水の上

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 真っ白の世界でも出ればドロドロビショビショ、家はヒエヒエでいいとこないわあ。

 

2日

 早朝に石黒虎子さんが稽古に来る。午後西村さんが来て話をしていると川上眉山さん

が来たとのこと、奥の部屋に通して茶菓を出す。今日は先日見たような金の指輪に糸織

の小袖といった華美な姿ではなく、博多結城の単衣に角帯を締めて羽織も着けず、風呂

に行くのか手ぬぐいを持っていた。ひどく人生について思い悩んでどうしようもなく、

ものの分別もつけられなくなったと言って、「頭が痛くてのぼせ、いつも夢の中にいる

ような心地なのです」、「今日も気分が悪くてしばらく眠ろうかと横になったがそれも

できず、せめて君を訪ねて変わった話でも聞かせていただこうかと来ました」などと

言う。「それはあなたの小説が変化する時機なのでしょう。ひたすらに懐かしく、優し

い方向だけに目を向けていたあなたが本当に心を悩ませれば、人の世の憂さ辛さや人情

の機微を細かく書き表せるようになるのではないでしょうか、一段上に上がる時が来た

ので嬉しいことですよ」と言い、いろいろ話した。私の経歴を話すと「だからあなたは

そのように成熟して、思いやりがあるのですね。それに思いがけないほど素直だ。その

柔和な心でよくこのつらい世の中を耐え忍び渡ってこられたものですね、その心の下の

どこかに強いところがあるからなのでしょう。男の負けじ根性を持っていてすら浮き世

の波にもまれて、溺れない人は少ないというのに、優しい女性の身で、このように世に

立ち向っているとはなんと得難い人でしょう。自伝をお書きなさい、今僕が聞いた話

だけでも確かに人を感動させる値打ちがある。君には気の毒かもしれないが、君の境涯

は本当に詩だ。珍しい境涯だ。今までの経験は全て詩であり、人生における学問では

ないですか。お奮いなさい、君が女流文学を志せば今後の日本文学に一筋の光が差し、

さらにこの世に気魂を伝えられることでしょう。筆を持って世に立ち向かいなさい」

などと言うので「そんなにそそのかすものではないですよ、ただでさえ女はいい気に

なりやすいのですから」と笑うと「君は実に遠慮深いのですね。それならこれから私は

出版社と画策して君に催促させましょう、人が勧めないと君は書かないのだから」と

笑った。やがて日暮れが近くなったので「また来ます」と帰った。3年もの知己のよう

だ。この夜邦子と本郷に買い物に行く。帰ると留守中に馬場さんと誰か2、3人連れで

来たが私がいないと聞いて帰ったとか。おおかた禿木さんと秋骨さんだろう。

3日

 田中さんの例会だが出ずに、午後三崎町に半井先生を訪ねると「飯田町の本宅にいら

っしゃいますのでそちらへお越しを」ということなので4丁目21番という、田中さんと

道ひとつほど隔てたところに行く。黒塀にしだれ柳が植えられ、雅やかではないが広い

家だった。5年ぶりにおこうさんと会った。ご主人のお悔やみを言っているともの悲し

く、ただただ涙ぐまれた。鶴田さんが生んだ千代という今年5歳になっている子が、私

に大変なついて離れたくなさそうにしているのは本当の母親と思い違いしているのか、

哀れ深い。「千代ちゃんは私を忘れてしまったでしょう」と言うとふさふさしたおかっ

ぱ頭を振って「忘れていません」と言う。2階に上がる階段が昇りにくいので私の手に

すがりついて来るのもかわいく、茶菓を運ぶのを危ないと言われても「誰も触らない

で、お客様には私が持って行くの」とこまごまと立ち働く。そうしているとおこうさん

の子も目を覚ましたので抱いて見せに来た。まだ生まれて10ヶ月くらいとのこと、よく

太って、まるで人形のようにくりくりとしていて愛らしい。目も鼻もとても小さく、

泣くことはめったにないと言うので喜んで抱かせてもらい、でんでん太鼓や犬張り子で

あやしているといつの間にか馴れて、私の膝にばかり来る。「これは不思議なこと、

おとなしい子ではあるけれど、見慣れない人にはむずかって手も触れさせないのです

よ。先日野々宮さんや大久保さんがあやしてくれた時も大泣きして困ったのに、今日は

こんなに馴れて喜んで」とおこうさんはいぶかっていたが、半井先生はほほ笑んで、

「縁があるからだよ」とこともなげに言った。寿司を取り寄せ、果物を出すなどご馳走

される。4年ぶりに半井先生の本当の笑顔を見られた気がして嬉しく、曇っていた心が

晴れるようだ。昔の美しさはどこへ行ったのか、雪のように白い肌は黒くなり、高い鼻

ばかり目立ってしまっている。肩幅の広かったのも、膝の肉が厚かったのもみな薄くな

