樋口一葉「十三夜 一」

                  一

 いつもは威勢のよい黒塗りの(自家用)車で、「それ門に車が止まった、娘ではない

か」と両親に出迎えられるのに、今夜は辻で飛び乗った車を返して悄然と格子戸の外に

立つと、家内から父親の相変わらずの高い声、「いわば私も幸運な一人だ、おとなしい

子供たちを持って育てるのに手もかからず、人からは褒められる。分をわきまえて欲を

出さなければこの上に望みはない、なんとありがたいことだろう」と話す相手は母様

だ、ああ何もご存じないのであのように喜んでいらっしゃるのにどの顔を下げて離縁状

をもらってくださいなどと言えるだろうか、叱られるに決まっている。太郎という子も

あるのにそれを置いて飛び出して来るまでにいろいろ思案し尽くしてのことだけれど、

今更年寄りを驚かせてこれまでの喜びを水の泡にさせることがつらい、やはり話さずに

帰ろうか、戻れば太郎の母と呼ばれていついつまでも原田の奥様、両親に高級官吏の婿

がいると自慢させ、私さえ倹約すれば時々はお口に合うものやお小遣いを差し上げられ

るのに、我儘を通して離縁となったら太郎には継母の憂き目を見せ、両親には今までの

自慢の鼻を低くさせ、人には何と言われるか、弟の行く末はどうなるか、ああこの身一

つの心がけから出世の元を止めてはならない。戻ろうか、戻ろうか、あの鬼のような夫

の元へ、あの鬼のような…、ええいやいやと身を震わせた途端よろよろとして、思わず

格子戸に音を立てたので誰だと大きな父親の声、道行くいたずら小僧の仕業かと思って

のことだろう。

 外からはおほほという笑い声、お父様私ですといかにもかわいい声、やあ誰だ誰だと

障子を引き開けて、「ほうお関か何だそんなところに立って、どうしてまたこんな遅く

に来た、車もなし、女中も連れずにか。やれやれまあ早く中に入れ、さあ入れ、どうも

不意に驚かされたようでまごまごする、格子は閉めなくてもよい、私が閉める。ともか

く奥の方へ、お月様が差す方へ、さあ座布団に乗れ座布団に。畳が汚いので大家に言っ

てはあるが職人の都合があると言ってな。遠慮はいらない、着物が汚れるからそれを

敷きなさい。どうしてこんな遅くに出て来たのだ、お宅ではみなお変わりないか」と

いつもに変わらずもてなされると針の筵に乗るようで、奥様扱いも情けなく「はい誰も

時候の障りもありません、申し訳なくもご無沙汰しておりましたがあなたもお母様も

ご機嫌よくいらっしゃいますか」と聞けば、「いやもう私はくしゃみ一つしない、お袋

はたまに血の道というのを始めるが、それも布団をかぶって半日もすればけろっとする

病だから大したことはないさ」と元気よくからからと笑う。「亥之さんが見えませんが

今晩はどちらかに行きましたか、あの子も変わらずお勉強ですか」と聞くと、母親が

にこにこしてお茶を勧めながら「亥之助は今しがた夜学に行きました。あれもお前、

おかげさまでこの間は昇給させていただいたし課長様がかわいがってくださるのでどれ

ほど心丈夫なことか。それというのもやはり原田さんのご縁があるからだと家では毎日

言い暮らしています。お前に如才はあるまいけれど、今後とも原田さんのご機嫌のいい

ように、亥之助はあのように口が重い質なのでいずれお目にかかってもあっさりした

挨拶しかできないと思うから、なにぶんにもお前が中に立って私どもの心が通じるよう

亥之助の行く末をお頼み申しておくれ。変わり目で陽気が悪いけれど太郎さんはおいた

していますか、なんで今夜は連れてこなかった、おじいさんも恋しがっておいでだった

のに」と言われて今更ながら悲しく、「連れてこようと思ったのですがあの子は早寝で

もう寝てしまったのでそのまま置いてきました。本当にいたずらがつのって聞きわけが

少しもなく、外に出ればあとを追って来るし家にいれば私のそばから離れず、全く手が

かかっていけません。なぜあんなでしょう」と言いかけて思い出すと胸の中に涙がみな

ぎるよう、思い切って置いては来たけれど今頃は目を覚まして母さん母さんと女中たち

を迷惑がらせ、せんべいやおこしであやしても効かず、みな手をやいて鬼に食わせると

おどかしてでもいるだろう、ああかわいそうなことをしたと声を立てて泣き出したくな

ったが、両親があまりに機嫌よさそうにしているので言いかねて煙草二、三服にまぎら

わせて涙を襦袢の袖に隠した。

 「今夜は旧暦の十三夜、旧弊だがお月見の真似事に団子をこしらえてお月様にお供え

した。これはお前の好物だから少しでも亥之助に持たせてやろうと思ったが亥之助が

極まり悪がってそのようなものはおよしなさいと言うし、十五夜にもあげなければ片月

見になってもよくない。食べさせたいと思うだけだったので今夜来てくれたのは夢の

ようだ、心が届いたのだろう。自宅でうまいものはいくらでも食べられようが親のこし

らえたのはまた別物、奥様気を捨てて今夜は昔のお関になって見栄もなく、豆でも栗で

