樋口一葉「われから 四」

                  十

 我と我が身について悩み、奥様はむやみに迷っている。明け暮れの空は晴れた日でも

曇っているかのよう、陽の色が身にしみて不安に思ったり、時雨が降る夜の風の音は、

人が来て戸を叩いているようで、淋しいままに琴を取り出して一人で好みの曲を奏でる

と、自分と自分の調べが悲しくなって弾くことができなくなり、涙をこぼして琴を押し

やってしまう。ある時は女中に凝った肩を叩かせて、心浮かれるような恋の話をさせて

聞いていると、人が顎が外れんばかりにおかしがって笑い転げるようなたわいもない話

さえいちいち哀れに思えて、自分の燃える思いのように感じている。ある夜、仲働きの

お福が声を改めて、「言わなければ誰も知らないことですし、言って私の得になること

でもないのですが、黙っていられないのがおしゃべりの癖、お聞きになっても知らん顔

をしていてください、おもしろい話があるのです」と調子づいて声を弾ませている。

「それは何でしょう」「お聞きください、書生の千葉の哀れな初恋を。国元にいました

時にそっと見初めたのだそうです。田舎者のことなので鎌を腰に差して藁草履、刈り

取った草を手ぬぐいに包んでいたこととお思いでしょうが、なかなかそうではなくて

美しい、村長の妹というような人だったそうです。小学校に通っているうちに思いが

深くなりまして」と言えば、「それはどちらから」と小間使いのお米が口を出す。

「黙ってお聞き、もちろん千葉さんの方からさ」と言うと「まああの無骨さんが」と

笑い出したので、奥様は苦笑いをして「かわいそうに、失敗した昔ばなしを探り出した

のですか」とおっしゃると「いいえなかなか、そのような遠くの話ではございません、

また追々」と襟を正して咳ばらいをすると、小間使いは顔を少し赤くして、似合いの

年頃なので悪口のお福が何を言い出すやらと尻目に睨んでいるのに構わず、唇をなめて

「まあお聞き遊ばせ、千葉がその子を見初めましてからは、朝学校へ行く時には必ず

その家の窓下を通って声がするか、もう行ったか、見たい、聞きたい、話したいなど

いろいろなことを思ったことでしょうね。学校ではものも言ったでしょうし顔も見たで

しょうがそれだけではおもしろくなくてもどかしく、日曜にはその家の前の川に必ず

釣りに行ったそうです。鮒やたなごはいい迷惑、釣っても釣っても夕日が西へ落ちても

帰るのが惜しく、その子が出てくるとよい、魚を全部やって喜ばせたいとでも思ったの

でしょうね。ああ見えてなかなかの苦労人」と言うので、「それはまあ、いくつの頃

叶ったのですか」と奥様が聞くと、「当ててご覧あそばせ、向こうは村長の妹、こちら

は水ばかり召し上がるお百姓、雲にかけ橋霞に千鳥などのきれいごとでは間に合いませ

ん、手短に言うなら提灯に釣り鐘。だいぶ隔てがありますけれど、恋に上下の隔ては

ないものですからまあ叶ったかのかどうか、お米どんどう思う」と謎をかけられても、

何か言わせて笑うつもりだろうと思い「私は知りません」と横を向いた。奥様は少し

微笑んで、「成り立たなかったからこそ今の身でしょう、そのようなことがもしもあっ

たのなら、あんなぼうぼう頭の洒落っ気なしではいられないはず。勉強家になったのは

そのやけからかしら」とおっしゃると「いえどういたしまして、あれがあなた、やけを

起こすような男でしょうか、無常を悟ったのでございます」と言うので、「それなら

その子は亡くなったのですね、かわいそうに」と奥様は哀れがる。福は得意になって

「この恋は言うも言わぬ(説明しなくて)も子供のことなので心だけで思って、表向き

には何もない月日をどのくらい送ったものでしょうか。今の千葉の様子を御覧になって

もあれの子供の時ならばと大体合点がいきましょう。患ってお寺のものになりまして

も、その後何を思っても答えるのは松の風(無常)ばかりでどうしようもないではない

ですか。さてこれからが本題でございます」と笑うので、「お福はいい加減な作りごと

を、本当らしい嘘を言って」と奥様が非難すると「まあなんで嘘を申しましょう、でも

これは私がお耳に入れたと言うと少し困るのですが、当人の口から聞いたのですよ」と

