同情なり理解なりが足りないように思うものだ」と答えた
そうである。が、実際のところ僕は島崎君の恋愛に就いての話には面喰わされたような
気持であった。異なった世界を近々と見せられたのであるが、僕はその世界の人であっ
たこともなく、又その世界へ突入しようという気もなかったので、僕の同情は熱中した
恋人を慰めるに足りるものでは決してなかったのだ。僕が島崎君の心持を理解し得る
点まで近附き得たのは、それより後のことである。そうして見ると、島崎君は文学者と
して僕の先輩であると共に、そういう人情の点でも確に僕の先輩であるのだ。
高知の鏡川の岸にあった僕の家で、早い春の夜、島崎君は物静かなしかし沈痛な声
で、島崎君自身の文学を本気にやりだした考や自身の人生観などを詳しく話した。
「春」を見ると、次のような青木の文章が引いてある。
「極めて稚拙なる生涯の中に尤も高大なる事業を含むことあり。極めて高大なる事業
の中に、尤も稚拙なる生涯を抱くことあり。見ることを得る外部は、見ることを得ざる
内部を語り難し。盲目なる世眼なる儘に睨ましめて、真摯なる霊剣を空際に雄士は、
人間が感謝を払わずして恩沢を蒙る神の如し、天下斯の如き英雄あり、為す所なくして
終り、事業らしき事業を遺すことなくして去り、而して自ら能く甘んじ、自ら能く信じ
て、他界に遷(うつ)るもの、吾人が尤も能く同情を表せざるを得ざる所なり。」
これが北村透谷のみならず島崎君始め其他の文学界同人の考を最も雄弁に説明して
いると思う。
高知で島崎君から聞いた話や、其の他の諸君から聞いた話を総合して見ると、「文学
界」の起った過程は大凡次のような風であったらしい。巌本善治氏が出して居られた
「女学雑誌」が次第に耶蘇教に縁故のある若い文学者の作物を発表する壇場になって
来たのは、明治二十五年頃である。ところで、その年の秋頃からして「女学雑誌」に
文芸附録というようなものを附けることにして、そこへ「女学雑誌」関係の若い文学者
に力を尽くさせようという話が出来た。が、巌本氏は宗教家であるのだから、文学者と
は…殊に其の「文学界」同人になったような人々とは…大分道徳観も違うのであった
し、殊にそういう文学者の連中にはもう既に耶蘇教に対する反対的立場を表明し出して
いた連中さえあった位であったのだから、そこで双方の為に「女学雑誌」とは一向関係
のない雑誌を出す方がよかろうということになって、愈々二十六年の一月から「文学界」
を出すことになったのであった、ということだ。金は星野天知君が出し編集は星野夕影
君がやることになった。でその時の執筆者は、北村透谷、星野天知、古藤庵無声(島崎
藤村)、平田禿木というような後来「文学界」の幹部になった人々に、戸川残花氏が
謂わば特別寄稿家のような位置に加わっていたのであったように記憶する。その時分、
島崎君の書いたものは各行十七字になっている戯曲若しくは抒情詩が主なもので、その
他に芭蕉の俳文脈を大分取入れた散文が大分あった。高知で島崎君に会った時に、島崎
君は「十七字にすると漢語が自由に使えるから、こういう形を始めたのだ」と僕に説明
して呉れたことのあるのを記憶する。
北村透谷は、「文学界」に加わらないうちから可成り作をしていたようである。「蓬莱
曲」という戯曲のようなものがすでに単行本になって出ていたと思う。僕が透谷を見た
時分には、最う透谷の体が病的になり始めていた時分なのだと、いつか島崎君が云った
ことがある。それはそうなのであろう。如何にも神経質らしい落着きのない人のように
思われたのだ。年齢の割には世間的知識の狭い、考の偏った人のように思われた。妙に
角の立った人のような気がしたのであった。が心の弱い人とは見えなかった。野卑だと
いうようなところは決してない人であった。が、惜しいことに耶蘇教がそれ程抜け切っ
