みづの上日記

23日

 昼過ぎ、樋口勘次郎さんが約束通り来た。背が低く、色が黒く、小太りして品がなか

った。それほど話すこともなく、ただ大まかに頼まれた。「まず手始めに『桃太郎』、

『猿蟹合戦』などの昔話から着手してほしいと」と巌谷小波氏が書いた昔話をいくつか

置いていったので、「お聞きしたいことがありましたらおいで願うかもしれません」と

言ってそれを預かった。この人の考えはまあおもしろいが、学校の教科書に小説を用い

ようという計画はちょっと実行し難いのではないか、と疑問に思う。しかし私は頼まれ

ただけなのだから何も言うことはない。だんだんに話が進んで改めて相談することに

なったら、それは難しいのではないかと言えばよいと思った。

 正太夫が来るのではないかと思って待っていたが、何の便りもなく今月は終わった。

あちらこちらの人から正太夫があなたを訪ねたそうだがと言われて、いろいろ面倒なの

で、もう一度会って話をしたいと思って待っているのに仕方がない。毎日新聞社の横山

さんが鎌倉から手紙をよこした。「民友社の人と同宿している」と何かわけありげに

書いてあったので返事を出さなかった。

 今月の暮らしは大変厳しく、どうしようもなくなったので春陽堂から30円を借り

た。(よほどのことがなければ借りないと思った私なのに)人の心のはかないことだ。

30日

 野々宮さんに金を持っていって邦子と私の着物の調達を頼む。買ってきたのは7月4日

だった。伊勢崎銘仙一疋で8円60銭。

7月9日

 谷中に田中さんを訪ねて留守をしているときに正太夫が来たとのこと。「大層病んで

生死もおぼつかなかなかったので、とうとう今まで来るのを怠ってしまいました」と、

ただでさえ瘦せた人がさらに痩せて骨ばかりになって、人らしくないような顔色だった

そうだ。「明日は姉もいるでしょうから」と邦子が言うと「明日は難しいのでまたその

うちに」と帰ったとか。なんとも悔しいと思う。

 全く思いがけず、翌日の夜更けに来た。本当に邦子の言った通りで、声にも力がなく

消えんばかりの有様だったのでとても痛ましく見えた。「何の病気だったのですか」と

聞くと「腸の痛みが激しくて、何とか注射を打って日を送って、絶食したのはほとんど

2週間にもなります」と言った。「まだとても悪そうに見えますが出歩いて大丈夫なの

ですか」と心配して聞くと「医者からはまだ外出を止められているが、とても退屈で

耐え難く、昨日重湯の許しが出たのを喜んで、こうやって出歩いています」と言う。

 話は『国民新聞』のことだった。正太夫は最初私の家を訪問しながら、この噂はどこ

から立つのか、どういうことを言われるのか試したのだと言う。私は「秘密に」と言わ

れたのを守って、親しく出入りする人にも誰にもその話をしたことはないので、私を

知っている人でその噂を立てる者はいない。正太夫は鴎外氏と露伴氏のほかには漏らし

ていないので「どこから出た噂なのか試しに矢を放ってみよう」と昨月の14、5日頃

国民新聞』の松原という人に私に会いに行ったことを話したのだそうだ。「そうした

らすぐに話は大きくなって今月初めの『早稲田文学』にも載り、どんどん広まって

いる」と言うので、無駄なことをすると私は思うが、この人はこんな儚いことがおもし

ろいのだろうか。「保守派の中でも特にかたくなだと言われている僕が、新派の中で

一番全盛を極めている君を訪ねているので、さぞ人は異様に感じて、これからどのよう

なことを言うのか、とても興味深い」などと言っている。

 とても難しい話もあったが、また、全てを打ち明けたような身の上話もした。

「このたびのような病気になると、家というものがないのは侘しいと思うようになりま

した」などと言った。この夜も遅くに帰った。

11日

 横山さんが来て、正太夫に会いに行ったと話す。「君は緑雨をご存じですね、僕は