も気に入ったものを食べてみせておくれ。いつでも父さんと噂するのに、出世したこと

は間違いない、どこから見ても立派になって、位の高い方々や身分のある奥様方とお付

き合いをして、原田の妻と名乗って通るには気骨の折れることもあろう。女中たちを

使ったり出入りの者への心遣いなど人の上に立つ者はそれだけ苦労も多い。里がこの

ような身分ではなおさらのこと、人に侮られないように心がけないとならない。それを

いろいろ考えると、父さんだって私だって孫や子の顔を見たいのはもちろんだが、あま

りうるさく出入りをしてはと差し控え、ご門の前を通る時があっても木綿の着物に毛繻

子の洋傘姿ではどうしようもなく、二階のすだれを眺めながらああお関は何をしている

だろうと思うばかり。実家がもう少し何とかなっていたならお前の肩身も広かろうし、

せめて同じくらいならもう少し息もつけられるものを。何を言ってもこの通り、お月見

のだんごをやろうにも重箱からして恥ずかしいではないか。本当にお前の心遣いが思い

やられる」と喜びながらも、気ままに行き来できないの愚痴をひとくさり、低い身分を

情けなそうに言われると、「本当に私は親不孝です、柔らかい着物を着けて自家用車に

乗り歩いていれば立派らしく見えましょうが、父様母様にしてあげようと思うことも

できず、私の上っ面がよくなっただけ。いっそ手内職をしてでもお側で暮らした方が

よっぽどよいと思います」と言い出したので、「ばかな、そのようなことを仮にも言っ

てはならぬ、嫁に行った身で実家の親に貢ごうなどとは思いもよらないこと。家にいる

時は斎藤の娘だが、嫁入っては原田の奥方ではないか、勇さんの気に入るようにして

家の内を納めていれば何の問題もない、骨が折れるといってもそれだけの運がある身な

のだから堪えられないはずはない。女というものはどうも愚痴が多くてお袋などもつま

らないことを言い出すから困る。今日だってお前に団子を食べさせることができないと

一日ご立腹だった。一生懸命に作ったものだから十分食べて安心させてやってくれ、

よほどうまかろうよ」と父親がおどけて言うので、また言いそびれてごちそうの栗や

枝豆をありがたくいただいた。

 嫁入ってから七年の間、今まで夜になって来たことはなく、土産もなく一人歩いて

くるなど全くためしのなかったこと。思いなしか衣類もいつもほど派手ではなく、久し

ぶりに会った嬉しさにあまり気がつかなかったが、婿からの伝言も一言もなく、無理に

笑顔を作ってはいるがその底にはしおれたところがあるので何かわけがあるのだろうと

父親は机の上の置き時計を眺めて、「もう十時になるが関は泊っていっていいのか、

帰るならもう帰らなければなるまい」と気を引いてみる親の顔を、娘は今更のように

見上げて、「お父様私はお願いがあって来たのです。どうぞお聞き遊ばして」と畳に

手をついて初めて流す涙、つもり重なったつらさを漏らし始めた。

 父は穏やかならぬことと改まって「何だ」と膝を勧めると、「私は今宵限り原田へ

帰らない決心できたのです。勇の許しを得て来たのではなくあの子を、太郎を寝かし

つけてもうあの顔を見ない決心で出てまいりました。まだ私の手以外では誰のお守りも

承知しないあの子をだまして夢の中に置いて、私は鬼になって出てまいりました。お父

様、お母様、察してください。私は今日までついに原田についてお耳に入れたことも

なく、勇と私との仲を人に言ったこともありませんでしたが、百度も千度も考え直し

て、二年も三年も泣き尽くして今日という今日どうしても離縁状をもらっていただこう

と決心を固めました。どうぞお願いです、離縁状を取ってください。私はこれから内職

なりなんなりして亥之助の片腕になれるよう心がけますので。一生一人で置いてくださ

いませ」とわっと声を立てそうになるのを襦袢の袖をかみしめて哀れである。それは

どういうわけだと父と母が詰め寄って聞くと、「今まで黙っておりましたが私の家で

夫婦が差し向っているところを半日も見てくださったら大体お分かりになるでしょう、

ものを言うのは用事がある時につっけんどんに申し付けるだけ、朝起きてご機嫌を伺え

ばそっぽを向いて庭の草花をわざとらしく誉める。これに腹が立っても夫のすることな

ののだからと我慢して言い争ったことなどありませんが、朝食をとる時からお小言が

絶えず、召使の前で散々私の不器用や無作法を並べたてます。それもまだまだ辛抱しま

すが、二言目には教育がない、教育がないとさげすまれるのです。それはもちろん華族

女学校で育った者でないことは確か、ご同僚の奥様方のようにお花やお茶、歌や画を

習ったこともなくそのお話の相手もできませんが、できなければ人知れず習わせてくだ

されば済む話。何も表向きに実家のよくないのを言いふらして召使に顔を見られるよう

なことをしなくてもよさそうなものです。嫁に行って半年ばかりの間は関や関やと下に