言うので「嘘を言って、あれがどうしてそのようなことを言うのですか、たとえわけが

あっても苦い顔で押し黙ってしまうでしょう。いよいよ嘘ですよ」とおっしゃる。「何

と情けないこと、そのように私を信用してくださらないとは。昨日の朝千葉が私を呼び

まして『奥様がこの四五日すぐれないように見えますが、どうしていますか』といかに

も心配そうに言いますので『奥様は血のせいで時々ふさぎ症にもおなりになるし、本当

に悪い時は暗いところで泣いていらっしゃるのはいつものこと』と言ったらあなた、

どんなにかびっくりして『とんでもないことだ。それは大層な神経質で悪くすると取り

返しのつかないことになる』と言いまして、それでその時話したのです。『私の郷里の

幼友達にこういう娘がいて、はきはきしているが神経が過敏でここの奥様にどうもよく

似ていた。継母だったので日頃の我慢が並大抵でなく、それが積もって病死したかわい

そうな子だった』とまああの男のことでございますから、真面目な顔でそのままを言い

ましたので、私が継ぎ合わせて考えるに先ほど申したようなことになるのです。その子

が奥様に似ていらっしゃると言ったのは嘘ではございませんが、知れると私があれに

怒られます。ご存じないおつもりで」と舌を回して叩く太鼓の音(ぺちゃくちゃと機嫌

を取る)は大層にぎやかに聞こえ渡った。

                  十一

 今年も今日は十二月十五日。世間は押し詰まって人の往来が大路に忙しく、出入りの

商人がお歳暮を持参してお勝手は賑わしい。急ぐ家では餅つきの音さえ聞こえるが、

ここではすす払いの笹の葉が座敷にこぼれて、冷や飯草履(すす払い用の藁草履)が

そこかしこの廊下に散り乱れ、雑巾をかけるもの、畳を叩く者、家内の調度を移動させ

るものもいれば振る舞いの酒に酔ってかえって荷物になる者もいる。ひいきを受けて

いる出入りの人々がお手伝いとうるさく言ってくるのを半分は断って、集まった人だけ

に甕のぞき(薄い藍染め)の手ぬぐいを切って分ければ一同手に手に、姉様冠り、唐茄

子冠り、頬冠り、吉原冠りをする者もいる。旦那様は朝からお留守で、指図をする奥様

を見れば、小褄を片手で引き揚げて友禅の襦袢が下に長く、赤い鼻緒の麻裏草履を履い

て、あれよこれよと仰せられる。ひとしきり終わった午後、お茶菓子を山のように運び

込み、大皿に乗った鉄砲(海苔)巻きは取っただけで終わりと指示して、奥様はしばら

く二階の小間で気疲れを休めている。血の道が強い人なので胸苦しさが耐え難く、枕に

小掻巻でかりそめに伏しているのを小間使いの米よりほか知る者はいなかった。

 奥様がとろとろとして目が覚めると、枕元の縁で男女の話声がする。それほどはばか

る様子もなくこの家の旦つくだの、奥州だのと(旦那、奥様)車宿の二階で言うような

言葉は奥様がここにいるとは夢にも思わないからだろう。一方は仲働きのお福の声。

「丁寧に丁寧にとおっしゃるけれど一日でどうやってそんなに行き届くものかね、隅々

までなんてやってやられますか。目立つところをさっと掃いて、後は野となれ山となれ

さ。それでも加減疲れるよ。そんなにお前、正直で務まるものか」とあざ笑うように

言えば、「本当だ」と言う相手は茂助(車夫の親方)のところの安五郎の声。「正直と

言えばここの旦つくの例の、飯田町のお波のことを知っているか」と聞くとお福は百年

も前からだと言わんばかりに「それをご存じないのはここの奥様たった一人、知らぬは

亭主のあべこべだね。私はまだ見たことはないが色の浅黒い面長で、品がいいというで

はないか。お前は親方の代わりにお供することもあるんだろう、拝んだことはあるのか

い」と聞くと、「見たどころか、格子戸に鈴の音がすると坊ちゃんが先立ちに駆け出し

てくる、続いて現れるのが例のさ。髪の毛自慢の櫛巻きにしてあっさりした薄化粧、半

襟付きに前垂れの普段着で「おやあなた」と言うじゃないか。するとここのがデレデレ

して『久しく無沙汰をした、許せ』とか言って敷居に腰を掛ける。例のが駆け下りて靴

を脱がせる、みっともないほど睦ましいとはああいうことだろう。旦那が奥へ行ったら

