樋口一葉「うらむらさき」

 夕暮れの店先に郵便脚夫が投げ込んでいった女文字の文一通。こたつの間の洋燈の下

で読んで、くるくると巻いて帯の間に収めると(落とさないかと)立ち居の気配りが

並大抵ではなく、顔色に出ると見えて結構人(お人よし)の旦那様がどうかしたのかと

聞く、「いえ、大したことではありませんが、仲町の姉が何やら心配ごとがあるとやら

で、自分から行けばいいのだけれどやかましい夫がうるさく暇を少しもくれないので、

夜はもちろん帰りは送らせるから旦那様にお願いしてちょっと来てもらえないか、待っ

ていますという文でございます。また継娘ともめごとでも起こしたのか、気の狭い人な

ので何ごとも口にはできずに胸を痛めるのがあの人の性分、困りものでございます」と

わざと高笑いをして話して聞かせると、なんと気の毒なと太い眉を寄せて「お前にすれ

ばたった一人の姉妹、いいことも悪いこともそれぞれ聞いてやる役を笑いごとにしては

おけまい、何の相談か行って様子を見たらよい、女は気が狭いものだから待つとなれば

一時も十年のように思うだろう、お前の怠りを私のせいと思われて恨まれては気が収ま

らない、夜は特に用事もなし、早く行って聞いてやるとよい」とかわいい妻の姉のこと

なので優しい許しが願わなくても出た。飛び立つほど嬉しいのを見せずにわざと「では

行きましょうか」と不承不承箪笥に手をかけると、「不実なことを言わずに早く行って

やれ、先はどれほど待っているか知れないぞ」と何も知らない仏のような旦那様が急か

せる。知らず知らず鬼の心を持つ顔がほてり、胸の動悸が高まった。

 糸織の小袖を重ねて、縮緬の羽織に御高祖頭巾、背の高い人なので夜風を厭って着け

た角袖外套がよく似合う。では行ってきますと店口で駒下駄を直させながら、太吉太吉

と小僧の背中を人差し指の先でつついて「お舟を漕ぐ(うとうとする)真似に精を出し

て、店の物をちょろまかされないようにしておくれ、私の帰りが遅いようなら構わずに

戸を下ろして、行火(あんか)に当たるならいつまでも床の中に入れておいてはいけま

せんよ、おさんは台所の火の元に気をつけて、旦那様の枕元にはいつもの通り湯沸かし

煙草盆を忘れないようにしてご不自由させませんように、できるだけ早く帰ります

が」と硝子戸に手をかけると旦那様が声をかけて「車を呼んだらどうか、どうせ歩いて

は行かないのだから」と甘い言葉、「何、商人の女房が店から車を乗り出すなど贅沢の

沙汰でございます。そこいらの角からいいように値切って乗ってまいります、これでも

勘定は知っていますから」と可愛らしい声で笑うと、世帯じみたことをと言いながらも

旦那様は満足顔。それを見ないようにして妻は表に出て空を見上げてほっと息をつく

と、曇りかけた表情の雲がまた深くなった。

 どこの姉様から手紙がくるのか真っ赤な嘘を、と我が家を見返り、何事もご存じなく

快く暇をくれるもったいなさ、あのように毒のない、疑うという気持ちを露ほどにも

持たない心の美しい人を、よくもよくも舌先三寸でだまして好き放題の不義放埓、これ

が人の女房の所業だろうか、何という悪者、人でなし、法も道理も無茶苦茶な犬畜生の

ような心だろう、このような空しい畜生をご存じないとはいえ天にも地にもないかの

ようにかわいがってくださって、私のこととなれば自分の身もないようにして(私の)

言葉を立ててくださる思し召しがありがたくも嬉しくも恐ろしい。あまりのもったい

なさに涙がこぼれる。あのような夫を持っているのに何が不足で剣の刃を渡るような

危ない企みをするのか、あの人の好い姉さんまで引き合いに出して三方四方嘘で固めて

この足はどこへ向くのか。本当に私は悪党、人でなし、いたずら者、不義者、何という

心得違いだと辻に立ち止まって歩くこともできず、横町の角を二つ曲がって今は見えな

い我が家の軒先を振り返っては熱い涙をはらはらと流した。

 夫の名は小松原東二郎、西洋小間物の店は名ばかりで、有り余る身代を蔵の中に寝か

せて、現世の算用など知らないお人よし。恋女房のお律がすばしこく店を取りしきり、

外交上手、美しいまなじりで夫のご機嫌を和らげて、可愛らしい口元からお客様への

お世辞も出る、まだ年も若いのにお利口なお内儀様だと人々から褒められるこの人の裏

の働きを知られぬようにくらませているが、優しい夫の心にまとわりつかれた気がして

お律は路傍に立ち尽くしたまま、行くまいか行くまいか、いっそ思い切って行くまい

か、今日までの罪は今日までの罪、今から私さえ気を改めればあの人もそうは未練を

言わないだろう。お互いに清い付き合いをして、人が知らないうちに汚れを雪いでしま

えば今後のあの人のため、私のため、中途半端に恋しがって付き纏っても晴れて添える

仲ではない。かわいい人に不義の名を着せて少しでもこれが世間に知れたらどうしたら

いいのか。私はともかくあの人は出世前、一生を闇にさせてそれで私は満足だろうか。

おお厭なこと、恐ろしい。何と思って私は会いに出たのか、たとえ文が千通来ようと

行きさえしなければお互い傷にはなるまい、もう思い切って帰りましょう、帰りましょ

う、ああもう私は思い切った。と道を反対に駒下駄を返せば折り悪しく夜風が冷たく

吹きつけ、夢のような考えがふっと吹き破られた。ええ、こんな弱い心に引かれてなろ

うか、最初あの家に嫁入りした時から東二郎殿を夫と決めて行ったのではない、体は

行っても心は決してやるまいと決めていたのに今更何の義理を張るのか。悪人でもいた

ずらでもかまわない、お気に入らなければ捨ててください、捨てられれば結局本望、

あのような愚か者様を夫に奉って吉岡さんを袖にするような考えをなぜしばらくでも

持ったのだろう。私の命がある限り会い通しましょう、切れますまい、夫を持とうと

奥様を持たれようとこの約束は破るまいと言ったのだから、誰がどのように優しかろう

と、ありがたいことを言ってくれようと、私の夫は吉岡さんのほかにないのだ。もう何

も思いますまい、思いますまいと頭巾の上から耳を押さえて急ぎ足に五六歩駆け出せば

胸の動悸もいつしか消えて、心静かに気も冴えて、色のない唇には冷ややかな笑みさえ

浮かんだ。(未完)