しのぶぐさ

 

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 網野菊何度でも読んでしまう。一葉もしかり。片恋の苦しみをいつまでも味わう。  

 

22日

 晴天。菊地の老人が遊びに来て終日話をする。久保木さんと藤田屋の息子が来た。

夜になって突然渋谷さんが訪ねてきた。夏休みに帰郷したとのことで、さまざまな話が

あった。私が小説を書いていることを三枝さんから聞いたと、その良し悪しなど言う。

「さらにがんばりたまえ、潔白正直は人の宝だからそれさえ守ればいつかいいことが

ありますよ。以前僕は君の家がそんなに困っているとは知らず、財力があると思って

無理を言った事があったが、大変悪いことをしたと心苦しく思っているのです。もし

相談したいことがあったら遠慮なく言ってください。小説を出版する費用は必要なら

立て替えますし、坪内逍遥高田早苗などに明日にでも紹介することもできます」と

言う。半井先生のことを話すと「その人はやめておきなさい、恩も義理もあるだろうが

その先によいことはないですよ。結婚するのなら止めませんが浮いた噂が流れるのは

よくない。潔白の身が取り返しのつかないことになります。君は戸主なので身の振り方

が難しいかもしれないが、お邦さんは嫁ぐ身なのだから適齢期を空しく過ごしてはいけ

ない。昔の僕は書生上がりで、世の中を知らず考える事だけは広くて小説のようなこと

ばかり空想していたが、今はさすがに世間の風に当たって年寄りじみてきましたよ」

などと言う。「今年の年賀状も君が書いたのだろうが、上手でしたね。人にも見せて

自慢していますよ。書いたものがあったら形見にくれませんか、持ち歩いて自慢します

から」いつものお上手だと思うが、嫌とも言えずに短冊を一枚やった。「目が悪くて

渋谷さんのお顔もよく見えないのですよ」と言うと「困ったものですね、何とか治して

あげたいものだ。僕はあさって帰るのだが明日また来ましょう。一緒に病院に行きませ

んか」とか「『都の花』に掲載されたら一冊送ってくださいよ」などと夜更けまで話

す。「次またいつ来られるかわからないので写真があったらくれませんか、僕も送りま

す。とにかく潔白に過ごしなさいよ、必ずよいことがありますから、僕が保証します」

と言うので、私も「世間にどんな噂をされても、私は天地神明の前に恥じることはあり

ません。もし世間が私を信じないのなら死んでもよい、決して濁りはしません。渋谷

さんが次来る時には私は枝豆売りか、新聞配達になっているかもしれません。それでも

寄ってくださいますか」と聞くと「必ず寄りますよ。もし君が不義によって栄利を誇る

ようになったなら二度とお目にかかりません。ああ、お父様さえ生きておられたらこん

なことにもならなかったのに、気の毒だ。お父様ご愛顧の骨董はどうしましたか、もし

困っても決して売ってはいけません。そんな時には僕に相談しなさい。絶対売っては

だめですよ、着物なんかは何とでもなりますが、伝来品は大切です」と親身に言った。

「さあ帰ろう」と立ったのは11時だった。そしてまた「夏子さんの目に困ったもので

す。どうしてでしょうね」と聞くので「私の不摂生が原因ですよ」と笑うと、「それな

らばいいが、海岸などの広いところに行ってしばらく養生したらすぐに治りますよ」と

言って出た。車を待たせていたのだ。着物はそういいものではなかったが金時計を

持ち、ひげを生やしていた。昨年判事補に任官して1年半も経たないうちに検事に昇進

し月給は50円だという。私が14歳だった時この人は19歳で、松永さんのところで初めて

会った時には特に優れたところもなく、学もまだ浅かった。世は有為転変だ。その時の

私から今の私など進歩したどころか退歩しているといった方がよい。この人がこんなに

出世するとは複雑な気持ちだ。この夜は何もせずに寝た。

 

