樋口一葉「わかれ道」

「お京さんいますか」と窓の外に来てことことと羽目板を叩く音がする。「誰だい、 もう早く寝てしまったから明日来ておくれ」と嘘を言うと、「寝たっていいさ、起きて 開けておくれ、傘屋の吉だよ、俺だよ」と少し高い声で言うと、「嫌な子だね、こんな 遅く…

樋口一葉「大つごもり 二」

石之助という山村家の総領息子、母親が違うので父親からの愛も薄く、これを養子 に出して家督は妹娘の中からという相談を十年も前から耳に挟んでおもしろくなく思っ ている。今の世では勘当(江戸時代のもの)されないだけ儲けもの、思いのままに遊ん で継母…

樋口一葉「大つごもり 一」

車井戸の綱の長さは十二尋、勝手は北向きなので師走の風がひゅうひゅうと吹き抜け て寒い。堪え難くてかまどの前で火をいじる時間が延びれば、薪少々のことで大げさに 叱り飛ばされる女中の身はつらい。 最初、口入屋のおばあさんから「お子様方は男女六人、…

樋口一葉「うもれ木 四」

八 百花に先駆けて咲く梅の花、鶯よ来て鳴け、花瓶が完成し我が家には春風が吹いて いる。四窯八度の窯の心配(一対の花瓶が完成するまで)、薪の増減や煙の加減、火の 色に胸を燃やし、温度に気を痛めて、ひびが入らないだろうか、絵の具が流れないだろ う…

樋口一葉「うもれ木 三」

五 床下のこおろぎが鳴いて、都大路に秋を感じる八月の末、宮城の南三田の近くの民家 二、三十戸を買い取って工事を急いでいるのは何だろう。立てた杭には博愛医院建設地 と黒々と記され、積み上げた煉瓦の土台に木遣りの声がにぎやかな中で四方に聞こえる …

樋口一葉「うもれ木 二」

三 十三の年より絵筆を取って十六年、この道一心の入江頼三は富貴を浮雲の空しいもの としていてもなお風前の塵一つ、名誉を願う心が払い難く、三寸の胸の中は欲の火が常 に燃えて、高く掲げるべき心鏡の曇りというのはこれだけだ。といって世に媚人に媚び …

樋口一葉「うもれ木 一」

さて「うもれ木」これはほとんど読んだことがない。幸田露伴の「風流仏」の影響を 受けているそうなのでこちらもいつか挑戦、できるかな…あ、いきなり両方とも羅漢で 始まってる。 一 一穂の筆の先に描き出すのは五百羅漢十六善神、空に楼閣を構え、思いを回…

樋口一葉「たま襷 二」

洗い髪を束髪にして、ばらの花の飾りもない湯上りの浴衣姿、素顔の美しい富士額が 目に残る。世間は荻の葉に秋風が吹くようになったが、蛍を招いた団扇と面影が離れ ない貴公子がいた。駿河台の紅梅町に名高い明治の功臣、千軍万馬(つわもの)の中の 一人と…

樋口一葉「たま襷 一」

そろそろ大団円、というか奇跡の4年の作品に入る。初期の作品は終わりがはっきり しないか死ぬ、絶世の美女のお涙頂戴物のように思って読み流していたが、訳してみる と一葉の経験らしき場面や、登場人物の変な行動にも訳があったり、女主人公にちゃん と考…

樋口一葉「五月雨 二」

四 男も女も法師も童子も器量がよいのが好きだとは誰が言ったか色好みの言葉だろう。 杉原三郎と呼ばれる人は面差しが清らかで立ち振る舞いも優雅、誰が見ても美男子で 罪作りである。自分のために二人が同じ思いに苦んでいるなどとは思いもよらず、若葉 の…

樋口一葉「五月雨 一」

一 池に咲くあやめ、かきつばたのように(甲乙つけがたい)鏡に映る花二本、紫では なく白い元結をきりっと結んだ文金高島田、同じ好みの丈長(リボン状の紙の飾り)は 桜模様、あっさりとしてほのかに色香が漂う姿には身分の差がなく、心に隔てなく、 喧嘩…

樋口一葉「ゆく雲 二」

お縫にしてもまだ年若いので桂次の親切が嬉しくないわけはない。親にさえ捨てられ たような私のようなものを気にかけてかわいがってくださるのはありがたいとは思う が、桂次の思いに比べるとはるかに落ち着いて冷静だった。「お縫さん、私がいよいよ 帰国し…

樋口一葉「ゆく雲 一」

酒折の宮、山梨の岡、塩山、裂石、差手の名さえ都人の耳に聞きなれないのは、子仏 峠、笹子峠の難所を越して猿橋の流れにめくるめいても、鶴瀬や駒飼も見るほどの里で もなく、勝沼の町といっても東京の場末のようなところであるからだろう。甲府はさす がに…

樋口一葉「闇桜」

隔てというものは間にある建仁寺垣(竹の垣根)に譲って、共同で使う庭の井戸の水 の清く深い交わり、軒端に咲く一本の梅の木が両家に春を知らせ、香りを分かちあう 中村と園田という家があった。園田の主人は一昨年亡くなり、相続は良之助という二十 二歳の…

樋口一葉「この子」

口に出して私が我が子がかわいいということを申しましたら、さぞ皆さまは大笑い されるでしょう、そりゃあどなただって我が子が憎いものはありません、とりたてて 自分だけが見事な宝を持っているように誇り顔をするのはおかしいとお笑いになるで しょう、で…