ってしまい、見たところ四十男といってもおかしくない。そうはいっても懐かしげに物

言う様子は、たいていの若盛りよりも醜くはない。ただただ本当の兄のように、伯父の

ように思われる。「君はいくつになったの、24歳か。5年前に会い始めた頃と全然変わ

らないね」などと心置きなく話している。私がこの人のために人生を苦しみ尽して、

どれほど涙をのんだかとは思いもよらないで、ただの友達だと思っているのだろう。

今の私は全ての欲から脱して、仮にもこの人と人並みに楽しく暮らそうなどとは賭けて

も思わない。はたまた過ぎた悔しさを呼び起こして、この人が目の前で死んでも涙を

流すものかという決心も消え去っているのでただただ懐かしく、仲の良い友達として

過ごしたいと願うばかりだ。そう思ってこの人を見れば、菩薩と悪魔を裏表に持って

いても、本当の御仏を見ている心地になれたのがいいようもなく嬉しい。日暮れ近く

なり暇乞いして帰ろうとすると「ではまた来てください、私も雷さえ鳴らなかったら

訪ねますから。寄席にでも遊びに行きましょう」などと言う。「樋口様はお帰りです

か、私もお会いしたかったのに」とお父上も出てきた。「また来てください、ゆっくり

お話ししましょう」と誰も彼もが懐かしがってくれるのが嬉しくて、別れを言って出る

心は夢のようだった。帰ってすぐに風呂へ行く途中雨に遭う。この夜は大雨だった。

4日

 空は晴れた。新聞によると台湾で戦争が始まったらしく、芳太郎も今頃初陣だろうと

思う。

5日の午後、馬場君が来た。「2日の夜、秋骨と禿木を誘ってきたのに君は留守だった

ね」と少し気難しげだった。「あの日眉山がこちらに来たでしょう」と言うので「どう

してそれを」と聞くと「3日の昼過ぎに川上が家に来て、大野洒竹、禿木を呼び集めて

4人で箕輪の藤村を訪ねたらいなかったのです。悔しいがここで帰るのもおもしろくな

いので、今戸の渡しに乗って宮崎三昧を訪ねようということになったが、気が変わって

言問の某亭で一杯やって、帰りは雨になりほうほうの体で帰ったのです」と言ったので

「それはお盛んなことね」と笑った。その夜馬場君はそれほど話さずに帰る。

6日

 朝から平田さんが来る。乙羽庵の奥様も和歌の添削を乞いに見えた。午後野々宮さん

と安井さん、木村きん子さんという高等師範の同僚が和歌と文章を習いたいと来た。

この日の客は、西村礼助、久保木の秀太郎、おこう様など合わせて10人ばかりだった。

7日

 午後西村さんが来た。少し話していると馬場、平田、川上の3氏が来た。紅葉の『男

ごごろ』と『心のやみ』『珍本全集』など貸してくれる。日没少し前に一同帰宅。

8日

9日

 今日は小石川の例会。午前中石黒虎子さんの稽古と野々宮さんの『古今集』の講義を

して午後から行く。この日は田辺龍子さんが来た。田中さんは頭痛が激しいと会半ばで

帰る。帰ったのはまだ日の高い内だった。この夜馬場君が来た。

10日

 小説著作に従事。全編15回で75枚くらいのものを作ろうとしている。いまだに筆は

思うままに動かず、母の叱責ばかり受ける。午後西村さんが来て少し話して帰る。

11日

 こと無し。午後馬場君が来て日没まで語る。

12日

 父の霊前に田舎まんじゅうを作って供える。邦子はこの2、3日病気で食欲がない。

しかしそれほどひどくはなさそうなので夜母を誘って若竹に小住の義太夫を聞きに行っ

た。留守中に馬場君が来たとのこと。邦子は眠っていて気がつかず、翌日知る。

13日

 午後馬場君が来たが上がらずに帰った。野々宮、安井、木村の三人が来た。

14日

15日

 朝から雨。小石川の稽古に行くと田中さんは湯治へ行ったとかで休みとのこと。午前

中田辺さんが来たが、それは私と約束があったのを違えないためですぐに帰る。午後、

車軸を洗い流すような大雨。おどろおどろしく雷が鳴るのでみな帰れずにトランプで

遊ぶ。家に帰ったのは日没後。雨は止んでよい日和になった。

16日

 家の稽古日。石黒虎子さんが来て、次いで野々宮さんが『古今集』の講義に来て終日

遊び、帰ったのは4時頃。やがて盆を返すような大雨が降り出したので、さぞ難儀して

いるだろうと心配する。「家に1銭の蓄えもない上、差配に収める家賃も先月から延ば

してもらっているのでかれこれ3円はないといけない。伊勢屋に行くか、誰かに借りに

行くか」と言われる。「仕方がないので西村さんに頼みましょう」と日没後家を出た。

そこで3円借りる。帰ると孤蝶、眉山の両氏が来ていた。話が弾み12時までいた。

 

 さて、雪かきに行くか…疲れるし冷えるしぎっくり腰の種が怖いが仕方ない。