も置かないようにしてくれましたが、あの子ができてからというものまるでお人が変わ

って、思い出しても恐ろしくなります。暗闇の底に突き落とされたかのように暖かい光

を見たことがありません。始めの内は冗談に邪険にされるのかと思っていましたが、

私に飽きてしまったのでこうしたら出て行くかああしたら離縁を言い出すかといじめて

いじめていじめ抜くのです。お父様もお母様も私の性分はご存じ、たとえ夫が芸者に

狂おうとも囲い者を置こうともそんなことに嫉妬する私ではありませんし、女中たち

からそのような噂も聞きますが、あれほどの働きのある方なので男の身ならそんなこと

はありがちだとよそに行くのにはお召し物に気を遣い、お気持ちに逆らわないよう心が

けておりますのに、ただもう私のすることは一から十までおもしろくないと思われて、

箸の上げ下ろしの度に家の内が楽しくないのは妻のやり方が悪いからだとおっしゃる。

それもどこが悪いここがおもしろくないと言ってくださればよいのに、ただただつまら

ぬくだらぬ、わからぬ奴、とても相談の相手にはならぬ、いうなれば太郎の乳母として

置いてやっているのだと嘲っておっしゃるばかり。本当にあの人は夫ではなく鬼です。

ご自分の口から出て行けとはおっしゃいませんが、私はこのような意気地なしですから

太郎のかわいさに心引かれて、何を言われても口答えせずただただお小言を聞いており

ますので、張りも意地もないぐうたらな奴、それからして気に入らないと言うのです。

そうかといって少しでも私の言い分を負けん気でお返事したらそれを盾にとって出て

行けと言われるに決まっています。私はお母様、出てくるのは何でもありません、名前

だけ立派な原田勇に離縁されたからと言って一つも惜しいとは思いませんが、何も知ら

ない太郎が片親になるかと思うと意地も我慢もなく、お詫びしてご機嫌を取って、何で

もないことにまで恐れ入って今日まで何も言わず辛抱していました。お父様、お母様、

私は不運でございますと、悔しさ悲しさを打ち出して思いもよらないことを言い出した

ので両親は顔を見合わせてそのようなつらい仲なのかと呆れ、しばらくは言葉も出なか

った。

 母親は子に甘いものなので、聞くことすべてが身にしみて悔しく「父様はどう思うか

わかりませんが元々こちらからもらってくださいとお願いしてやった子ではなし、身分

が悪いの学校がどうしたのと、よくもよくも勝手なことが言えたもの。先方は忘れたか

もしれないが、こちらは確かに日にちまで覚えている。お関が十七のお正月、まだ門松

も取らない七日の朝のことだった。元の猿楽町のあの家の前で隣の小娘と羽根つきを

して、あの子のついた白い羽が通りかかった原田さんの車の中に落ちたのをお関がもら

いに行ったのを、その時に見初めたと言って人をよこしてやいやいともらいたがる。

ご身分に釣り合いませんし、こちらはまだ根っからの子供で何の稽古事も仕込んでおら

ず、支度といってもこのような有様ですのでと何度断ったかしれないのに、何も舅姑の

かましいのがいるのではなし、私が欲しくてもらうのに身分も何も言うことはない、

稽古は引き取ってからでも十分させられるからその心配もいらぬ、とにかくくれさえし

たら大事にするからとそれはそれは火がつくように催促して、こちらからねだったわけ

ではないのに支度まで整えて、言わばお前は恋女房。私や父様が遠慮してあまり出入り

しないのも勇さんの身分を恐れてではない、お妾に出したわけでもなし、まっとうに、

まっとうに百万遍頼まれてもらっていった嫁の親、大威張りで出入りしたって差支えは

ないけれど、あちらは立派にやっているのにこちらはこの通りのつまらない暮らし。

お前の縁にすがって婿に助けてもらっているのかという人様の思惑が悔しくて、やせ

我慢でもないが付き合いだけは身分相応に気を遣って、普段は会いたい娘の顔も見ずに

いるのです。それを何とばかばかしい、親なし子でも拾ったように大げさにものができ

るのできないのとよくそんな口が利けたものだ。黙っていては際限なくなって癖になっ

てしまいますよ。第一女中たちの手前奥様の威光が消え、最後には言うことを聞く者も

なくなり、太郎を育てるにも母親を馬鹿にするようなったらどうします。言うだけの

ことはちゃんと言って、それが悪いと小言を言われたら私にも家はありますと言って

出てきたらいいではないですか。本当にばかばかしい、それほどのことを今日の今日

まで黙っているということがありますか、あまりお前がおとなしすぎるからわがままが

募ったのですよ。聞いただけでも腹が立つ、もう引いているには及びません、身分が何

であろうが父もいる母もいる。年は行かないが亥之助という弟もいるのだから、その

ような火の中でじっとしていることはない。ねえ父様、一度勇さんに会って油を搾って

やったらいいではないですか」と母は怒り狂って前後を顧みない。