みづの上日記

 ウエストサイドストーリー、初めて観た子供の時「死にかけてるのに歌ってるとは…

はよ救急車呼ばんかい」と思ったような不粋者なので、この度の新作にも興味はなかっ

たのだが、映画評を読み、調べてみるとこの周辺ではイオンシネマというものがあって

月曜日は1,100円で鑑賞できる!古典ミュージカル映画はまあまあ見ている私なので押さ

えておこうと予約した。映画館は音がでかすぎて苦手なのだが音楽物(さらに音でか)

は時々行く。ってほども行ってないな、ど田舎に住んでるせいもある。グールド、ブエ

ナビスタ、ファンク・ブラザース、あと誰だっけ調べたらフォー・トップスじゃなかっ

たけれどその手のグループの伝記映画、モデル映画だったかな。ほか忘れた…もったい

な…ドリームガールス以来だからずいぶん経つ。めったに行かない、そして雪のない所

へ行ってめったにしないことをするって楽しみだな。都会でオサレなものも食べたい。

 父が洋画好きで、ご自慢のベータで録りまくったNHK名画劇場…チャップリン

ヒッチコック、ミュージカル、デュヴィヴィエ監督もの…フェリーニの「道」は特に

孤独な私の友だった。よい思い出のない父ではあるが、映画と、収集した多種の本は

私の身になっている。引っ越しを重ねて散逸してしまい、今になって読みたいものが

もっとあったのが残念。そして癇癪持ちと傲慢だけを受け継いだことも…。

 

 

 6月に入って二人入門した。一人は野々宮さんの紹介で三浦るや子という何某校の

教師、一人は榊原家の召使だろうか、いさ子さんから手紙で頼まれた伊東せい子という

人だ。こちらは習字の弟子なので手本を書いてやる。

 