23日

 晴天。西村さんが来た。中島先生へ明日の数詠みの会の断りの葉書を出す。渋谷さん

がまた来て、お土産にお菓子をいただく。西村さんはすぐに帰った。話は様々あった。

「ゆうべ『武蔵野』を買おうと絵双紙屋を叩き起こして買ったはいいが『吾妻にしき』

というものと間違えていたので、これから取り換えに行く」などと笑う。「大隈さん、

前島さん、鳩山さんを訪ねてきました。途中佐藤梅吉さんにも会ってきましたよ。これ

から山崎さんへ行く」などと話していると昼近くなった。「お昼はいかがですか」と

聞くといらないと言うので車屋さんにだけ出した。習字が見たいというので邦子に書い

た手本を出して見せる。高慢極まりない。「さあ三人で写真を撮りにいこう、さあ」と

誘うがまた次にと断った。「新潟に着いたらすぐ手紙を出すから返事を下さい」となど

と言っていそいそと帰った。「近代偉人伝」のことを依頼された。「晩菘翁の伝記を

書くおつもりがあるのですか」と聞くと「書きたいがその時間がない、君も話を聞く

ようなことがあったら心がけて書きおいてください」などと話は多い。手紙を約束して

帰った。今日はとても涼しい日だった。午後から来る人もなく静かだったので小説に

従事。珍しく手習いもした。夜になって母の肩をもんだ。母は少し暑気あたりになった

ようだ。その後絵画の勉強、植物を一枚描いた。

  なみ風のありもあらずも何かせん 一葉のふねのうきよ也けり

  波風があってもなくてもどうしようもない、ひとひらの小舟が浮くばかり

24日

 晴れているが時々雷の音がするので、その内降るのではなどと言い合う。3つ4つ

洗い張りをしてから机の前に坐る。西村さんが来た。昨日奥さんの世話をしようと、

俵初音さんの話をしたので、詳しく聞きに来たのだ。昼前に帰った。母はおととい辺り

から暑気あたりのようで体調が悪く、今日は寝込みがちであった。主日机の前にいて、

日没後邦子と一緒に母の肩をもんで寝かせる。私も頭痛がひどいので早く寝た。

25日

 晴天。母はまだよくならない。家の掃除をし、台所ごとなどを9時頃までして机に

向かう。思わぬことから様々なことが気にかかり、案じることが切実になって書き始め

た小説の内容も変えることにした。

26日

 明け方3時伝通院沢蔵司稲荷が焼失。このお稲荷様は近辺に失火がある時にはお告げ

があると聞いていたが、お社が焼けたとはおかしい。

27日

 小石川へ。稽古後先生と話をした。伝通院内淑徳学女学校に私を斡旋しようかという

話があった。私も思うことを話して帰る。母にこの話をしたところ喜ぶことこの上なか

った。この夜はとても勉強した。

28日

 晴天。野々宮さんが来た。半井先生を訪ねたが鎌倉に行っていてまだ帰らないとの

こと。私の会が練習用の筆を買って来てくれた。歌2題を詠じた。初音さんが父と姉の

歌の添削をしてくれと持ってきた。終わった後に話をした。彼女はキリスト教徒なので

有神論を主張した。私は有神無神ではなく一物論を唱え、話は佳境に入ってなかなか

尽きなかった。右京山に月が昇るまで話し「さて」と帰ろうとしたところ彼女持参の傘

と我が家の傘3本がいつの間にか盗まれていたのもおかしかった。後で母と邦子が悔し

がったが「悔しがることはないですよ、天下のものが奪われたわけではなく家のものが

取られただけのこと。誰かのものになっても傘の用に変わりはないでしょう。あるもの

はいつかなくなる、なくなればまた手に入ることもあるのだから」と笑ったが「うちの

貧しさは極まっているのですよ」と母は嘆いていた。今月末には山崎さんに10円返さな

ければならないが、私の小説はいまだに完成せず一銭も入る当てがない。信用を失う

ことが悔しいと言う。話は続き、私と邦子はあるだけの着物を質に入れて一時しのごう

と言うが、母はそれを嘆くばかりなので話にならない。甲府の野尻氏より手紙が来た。

今日野々宮さんから「国民新聞」を借りた。

29日

 晴天、時々雷鳴。頭痛がとても激しいので昼寝をした。午後過ぎから小説の勉強。

野々宮さんが「婦女雑誌」を持ってきたので話をした。傘を2本もらったのでと1本いた

だいた。昨日言ったことに嘘がなかったのがおかしい。またいつ失くすことやら。

