足柄山では四、五日も怖いほど黒雲が立ち込めました。やっと着いたふもとでも空の
景色ははかばかしくならず、たとえようもないほど（草木が）生い茂って恐ろしいばか
りです。ふもとで宿をとると、月のない暗い夜、闇に迷いそうな中から三人の遊び女が
どこからともなくやってきました。五十歳くらいの人と二十歳くらい、十四、五歳だ
そうです。庵の前に唐傘を差して備え付けさせ、男たちが火をかざして見ると昔こはた
と呼ばれた人の孫だと言います。とても長い髪が美しく額にかかり、色が白くて見苦し
いところがなく、いかにも高貴な場所で下仕えなどしていそうなのにと、人々は惜しが
りました。そしてたとえようのない、天に登るような澄んだ声で素晴らしく歌うので、
人々は感動して近くに寄らせてもてなし「西国の遊び女ではこうはいかない」などと
言うと「難波あたりに比べれば（そんなことはありません）」と上手に歌で返します。
見た目にもたいそう美しく、他にないほどうまく歌を歌う人たちがこんな恐ろしい
山の中に去って行くのを、人々があわれに思って泣いているのを見れば幼心はなおさ
ら、その宿を発つことさえ悲しいと思ったのでした。
明け方に足柄を越えました。（ふもとより）まして山の中の恐ろしいことは言いよう
がありません。雲を足の下で踏むようです。山の中腹あたりで、木の下のわずかな場所
に葵が三本ばかりあったのを、世を離れてこのような山の中によくも生えたものだと
人々はけなげに思いました。その山に水は三か所で流れていました。
かろうじて越え出たところにある関山（横走の関）に宿りました。関のかたわらに
岩壺というところがあり、大変大きな石が四方にある中に穴が開いていてそこから流れ
出る水はこのうえなく清く冷たかったことでした。
富士の山はこの国にあります。私が生まれた国からは西側に見えた山でした。その様
はこの世にほかないように思えます。世に異なるその山の姿は紺青を塗ったよう、雪が
消えることなく積もっているので、濃紺の衣に白いあこめ（襟が見える中間着）を
着けているかに見え、山の頂が少し平らになっている所から煙が立ち上っています。
夕暮れには火が燃え立つのも見えます。清美が関は関所がたくさんあって、海のところ
まで柵が打ってあります。富士の煙に呼ばれて清美が関の（煙のように見える）波も
高くなるようで、限りなく趣深いのです。田子の浦は波が高くて船で渡りました。
大井川という渡しがありますが、水が世の常のようでなく、濃く溶いた米粉を流した
ような白い水で流れが速いのです。
富士川というのは富士の山から流れ落ちる川です。この国の人が話すには「一年前に
用事に出た際、大変暑かったのでこの河原で休んでおりましたら、川上から黄色いもの
が流れてきて、何かに当たって止まったのを見ると紙屑でした。取り上げてみると、
黄色い紙に朱色の文字が濃く麗しく書かれておりました。不思議に思って読むと、来年
の国々の任官が任命書のように書かれていて、この国も、来年任命される名に沿えて
もう一人の名がありました。驚き怪しんでそれを干し、しまって置いていましたが、次
の年、その紙に書かれた人が間違いなく任命されたのです。その人は三か月以内に亡く
なって、次になった人はその横に書かれた名前だったというようなことがあったので
す。来年の司召しを、今年この山に神々が集まって決めるのだろうと思います。珍しい
ことではないですか」
ぬまじりというところも滞りなく過ぎましたが、ひどいことに私は病気になってしま
いました。遠江まで来て、さやの中山を越えたことも覚えていません。とても苦しかっ
たので天龍川（？）のほとりに仮屋を造ってもらって、そこで数日過ごしてようやく
起きることができるようになりました。冬に入り川風が激しく吹いたので耐え難く、
浜名の橋を渡りました。浜名の橋は（昔父が）下った時には黒木（丸太）が渡してあり
ましたが今は跡すらなく船で渡りました。入江に渡した橋だったそうです。海は荒れて
波が高く、入江の景色も特に変わりなくつまらなかったのですが、松原が茂る中に波が
寄せ返るのが、たくさんの玉のように見えて、本当に松の末より浪は越ゆるように見え
てたいそうおもしろかったのです。
君をおきて あだし心を我が持たば 末の松山浪も越えなむ
そこから先、いのはなという何とも言えず侘しい坂を上ったところが、三河の国の
高師の浜です。八橋とは名前ばかりで、橋のかけらもなく何の見どころもありませんで
した。二村の山の中で泊まった夜、大きな柿の木の下に庵を結んだところ、一晩中庵の
上に柿が落ちてきたので人々は拾ったりしました。宮路の山というところを越える頃に
は十月のみそかになり、まだ散らない紅葉が盛んでした。
嵐こそ吹き来ざれけれ宮路山 まだもみじ葉の散らで残れる
三河と尾張の間にあるしかすがの渡りとは、いかにも思い煩いそうでおもしろい。
行けばあり 行かねば苦し しかすがの渡りに来てぞ思いわづろふ
（しかすがに＝とはいうものの）
尾張の国の鳴海の浦を過ぎると夕潮がどんどん満ちてきました。仮宿を作るにも潮が
満ちてはどうしようもないので、早く通り過ぎなければと力の限り走りました。
美濃の国との境のすのまたで渡ってのがみというところに着きました。そこに遊び女
が来て一晩中歌ったので、足柄山のことを思い出して懐かしくも恋しくもありました。
雪が吹き荒れたのでなんの興もなく不破の関やあつみの山などを越えて、近江の国の
おきながという人の家に宿を借り、四五日おりました。
みつさかの山のふもとでは、夜も昼も時雨やあられが降りみだれて、日の光も射さず
全く不快でした。そこを発って犬上、神崎、野洲、くるもと（愛知県部分）などという
場所はどうということなく過ぎましたが、（琵琶湖に来ると）湖面ははるばると広く、
なでしま、竹生島などと言う島が見えてたいそう趣深かったことでした。頼田の橋は
みな崩れてしまっており、渡るのに難儀しました。
粟津に留まり師走の二日京に入りました。暗くなってから到着するべく午後四時ごろ
に発ちましたが、関所近くの山肌にかりそめに作られた垣根の上に、丈六（一丈六尺＝
釈迦の身長と言われている）の仏様がいらっしゃいました。まだ粗削りでしたのでお顔
だけが見え、人里離れてあてもない感じでいらっしゃる仏様だなと思いながら通り過ぎ
ました。いろいろな国を通り過ぎてきましたが、駿河の清美が関と相坂の関ほどのとこ
ろはなかったようです。真っ暗になってから三条の宮の西というところに着きました。