 9日

 中島の月次会だが、断って行かなかった。三宅龍子さんから頼まれて『通俗書簡文』

をこの日に持っていく約束だったが、それもできずに博文館に頼んでそちらから送って

もらうことにした。9日に大橋佐平氏(博文館社主)、新太郎氏の連名で「創業9周年の

祝賀会をするので、14日の午後、両国柳橋亀清までお越しください」と招待状が来た

が、もともと行くべきものでもないので断りを出す。

 10日の夜、平田さんが来た。「星野さんに変に邪推され、僕と戸川君が君のところ

に毎日のように入り浸っていると小言を言われてしまった。なので戸川は『もう二度と

君を訪ねない』と言っている」と話した。「それは困りましたね、お名残り惜しいこと

です」と言うと「いやあ、そんなこと言ったって来ずにはいられまい、そのうち来ます

よ」などと言った。しばらく語るうちに川上さんの話になった。「お父上が亡くなった

後、あなたは彼を訪ねましたか」と聞いたところ「いえ、まだお悔やみも出していない

のです。大変申し訳なくも」と答えるので、「行っておあげなさい、ただ一人のお父上

を失ってさぞ心細いでしょうから」と言って「あなたがもしあちらに行くことがあった

ら、私の罪もお詫び申し上げてください。『お悔やみをと思いながらいつしか時が経っ

てしまい、いまさら出すのも変なので出せずじまいでした』と」と頼む。「近いうちに

必ず行きます、そして彼を連れてきましょう」などと言っているうちに門口に足音が

して、「いらっしゃいますか」という声が噂の人のようなので「川上さんでは」と立ち

上がると、平田さんも立ち上がって迎えに行く。思いがけない人がいたので川上さんは

あきれ戸惑っていた。顔がかなり赤く、だいぶ飲んで来たようだ。二人であれこれと

お悔やみを言うと、「順番ですからね。それよりその後の忙しさときたら、寂しいなど

と思う暇もなくいろいろな相談があって煩わしく、債権者からも攻め立てられるし、

どうしようもない忙しさです」とそう憂いた感じでもなく笑った。「お会いしなくなっ

て一年にもなりますか」と川上さんが言うと、平田さんがハハと笑って「そんなことが

あるものか」と言った。川上さんは慌てて「いやお会いしなくなってではない、こちら

に来るようになって一年経つのではないですか、去年の今頃だったでしょう」と言うの

で、「そうですよ、去年の先月26日にお見えになったのが最初です」と私が言うと、

「なんとよく覚えていることだ」と言われた。「最近は二か月ばかりお見えにならなか

ったですね」と言うと「それほどではないでしょう」と指折って数え、「ああ、そんな

に経っていたのですね、人一人亡くなったのですから」と言った。何とはなしに話して

てるとずいぶん時間が経ち、平田さんが「さあ僕はおいとましましょう」と言うと、

川上さんも「一緒に帰ります」と立った。平田さんは「君は近くに住んでいるのだから

もう30分でもいたらいい、僕は遠いのだから」と意味ありげに言ったが「後に残って

まで話すことはない、一緒に出よう」と出て行った。10時半だった。

 

 11日

 早朝三木氏が「合評会の日取りを決めましょう」とやって来た。私は入会するとは

言ってもいないのに独り決めしてしまい、「露伴も兄もその日を楽しみにしているので

必ず出席してください、まずはいつにしましょう、今週13日か次の土曜日、どちらが

ご都合がよいですか」と言う。私は行く気がないので「どちらでも結構です」と答える

と「では13日に決めましょう、午後1時に千駄木(鴎外の家)で」と言いながら帰って

いった。「なんとやりきれないことだろう、あちらこちらから入会や出席の案内が来て

いるのに、ここだけ出るわけにはいかない。『白ゆり』からも人が来ると言ってきて

いる。どうしよう」と母と邦子と寄り集まって話し合う。「ともかくすぐに手紙を書い

てお断りしなければ」と千駄木の森さんに手紙を出す。特に何も書かず、ただ「臆病者

ですから晴れがましい席は恥ずかしいので」とした。

 

 6月中は全く知らない人から手紙が来ること数多く、博文館に宛てたものもあれば、

家に直接届くものもある。静岡師範学校の寄宿舎から2人、加藤腸雪、関飄雨、神奈川

の小原与三郎、房州からは原良造、群馬の田島せいという女性などで、小説をよこして

直してほしいと言ってくるもの、文通しましょうというものがある。女性で小説家に

なりたいという人には、「絶対にそんなことをするものではありません」と自分の身の

つらさを書きつらねて送っている。

 

 6月17日のことだった、博文館に届いた手紙の一つに樋口勘次郎という高等師範の

卒業生からのものがあった。学生の頃から教科書の改良を目標にしており、校長にその

話をするとそれはよいことだと賛成を受け、卒業して一年、一筋に取り組んできたが

思うようにいかず苦しんでいるとある。

「かねてよりあなたの作品を読んで、このように自在な筆を持って、思うままに書ける

ならどれだけ世の人の為になるだろうと思っていました。大層言いづらいことですが、

私のこの情熱を汲んでくださいますなら、私のためにほんの少しでもご助力いただけ

ないでしょうか。こういうことは人を介してお願いすべきですが、変に間違って伝え

られるのも残念なので、直接お願いいたします」と書いてあった。あちこちの出版社

から雑誌の話が来ることとは違い、これほど教育熱心な人が言葉丁寧に頼んできたの

にそれを聞かないのは不本意だ。私にできるかどうかはわからないが、ともかく会って

みて話を聞いてから判断しようと思い「いつでもいらしてください。お目にかかって

お話ししましょう」という返事を出すと、その後この人から「大変ありがとうございま

す。23日の火曜日にご在宅をお願いします。必ず伺います」と手紙が来た。

 この日は戸川残花氏からの依頼で、明治女学校建築費義援金のための慈善市に出す

扇面や短冊を書いて送った。この頃絶えて中島先生をおたずねしていない。