樋口一葉「花ごもり 二」

四 これは瀬川様ようこそ、と玄関に女中の高い声を耳ざとく聞いて、膝に寝ていた子猫 を下ろし読みかけの絵入り新聞を茶箪笥の上に置き「お珍しい、何の風に吹かれていら っしゃいました、谷中への道は忘れてしまったかと思っていましたのに」と、障子の内 …

体調悪悪おばさんのちょっと気をつけてる毎日

昨年の写真だけど涼を。 いやいや…ビダール苔癬昨年は夏には軽くなったのに今年はずっと続いている。やっ とわかってきたことは、女性の体調変化前には猛烈に痒くなること、これはもうどうし ようもなくて、もう終わる歳なのでそれを待つばかり。結局更年期…

樋口一葉「花ごもり 一」

一 本郷のどことか、丸山町か片町か、柳や桜の垣根が続く物静かな所に、広くはないが 小綺麗にして暮らしている家があった。当主は瀬川与之助という昨年の秋、山の手に ある法学校を卒業して、今はそこの出版部とか編集局とか、給料はいくらほどになるの か…

樋口一葉「暗夜 三」

九 秋は夕暮れ、夕陽が華やかに差して、ねぐらに急ぐ烏の声が淋しい日、珍しく車夫に 状箱を持たせて波崎様より使いという人が来た。おりしもお蘭は垣根の菊に当たる夕日 が美しいのを眺めていたが、おそよが取り次いでお珍しいお便りですよと差し出すと、 …

樋口一葉「暗夜 二」

五 行こうと思い立った直次郎は一時も待てず、弦を離れた矢のようにこのまま暇乞いを と佐助を通じてお蘭に申し上げると、とてもではないと驚いて「鏡を御覧なさい、まだ そのような顔色でどこへ行くのです、強情は元気になってからなさい。病には勝てない …

樋口一葉「暗夜 一」

一 塀に囲まれた屋敷の広さは幾坪か、閉じたままの大門はいつかの嵐の時のまま、今に も倒れそうで危ない。瓦に生える草の名の忍ぶ(草)昔とは誰のことか。宮城野の秋を 移そうと持ってきた萩が錦を誇っているが、殿上人の誰それ様が観月のむしろに連なっ …

樋口一葉「別れ霜 五」

十三 「覚悟したのだから今更涙は見苦しい」と励ますのは言葉ばかりで、まず自分がまぶ たを拭う、はかなくも露と消えようとする命。ここは松澤新田先祖累代の墓所、昼なお 暗い樹木の茂みを吹き払う夜風がさらに悲痛の声を添え、梟の叫びも一段とすさまじ …

樋口一葉「別れ霜 四」

初めて見る蝶を撮って調べたらサカハチチョウというものらしい。 十 「それは何かのお間違いでしょう、私はお客様とは知り合いでもなく、池ノ端からお供 したのに間違いはありませんが、車代をいただくよりほかにご用はないと思いますので それを伝えて車代…

樋口一葉「別れ霜 三」

七 いらいらするのは、散会後に来ない迎えの車。待たせておいてもよかったが、他にも 待つ人が多いので遠慮して早めに来るように言いつけていったん返したものを、どう しているのだろうか。まさか忘れてこないのではあるまいし家だっていつまでも迎えを 出…

樋口一葉「別れ霜 二」

海、海 四 他人はともかく、あなただけは高の心をご存じだと思うのは空頼みだったのですか、 情けないお言葉を。あなたと縁が切れて生きていける私だと思うのですか、恨みといえ ばそのあなたのお心が恨みです。お父様の悪だくみを責められたらお返事もでき…

樋口一葉「別れ霜 一」

海がない世界はほんとイヤ 一 胡蝶の夢のように儚い世の中で義理や誠など邪魔なもの、夢の覚め際まではと欲張る 心の秤に黄金の宝を増やすことばかり考えて、子宝のことを忘れる小利大損。今に始ま らない覆車のそしり(戒め)(ひっくり返った車の轍を見て…

樋口一葉「雪の日」

四万十川の雪景色 見渡す限り地上は銀沙を敷いたようになり、雪は胡蝶の羽のように軽やかに舞って いる。枯木に花が咲いたと見立てて世の人は歌に詠み、 雪降れば冬ごもりせる草も木も 春に知られぬ花ぞ咲きける(紀貫之) 雪が降れば冬籠りしている草木が …

樋口一葉「経づくえ 二」

四 園様はどうされました、今日はまだお顔が見えませんがと聞かれて、こんなことが あって次の間で泣いておりますとも言えないので、少しばかりお加減が悪かったのです が今はもうよろしいのです、まあお茶をどうぞと民はその場を取り繕った。学士は眉を ひ…

樋口一葉「経づくえ 一」

一 一本の花をもらったがために千年の契り、万年の情を尽くして誰に操を立てての一人 住まい、せっかくの美貌を月や花からそむけて今はいつかも知らぬ顔、繰る数珠に引か れて御仏の世界にさまよっている。あれはいつの七夕の夜だった、何に誓って比翼の鳥 …

樋口一葉「うつせみ 二」

四 今日は用事がないとのことで、兄は終日ここにいた。氷を取り寄せて雪子の頭を冷や す看護の女中に替わって、どれ少し自分がやってみようと無骨らしく手を出すと、恐れ 入ります、お召し物が濡れますよというのを、いいさ、まずやらせてみなさいと氷袋の …