のはずだがほぼ巌本善治の話にすり替わってしまった。
樋口一葉
この稿を起したのは盛夏七月のことであるが、今はもう彼岸も過ぎて朝夕はうすら寒
く、月日の経つのの早いのに驚いている。骨身に徹しる暑気と戦いつつ筆を執っている
うちに、俗事身辺に蝟集し来り、その処理に心をくだき、その為め少なからぬ時を費し
て、遂に今に至って仕舞った。実に恥かしい次第である。
一葉が花圃女史の紹介で「文学界」へその最初の稿「雪の日」を寄せてきたのは明治
二十六年三月のことであった。女史も自分と同様、否、それ以上に、幾多煩わしき俗事
にまつらわれていたに相違ない。以後それを縁に我々は大分親しくなったように云われ
ているけれども、我々と女史との交際は結局客間に於てに過ぎなかったのである。福山
町へ居を移してからも、我々はしっきりなし其処へ立ち寄ったけれど、これも結局フラ
ンスでいうサロンのようなもので、才藻豊かな女子を取り囲んで、その溌溂たる談話、
警句に聞き惚れただけで、決して深く立ち入った交際というものはなかったのである。
たとえばあの龍泉寺へ店を出すにしても、女史は五十金、百金の資本に窮していたよう
であるが、これを天知子にでも相談したら、兎も角雑誌を出していることでもあり、
藤村君の旅にみついだように、これは立ちどころに出来たかも知れない。店で売る品物
にしても、自分の伊勢町の家は荒物屋同様であったのだから、線香、布海苔の類は幾ら
でも間に合わせられたかも知れない。そういうことには些かも触れなかったので、女史
はあの苦しみをしたのである。そこが切り抜けられず、あの荊の道を歩んだので、あれ
だけの立派な作物が生れたのである。思えばなにも皆天の奇しき配剤である。
同人のうちで、女史に思われようなどと、誰もあすこへ出入ったものはない。それぞ
れ別に本尊があったのだもの。但し先方(むこう)はそうじゃないと、さも自信あり気
に云うのが馬場胡蝶子一人である。子が病没前幾度か松濤のその寓を訪ねた折の、或る
日の午後の子の告白であった。妙なことを云うものと日記を調べてみると、成程福山町
で一番親しくしたのは子であった。辰猪氏の後を襲けて老いたる双親を抱え我々のよう
にそう気楽ではなかった子の境地と、一葉当時のそれと一味相通じる節のあったことも
多少その親しさを増したかも知れない。子の受けた教員検定試験についても、我が事の
ように一葉はその首尾を案じている。愈よ目出度く合格とあって、彦根へ赴任してから
も冬休みで帰京の際、ちょっと我が家へ立ち寄った直ぐその足で福山町を訪い、妹さん
へは大津絵の藤娘の扇、家へは小田原のかまぼこを土産に贈っている。僅か四か月ばか
りの間に、櫛の歯をひくように繁々と文を寄せ、まるで恋人のようなことを云って来た
と一葉は云っている。悲歌慷慨の士とか、嬉しき人なりと、初対面の折から一葉は馬場
君にはすっかり傾倒している。伊東夏子さんを誘って、龍岡町の馬場君の挙を訊ね当
て、椽(たるき、縁側のことか?)に端座している君の姿をそれとなく見て帰ったこと
などもある。誠ある人、美しき心の人よと一葉の方でも悪くからず思ったのであろう
が、この時一葉は既にすべてを達観して、すっかり超越しきっていたのだから、これも
流れに浮かぶ一とひらの花と、軽く受け流していたのだと思う。
ここまで書いて来ると、突然巌本善治氏の訃に接した。十月六日のことである。西巣
鴨のその居から男巌本荘民氏の通知である。巌本さんの坊ちゃんに荘ちゃんという方の
あったことは覚えているが、今何ういう方向に出ていられるのかそれは明かでない。
音楽方面に活躍している方が家庭にあるようにも聞いたが、そうではないらしい。豫
(かね)て病気加療中であったが、六日午前十時半終に遠逝とある。告別式は八日午後
であったが、自分も胃腸を害して病臥中であったので参列することも出来ず、僅かに
弔詞を送って愛訃の意を表しておいた。友人総代には川合信水氏が署名している。川合
氏は文学方面には縁遠い人であるが、もと甲州の山峡から巌本氏を慕って出て来て、
女学雑誌社で手伝っていた人で、豫て深く武道の精神にも徹し、天知子とも親しかっ
た。後押川方義氏と相知って仙台の東北学院で働き、その推奨で京都に近い綾部製糸
工場の教育部長となり、職工からも師父のように慕われ、ジェネヴァに於ける世界労働
