6月10日

 11年松山、知覧、鹿児島をともに過ごした猫を死なせてしまった。それぞれ一回ずつ脱走したが無事つかまえることができて、一昨年父が倒れ鹿児島と四国を一緒に何往復したかわからないが、無事だった。昨年より親の一軒家に同居し、もともと出たがりだったのでいつの間にか好きにさせて、我が物顔で近所を歩き回るようになった。そして一年が過ぎた頃ノラが現れた。貧相で枯れ声で鳴くので、餌をやってしまい、そして二匹の縄張り争いをおもしろがっていた。二匹を飼えると思っていた。その朝、屋根の上で本気で争っていたので初めて危機を感じ、早くノラを病院に連れて行って、去勢をするまでボンを出すのはよそうと決めて仕事に出た。交替の人が違って話をしたり、頼まれていた買い物などし、いつもは4時に飛び出て帰る私が5時になった。ボンに買ってきた安い刺身をやろうとしたら遅かったので母が缶詰を出していた。があまり食べておらず、待っていたノラにフードを出すと、ボンが見ているので部屋でやると少し食べ、…ふとそのままいつものように窓を開けて出してしまった。そして久しぶりにメールをもらった人の旅行記を夢中で見ていた。いつもとまるで違う時間の流れだった。二時間ほど経って外で声がした。帰っていた夫が「えっ死んでるとか言ってる…」飛び出すと家の塀の前に横たわる黒い猫。息絶えていた。いつも犬の散歩に家の前を通る夫婦が知らせてくれたのだ。田んぼの中の住宅地の角地で車通りも少なく、スピードを出せる場所ではなく、軽率にも事故の心配をあまりしていなかったので、この別れは思いのほかだった。しかし死骸となったボンを見てこの日が来るのをわかっていたような…ボンとの急な別れを、ノラが来た時すでに感じていたような気がして…これは子供の頃何度も読んだ長田弘の「猫に未来はない」または猫を飼うようになってから読んだ吉行理恵のエッセイの刷り込みなのか?カンの全くない私の無駄な予兆のはずだった。

 11年前の6月1日。同じ梅雨時に拾った小さな小さな黒猫がボンボンだった。山中なのでそのままにもできず連れ帰り、飼い主を捜すことにしてあまり好きにならないようにしていた気がする。友達の店が近所にあったので、夜はよく飲みに出て留守番ばかりさせたものだった。結局子猫の引き取り手はなく、その上おしっこが出なくなって病院通いしているうちに家の子になったのだった。先のわからない私たちの最初で最後のペットにしようねと、大事にして夫のおばさんの猫にあやかって20歳、は無理としてもあと6、7年はと話していたばかりだった。

 外に出したこと、ノラに餌をやったこと、出さないと決めたその日に出したこと。全て自分がしたことなので、悲しむことができず苦しむだけ。ボンがいた頃にいい気でしていたことは全て嫌になり、仕事は仕方ないので行っているが人と口をきくのも嫌だ。ノラも、ボンを轢いた人も(つけていたはずの首輪がなくなっていた)恨む気はないが、出したのがあの瞬間でなかったら起きなかったことだと思うとあきらめられない。無残な死体が目に浮かび、あんな死に方をさせたことを悔やんで、悔やんでいる。

 ボンを箱に入れ、残した缶詰はノラにやった。刺身をやっていれば出ずに寝たかもしれないし、せめて好きなもの食べて死んだと思えたのに…これも悔い。ボンを拾った山にペットの葬祭場がある。翌朝行くと大好きなヤマボウシが満開だったが、もう見たくない花となった。一月前からオオルリを聞きに行きたいと騒ぎ、そしてこの土曜日こそ行くのだと言っていたが、ボンボンの煙を見ながら聞くとは…。ホトトギスも鳴いていた。それまで思いもしなかったが、不吉な調べと言われる鳴き声を感じた。

 6日後にノラが来た。初七日に訪れたような気がして、餌をやる。あの時ノラは車の下にいたそうである。ボンはノラに追われて飛び出して轢かれたのだろうか。車もスピードを出していたのだろう。何度も跡を眺めたがどう死んだかはわからない。その頃異国で息子を殺された人が「もう戻ってこないんだから…帰らないんだから…」と自分に言い聞かせるように言った言葉が大変心に沁みた。が未練がましいのでいつまでも悔やむ。写真を見て嘆くこともできない立場なのだと思うとまた涙が出る。ノラに餌をやるなと言われてもボンが譲った命と思ってやってしまう。自分のしたことを肯定しようとするためなのだろうけれど…。

 

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