横山源之助(天涯茫々生)の手紙

  明治29年2月29日

 本日は非常に長座して失礼とはこのことです。どうやら貴方の人体(人柄)も朦朧の

中にある心地がいたします。同病相憐れむせいか、別れてから本日は一日小生の頭脳に

貴方を浮かばせておりました。ご婦人の身なのにさぞかしいろいろご心配があろうと

察し、人生茫々(はっきりしない)、前途はどうなることだろうかと密かに心配してお

ります。ただ我等は小さな人間ではなく大きな人間でありたいと思います。世間のぼん

くら共に奇物とか変物とかいう愚かな形容詞を頭に加えられないように。あまりに馴れ

馴れしく申し上げてはと遠慮されますが、改めてこのことを申し上げます。人間の運命

と世相の真実をご瞑想のあまり気早となることはご忍耐、生活を処すること、これが

小生が第二に貴方に望むものでございます。確実な見込みがつくまでは当分文学者生活

をご忍耐してはいかがですか。お話しの中でほのめかしたように見受けられましたので

強いてこのことを申し上げます。以上思いついたままご参考までにと思うところを申し

上げました。 頓首

お体お大事に 茫

夜二時頃

樋口様

 小生断然来月より酒を止めるつもりです。交際の上の外は。社会に生きている限りは

交際も必要なので酒を交際の上でまで止めてはと、ニ三年前の小生の議論を探し出して

きましたが、今日のところ思う旨があって交際の上だけ飲むことにいたしました。

 胸中洞察(ください) 乱筆御高免 御捨読

 

   3月1日

 精神を抜かれた身体だけ本日新聞社へ行って、帰り道鉄道馬車に乗りつつふと思い出

しました。今朝差し上げました手紙の中の人間の運命と世相の真実云々の言葉、これに

事実についての六字を逸しましたのでお加えくださりたく、忘れたことが不愉快限り

なく、ばからしいと知りながらこのはがきを差し上げます。憤ったり悶えたり、こんな

人間が人に対して屁理屈を申し上げましたことを片腹痛いと自分を罵っております。

 

   6月27日

 申し上げましたが人生意のごとくにはなりません。別に子細もないのに、しかもぐず

ぐずいたしております。顧みればばからしいことですが仕方がないことです。来月は

大阪へ参り盆頃(旧暦)には帰国するつもりです。ただ大阪へ参ります時は長谷川泰と

いう豪傑が同行するのでおもしろくはありませんがこれも浮世、当分目をつぶっている

つもりでおります。貴方は現在どのようにお過ごしですか、評判が高くなっていくと

嬉しいこともありますし不愉快なこともあるでしょう、ご心情を想像しますと一種変な

ものですね。社会は軽薄なものですからご用心が肝心だと存じます。小生は近日帰京し

やはり新聞を書いて、来月の十日ごろまでわけのわからぬこととなりますので、いずれ

訪問いたしまして近況をお尋ね申し上げます。

 ふと貴方の噂が知人の間に出まして、わけのわからぬ(緑雨が一葉を訪ねた)ことが

文字に並べてありましたのでちょっとお尋ね申し上げます。 横山生拝 

 樋口様

 鎌倉などに来ていると東京などのような煩累もなく、なにやら気は豊かになります。

酒も相変わらず飲んでいますが大いに量が減って、この頃は言語や衣服などおとなしく

なりました。小生と同宿しているのは民友記者でなかなか貴方の小説を喜ぶ人間でござ

います。 頓首

六月二十六日

 乱筆御高免

 毎日社の横山鎌倉材木座にありて文おこす、民友社の人と同宿しおるなりとて事あり

げの書きぶりなりき、返事やらず(一葉の日記)

 

   7月18日

 一昨日は正太夫先生より葉書が来て(前略)先日拙者と話しをした中で「確かに虚言

があることに思い当りました。いずれお目にかかって申し述べますが、明らかな返答を

望みたい」という文面で、虚言というのが少し胸に障りましたので昨夜私から氏を訪問

して聞きましたところ、先日彼と対話した折に小生は貴方・・一葉女史を知らないよう

な顔をしていたということがとりもなおさず虚言だという次第、大笑いでございまし

た。必要もないのにことさら一葉女史を知っていると吹聴することもないのですから、

なんだかばからしく思いました。近況を伺いがてら貴方に関わることでしたのでちょっ

とお知らせ申し上げます。大阪行きはおじゃんになりました。本日は監獄研究を社長

より命じられました。帰郷はいつのことやら、頓首

 相も変わらぬ緑雨の神経質がいとおかしとほほえまる(一葉の日記)

 

   8月24日

 拝啓

 貴方のご病気の趣きが日々新聞に記載されていました。事実は果たしてご病気のこと

なのでしょうか、案じております。あるいはご持病の脳(このように書きながらしきり

に気楽な生活をされてはと思いながら)病でしょうか。ご時節柄ご保養専一にと存じま

す。奉存候野生義(?)

 去る十四日東京を出発し六時頃越後直江津に着き、汽船で十五日の朝郷里(魚津)に

到着しました。今から四年前にちょっと帰省したことがあり、その折見ましたより今日

は故郷もよほど変遷しました様に思いました。十四五歳の子供達が大人になっているの

ですから、顧みて我が愚が笑われます。日々の生活は水泅(泳ぐ)と郊外散歩です。

今月の末頃には体も真っ黒になりますから都人に誇ってやろうと思っております。