お供さんご苦労、これで煙草でも買っておくれとそれ、鼻薬(口止め)が出る次第さ。

あれでお前、素人だから感心だ」とほめると「素人も素人、無垢な生娘上がりだと言う

じゃないか。旦那とは十何年の仲で坊ちゃんも今年は十か十一になろう。都合の悪い

ことにこちらには一人も子宝がなくて、あちらには立派な男の子がいるのだからゆくゆ

くを考えるとお気の毒なのはここの奥様、どうにもこれは授かりものだから」と言うと

「仕方がない、前の旦那が十分搾り取った身上だから、人のものになったって理屈は

あるまい。でもお前、不正直なのはここの旦那だろう」と言う。「男はみんなあんな

もの、気が多いからね」とお福が笑い出すと、「当てっこすりするなよ、耳が痛いじゃ

ないか。俺はこう見えても不義理と土用干しはしたことがない人間だ。女房をだまくら

かして妾のところへつぎ込むような不人情はしたくてもできない。それだけ腹が太く

偉いのだろうが、考えれば今の旦那も鬼の性だ。二代続いていよいよ根が張ることだろ

う」と聞く人などいないとばかりに高い声、お福も相槌はいつもの調子で、「さてもう

ひと働きやってのけよう、安さんは下回り(庭)を頼みます。私はここをもう一度ここ

を拭いて、次はお蔵だ」と雑巾がけを始めたので、奥様はただこの境のふすまが命、

「開けずに行ってほしい、顔を見られるのはつらい」と思っていた。

                  十二

 十六日の朝早く、昨日の掃除の跡が清い納戸めいた六畳の間に、置炬燵をして旦那様

と奥様が差し向い、今朝の新聞を押し広げて政界のこと、文界のことなど語り尽きず、

よそ眼に見てもうらやましくおもしろそうに見えたが、旦那様もよい時分だと見計らっ

て、「足りないもののない家に子がないだけが惜しい、お前にいたらこの上ない喜びな

のだが。もしいよいよできないとなったら貰い子をして思い通りに教育したらと明け

暮れ心がけていたが、なかなかいい子が見つからなかった。私も年が明けたら初老の

四十になる。年寄りじみたことを言うようだが家の跡継ぎが決まらないと何かにつけて

心細く、最近のお前のように淋しい淋しいと言い詰めるのも、(同じような)理由が

あるのではないか。幸い海軍の鳥居の知人の子で素性も悪くなく、利発に生まれついた

男の子があると聞いたが、お前に異存がなければそれをもらって大事に育ててみたい。

全ての手続きは鳥居がして彼の家が里親になってくれると言うし、年は十一で器量も

よいそうだ」と言うと奥様は顔を上げて旦那様の表情を伺いながら、「それはよいお考

えですね。私にかれこれ言うことはありません。よいとお思いならお取り決めください

ませ。ここはあなたの家でございますから何なりと思いのままに」と平静に言いなが

ら、もしやあの子ではないかという不安が顔色に表れ出たので、「何急ぐことはない、

よく考えて心にかなったらその時のこと、あまりうつうつとして病気になってもいけな

い、少しは慰めになるかと思ったのだがあまりに軽率だったかもしれない。人形や雛で

もない人一人おもちゃにするわけにはいかないし、出来損ねたからといって塵塚に捨て

ることもできない。家の礎にもらうのだからもう一度よく聞き定め、取り調べてみた上

のことだ。ただこの頃のようにふさいでいたら体のためになるまいと思うから、これは

急がないことにしてちょっと寄席を聞きにでも行ったらどうか。播磨が近いところで

かかっている、どうだ、今夜行ってみないか」と機嫌を取ると、「あなたはなぜそんな

優しそうなことをおっしゃいます、私は決してそのような所へ行きたいと思いません。

ふさぐときにはふさがせておいてください、笑うときには笑いますから心任せにさせて

ください」とさすがに思い切っての恨みも言わないが、心に籠って憂鬱そうにしている

ので、良人は浅からず気にかかり、「なぜそのような捨て鉢なことを言うのだ。この間

から何かと奥歯にものの挟まったような、いちいちひっかかることが多いぞ。この間の

小梅、あれのことではないか。それなら大間違いこの上なし、何の気もないことだから

心配は無用、小梅は八木田の数年来のもので誰にも指を差させはしない。それにあんな

痩せ枯れ、花はとっくに散って紫蘇の葉に包まれようというくらいのもの、どれほどの

