水のうへ

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                          雪は降り積む…

霜月

2日の夜、平田さんが来たが邦子が気を利かせて門口で返した。入れ違いに川上さんが

来た。大方一緒に来たのだが「先に君が行け」などと言って平田さんを先によこし、

私がいないと断られたら「では僕が行ってみよう、僕ならきっといると言うはずだ」と

得意になって来たのだろうと明らかなのがおかしい。邦子は同じく留守だと言ったので

しおれて帰って行った情けない様子にはただただ笑いが出る。

3日

 今日は天長節なのに朝から車軸を流す勢いで雨が降っている。神戸の小林愛子から

松茸を一籠送ってきたので、炊き込みご飯にして皆で食べる。稲葉のおこう様が来たの

でそれを出す。午後平田さんと戸川さんが二人で来て、「いない」と言っているのに、

「では少し中に入れてください、濡れた着物を乾かしたいので」と食い下がるので部屋

に上げて邦子と母で応対していてもなお私が隠れているのではないかと疑って「用を

足したい」などと言って廊下の辺りをうろうろしているのがとてもおかしい。30分程

居て帰った。

 その夜も更けて「そろそろ門を閉めよう」と言っているところに平田さんと戸川さん

が来た。今まで川上さんのところで遊んだ帰りなのだろう、これで会わないのも気の毒

なので居ると言わせて会う。平田さんが土産を買ってきたのもおもしろかったが、いろ

いろ話をして遅くに帰った。平田さんは『読売新聞』の紙上に私の批評を書きたいなど

と言っていた。

 

 5日の夜、関さんが来て「落合直文のところへ行く途中だが、この家の前を通り過ぎ

ることもできず立ち寄りましたよ」と言った。話すほどに枝葉が伸びて1時間が過ぎ、

2時間が過ぎた。「そろそろ行きます、もう行きます」と言いながら話を続ける。車夫

が待ちくたびれて玄関で高いびきをかいて伏せてしまったのがおかしい。「もうだいぶ

遅くなって今晩は落合さんを訪ねることもできないな」と言うので「それはまた後日に

して今夜は家で遊んでいってください」と言うと「今までになったものを、いつ帰って

も大して違いはないですね、ではもう少し居させてください」と身を落ち着けて話す。

「月給をもらって以来1日も待合の2階で遊ばない日はなく、今日までにすべて使って

しまって懐には5厘銭が一つだけ、煙草を買う金もない」と言うので、巻煙草を買って

やる。話すこと4時間、暇乞いして帰る時、遅い月が高く冴えて一段と輝く光景が身に

沁みるようだった。人の原稿を見せてくれて「平田という人が君の『にごりえ』の批評

を書くと言ってきた」と話した。

6日

 午後山下次郎さんが来た。関さんから昨日のお詫びの葉書が来た。

7日

 早朝平田さんが来たが邦子が留守だと言うと「いや、会いに来たのではなく『文芸

倶楽部』の9編を貸してください」と『にごりえ』の号を持って行く。読売新聞に批評

を書く為だろう。

 

 12月の30日に、馬場さんが近江から帰って来た。年末年始の休暇になったのだ。

実家でわらじを脱ぐより早く私の家に来たとのこと。邦子に大津絵の藤娘を書いた扇

を、家には小田原のかまぼこなどを土産にいただいた。4ヵ月も会わなかったので互い

に語り合うことが多かった。夜更けて帰る。それから川上君と訪ねるとのことだった。

 これを始めに、7日の朝に帰るまで一日も我が家を訪ねないことはなかった。時には

3人5人の友を連れてくることもあったし、時には1人で来ることもあった。大変おもし

ろく、にぎやかに過ぎた。

 

 6日に『文学界』の新年会というものがあった。私と三宅さんに別席を用意したので

ぜひご出席願いたいと星野氏から言いよこしてきたが、そのようなところにはしたなく

立ち入るべきではないので断りを出して行かなかったが、龍子さんも同じように断った

とのこと。『文学界』内でおもしろくないことがあったので馬場さんも行かないと言っ

ていたが、そうもいかずに出席したらしい、どんな様子だったのだろうか。

 

 昨年の秋、かりそめに手掛けた『にごりえ』の評判が世にかしましくもてはやされ、

冷や汗をかくような評論まで出てうるさいことだ。『十三夜』ももの珍しげに騒がれ

て、「女流中並ぶものがない」などと怪しげな評判が広がって心苦しい。そのことを

考えると骨寒く身が震える夜もある。こういうことこそ浮き世の様と言うのだろうか。

そのような人々が言い騒ぐことに真実の褒め言葉があるわけがない。女義太夫の三味線

の音色を聞き分けることもできずに心を狂わせるようなはかない人々が、一時の気慰め

に騒いでいるだけなのだ。そしてその声の中から、友の妬み、師の憤り、憎しみ、恨み

など限りなく生まれ出るのだ。何と浅ましく、情けないことだろう。虚名は一時で消え

るだろうが、一度人の心に生れた恨みは行く水のように流れていくとは思えない。私は

明白に「浮き世の波」というものを見た。しかしそれに乗ってしまったのだ。どうやっ

て引き返せばよいのか。この浅ましさの様子を少し書こう。

 