会議の代表者にまで推された。蘇峰氏などとも雁行していた巌本氏が今寂しく逝かれた
に就いて、友人として川合氏がその名を著したことは、旧誼を忘れぬその温情が見えて
そぞろ奥床しい思いがする。
バーナード・ショーのように、若い時からあつい頬髯を蓄えていたのが巌本氏であっ
た。そのショーのように、溌溂たる才気に充ちていたのも氏であった。その才気が累を
なして、あらぬ方向に走ったのである。中頃柄にもなき実業方面へ出て、香ばしからぬ
噂を生むようになったのもそのためである。これは氏に対して深く惜しむと共に、操守
なき変節者に対する善き戒である。最近自分の知友で氏に会った人には山宮允(まこ
と)氏(詩人)がある。島田三郎門下の木下氏を偲ぶ会であったという。西巣鴨は此処
からそう遠くもないので、一度是非訪ねたいと思っていながら、つい果さずにおわった
のである。自分が親しく氏と語ったのは前後僅かに三回で、藤村君などの方がずっと親
しい関係にあったのだ。一度は王子権現社頭の氏の居に於て、一度は同十條の高台の、
夫人亡き後の寂しいその寓居へ、東北の旅からの帰りがけに立ち寄った折のことであっ
た。いつも懇ろに迎えてくれ、殊にその十條の寓では、手少なの上に不便の土地であっ
たに拘らず、昼食のもてなしにあずかったことを忘れない。最後はずっと後になって、
巣鴨の明治女学校長室へ、当時北海道から来り学んでいた一女生の保証人某を帯同し
て、挨拶がてらの訪問であった。某は大倉喜八郎型の一商人で、講談仕入れのその話柄
を以てあべこべに気焔を挙げ、校長の巌本先生に向って盛んに説法を試みたには自分も
呆れて仕舞った。それに対して、巌本氏が始終微苦笑を以て迎えていた珍風景は、今も
ありありと眼の前に浮かんで来る。
西巣鴨の巌本氏の居というのは即ちこの旧明治女学校の一室で、夫人若松賤子女史の
肖像の扁額の下に、氏はいつも端座して、昔を偲んでいたとのことであった。横浜フェ
リス女学校時代のこの島田かし子女史へと、海軍の世良田大尉などと相競って、求婚者
としていい寄り、当年日の出の新人記者として美事桂冠をかち得た頃が、恐らく氏の
生涯に於ける最も華やかな時代であったかもしれない。巌本氏に嫁してから、島田女子
は若松賤子の筆名を以てバーネット夫人「小公子」の巧みな口語訳の訳者として名声を
挙げ、兼ねてまた英文をよくし、その清楚古雅の筆致は到底アメリカ仕込みの人のもの
とは思えなかった。一方また、鴎外先生の令妹小金井きみ子女史は、その和文体の訳を
以て「浴泉記」の名訳を試み、名声漸く挙がりかけていた頃で、「雪の日」の稿を
「文学界」へ寄せてきた一葉は、これ等の間に立って、別に一と旗挙げようとの野望に
燃えていたのだ。
「文学界」の頃
新春以来「東日」へ載っている、鏡花の新作「薄紅梅」を見ると、硯友社の「我楽苦
多文庫」の編集所が九段中坂下の飯田町に在ったことが書いてある。自分の中学上級時
代の友人で、後工科を出て鉄道技師になった清水という男がいて、一日学校から一緒に
伴れられてその家に遊びに行き、門を入ろうとすると、これも同じく学校帰りの、カバ
ンを下げた予備門の学生とひょっくり合った。すると清水は「見たよ、素敵に面白かっ
た」と声をかけたが、「や、なに詰まらんもんで…」と笑って隣家の門へ消えて仕舞っ
た。予備門の学生は後の紅葉、尾崎徳太郎で、何でも中坂下でなく、もっとお堀寄りの
ように覚えているが、この清水は尾崎氏と隣りあって住んでいたので、見たといったの
は、尾崎氏と山田美妙の二人で、当時の硯友社初期同人の原稿を集め、それを手写しし
て一巻に纏めた回覧雑誌だったのである。
この「我楽苦多文庫」の、紅葉、美妙手写の最初の四、五巻が、西洋の例にすれば何
でもないことだが、最近金二千円で牛込の某氏の手に入り、門外不出の家宝となって
いるように聞いている。
それから一、二年して自分は予備門の受験に出かけたが、その時もちょっと運動場で
尾崎氏の姿を見かけたように覚えている。一緒にいたのが石橋思案外史だったが、翼の
短い、馬鹿にハイカラなインバネスを羽織って、鼻眼鏡をかけていた。北京公使館の
書記官を辞めた鄭某氏がお成り道へ開いた日本最初の喫茶店である珈琲茶館へは鄭氏と
同郷の長崎県人であった加福…後大阪商船の社長になった…に伴れられて、自分もよく