もの好きなら手出しをしようか。邪推もいい加減にしてくれ、あのことなら清浄無垢、

潔白だ」と微笑を含んで口ひげをひねっている。飯田町の格子戸のことなど噂にも知ら

ないだろうと思っているのでその備えもせず、防御策も取らなかった。

                 十三

 様々なことを思うので、奥様は時々癪を起こす癖がつき、激しい時はあおむけに倒れ

て今にも絶え入るような苦しむ。始めは皮下注射をしてもらうために医者を待つことも

あったが、日毎夜毎度重なると、力強い手で強く押さえれば一時はまぎらわせることが

できるようになった。男の力が必要なので発作が起きると夜と言わず夜中と言わず千葉

を呼んで反り返る背中をさすらせると、無骨一遍の律儀な男なので身を忘れて介抱を

する。それが人目に怪しく思われて、ひそひそ話がやがて表沙汰になるものだ。離れの

部屋の六畳を人は奥様の癪部屋と名付けて浅ましい乱行をしているように見れば、この

間も怪しかったとあの霜降る夜のことから羽織の一件まで持ち出され、ささいなことも

大げさな話になったので、奥様は大変難しい立場となった。

 仲働きのお福はかねてより奥様のお下がりの本結城(紬)をいただけると思っていた

のに空しく、いろいろ厄介になったからとそれを新年着に仕立て直して千葉にやったの

でその恨みが骨髄に徹し、それからは見る目もゆがむようになって女髪結いのお留を

つかまえては珍事が発生したと例の口車を回したので、この電信がどこまでもつながっ

て一町ごとに話は膨らみ、いつしか恭介氏の耳に入りこれは安からぬことと胸が騒い

だ。家付きでなければ離縁することもできるが、世間の噂もある、別居して引き離すの

はあまりに不憫だ。といってこのままにしておけば家庭内の乱れは世からの攻撃の種に

なる。そのような災難が今の身の上に降りかかると大変困るのでどうしようかと悩んだ

が、我儘も勝手も大げさに咎めだてはしなかった。金村の妻として世に恥ずかしいこと

だと思ってはいるし、差し置いてもいられない事件なので世間がやかましく、親しい

友達も連れ立って来て勧告するので、今日は今日はと思いながら時は過ぎて行った。

 歳も改まり、松の内が過ぎたらと思い、松を取ったら十五日あたりにはと思いながら

二十日が過ぎて一月は空しく、二月になっても梅見を考えることもなく、翌月は小学校

の定期試験があるので飯田町の方では笑顔で心待ちしているのを見ても楽しくなく、家

のこと、町子のことをどうしようかとばかり考えている。谷中に知人の家を借りて調度

など万事揃えてそこへやろうとしているが町子の生涯を哀れに思い、人知れず涙に暮れ

て自分の不徳を思うこともなくはないが、今こそと決めて四月初旬、浮世は花に春雨が

降る夜、別居すると言い渡した。

 すでに千葉は追い出され、恨みをどこで嘆けばよいのか。清くない名を負わされて、

永代橋からの船に乗って帰国した姿を確かに見たと言う者もいる。

 つらいのはその夜のこと。車の用意など何くれと整えた後、「話すことがあるので

こちらへ」と良人が言うので、今更ながら恐ろしく書斎の外に立つと「今夜からお前は

谷中へ移って、もうこの家を自分の家と思うな。帰れるものと思うな。罪は自分でわか

っているだろう、早く行け」と言う。「それはあまりのお言葉です。私に悪いところが

あれば何とでも叱ってください。いきなり言われたことを聞くことはできません」と

言って泣いても恭介は振り向きもせずに「わけがあるからこそだ、ひどいと思われても

よい。いちいち罪状を言い立てればお前もつらかろう、車の用意をしてあるから乗る

ばかりだ」と言ってすっと立ち、部屋の外へ出ようとするのを追いすがって袖を取れ

ば、「離せ不埒者」と振り切る。「あなたは私をどうしてもそうするのですか、私を

浮世の捨て者になさる気ですか。私は一人っきりで、この世に助けてくれる人もいませ

ん。この小さい身を捨てるのにはわけがあるのでしょう、うまく捨ててこの家をご自分

のものにするおつもりですか、取ってみなさい、私を捨ててみなさい、私にも一念が

ございます」とはたと睨むのを突きのけて後ろも見ずに、「町、もう会わんぞ」。