馬場孤蝶の手紙一(最後)と二への返事 

 2021年にあげていた孤蝶のエッセイにちょうど今訳している手紙の返事があるので

修正して再度掲載。

 

 一葉君は手紙の文章が実にうまい人だった。私は28年の8月末から30年1月にかけて

地方にいたので文学会の仲間たちの中では、一葉君から多くの手紙をもらっているが

みなうまいものである。一葉君の書いたものは今度出る全集で大体まとまるのだが、

まだ詠歌だけがほとんど残っている。それというのも一葉君が15歳のころから没年まで

の相当な数の歌が残されており、選別には骨が折れることだろう。私は一葉書簡集を

出してみたいと思っている。樋口家でもその希望があるようで故人の知友に頼んで手紙

を借り集めている。

 試みに一葉君が私にくれた手紙をみてみよう。郵便局の消印のある封筒も保存して

あるので手紙の日付に間違いはない。おもしろく思うことは、半井君宛の手紙で公に

されたものは、まだ一葉君が作家として名を成していない頃のものであるにも拘らず、

やはり文章がうまいことだ。日記を見てもわかることだが一葉君は文才が元からあった

人であることは確かだろう。

 

 思いのほかご無沙汰して過ぎてしまい、どのようなお叱りを受けてもただただ恐れ

入るほかないのですが、そうはいっても一通りの申し訳(弁解)をお許しください。

最初のお手紙をいただいた頃中島先生が酒匂に遊びに行き、留守をなにくれと頼まれて

日毎に用事が多く、家に居ることが稀な暮らしでしたので、思いながらも思いに任せら

れませんでした。こちらの方からお恨みを申し上げるはずでしたのにあべこべとなって

しまい何とも悔しいことですが、この度はお詫び申し上げておきましょう。

 昨日今日にわかに秋風が立っておとろかかる(?)ようでしたが、そちらはいかがで

すか。お手紙のご様子ではいよいよお盛んなお勢いですので、こちらの人たちがどれほ

どうらやましがっているかとおかしいです。紫の矢絣を見過ごされたとか、曽根崎辺り

を駆け抜けたとは少し怪しいお話ですので、たやすく受け取り難いですが、お気を紛ら

わせていると思えばごもっともだとうなずかれます。「みをつくし」のゆかしきお方が

空しい煙となってしまったと聞き及んでおりますので。湖水のほとりで月に向かって

あてもなく物思いしているお前様のお姿が見えるようです。哀れなお人のためにあなた

は罪滅ぼしがてら、みをつくしの後日譚というものをぜひお書きにならなければいけな

いと存じます。箱根で初めてその便りをお聞きになりました時のご愁嘆はどのようでし

たでしょう。どなたにもお目にかからないでいるままですのでご様子をうかがうことが

できず、ただお悔やみ申し上げます。

 学校がもう始まったことでしょう。それほど面倒なことはないようにはうかがって

おりますが、交際されてお方々はいかがですか。お癇癪に障るようなことがあってはと

それだけを心配しています。お体もそれほどご丈夫ではありませんし、お健やかでは

いらっしゃるようでもお弱いようですので、とにかくお心を悩ますことのないようにと

お祈りしています。いつもお目通りがかなった頃は何気なく過ごしていましたが、ご遠

方に離れてしまったと思うとにわかに淋しく心細くなり、先日の月の夜には打ち寄って

(あなたの)お噂ばかりしていました。汽車というものがあればこそとはいっても百里

というのは大変なことで、山も川もあり、にわかに思い立って何か申すことはかないま

せんから「空のみ眺めらるる」という言葉を思い出すばかりです。

 つれづれと空ぞ見らるる思ふ人 あまくだりこむものならなくに(和泉式部

   ついつい空を眺めてしまう、恋しい人が天から降りて来るわけもないのに。

 お手紙のお末文を感謝しながら拝読しました。勉強しなさいとおっしゃってくださる

お方は私の守り本尊です。その言葉を頼りにして儚い文章を作り出すことができるので

すからお笑いにならないで教えてくださいますようお願いします。これは見かけての

(?神にかけての?心にかけての)お願いでございます。

 今月は文学界にあなたの文章を見ることができるでしょうか、そのあたりのお模様を

さぞかしと楽しみにしています。申し上げたいことはたくさんありますが、筆が回りま

せんままこの次に。お手紙で私をおばさんと仰せ下さいましたが、それは返上いたしま

す。わが身の老いを嘆くというわけではなく、もったいことですので恐れ入って返上す

るのです。このたびはここで、近いうちにまたお邪魔いたしますのでお目をお貸しくだ

さいますよう。草々 かしこ なつ

馬場様 御前 十七日夜        

 母からも妹からも、なにとぞよろしく申し上げてくれと返す返す申し出ております。

 

 これは28年9月19日の手紙だ。私が彦根から大阪に行った際に送った手紙の返事で、

「紫の矢絣」とは京都の町を歩いていた舞妓のことでも書いたのだろう。曽根崎(遊

郭)は実際のところは車で通ってみただけだった。「みをつくし」の女というのは、

箱根温泉宿の女中で、米神という村から来た確かおくらという女中が、ちょっと器量が

よかったので何の気なしに褒めたところ文学界同人の噂となって、一葉君にまでひやか

されるに至った訳なのだ。