行ったものだが其処でも折々この思案外史に会った。相変わらず鼻眼鏡をかけてヴァイ
オリンを提げていて、ぷうぷうそれを鳴らして見せたりした。思案は都々逸などを作っ
た、まるで戯作者そのままの男だったが、川上眉山が小石川の上富坂にいた頃は、その
近くの独逸の宣教師のとこへ通って、頻りに哲学を修めているといった変った方面も
あって、自分にとっては今に一つの謎である。
同じ中学時代の友人で石渡という男があったが「アイヴァンホー」を愛読して、自ら
ワムパと号している面白い男だった。親父さんはもと大蔵省の官吏で、指ヶ谷町の田圃
中へ広い邸宅を構えていた。其処へよく硯友社の連中が集って、最近没した後の仏蘭西
刑法学者、川柳の三面子の岡田虚心や、尾崎氏などの顔も見え、その紅葉先生は大学の
制服姿でやって来て、その庭でよく弓を引いていた。鎌倉河岸の家から高商へ通って
いて、後三井の重役になった平田錦蓑などもその一人であったようである。
少し後のことであるが、岡田氏が法科の助教授になって、小石川原の畠中の、洋風の
一軒家へ住まっていた頃、石渡の縁故で自分も折々氏を訪れたのであるが、其処へも
硯友社同人が盛んに集って、碁などを打っているのを見かけた。同人といっても別に筆
を執るでもなく、唯の遊び仲間も大分にあったらしく、工科を出て三菱の造船所へ入っ
た、一高の寄宿舎で鳴らした髯の池田賢太郎氏なども、その一人であったようである。
斯んな風で、自分などもひょっとすると硯友社の方へ誘われて早くから学校を廃め、
自宅の店の二階へ箪笥と長火鉢を据え、人形などを飾って、作者気取りの若旦那になる
危険も満更ないではなかったが、その方にはさしたる魅力を感ぜず、基督教を縁故に、
巌本善治氏の明治女学校と「女学雑誌」を根拠として起こった、同じ女学雑誌社から
「女学生」という小さな雑誌が出ていて、その方へぽつぽつ自分は執筆していたが、
それがやがて「文学界」となったのである。私共は何も「ロマンティシズム」とか
「運動」とかいうものを意識してやったのではなく、唯同じ傾向の者が偶然集って、
その書いたものを互いに見せ合うというといった気持に過ぎなかったのである。「高踏
派」と呼ばれただけあって何れも皆はにかみ屋で、なかなかそんな勇気はなかったので
ある。唯一つ、北村透谷氏が民友社の山路愛山氏を相手の論争だけは、カムペインと
云えば云えないこともないが、これとても自然そういう羽目になって来たまでで、別に
初めからその積りでかかったわけではない。
それにしても、同人は一人残らず懸命に真剣になりきっていたのである。全然門外の
先輩からも、楽器の弦にしても、余りに張り切っているとポツリと切れる虞(おそ)れ
がある、気をつけなさいと注意されたことが幾度かあった位である。何もそれに依って
名を馳せようとか、学界に業績を挙げようとかいう考えは毛頭なく、胸一杯で、何うで
も云わずにはいられない事共を筆に託したまでなのである。少なくとも同人中の若い
者はそうであったのだ。
雑誌創刊早々、万事を擲って旅に出てしまった位で、驀地(まっしぐら)にその道に
進んで行ったのは、何と云っても藤村君であった。が、藤村君には何処か余裕があっ
た。我々よりもずっと年長でありながら、あくまで激越で、さし迫っていたのが透谷君
である。透谷君が今日まで在世したら政治上へも進出したであろうし、その前途は頗る
興味深いものとなるが、あの熱烈の性を以てしては、何うしてもああした薄幸の生涯に
終始するよう、運命づけられていたように思えてならない。一葉女史に至っては、同人
中一番易々と自分の真の境地を見出した。一面からいって非常に幸福な人であるが、
それだけにまた、その天分と仕事を短い生涯のうちに完成しなければならぬ宿命にあっ
たように思われる。上田君などもいかにも早く世を去ったものと、生き残った同人同士
で、いつも語り合うのであるが、これも亦ああした華やかな生涯を短く終るべき天運に
あったものと云うより外あるまい。
思い出を語るごとに、それがいつも「文学界」の一断片とされ、何もわきまえのない
当時の若い青年が心なしにやったことが「運動」とか「ロマンティシズム」とかのレー
ベルを貼られることは、なんとも恐縮の次第で、我々としては真に穴へも入りたい心地
がするのである。