初めて会ったが、かねて聞いていたような話に似ず、それほどの悪人には見えません

でした」と言った。午前10時頃に来て、昼食を一緒にした後2時過ぎまでいて帰った。

12日

 樋口勘次郎さんが来た。受け持っている小学校の生徒たちの写真を持ってきて見せた

りした。話すこともそれほどない上、今日は稽古日だったのでそう言ってお断りすると

しばらくして帰った。今日は思いがけず坂本さんが来た。野尻さんが不意に来たのは

先月のことだったが、今日も来ていてちょうど家にいたので「珍しい会合になった」と

一同喜んでもてなした。

 稽古に来たのは野々宮さん、三浦さんの二人。木村さんは妊娠し、安井さんは海外

留学の出発が間近になったので語学学校に通うようになり、最近来ていない。

 榊原家の召使たちからお中元をいただく。江間よし子さんからも。

 このほど、博文館の義捐小説集(津波の被災地を義援するため)に随筆のようなもの

を書いたが、とてもあわただしかったので大変見苦しいものになった。

 

 13日は父のお墓参りを兼ねて本願寺にお中元を持っていく。邦子と二人で、新しく

作った単衣の着初めだった。この日は茶飯を炊いて久保木の姉を呼んだ。ちょうどよく

上野親子と西村さんも来た。この人たちにも供養なのでと勧めようとしていたところに

星野さんが来たので、上野さんは帰宅し、西村さんと姉は食べていった。

 星野さんはずいぶん乱暴な口利きで、打ち解けないそぶりをしてとても変だった。

料簡の狭い人なのではないか。

14日

 佐藤梅吉さんがお中元のお礼に来た。その頃『読売新聞』の記者の平田骨仙という人

が川上さんの紹介で訪ねてきた。女性文学の雑誌に小説を書いてほしいとのこと。 

15日

 早朝兄が来て一日遊ぶ。午後から雨が降り出して帰れなくなったので、今夜泊まって

いくことになった。久保木の秀太郎も来た。これは兄が寄って連れてきたのだ。半井

さんもお中元のお礼に見えたが門口で帰った。

 人々はみな帰り、夜もだいぶ更けた。座敷に蚊帳をつって、兄は歯痛に悩まされなが

ら臥せている。私は前から頼まれている『智徳会雑誌』の原稿を書かなければと机に

向かっていると門前に車を止める音がする。「この大雨の中道を歩く人もなく、車でも

家から日本橋まで40銭と言う高値でも行かないと言われるような夜に、誰が来たのだろ

う」と思って見に行くと正太夫が立っている。驚いて迎え入れるが、まだ弱々しく痛ま

しい様子だった。「いよいよ文壇の総まくりを書こうと決心して、材料をそろえている

のですが、君にもお借りしたいものがあって来ました」と言う。「何でしょうか」と

聞くと先月の毎日新聞とのこと。すでに山梨の芦沢に送ってしまい家には一枚も残って

いないと断ると、「ではほかで借りましょう、いよいよ君のことを悪く書きますよ」と

笑うので「なんとでもどうぞ、大変ありがたく思っているのですから」と言うと「どう

しようもないのです。世間では僕が君を訪ねていることを知らないものがなくなり、

『正太夫が看破した一葉とはどのような人物か』との質問がとても多くて煩くてたまら

ない、昨日坪内に会ったが彼にも聞かれた。口々に聞かれて一々答えるのも面倒なので

文章にしようと思う。僕が今回書こうと思っているのは今年2月から半年ほどの文壇の

ことだ。全て書いたら『めさまし草』一冊を埋めてしまいそうだが、そこまではできな

いので5、60枚にとどめるが、その6分の1は君のことですよ」と冷ややかに笑った。

 

 この日記を記したのは7月20日。午前11時ごろからは書き始めて2時になる前に一冊

書き終わった。正太夫との話をさらに書こうとしているところに幸田露伴氏と三木竹二

氏が連れ立って来たので書くことができなかった。15日の続きは別にしたためる。