しばらくいて帰る。この夜邦子に習字を教えた。

31日

 晴天。今日は210日の厄日とのことだが空はのどかで風もない。終日客もなく日没後

に母が西村さんへ行くと出たところ入れ違いに彼が来て、しばらくいて帰る。山崎さん

が借金の用で来た。久保木の姉の出産が近いと母を 迎えに来たが、まだ生まれない

ようだ。

9月1日

 早朝邦子が姉の見舞いに行ったがまだのようだった。母は鍛冶町に借金に行く。私は

頭痛がはげしいので水で頭を洗って鉢巻きなどしてみる。筆を取るのもつらいので「文

章規範」を読む。韓非子の「説難」が胸に残った。昼過ぎ母帰宅し鍛冶町から15円借り

てきた。すぐに山崎さんに10円返しに行く。山崎さんが「渋谷さんを婿にするか、嫁に

出したらどうか」と言ったとか。「世の人は色々なことを言う」と笑ったことだった。

渋谷さんが今日も来て何事かあるようなそぶりで、私のことなどそこはかとなく持ち出

し、こちらから何か言い出すことを待っているようであった。最初父がこの人に望みを

託して私の婿にどうかという話をしたことがあったが、返事がはっきりないままに何と

なく行き来しては私と話したり、邦子と三人で寄席に遊びに行ったりもした。父はその

ことを心にかけながらも、話はだいたい整ったように思っている内に、急に亡くなった

のだった。落ち着いてから母が改めて話を持ち出して「答えをはっきりしていただきた

い」と言ったところ「僕には全く異存はないので承諾します」と答えたので母が喜んで

「では三枝様に仲立ちをお願いしましょう」と言うと「少し待ってください、父や兄に

相談しますから」とその日は帰り、その後どういうことか佐藤梅吉氏を介して怪しげな

利欲(持参金)について話があったため母が大変立腹し断ったので「ではご縁もここま

で」と破談になったのだった。私は元々その話に興味がなかったのでそう憎むことも

なく、母が怒り狂うのをひたすら取り鎮めて時が経ったのだった。彼も変わらず出入り

し、父の一周忌にも心がけて来ていただき、年賀状の礼も欠かさずあり、新潟に赴任

した時にもあいさつに来てくれたので、疎んじることなく手紙が来れば返事を出して

親しくしていたのだった。そしてこの度の上京の際どう心が動いたのか、昔の約束を

思い出して蒸し返そうとしているようだ。我が家はとうとう運が尽きて昔の面影も

なく、借金はかさんで今の収入は私のわずかな執筆料という境遇になっている。人に

侮られ、世に軽んじられ、恥辱だけでない苦しみを味わっているというのに、彼は雲

なき空に昇る朝日のよう、実家も人も知る豊かさで更に栄えようとしている。その姉は

何某生糸商の妻で利潤は三百円もあるという。本人は新潟の検事として正八位の地位に

あり、月給は50円だとのこと。今この人を頼れば母をはじめ妹も兄も亡き父まで辱める

ことなく家は成り立つであろうがそれは一時の栄華にすぎない。私は富や権力を求めな

い。母に安楽な居場所を与え、妹によき縁を与え、自分を養う人はなくとも路頭に迷う

なり出家する覚悟だ。今さらこの人になびいて従いたくはない。それはこの人が憎いと

いうことではなく、また私の意地でもない。世のよこしまな富や名誉が疎ましく、私は

小野小町の末裔になってみたいだけなのだ。もちろんこの考えはいつ変わるかもしれな

いがこれが今の私の考えだ。いずれ見比べることもあるかもしれないので今の私の思い

を書いておく。今日はとてもゆううつで何もせずに一日が終わった。

2日

 晴天。伊東夏子さんと中島先生に手紙を出す。一日何もせず物思いした。夕方久保木

の姉の家出騒動があり母が大変心配したが、夜戻ったとのこと。雲が騒がしく、雨に

なるかなどと話す。

3日

 晴れたので早朝洗濯物を3、4枚した。この頃怠けていたのでとてもつらく、これから

はできるだけ力仕事をしなければと話したことだった。久保木さんが来て姉の家出の

顛末を話した。身投げをしようと水道橋のふもとまで来たところで取り押さえたとの

ことだったが、聞くのも耐えがたいことだった。久保木さんが帰るとすぐに母が奥田

さんにいつもの利子を持って行く。伊東さんから昨日の返事が来た。母は奥田さんで

お昼をごちそうになり昼過ぎに帰宅。