ていなかった。けれども、そういう風にや一本調子に見えたところがある仕事の…或る
思想上の仕事の…開拓者としては必要な資格であるかも知れないのだ。
平田禿木君は、その時分はまだ二十一歳位であったろうと思うのだが、平田君は却々
(なかなか)成熟していた。芸術上の技巧に対する鑑賞力の精至なる人であり、一体に
趣味の豊富な人であるのは勿論、人情に対する知識及び考察力が年齢の割には余程多か
った。今日の平田君は如何にも控えめな人になってしまって、今は殆ど隠遁的生活を
送っているような有様である。けれども、二十六七年の頃の平田君は筆に於ても口に
於ても却々の論客であり、警句家であった。平田君の紅葉露伴両氏の作物に対する批評
などはなかなか気の利いた粋な文章であって、紅葉が書を寄せて平田君に或る作物の
批評を頼んで来たことがある。「春」を見ると、「市川という男は西洋料理を食って反吐
を吐いたようだ…こういう有難い批評をある大家から頂戴したといって市川は反りかえ
って笑って……」と書いてあるのだが、僕が誰かから聞いた話では、紅葉が「文学界」の
連中は西洋料理と日本料理を一緒に食って反吐を吐いたようなものだと云ったというの
である。成程これは当って居る批評であろう。所で平田君の所謂反吐は、西洋料理と
日本料理が可成り融合していたのであるが、島崎君ら始め僕等に至る迄もの反吐はその
二つの料理が生のまま出ていた趣が確かにあったろうと思う。
「文学界」の創立者達のことに就いては先ずそれ丈けにして置いて、その人々の志と
いうようなものを説明する事を試みよう。
「文学界」の創立者等は、兎に角孰(いず)れかの耶蘇教の教会に籍を置いた人々で
ある。その当時の耶蘇教なるものは可成り新知識の進歩主義の人々を集めていた。が、
しかし、そういう人々の中心思想は東西の旧い道徳から何程も脱出しているのではなか
った。「文学界」の創立者等の間には「縄墨(じょうぼく・軌範)を脱する」という
言葉が行われた。即ち古い覊絆(きはん・妨げになるもの)を脱する、即ち習俗を脱す
るという意味だと解して宜かろう。
前に引用した透谷の文章の中からも窺い得られるが如く、「文学界」の創立者等の志
は所謂凡人の思想行為、即ち凡人の生活の尊重にあった。凡人の存在の意義、凡人の
尊厳を主張するに至った。
「文学界」創立者等の当時文界に対する態度は…其当時の思想界に対する態度は、その
当時文界の権威を成していたところの硯友社派及び民友社派の文学に対する反逆の態度
であった。洗練に対する野生の反抗であった。文界の紳士に対する文界の書生の反抗で
あったのだ。言葉を換えて云えば、理知主義に対する感情主義の反抗、客観主義に対す
る主観主義の反抗であったのだ。
「文学界」の同人は自分等の失恋のことを平気で書いた。尤もその点では僕と戸川君
とが一番罪が深かったかも知れないが、他の諸君もその点で全然無罪だとは言えなかろ
う。ところで、二十八年頃だと思うのだが、川上眉山が、尾崎紅葉が「文学界の連中は
恋の失敗のことを殆ど誇りがに書いているのだが、あれは並の人ならば隠すのが本当で
あるのに、どうしてああいう風に露骨に書くのであろう、あの連中の心持がどうも解ら
ない」と云っているということを僕に話したことがある。「文学界」の連中が露骨に
自分等の失恋を告白したのは、前に云った通りの平凡生活の尊重、客観主義に対する
主観主義の反抗、洗練に対する野生の反抗、というような所に根拠を有していたのだと
思う。「英雄畢竟馬前の塵である。つわもの共の夢の後は夏草である。羅馬の城壁は
跡なく崩れてしまった。英雄の事業に何の永遠があろう。恋を索(もと)め天地の美を
探る凡人の心の方が、夐(はるか)に永遠であり、意義がある」と島崎君が高知で僕に
話したことがあるように思う。
「文学界」の同人等は当時の思想界の現状、当時の文界の現状にはあきたらなかっ