 毎日訪れる人々は花のように、蝶のように美しい。大島文学士の奥様の優しげな姿、

大橋とき子さんの被布姿の若々しさ、今は江木という写真士の妻となったが、関えつ子

さんの裾模様姿、妹の藤子さんの薄色綸子の中振袖、さらに華やかな江間よし子さん

の、秋の七草を染めだした振り袖に緋無垢を重ねたかわいい姿もよいし、師範学校

両教授(安井哲子と木村きん)の制服の鼠と鶸色の三枚重ね、どれも嫌なものがない。

 一昨年の春は大音寺前で一文菓子を売って親戚も近寄らず、訪れる知り合いもなく、

来る客といえば悪所のごみに舌鼓を打つ者ばかり。およそこの世の下流といってもあれ

ほどのものはないだろう。捨てたような体で寄る辺もなかったのに、今日の私の成り

上がり様は、ただ浮き雲が根もなく空に漂っているようなものだ。家に集まるのは世に

その名が聞こえ渡る紳士、商売人、学士など社会で高い地位にいないものはない。

夜更けに落ち着いて静かに思えば、私は昔の私のままで、家も昔の家のままである。

どうしてそうなったのかはわからなくても、浮き沈みによって人の意向は変わるのだろ

う。ということはたやすいのは人の世で、侮りがたいのも人の世だ。その声が大きい時

は千里に響き渡るが、声の低い時には隣人でさえ知ることはない。

 

 『国民の友』春季の付録を書くのは江見水蔭、星野天知、後藤宙外、泉鏡花と私の

5人である。早くから人々の目が注がれ、耳そばだててこれこそ今年初めの花と待ちわ

びられていたので、世に出たとなると、すぐに湧き出るかのように評論がかしましい。

新聞、雑誌、多少文学に縁のあるものは先を争い掲げないものはない。一月の末には

それも大方収まった。奇妙なことにここでも私が勝利し「読書社会では割れるような

喝采」とまで評判になった。評論界の泰斗とされる内田不知庵が口を極めて褒めている

とか、皮肉屋の正太夫が『めざまし草』初号に書いたのには「『道成寺』に見立てて、

白拍子一葉、同宿水蔭坊、天知坊、何某、くれがし』」と数えているとか、へつらう

者は万歳を繰り返し、そねむものは顔を背けて、私を見る目は仇のようだ。

 『にごりえ』に続いて『十三夜』『わかれ道』など大したものでもないのにこのよう

に取りざたされると、私はただただ浅ましくて物も言えない。「この24、5年ほど打ち

絶え、眠っていたような文学界に妖艶な花を咲かせ、春風が一気に訪れたように全盛な

舞台となったのはひとえに彼女の力である」などと書く者や、口にする者もいる。

「どんな人が書いているのか、顔を見てみたい」とつてを求めて訪ねてくる人も多く、

知り合いに託して物を送ってくる人もいる。編集者からは先を争って「書いてほしい」

と引けも切らず頼んでくる。夜に紛れて我が家の表札を盗んでいく者もある。雑誌社に

は私の書いた原稿用紙は一枚も見当たらないという。それはどこそこの学生がこぞって

もらいに来るからだそうだ。閨秀小説が売れるのは前代未聞で、すでに3万部を売り尽

して再版することになった。最初は大阪だけに700部送ったが1日で売り切れたので再び

500部を送った。それも3日も持たないだろうとのことだ。大阪の上野山仁一郎という人

が「愛読者の一人です」と訪ねてきて、彼の地での私の評判を語り聞かせてくれた。

「私たち崇拝者が集って歓迎会を催しますので、この春は大阪に遊びに来てください。

手狭ですが別荘のようなものもありますのでぜひ」などと誘われた。尾崎紅葉、川上

眉山、江見水に私を加えて、張り交ぜの二枚折りの銀屏風を作りたいそうで、「裏張り

は大和錦にしてこれを『文学屏風』と名付け、長く我が家の家宝にしたいのです。原稿

用紙を一枚いただけないでしょうか」と熱心に言う。「お金が必要なことがあればいつ

でも遠慮なくご連絡ください。必ず調達いたしますから」とも言う。「ひいきの相撲

取りに羽織を投げる伝だ」とおかしい。