た。で、彼等はその現状から脱却しようとした事は前に言った通りであるが、その脱却
しようと思った当人がやはり彼等自身の裡に旧い多くのものを有って居った。なおその
上に残念なる哉、彼等は自然主義の開拓者等の如き良き師表を有っていなかった。
「ハムレット」と「若きエルテルのわづらひ」とではそう遠くまで行けないことは知れ
切っている。彼等は人生にロオマンスを求めた。即ち彼等の向った方向は間違っては
いなかった。が到着点を確かに睨んでいたのではなかった。「文学界」の創立者等及び
「文学界」に可成り関係を有っていた人々の中で、出発点から到着点まで少しも疲れず
に来た人が二人ある。それが島崎藤村君と田山花袋君である。
ところで、一口に云えば「文学界」の同人ということになるのであるが、勿論個人
々々に就いて言うと色々異ったところがあるのは勿論のことである。けれども茲に極
大まかな類別を示してみたいと思う。明治四十二三年頃かと思うのだが、島崎君の浅草
新片町の家で、「馬場君とは生まれた階級が違うので、色々相違があるように思う。馬場
君らは上流の階級から出、僕等は下流の階級から出たのでそこに色々面白い相違がある
と思う」というようなことを島崎君が僕に言ったように覚えている。(前者は士族、
後者は大まかには商家となるのかな…)この大類別法に従って見ると、一寸と面白い
ことを発見する。即ち北村透谷、戸川秋骨の両君へ更に僕を加え、それを一方に立た
せ、 島崎藤村君と平田禿木君とを他方に立たせて見るというと、一方の人々は考が
抽象的であり、趣味も粗大であり、万事大掴みな人々であるが、他方の両君はそれとは
まるで反対で、思想も緻密であり、趣味も細かく、万事に精至(行き届く)している。
前者は謂わば予言者肌であるが、後者は何処までも芸術家肌である。北村透谷は生き
つまって斃れたのであるが、性格に於て似通った多くを有っていたと云わるる島崎藤村
君は、非常な努力によって行くべき道を自ら開拓した。これは、この両君の性情の差に
も基づくことであろうが、上に言ったような種別もその原因を為していないわけはなか
ろうと思われる。
そこで、その次に来る問題は「文学界」の創立者等の為し遂げたところのものがどう
いう影響を、その後の思想界及び文学に及ぼしたかという問題であるのだが、これは
最も手取り早くいうとよく分らないというより外はない。「文学界」の廃刊したのは
明治三十年の十二月であるのだが、雑誌はそれ以前よりもその以後において弘く読まれ
たと信ずべき理由がある。そうして見ると、少なくともその時分の文界には多少の影響
を与えたには違いなかろうが、その代り「文学界」の連中それ自身が明治二十七八年頃
の思想界及び文界から様々の影響を受けたことは事実であるし、また彼等の出現はその
時分の青年の間に勃興しかけていた思想の大勢に推されたものと見るのが至当である。
即ち彼等の出現は「時の徴(しるし)」であったのだ。でその後から起った思想界並び
に文界の様々の運動に「文学界」の出現それ自体がどれ程の貢献をしたのかであるが、
これを定めることは全く不可能である。が「文学界」同人中の個人々々になると、それ
は大分異った話になって来ると思う。我々は北村透谷、島崎藤村、田山花袋の三君の
如きその人の思想、文体技巧等がその後に来れる若き人々の芸術に様々な影響を与えた
人々に与えた人々に敬意を表すべきであろうと思う。言いたい頃は尽きないがこの話は
先ずこの辺で打切る。そこで断って置くが、この話の中で故人には大抵「君」という
敬称をつけなかった。これはその人々を軽蔑したわけでは決してない。唯こういう場合
の先例に従ったまでである。
それから「文学界」同人のことに就いては、島崎藤村君の「春」が最も良い説明書で
ある。「文学界」同人のことを知ろうと思われる人々は「春」を精読せられんことを
希望する。